- The rest stories of "Project Eva" #16 -

"足を奪うもの"

1

それはまるでマイホームパパとしての成功を絵に描いたようで、そのお陰で僕はいつも行く先に大きな落とし穴が開いているのではないかとびくびくしながら暮す羽目になった。もちろん、その逆よりはずっといい。

高校生からの平凡な学生生活の思い出とそれなりの学歴。平凡な会社と平凡な仕事。自分には不釣合いにも思える、平凡よりもやや美しい妻。自分とは違ってまっとうに育った息子と娘。義理の息子、兄弟にそれなりの親近感を抱いてくれているらしい彼女の家族。それが僕の周りにあるもので、それは大成功と言っても差し支えないと思った。

まるであの頃の非日常の日々はなかったかのように日常の日々は淡々と流れ、僕はあの頃の二倍以上歳を取り、最近体力が衰えてきた、などと考えるようなただの中年男になった。


「お早う」と僕は布団に向って声を掛けた。

もそもそと布団から音がし、隙間から答えが返ってくる。

「ん? ああ、おはよー、早いのね」

「まあね。今日はちょっと出なけりゃいけない会議があって」

「そう。朝ごはん、準備する?」

僕は少しだけ思案するふりをしてから答えた。

「いや、いいよ。実はちょっと早く起きすぎたんだ。良ければ君の朝ごはんも作るよ。まだ寝てる?」

妻は小さく笑って即答した。

「食べる。あなたのご飯、おいしいもの」

「了解。それじゃ、できるまでに風呂でも入っといでよ。沸いてるから」

妻は目をまんまるにして、少し猜疑心の混じった目で僕を見た。

「なーに? 何かやましいことでもあるんじゃないの?」

「ああ……あるかもな……」

僕が言うと、妻はえっ、と言って飛び起きた。僕は彼女がきれいに布団を足元まで蹴っ飛ばしたことを確認してから、肩を竦めて答えた。

「温度設定ミスってちょっと沸かしすぎた。足し水して入ったほうがいいよ」

「なによそれ」

「変なことを言うからだよ。なんでもない。何だか早く目が覚めてしまっただけさ。歳かな?」

「そっちこそ変なこと言って。この前の人間ドックでも引っ掛からなかったじゃない。私のほうがよっぽど重症よ。ダイエットしなきゃいけないのに、あなたのご飯のお陰でますます太っちゃう」

僕は妻を見た。確かに往年よりはふくふくとしているが、病的に痩せているよりはよっぽどいい。なにより、僕としては妻がいてくれているというだけで大成功なので、それ以上は望むべくもない。

「家事も甘やかしてるし?」

「口が過ぎます。……時間大丈夫なの?」

「あ、本当だ。それじゃ、ちゃっちゃと作るかな。君が風呂から上がるときには、ちゃんと四人分できてるからご安心を」

妻ははあっと一つ息を吐くと、多少恨めしそうな目をして言った。

「この完璧超人」

僕は多少げんなりして答えた。

「家事だけだよ」

僕の日常はこんな感じだ。家事ができて、しかも家事をすることを厭わないというのは、結婚生活においてはけっこうなアドバンテージになるらしいということに、僕は結婚というのをしてみてしばらくしてから気づいた。


僕は列に並んだ。今日はいつもよりも人が少ないけれど、それでもかなりの列だ。やれやれ、少し家でゆっくりしすぎた、と僕は自分の朝の行動を少しだけ後悔した。

そう思う間に電車がやってきた。まるで奴隷商人の車のように人を詰め込んで、電車は中心街へと走り出した。


生き馬の目を抜くような仕事、というわけではないので、よっぽど切羽詰った時でなければたいてい定時に仕事は終わる。

「お疲れ様でした」

僕は言って、会社を後にしようとした。

「ああ、碇君」

「はい?」

部長だった。禿げ上がった頭に脂ぎった眼鏡を貼り付けた、まさに「嫌な上司」を地で行くようななりをした部長は僕を呼び止めて言った。

「どうだね、今日」

まあ、そんな日もある。彼は古いタイプの男で、よく部下を飲みに連れて行きたがる。他の社員が断る分、余計に僕にお鉢が回ってくる機会は多くなる。そして僕は、こういう時に断って後をややこしくするのも面倒なので誘われたときには素直に飲みに行くようにしているのだ。

