- The rest stories of "Project Eva" #15 -

"彼は家に帰ることにした"

彼は家に帰ることにした

彼は家に帰ることにした。

もうここに戻るつもりはなかった。


彼はそっと自分の部屋の戸を開け、むわっとした空気の中へと歩き出た。あくまでもお客さんであり、預けられている身である彼の部屋に冷房を通すために「預かり主」が電気代を切り詰め始めていることは知っている。

そのことについてこの家の主人が愚痴をこぼしていることも。

電気代のことだけではない。日本、特にこの地域周辺が裕福とはほぼ遠い状況に陥った今となっては、一般の家庭に家族でもなければ働いて金を入れるわけでもない穀潰しを「飼って」おく余裕がないこともまたわかっている。

「預かり主」は彼にはわからぬと思っているのかもしれないが、いくら彼が鈍いとはいえその程度は人の心の機微を理解することはできる。

もちろんそのために扱いが悪くなり、それが嫌だから家出をするというわけではない。

「預かり主」は基本的にはいい人間だった。ろくすっぽ声も出さず何も生産的なことができない彼に食事を与え、養った。

彼が一日中こじんまりした自分の部屋で何をすることもなく寝転がっていても、殴られることも恫喝されることもなかった。

苦しくなっていく生活の中で、彼は最大限にもてなされた。居心地が悪かったわけでは決してない。


しかしそれでも、彼の家はここではなかった。

だから、彼は家に帰ることにした。

彼は朝焼けの内に出発する

部屋の戸を閉めると、彼は足音を立てないようにひたひたと廊下を歩き玄関に至った。この何ヶ月かでずいぶんと治安が悪くなったとはいえ、この家のあるほど田舎になれば玄関には申し訳程度のチェーンをかけるのがせいぜいだ。この暑さならなおさらである。

彼ははあはあと口で息をつきながら、煤けて古い金具が音を鳴らさぬよう、そっとドアを押し開けた。

そこには雲がかかって薄赤く萌える空があった。朝焼けである。

彼は目を細め朝焼けを見た。そしてドアの隙間から身体を押し出す。彼の手の支えを失い、ゆっくりとドアは閉まり始める。

彼は一度だけ振り返った。

少しずつ狭くなっていくドアの隙間から、赤茶のニスの塗られた椅子と机が並ぶ台所が見えた。

彼はガラス玉のように澄んだ目でもう戻ることはない仮の住処への道が閉じてゆくのを見届けた。そして見届け終わると前を向き、それきり振り向くことはなかった。


彼は家に帰ることにした。

そのためにはまずは足を確保せねばならない。彼の足では第3新東京市は遠すぎる。それにこれほど遠くては、徒歩では家へと帰る道がわからなくなってしまう。野生の勘などそうそう当てにできるものではない。

それだけではない。彼は足に擦る地面を見た。

彼が歩く道、荒れたアスファルトはこれから太陽が上るにしたがって熱せられていくだろう。帽子も日焼け止めも水なく、彼が熱せられた夏の道路を歩ききれるか?

答えは明確にノーだ。

彼はおぼろげな記憶の中から、彼が始めてここに来たときのことを思い出した。それ以来家の外には出ていないから、実に数ヶ月前、彼の知る唯一の第3新東京市へと至る道である。

記憶の中に現れたのは駅だった。標準的な地方の駅。彼は第3新東京市からその駅を通って預けられたのである。

彼はまた、それと一緒に昔の同居人のことも思い出した。

あの生活は上等とは言えなかったが、やはり彼の同居人が彼女たちであったと言うのは彼にとって間違いようのない事実だった。

何かを確かめたいというわけではない。ただ、彼は家に帰ることにしたのだ。

彼は東の空を見上げた。日は山の向こうから顔を出し始め彼の身体を照らした。

彼は荒れたアスファルトの向こうにあるはずの駅を目指した。

彼は変わり果てた駅を見る

じりじりと上る太陽に辟易しながら駅に着いた彼が目にしたのは、彼の頭の片隅にほんの少し残るおぼろげな記憶とはあまりに違うその風景だった。

看板は傾き、駅前の広場には露天商が群れをなして物を売っている。それぞれがどこの国の人間だとかいうことは彼には判断できなかったが、ひとまずその活気と猥雑さは十分に感じることができた。

