赤木リツコは重い扉を開けた。扉の向こうにはかつて彼女が愛した男がいた。
「ずっと探していました、あなたを」
リツコはそう声を掛けた。扉の開く音にも興味が無さそうに床を眺めていた囚人服の男は、聞き覚えのある声に顔を上げた。
「赤木君か?」
「ええ、お久しぶりですわね……碇司令」
碇司令、と呼ばれた六分儀ゲンドウは粗雑な作りのベッドに腰掛けたまま、だらしなく伸びた髭だらけの顔で小さく笑った。堅牢な壁と鉄格子に囲まれた部屋には声が良く響いた。
「もう司令ではないよ。碇でもない」
「……でも」
リツコはそこで言葉を切った。そして何か思い出すようにしばらく目を閉じると、ゲンドウを少し怒ったような目で見た。
「それでも、あなたは彼の父親です」
そう、彼女は半分はそのためにここに来たのである。彼女の友人、葛城ミサトの保護下にあった六分儀ゲンドウの息子、碇シンジのために。
碇シンジは重い扉を開けた。いささか立て付けの悪い仮住まいのドアは大昔の公団住宅よろしく金属を無理やりひしゃげさせるときのような断末魔の声を上げた。
「火、よし、戸締り、よし……」
ひとつひとつ声に出し、指を差して確認してゆく。そうして全てのチェックをクリアすると、シンジはふう、とひとつ息を吐いてドアの鍵を閉めた。
「あ」
シンジは声を上げ、確認しそびれていた外の郵便受けを確認した。ドアの郵便受けが壊れてしまっているので外に取り付けた郵便受けである。これで何か郵便物が入っていたら、彼はまた例のチェックを繰り返さなければならない。一つでも忘れていたら、後で何があるかわからないのだ。彼だって死にたくはない。
恐る恐る取っ手がついた金属のふたを開く。
幸運にも、その中には郵便物も新聞もなかった。
ふう、ともうひとつ息を吐いて、シンジは階段へと歩き出した。
「それにしても……」
独り言を言いながらシンジは久しぶりの階段を降り始めた。
「……何でこんな服、買ってきたんだろう。リツコさんは」
シンジは自分の服装を確認して苦笑した。彼はカーゴパンツにTシャツ、肩に掛けたリュックの中にはたくさんポケットのついたカーキ色のベスト、というまるで彼の友人である相田ケンスケがしていたような服装をしていた。
これではまるでサバイバル・ゲームだ。シンジにはまるで縁がないものだった。
……まあ、いいか。久しぶりの外出なのだし、考えてもどうしようもないことだ。シンジは彼に服を渡したときのリツコの怪しげな含み笑いを思い出して、それ以上考えを前に進めることを潔く諦めた。どう頑張ったってあのひとの考えることは自分には把握しきれないということは、サード・インパクト実行犯として掴まりかけた際なぜか彼女に保護されたときから、いや、それよりもっと前、彼女が彼の前で泣きながら綾波レイの部品たちを「壊した」ときから分かっている。
とかく、女の人は奥が深い――
わけのわからない数奇な事態を乗り越えた人間独特の豪胆さで、シンジは簡単に納得して足を前に進めた。
とりあえずはわけが分からない彼の現在の保護者の言いつけ。しかし。
わけはそのうちに分かるだろう。
二人は冷たい廊下を歩いていた。他に囚人はおらず看守もいない無人の監獄では、彼らを見て脱獄を咎める者はいない。
「大丈夫なのかね?」とゲンドウは訊いた。もうかれこれ十分ほど廊下を歩いているが、前を歩く女には一向に周囲を警戒するようすはない。
ゲンドウの訊く声を聞き、彼の前を歩くリツコは振り返った。その顔には当然のことをわざわざ訊く彼をあしらうような笑みが浮かんでいた。
「心配は要りません、ここの監視カメラには、私たちは見えません」
今や軍事、警察のシステムのどこにでも食い込んでいるマギタイプのシステムを取り外すことは不可能であり、マギタイプさえ使われているなら、その開発者の娘である彼女にそれを突破できないはずはない。当然、騙すことも不可能ではない。
「そうか、そうだった。どうやらここにいる間にかなりふぬけてしまったようだな、私は」
ゲンドウは照れ隠しのように頭をかいた。手の動きと共にぱらぱらとフケが飛ぶ。その表情は、リツコが見たことのない普通の中年男の表情だった。
「それだけですか?」
リツコは視線を進行方向へと戻してからそう問いかけた。ゲンドウは多少戸惑ったように「どういうことかね?」と訊き返した。
「ふぬけた、それだけなのですか?」
リツコの口調は真剣なものに変わっていた。そう、もしこの変わりようがただふぬけているだけだ、というのなら、彼女がこうまでして彼を連れ出す理由の何分の一かは失われてしまう。
彼女の心配は杞憂だった。
「……君に隠し事はできないな」