僕は家に電話をかけ、今日の夕飯は要らないよ、と告げ、その後すかさず、せっかく作ってくれたのにすまない、と謝った。

妻は、いいわよ、と答え、その後少し間を置いて、お勤め頑張って、と電話口から漏れない小さな声で言った。


そして僕は家路についた。よく飲まされたので、酒に弱い僕は少しふらついていた。

まったく、これでは本当にただのうだつの上がらないオヤジだ。そう思って少し気分が悪くなり、僕は路地の裏に入って少し吐いた。

「まったく、いい歳になって何をやっているんだ僕は……」

僕は今度は口に出して呟き、口に含んだアイソトニック飲料を飲み干した。甘ったるい炭酸の匂いの中に、腹の中に残るものを誘い出すような吐瀉物の匂いが少しだけ混じっていた。僕は構わず、残りの飲料を飲み干した。

そうして胃を落ち着けてから、はあ、とため息をついて僕は顔を上げ――背中に視線を感じて後ろを振り返った。

しかし、そこには誰もいなかった。ただ、ゴミ箱が電線に申し訳無さそうにくっついている電灯に照らされているだけだった。


これが僕の一日である。多少なりとも嫌なことはあるけれども、それは少し耐えれば済むことだ。子供のときは多少悩みもしたものだったが、楽しみなんて何もない、と思い込んでしまっていたことを除けば、処世術それ自体はそれほど間違ってはいなかった。他人とがっちりとぶつかってやるコミュニケーションというのはいつでもそれなりのリスクを負う。そして、そのリスクを負いながらもやり遂げなければならない瞬間というのはそういつもいつもあるものではない。だから、そういうとき以外には――そう、ちょうど今日のような日などは、僕が培ってきた処世術はちゃんと機能した。

そして僕は日付が切り替わった家の玄関の鍵をゆっくりと空け、そっとリビングに入った。

「お帰り」と暗闇から声が掛かった。

「うわっ」

さっきの視線から神経質になっていた僕は、情けなく声を上げて後ずさった。その声を聞いて、暗闇の声の主はいつものようにけらけらと笑った。

「なによ、その声」

「なんだ、君か」

「他に誰がいるのよ?」

そりゃそうだ、などと妙に納得しながら、僕は明かりをつけた。妻はパジャマの上に僕が昨日脱いだ上着を羽織ってリビングのテーブルに突っ伏していた。

「ずっと待ってたの?」

「うん」

「ごめん」

「いーのいーの。実は、さっきまでドラマ見てたの」

彼女はそう言ったが、どうやら嘘を吐いたようだった。彼女はどんなドラマだって、睡眠を削るくらいなら潔く諦めることを選ぶ人種だ。

彼女はぶる、と少し震えてから「お風呂、焚きなおすからちょっと待ってね」と言った。

「いいね。でも、君が先にもう一度入りな。そんなじゃ風邪引くよ」

「一緒に入ればいいじゃない」と彼女は簡単に答えた。

「確かに」

僕は何か期待しているように思われないようそう簡単に答えて、ネクタイを緩めた。


これが僕の一日である。こんな毎日が、明日も、明後日も、明々後日も、ずっと続いていく。単調だけれど、何もないわけじゃない。それなりに満ち足りた人生。

そのはずだった。

2

惣流・アスカ・ラングレー。その名は今でも僕の奥の方にある重いものを突き動かす言葉だ。僕とは別の場所に引き取られた彼女は僕の前から消え、他のネルフの人々と同じように、僕は二度と彼女に会うことはなかった。

しかしその名を僕は忘れなかったし、僕が彼女の心をどうしようもなく傷つけてしまったことは動かせない事実だった。そのことは僕自身も同じように損なってしまったけれど、そんなものは彼女のそれに比べればほんのささいなものでしかない。