彼は露天商たちやその前に群がっている人々に構わず、まっすぐ駅を目指した。

露天商たちとて、彼を一瞥するだけで構うこともない。彼らは金を落とさないものにはまるで興味がないようすで、ひたすらにどこからか買い付けたか奪ったのであろう文明の利器のなれの果てを売りつけていた。


駅の構内もまたひどいありさまだった。

元々それほどきれいではなかった駅構内は、もう彼が見たことのある「駅」とは別のものになっているように見えた。さっき以上に増えた露天、機能しない切符売り場とぼろぼろの服で切符を売る駅員、片隅にたまる家のない人々、そのようないくつものものが駅のようすをどこか日本ではない別の国のようなようすに変貌させていた。

もっとも、その状況がそこまでは悪くないというのも事実のようだった。彼らの表情、特にそれなりの歳の者の表情には、どこか既知のものに対する余裕のようなものがあった。

しかしそれは彼には関心のないことだ。彼の頭にあるのは、

「家に帰る」

そのことだけだ。常に考えておかないと忘れそうになる彼の目的である。

彼は露天商や家のない人々の隣を通り過ぎ、動かない自動改札の前に立った。改札は封鎖され、駅員が一人で往時よりは少なくなったが今だ多い乗客を捌いている。

何気なく改札の前に立ち、ちらちらと駅員を見る。駅員は今だにあるらしい朝のラッシュを捌くのに忙しくその目は彼を捉えていない。

何も持たずに出てきた彼に、金などあるはずもない。

彼は封鎖された自動改札を見た。そこには小さな子供一人がぎりぎり通れるかどうかの隙間があった。

しばらくじっとその隙間を観察する。すると、何人かは無理やりその隙間を通り出入りしていることがわかった。彼らは総じて血色も体格も悪く、電車代を捻出するのも難しいようなようすだった。彼は駅員を見た。心優しい駅員は見て見ぬふりを決め込んでいるようだ。

そして彼は決心した。

彼はほかの子供や小柄な大人と同じように、小さめの身体を隙間に滑り込ませた。木枠に不器用な足が引っかかり血が滲んだが、彼はさして気にも留めず階段をゆっくりと上った。

彼は電車に潜り込んで家を目指す

「第3新東京方面はこちらの電車です」

彼は誰かが駅員にそう答えられるのを聞いて、その言葉を手がかりに第3新東京へ向かうらしい電車へと潜り込んだ。

電車は人を積めるだけ積み、滑車を引けるだけ引いていた。そのために、その姿はかつての機能的な姿とは似ても似つかないものになっていた。きちんと切符を買ったものすら客車に押し込められ、切符を買っていないものは荷物を括りつけてある滑車の隅に潜り込む。

彼は滑車の一番後ろに身を潜めた。

……しゅう、ううん……

小さな音と共に、電車はゆっくりと進み始める。その速度の上がり方は往時とは比べものにならないくらいのろのろとしたものだった。

「君も第3新東京市に行くの?」

彼は隣から掛かった小さな声に振り向いた。いかにも楽しげな声は彼に向けて掛けられた声に違いなかった。

楽しげな声を掛けた女はくすくす笑いながら彼を見た。答えが返ってくることを期待しているようにも見えなかったが、彼は小さく首を縦に振った。

「そうかー。君みたいなコがなぁ……まあ、あたしだって場違いなんだけどねぇ」

彼女の言葉はほとんど独り言のようで、少し幼さの残った高めの声は彼を通り過ぎていった。しかし彼は、ただ黙ってその言葉を聞いた。

「年上の人は何かミョーに悟っちゃってさあ、『セカンド・インパクトのときに比べりゃこんくらい』とか言っちゃってんのよ。でもねー、あたしはなんかなあ、けっこうショック」