碇ゲンドウはそれまで一度も彼女に見せたことがないくらい楽しそうに笑い、そしてこう続けた。
「ああ、肩の荷が降りた。そう言ったほうがいいのかもしれん」
望んでいた言葉を確認すると、リツコは彼にそれまで一度も見せたことがないくらい打算無しに微笑んだ。
リツコはその答えで確信した言葉を言った。
「そうでしょうね。史上最大の嘘つきですもの」
「それもお見通しというわけか」
「もちろん」
「まったく、君には参るよ。……しかし、どうして君は、私のような者のところへ? 私は……結局、君を捨てたというのに」
リツコはその言葉を聞いて、今度は声を上げて笑った。
「やっぱり、親子は似るものね」
「どういうことかね?」
「今の言葉、そっくりです。シンジ君と」
シンジは電車の中で手紙を読んでいた。何回も読み返している手紙、惣流・アスカ・ラングレーを始めとしたかつてのクラスメイトからの、年に一通だけ許される手紙だ。
シンジはまた、丁寧に端を切り取った封筒から手紙を引っ張り出した。
ヘロウ、シンジ。元気? こっちはまあまあです。こっちは最近気候が良くて、急に氷点下にまで気温が下がることもなくなりました。
他の子たちもまあまあ元気。ヒカリも、相田も、鈴原も。他の2-Aのチルドレン候補たちも。まあ、あいつらの近況は、各々の手紙で読めばいいわね。
最近移ってきたここも、前のとこと同じで怯えて暮さなくていいので、けっこう居心地はいい感じです。制限も、前のところよりは多少ゆるくなりました。やっぱりド田舎だけど、それは言わないことにするわ。とりあえずは制限が少なくなっただけでよしとしましょう。人間兵器とか言われるのはまっぴらだもの、それがないなら、どこだって天国みたいなもの。
あたしたちのパイロット年限が終わるまで後2年ほど、思い切って楽しむことにするわ。あんたも覚悟してなさい。容赦しないから。
あんたは『もう終わったことだから』なんて言うけど、みんなもあたしも、そうは思ってません。みんな結果的にとはいえあんたには感謝してるし、あたしだってそう。そっちは大丈夫? もう昔のあたしじゃないんだから(この3年のド田舎暮しでしっかり更生しちゃったってわけ)、何か悩み事でもあったら、リツコ経由でも何でもいいから連絡下さい。場合によっちゃミサトでも何でも小間使いに出してやるから。
そうそう、話のついでに言っときましょう。当然のようにあの年増もまだまだ独身にて健在です。それどころかどてっ腹をぶち抜かれたくせして昔より元気なくらい。うっとうしいったらありゃしない。なんて書くと、あたしたちを軟禁から救い出した功労者には失礼かもしれないけど、あたしにとっちゃあ今も昔も、ただの口うるさい年増です。そっちの年増はどう? 相変わらずですか?
んー、何だか話が散漫になっちゃって駄目だ。一年に一通って、少ないわよね、まったくもう。
とにかく。
また、会いましょう。今度こそ、ほんとにあと少しです。大丈夫、なんだか色々大変でヘンにませちゃったけど、あたしたちにはまだまだ時間があるんだから。くれぐれも、こんな時期にヤケなんか起こすんじゃないよ?
それじゃあ、また会うとき、地球上の、どこかで。
ASUKA.L.Sシンジは3回、最初の字から、お決まりの最後の文句までゆっくりと読み返して、手の汗で紙がふやけないように便箋を注意深く折りたたんで封筒に戻した。
変わったんだか、変わってないんだか。アスカのらしいといえばあまりにもらしい手紙を見て、またシンジは笑った。
「3年か――」
シンジは呟いて、窓から外を見た。単線列車の窓から見えたのは、畑、畑、果樹園、畑。室内を見慣れている目には、広い景色が眩しい。
シンジはクリップのような留め金を押して窓を開け、隙間から吹き込んでくる風に吹かれながら、あっという間に過ぎ去った年月のことを考えていた。
「……父さん」
駅員もいない田舎の無人駅で、シンジはそう呟いた。視線の向こうには彼が知っているのよりはだいぶ老け込んだ父親がいた。
「死んだと、思ってた……」
シンジは口を小さく開けて目をしばたたき、ため息を吐いた。
「いいえ、生きてたの。黙っていてごめんね、シンジ君」
シンジはただ、「どうして……」と言って息を吐くのが精一杯だった。
唐突な再会から数十分後、彼らは近くの川にいた。人気のない川のせせらぎは、夏しかなくなってしまった世界を多少なりとも涼やかにしている。耳をすますと、最近少しずつ収まってきたセミの声と、川の流れる音が聞こえた。
そんな水辺で、シンジはゲンドウと並んで川面に釣り糸を足らしていた。
シンジは先ほどから全く反応を見せようとしない釣り糸と浮きを見限り、父親との久しぶりの再会から一転、川に釣りに来ることになったという妙な展開の原因に思いをはせていた。