「よう」

「やあ」

僕らは簡単な挨拶を交わした。高校の仲間の小さな同窓会だ、挨拶はこのくらいのほうが良い。

「元気か」

「まあまあね、そっちは」

「こっちもまあまあさ」

意味の無い会話。最初はそんなものだ。お互い普通の人間、それほどスキャンダラスな事態は発生しない。

しかし、その日は別だった。

「なあ、碇」

飲み始めから少しし、一足先に代金を受け取りにきた店員の女の子に幹事が金を払った頃、一人の友人が僕の肩を叩いた。

「どうした?」

僕が訊くと、彼は鼻から大きく息を吐き、少し油が浮いた額を撫でてから言った。

「お前、惣流さんって子の知り合いだったよな?」

僕は、心臓が縮み上がるような、それでいてわくわくするような、妙な感覚を覚えた。

「うん」

「そうか……」

それで話を終えようとした彼に、今度は僕が訊いた。

「惣流さんがどうしたんだい?」

「いや、いいんだ。忘れてくれ」

「気持ち悪いな、言いかけて止めないでくれよ」

しかし彼はためらって、しばらく話そうとはしなかった。僕はしつこく彼女のことを彼に問いただした。

七度目に彼女のことを訊ねたとき、彼は観念して話を始めた。その頃にはもう、僕らは酒の席からは孤立していて、他のメンバーも僕らを放って昔話に花を咲かせていた。

「これは俺の勘違いかもしれないんだが」

そう前置きをして、彼は話し始めた。

「最近、第2のほうで彼女と同じ名前の人を見たんだよ」

僕は思わず眉を寄せて訊き返した。

「同じ名前だって? 惣流・アスカ・ラングレーだよ。同姓同名があるような名前じゃあないだろう?」

そのはずだ。惣流・アスカ・ラングレーといえば、かなり特殊なほうに入る苗字である。少なくとも、佐藤や鈴木や木村のように、そうそう同姓同名が生じるとは考えにくい。

「確かにそうなんだが……なんか、違うんだよ」

「何がさ?」

「彼女、美少女だっただろう? 超がつくほどの」

美少女、ついぞ聞かない単語だったが、彼女にそれくらいぴったりな単語もなかったので僕は頷いた。

「だろう? 俺が別の学校だった彼女のことを知ってるのもお前の学校で出回ってた写真を持ってたからだし、勢いでラブレターを書いたこともあるんだ」

なるほど、あのゴミ箱に直行した紙束の出処はあの学校だけではなかったのだ。そういえば、僕が彼に初めて話しかけられたときにも、彼女の話題が出たような気がする。僕はその時急いでうんうんと頷いて、僕は彼女の知り合いなんだ、と言ったのではなかったか。

僕は嫌な思い出を頭から追い出して、彼の話を促した。

「で?」

「ああ、うん。だから、知ってるんだよ。顔も。だから、ちょっと違うなって思ったんだ」

「どういうこと?」

「俺が彼女を見たのは、第2のスーパーマーケットなんだよ。駅の前にあったりする、ああいう、普通のスーパーマーケット。俺は出張で第2に出ててさ、ちょっと果物が食いたくなってスーパーに入ったんだ。ほら、あの辺青果店とかないだろう?」

「はあ」

「それで、その時レジにいた店員の名札にそう書いてあったんだ。そういう話さ」

「はあ」

何だか信憑性が薄くなってきた。彼女はスーパーマーケットで働くイメージの女ではない。むしろそういう仕事を馬鹿にしそうな類の子だった。少なくとも、僕の知る限りは。僕だって彼女に馬鹿にされそうな部類に入るだろう。彼女が高級官僚や弁護士になってバリバリ働いている姿というなら想像はつくが、スーパーでレジを打っている姿はちょっと想像できない。

「それ、本当に惣流さんだったの?」

彼は「ほら見ろ」という顔で首を振った。

「ああ、だから俺は言うの嫌だったんだ。考えにくいけど、同姓同名の他人じゃないか」

「だろうね」

僕は彼女のことを思い出して酒を飲んだ。僕と同じようにどこかへ引き取られていった彼女は、どうやって生きているのだろうか。僕のようにそれなりに、いや、少なくとも僕よりは幸せに生きているに違いない。彼女は僕よりもずっと優れた女性だった。