彼は何も言わずに座り込み、最後尾の滑車から見える風景を見た。線路が流れていく。

「あたしもそんなに覚えてないもんなあ、セカンド・インパクトなんて。まだ子供だったしねー? って、君に言ってもわかんないよね」

彼女は言って、ぽんと彼の頭に手を置いた。そのまますりすりと彼の頭を撫でる。

「大人しいコだね、君って」

彼は彼女のほうを向いた。彼女は上目遣いにそのガラス玉の目を覗き込んだ。

「……でも、この電車に潜り込む根性があるんだもんね、大人しいだけじゃないよね」

彼女は半分は自分に言い聞かせるように言って、荷物に背を預けて空を仰いだ。

「あたしはね、確かめに行くの、自分の家」

彼は彼女から視線を外し、流れていく線路と荒れた側道を見た。

「どーなってるかわかんないけどね……やっぱ一応、確かめとかなきゃ、とか思ってね。君は?」

彼は頷きも、答えもしなかった。彼は何か確かめることなどに興味は無かったが、あえてそれを言うこともなかった。

彼女はふふっと笑ってもう一度彼の頭に手を置き、さらりとした彼の頭を撫でた。

彼は昼下がりの道を歩きだす

電車の駆動音が止まった。ぞろぞろと乗客が電車を降りていく。無賃乗車の人々は壊れた壁を越えて外に出ていた。

「今は電車、ここまでしか走ってないの。あたしの家はまた乗り換えなきゃなんないから。じゃあね!」

彼女は軽くウィンクしてそう言い残し、身を低くして乗客の間をすり抜けていった。

彼はそろそろと滑車を降り、他の無賃乗車の人々に習って壊れた壁を越え、その向こうの土嚢を歩き降りた。


積み上げられた土嚢を降りたところには、先ほどの駅よりもさらに大きな市が広がっていた。それはもう商店街に近い勢いで広がり、野菜や海産物を扱う市までが出ていた。

「安いよお!」

ついぞ聞かなくなった店の活気ある声が聞こえる。

彼は人の波に沿い商店街を歩き出した。

八百屋、電気店、工具を売る店、米屋……さまざまな市の間を彼は歩き抜けた。

が、もう少しで商店街を抜けようというとき、彼はある店の前で足を止めた。

そこには魚屋があった。

彼は久々に見る缶詰でない肉類に顔を近づけた。生魚のにおいがする。時間は昼下がり、普段から満足には食べていない上に、この1日はほんとうに何も口にしていない。そろそろ辛くなってきたところだった。

彼はしばらくじっと魚を見続けた。

「よぉ」

声が掛かる。彼が顔を上げるとそこには店主の姿があった。しかしその顔には怒りはなく、笑みをこらえる顔があった。

「食いたくてしょうがないって顔だなあ、ははは。……ああ、はいはい、それは今日取れたところですんで、ちょっと、はい。でもなー、うん、負けますわ。この辺は電気も来てませんし。いやあ、この類は足が速いんで保存も効きませんからね。こうなると、売り切らなかったら丸損ですから」