僕は少しだけ気になったことを訊いた。

「金髪だった?」

「え?」

「だから、金髪だったか、って」

「ああ、うん、金髪だったよ、それに目も蒼かった。だからだろうな、余計に印象の違いが際立っていたんだ」

「どういうこと?」

彼はぐいとぬるくなり始めたビールをあおってから質問に答えた。

「美人じゃなかったのさ。そのスーパーの店員の惣流・アスカ・ラングレーさんは、俺が告白した女の子みたいに可愛くはなかった。いや、顔立ちは美人なんだが……なんて言うんだろうな。……いいや、止めよう。他人の悪口を言いながら飲んでもな」

確かに、と僕は同意の意味を込めて彼のグラスに酒を注いだ。そしてその後は、もう二度と彼女の話が出ることはなかった。


「ただいま」と僕はリビングにいる家族に声を掛けた。

「お帰り」「おかえんなさーい」「おみやげは?」

娘、息子、妻、三つの声が掛かった。僕は苦笑しながら妻に言った。

「君のが一番子供っぽいな」

「反面教師なのよ」と言いながら彼女も笑った。


子供を寝かしつけてから、僕らは二人で酒を飲んだ。彼女が言い出したことだ。私ばかり家にいるのはちょっとずるいから、付き合って。それが彼女の言い分だった。

しかし、彼女の様子を見ていると、それだけではないような気がした。妙にそわそわしていて、部屋の隅のほうをじっと睨んでいたりした。

「どうかした?」と僕は訊いた。

「え? ……いや、何も」と彼女は答えた。

その後しばらくして、もう一度、彼女は口を開いた。

「ねえ。お父さん。あの……いえ、やっぱり何でもないわ」

彼女はそう言ったっきり口ごもった。僕は訊き返そうとしたが、先ほどの飲み屋でのできごとを思い出し、深く訊くのは止めることにした。

3

それからしばらくして、彼女はノイローゼになったように布団の中でうずくまるようになった。そのころちょうど近所付き合いがちょっと鬱陶しいと彼女がこぼすのを聞いていたので、一過性のものだろうと高を括っていた僕も、心配する娘に手を上げかけたのを見れば考えを改めざるをえなかった。

「怖いのよ」

彼女は娘に謝った後の泣き腫らした目でそう言った。一方の僕は、娘に平手で叩かれた頬をさすりながら話を聞いていた。子供、特に女の子は実によく状況を見ている。

「どうしたんだい?」

僕は努めて優しい口調で訊いた。ここで何もかもを彼女の思い込みだと話を片付けてしまえば簡単だが、何の解決にもならない。

「……誰かに、見られている気がするのよ」

奇遇だな、と僕は思った。それは僕がここ最近受けている感覚と同じで、無理やり無視しようと思っていた感覚だった。

「どんな風に?」

「わからないけど……何だか、視線が刺さってくるような気がして、心臓が縮み上がりそうになるのよ」

アスカかもしれない。僕は一瞬思って、しかし確信もなくそんなことを言い出せるわけもなかった。

どう答えるか、僕は少し迷った。安易に諭したりしても逆効果だろう。

こういう場合は、一端同意してやるべきだ。

僕はそう結論づけて彼女の肩に手を置いて言った。

「そうだったのか……放っておいてごめん。一緒に、何とかしよう」

具体的なことは何ひとつ言っていないが、それでも彼女はその言葉に少しは満足するだろうし、その日はそれで収まるかと思った。

しかしそこで彼女はこんな言葉を返した。

「あなたっていつもそうよね」

僕に当たるとは意外だった。彼女はそういうことをするタイプではない。しかし、ここで言い返しても意味はない。あくまでも彼女に同意して、なだめるのだ。

「ごめん」

「うん、いいの。わかってるのよ。あなたはいい夫だし、いい父親もやってる。でも――ごめんなさい。何を言ってるんだろう、私」

「いいんだ」

僕はまた泣き出した妻の背中をさすった。


翌日、僕は不良社員よろしく病欠して、市役所へ行った。

結論だけ言えば、ネルフ関係者の情報は驚くほど簡単に手に入った。かれこれ20年以上経った年月のせいか、それともネルフや使徒に関わることが既に忘れ去られているのかはわからなかったが、父や副指令、僕の保護者だったミサトさんやリツコさんなどを除けば、情報に制限はつけられていなかった。いや、実際には、僕やアスカなどは未成年だったからだということか、ネルフにいた記録が抹消されている代わりに、そのような情報開示制限の対象にも入っていなかった。

惣流・アスカ・ラングレーの情報を探す。と、端末はすぐに答えを返した。惣流・アスカ・ラングレー。第2新東京市在住。

「正解、か……」

何のことはない、僕らは同じ国、車で数時間走れば着くようなところに住んでいたのである。そしてそれを確認することも簡単だった。僕はただ、それをしなかっただけだ。

僕はため息をついて役所を後にした。

役所を出て僕は逡巡した。

彼女は何をするつもりなのだろう? 今さら僕の家族の前に現れて、何をする気なのか。

美人じゃなかったのさ、という友人の言葉を思い出した。

もしかすると、彼女は僕が思うほど幸せではないのかもしれない。だからこそ、その原因である(かもしれない)僕に復讐の白羽の矢が立ったのかもしれない。しれない、しれない、しれない。どこまで行ってもぼやっとした想像の域を出ない。所詮、僕には彼女のことなどわからないのだ。想像などはつきすぎて、どうころんでも駄目な気がする。これでは対処することもできない。

どうしたものかと思いながら僕は歩みを進め、何も思いつかないままにただスーツ姿で昼の街をさまよった。


そして僕は日付が切り替わった家の玄関の鍵をゆっくりと空け、そっとリビングに入った。

「お帰り」と暗闇から声が掛かった。

「うわっ」

僕は暗闇からの声に悲鳴を上げたが、その声はいつもの声ではなかった。暗闇の声の主は、僕の聞き覚えのある声で話した。

「久しぶりね」

――アスカだ。僕はかなり驚いたが、それだけだった。少し深呼吸して息を整えると、暗闇の声に答えた。

「久しぶりだね」

疑問に思う顔が見えるような間だった。

「ずいぶんと冷静なのね」

「まあね」

言いながら、僕は明かりをつけた。白っぽいコートを着込んだアスカは、妻がよくそうするのと同じようにリビングのテーブルに両腕を乗せていた。

「ずっと待ってたの?」

「まあね」

「ごめん」

「殊勝ね。まあ、いいわ。あたしも少し前に忍び込んだところだし。あんたが驚きもしないから、意味もなくなっちゃったけど」

「これでも驚いてるんだけどね」

「朴念仁だからよ」と机を見たままのアスカはあっさり切り返した。

「そうかもしれない。……僕の家族はどうした?」

「どうしたと思う?」とアスカは初めて僕のほうを向き、いびつなにやにや笑いを浮かべて言った。久しぶりに顔の筋肉を動かしたような笑いは、人の絶望を見て楽しむような表情だった。

確かに、彼女はもうかつてのように可愛くはなかった。その顔からは自信、自尊心、喜び、そんな正の方向へ向う感情が根こそぎこそげ落ち、その代わりに、使わずに衰えた表情筋と、負の方向へと向う感情の追加分がべっとり張り付いている。

「どうしたんだ」

僕はもう一度訊いた。

「殺した」

僕は何も言わずに彼女を見た。惜しいことをした、と思った。

「けっこう爽快だったわよ。まずあの太った女の脚を潰して、動けなくした目の前で子供をゆっくりぶっ殺してやるの。泣き叫んでいたわね。悲鳴が耳に残ってぞくぞくしたわ。それで声も枯れてきたころに、あの女も、少しずつ、少しずつじっくり殺ってやった」