店主は豪快に笑ってから、彼の隣から声を掛けた男との交渉を始めた。彼はただじっと店主が相変わらず浮かべ続ける、彼にとっては不可思議な笑みを見ていた。

交渉相手の男が悩み始めると、店主はまた彼を見下ろして話の続きを始めた。

「いやー、いつ盗るか。盗ったらこの包丁でぶん殴ってやろうと思ってたけど、ほい、まいどありがとうございましたー」

店主は彼の隣で悩んだ末に魚を買った男に愛想よくつり銭を渡す。男は結局、額面の二割引で、それでも往時よりも数倍はする魚を買っていった。

「しかしまあ、うん。そこらのガキよりよっぽど行儀がいい」

彼は何も言わずに店主――の後ろにぶら下がっている干物を見つめていた。

「あっはっは、目は正直だな。いーよ、やるよ。一匹だけな? ほれ。道々食いな。どこ行くか知らんけど、行き倒れんなよ」

彼は笑って言うと、また商いへ戻った。

こうして彼は家へと至る最後の道を出発した。太陽が傾き、徐々に熱を失っていく道路をぺたぺたと歩く。歩く道に影が伸びる。

だんだん荒れの度合いがひどくなっていく道を、彼は咥えた干物をしがみ、飲み込みながら歩き続けた。

彼は家に帰った

彼は家に帰ることにした。

しかし彼の家がいまだあることなど誰も保証してはいなかった。

それはわかりきっていたことだ。

彼に何かを確かめるなどという上等な考えがあるわけはない。彼はただ、記憶の中にある自分の家に帰りたいだけだった。

彼は歩いた。足を前に踏み出してゆっくりと歩く。歩みは遅々として進まないが、彼は諦めなかった。諦める必要はなかった。それを諦めたとて彼には特にやることはない。

水の匂いが近づいてくる。水をしばらく飲んでいない彼は敏感にその小さな匂いに気づいた。

彼は少しだけ足を速め、道を急いだ。


彼は家に帰ることにした。

彼は家のあった場所にたどり着いた。

そこには湖のようなものがあった。

彼はそのほとり、というよりもむしろ切り立った崖のようになっているその際に立って周りを見渡した。記憶の中にある、湖のほとりにあったはずのマンションを探す。ない。

そこにあるのは、彼の記憶にあったよりずっとずっと大きくなった、海へとつながる湾だけだった。

彼は記憶の中にある家を思い出した。

家の風景と共に、記憶にこびりつく同居人の姿を思い出す。

金に近い茶色の髪と蒼い目を持っていたあの女の子。

長いかった彼と彼女だけの生活の中に新しい風を吹き込んだあの男の子。

そして――彼の飼い主たる、黒髪と柔らかい身体を持つ彼女。

「ここが街外れで良かったわ……あなたが巻き込まれなくて良かったもの」

彼が聞いた最後の彼女の言葉。暗闇に沈む第3新東京市東京市の片隅で、彼女はそういった。彼を抱いてそういった彼女を振り向くと、彼女は遠くを見る目でこう続けた。

「でも、この次の保証はないの。だからー……明日から洞木さん家のお世話になるのよ」

彼を見る彼女の目は寂しげで、声はますます小さくなっていった。彼はまばたきをしながら、その姿をずっと見つめていた。

「しばらくお別れね、ペンペン」

彼には彼女がなぜそんな風に寂しげなのかわからなかった。

だから彼は声を上げた。

彼女は泣きそうな声を上げながら、彼をぎゅっと強く抱きしめてその羽毛に額を押しつけた。彼は柔らかな胸の感触と、頭が熱い水で濡れる感触を覚えた。彼はますます首を傾げて彼女を見るしかなかった。


彼女は正しかった。次の保証はなく、彼女たちと彼の家は跡形もなく消えたのだった。


彼は崖の際からその中を覗き込んだ。そこに人には飛び込めそうもない、何メートルにも渡って大きく抉れた崖と、さまざまな建造物が沈んだ湾があった。

彼女もそこにいるのか。彼にそれを確かめようなどという上等な概念や知的探究心などは存在しないが、そこに彼の飼い主たる彼女はいるのだろうし、いなければいつか帰るだろうという思考は消えることはなかった。彼女の家はここなのだから、彼女が帰ってくるとすればここだし、彼女がいるとすればここに違いない。

彼の家は、彼女のいるところだった。

だから彼は迷わずに崖を蹴った。

十分に横方向へと飛んだ彼は崖を横目に見ながら、ぐっと身体を閉じ、身体に残っているはずの本能に身を任せた。

黒い弾丸のようになった身体はぐんぐん水際に近づいていく。

そして飛び込む瞬間。

彼は水底に大きな建物が沈んでいるのを見た。

鋭い飛び込みに水しぶきが上がった。

西日照る夕暮れの海、彼女が眠る場所に彼は帰った。

- The rest stories of "Project Eva" #15 - "Nohome Bird" end.
first update: 20050407
last update: 20060202

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作者:north
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