僕はため息を吐いて、それからそんな自分に愕然とした。自らの妻と子が殺されたというのに、なぜ自分がこんなに落ち着いていられるのかよくわからなかった。

「……ふうん。なんだ」

彼女は僕が混乱する姿を見て何かを納得し、そして言った。

「嘘よ」

僕は肩の力が抜け、壁に寄りかかった。

彼女はいびつな笑いをさらに歪めて言った。

「そう、ぜえんぶ、嘘よ。あんたの奥さんは今頃、二階で寝てるわ。ちょっとした薬を嗅がせてあるから、子供ともども、朝まで起きないでしょうね」

僕が何も言えず立ち尽くしていると、アスカは立ち上がり、僕と少しの距離を置いて向かい合った。あの頃は見上げていたのに、今となってはむこうが見上げるほうになっていた。

「何もしないわよ」

アスカは僕を嘲るように、ますます歪んだ笑い顔を見せた。

「そんなことしたって、あんたが許された気になって楽になるだけだもの。そうでしょう? あたしは楽になりたいわけじゃないの。ただ、ひとりだけこんな昏い場所に置き去りにされるのが嫌なだけ」

僕は何も言えずにアスカを見ていた。アスカは顔から笑い顔を退けて作り物のような顔になると、立て付けの悪い家の古い扉の鍵を閉めていくように、ゆっくりと力強く言った。

「だから、何も、しないわ。あんたも、あたしがいる昏くてどろどろした場所に来ればいい。あたしと同じように、足を取られて動けなくなればいいんだわ」

それはとてもまっとうな意見だった。彼女と僕の差を見れば、ひどく不公平だということは誰にだってわかる。僕が彼女を傷つけ、なのに僕は彼女よりずっと幸せだ。

「そうすれば、君は満足?」と僕は訊いた。アスカはまた顔を歪めた。

けれど、その口から漏れた言葉はひどく悲しげで、僕はそのことに混乱した。自分がとても間違っているような気がした。そしてそれは恐らく、昔、彼女の憧れの人の死を告げて彼女を傷つけた間違いと同じような間違いだろうと思った。

彼女はこう言った。

「そんなの、わかるわけないわ。どうしてあんたはそんな風に嫌なことばかり思い付くのよ」

その顔には先ほどまでの表情とは違って、僕の知る昔の彼女を思い出せるような表情があった。

しかしその表情も一瞬で消え、また先ほどと同じ、おぞましい笑い顔に戻った。

「……でも、その必要もなかったみたいね。あんたも幸せってわけじゃないんだってわかってたら、わざわざあんたなんかに会いに来ることなかったのに。とんだ骨折り損だったわね」

「どういうことだい?」

「そのままの意味よ」

「僕は……幸せさ」

僕がなぜだかためらってからその言葉を口に出したとたん、彼女は吹き出した。くっくっくっくっくっく、と規則的に肩を揺らしてから、声を上げて笑った。脚がもつれて転びそうになり、彼女の代わりに彼女にぶつかった椅子が倒れ、その肘掛が欠けた。

「ああ、可笑しい。あんた、何にも気づいてないんだ。やっぱり馬鹿はいつまで経っても馬鹿なままなんだねえ。ちょっと感心しちゃった。あたしもあたしだけど、さらに上がいるとは思わなかったわ」

彼女がどうして笑っているのか、僕にはわからなかった。僕は家族といてこんなに幸せで、彼女は孤独で不幸せで、だからこそここに来て僕に復讐をするつもりなのかと思った。孤独、それが彼女のいう、昏い場所、の意味なのだと。それなのに彼女は何もせず、ただ僕のことを幸せでないと言って笑っている。

アスカは冷蔵庫から勝手にボトルを取り出しコップに入れて飲んでから、話を再開した。

「あたしと同じよ。あんたもきっと、あの闇に足を取られてもう動けない。もう誰も愛することなんてできやしないのよ。上っ面が違うだけで、それを剥がしてしまえば、中にあるのは同じ。どろどろに腐った死に損ないの顔よ」

彼女はそれだけ言い切ってしまうと、倒れた椅子も開け放しの冷蔵庫も飲み差しのコップもそのままで、僕のほうへと歩き出し、その隣を素通りした。

その時、彼女はぽつりと呟いた。

「――あんたなら、って思ったけど、やっぱりあんなことじゃ、人間変わらないのよね」

とても悲しげで、残念そうな声だった。

僕がその言葉に何も答えを返せないままでいると、玄関の扉が開く音が聞こえた。

そこでやっと廊下に顔を出すと、そこにはもう、閉まりかけた玄関の扉しかなかった。

4

部屋を片付けながら、そして片付けて後もなお、僕は彼女、そして自分のことを考えていた。

僕は幸せではないのか?

そんなはずはない。僕は即座にその言葉を否定しようと思った。しかし、僕は誰かのことを愛しているのか、と訊かれれば、それに僕はイエスと答えられるのだろうか。そして、誰も愛さない生き方がどんなものかは、彼女が僕に示した。僕も彼女と同じなのだとすれば、僕は幸せなのか、という問いに、別の回答が生まれてしまう。

僕は妻に言われた言葉を思い出した。

あなたっていつもそうよね。僕はいつも、なんだったのだろうか? でも、の後に続く言葉は、なんだったのだろうか。

そして僕にそう考えさせるように仕向けた彼女は、本当はいったい何を望んでいたのだろうか?

僕は昔のことを思い出した。彼女に訊いたとき、間違ったと思って連想した事柄を。あの時、僕は彼女に彼女の憧れの人の死を告げた。僕はそうやって、自分と同じところに彼女を引きずり込もうとした。……はて、そんなことを考えるくらい、僕は曲がった子供だったのだろうか。アスカに対して間違った気持ちを抱いたように、その理解はどこか間違っている気がした。

あの時、僕は何がしたかったのだろう。

ちょうどこんなリビングで、ちょうどこんな風な夜遅く、僕は、彼女に――


救って欲しかったのではないのか?


僕は考えに考えて、やっとそのことに思い当たった。それは結局は、僕も彼女もひどく損なってしまったけれど、僕が本当にあの時望んでいたのは、彼女を自分のところに引きずり込もうとか、そんなことではない。僕は、救って欲しかったはずだ。

ならば、アスカも、同じように望んでいたのだろうか。

「あんたなら、って思ったけど、やっぱりあんなことじゃ、人間変わらないのよね」

僕はアスカが最後に言った言葉を思い出した。

僕と彼女の間には、差などなかったのだ。ただ、彼女は気づいたからこそそれを手に入れられず、僕はそれに近づいていたのに気づかなかっただけだ。そして彼女はそれを手に入れたと思った僕に会いにきて、しかし僕は彼女に失望しかあげられなかった。

そしてそのために結局、僕は今回も彼女を損なってしまったのだ。

ならば僕は、どうすればいい?


気づけば空は白んでいた。

「おかえりなさい」

僕は顔を上げた。彼女が数時間前に出て行った廊下には、自らの肘を抱えながら僕に少しすまなそうに手をかざす妻がいた。

「ごめんね、ぐっすり寝ちゃってて、気づかなかった。いつ帰ったの?」

「今さっきさ。終電が終わっちゃってね。こちらこそ、ごめん」

「そう。……良かった。本当言うと、もしかするともう帰ってこないんじゃないかって、ちょっと思ってたのよ。それで起きているのが怖かったのかもしれない。ひどいことを言ってしまったし。あんなこと、言うべきじゃなかった……ごめんなさい」

「いいんだ」

僕は言って、軽く頭を下げようとする彼女の背に腕を回した。

「ちょっと、朝っぱらから何やってるの?」

僕は構わずに力を強めた。妻は苦笑して、痛いってば、とこぼした。

妻を本当に愛そうと思った。彼女だけではない。娘も、息子も、僕の周りのものを、心から愛そうと思った。彼女のようになりたくはない、僕はそれとは別の道を歩く。そうして、次に彼女に会うときには、彼女をその置き去りにされた、あのどろどろとした昏い場所から引き上げられるくらいになる。次は、失望はさせまい。今僕の腕の中にいる彼女にも、どこかでまだどろどろしたものに足を奪われ続けている彼女にも。そう強く心に決めて、僕は腕の中にいる妻をもう一度抱きしめ直した。

- The rest stories of "Project Eva" #16 - "solitude" end.
first update: 20050429
last update: 20060103

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作者:north
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