「このために……用意いいや、リツコさんも」
つい、苦笑してしまう。彼女の口から飛び出した、彼女らしくもない言葉を思い出したからだ。
「ごめんなさい、こういうとき、どんなふうにしたらいいのか良く分からないのよ。父と子の対面と言ったら、とりあえずこのくらいしか思いつかなかったの」
シンジに二人分の釣竿とその他の色々を渡したときのリツコの科白は、いつか綾波レイに言われた言葉とそっくりだった。
つまりはそういうことだった。リツコこそが、彼の父親を誰も知らない牢獄から連れ出し、彼と父親の二人をこの田舎の川というシチュエーションに放り込んだ張本人だった。
「夕方までしか、時間は取れないわ。……ごめんなさいね」
シンジが歩き出す直前、リツコはそんな注意事項をささやいて、そのまま車の中へと姿を消した。
後には、十数年来まともに話をしたこともなく、しかも今さっきその片方の生存が確認されたばかりの親子が一組残された。
そしてシンジは、彼女に言われるまま父親と釣りをしている。
無言だった。
ゲンドウは器用に釣竿に餌をつけ、シンジに渡す。シンジはシンジで、父親の姿を見よう見真似で、浮きをつけ、釣り針を水面に垂らす。
その間に会話は、ない。
不器用な親子はどこまでいっても不器用だった。
「元気か?」
もう釣りを始めてかれこれ一時間はゆうに経とうかというとき、ゲンドウは小さな声で聞いた。ほんの数年前、シンジがその前ではうまくしゃべれなかったくらいの威圧的な男はそこにはもういなかった。
シンジがその顔を見たときも、ゲンドウの目は水面を見つめたままだった。皺が深く刻まれ、髪には少し白いものが混じっている。会わなかった数年のうちに自分の父親がもう昔のような男ではなくなっていたという事実に気づいたシンジは、ゲンドウの横顔から目をそらした。
「……まあまあね。部屋にいるばかりで真っ白になっちゃったけど」
「苦労を、かけたな」
シンジは目を見開いて、そらした視線の向く先を父親の顔に戻した。今度はゲンドウも、息子を見た。
「どうした?」とゲンドウは訊いた。
「……いや……なんだか……知らない人みたいで」
まるで中学生に戻ったように、うまく話すことができなかった。
その言葉を聞くと、ゲンドウは少し照れたような、申し訳ないような表情をした。
「……すまなかったな、シンジ」
川の水音に紛れて聴こえるか聴こえないかというほどの声で言うと、ゲンドウはまた、竿を持ち川縁の石に座りなおした。
シンジは浮きを持ったままただ立ち尽くして、父親の姿を見ていた。
始めて聞くはずの謝罪の言葉。なのに、どこかで一度、その言葉は言われたことがあるような気がした。
そしてまた、聴こえるのは川のせせらぎだけになった。
先の会話から、もうかなりの時間が過ぎていた。魚は一匹も連れないまま、ただ二人で並んで、お互いを見ずに川のほうばかり見ていた頃だ。
唐突にゲンドウは口を開いた。
「嘘を、ついていたんだ」
「嘘?」
何かを決心したような声にぎょっとなって、シンジは怪訝な表情でゲンドウに訊き返した。
「ああ、そうだ」
ためらいがちに言って、ゲンドウは竿を上げた。そして上げた竿を自らの脇に置くと、同じように竿を上げたシンジの顔を見つめた。
「そう、嘘だ。……本当は、サード・インパクトなど、なかったのだ」
シンジは竿を取り落とした。水に落ちた竿は、流れの速い清流に乗って、下流へと流されていった。
ゲンドウの言葉には掴みどころがなかった。サード・インパクトがあった。すべての人間はL.C.Lと化し、然る後に再構成された。それが、国連の肝入りで設立された「サード・インパクト調査委員会」の結論だったし、皆の記憶にあるところだった。目の前に現われる青い髪の少女、そして、求めていた人の幻影。
しかしシンジの目の前にいる父親は、それを全否定する。
長い沈黙の後、シンジは口を開いた。
「嘘って、何が、どこまで、嘘なの?」
「全てだ。サード・インパクトは発動しなかった。人類はひとつになどなっていない」
ゲンドウは端的に答えた。それは、シンジの頭の中にある、かつての強い父の姿とだぶった。
「そんな。あの赤い海も、綾波やカヲル君も、全部、夢だって言うの?」
シンジは混乱していた。巨大な綾波レイと渚カヲル、地上を埋め尽くす十字架、補完された心が漂うL.C.L.の海、奇妙な顔に歪む量産機、それらを確かにシンジは覚えていた。なのに、目の前の父親はそれを嘘だと言う。しかしそんなシンジの混乱の輪を、ゲンドウはさらに広げる。
「証拠はどこにある?」
「でも……みんな、知ってて」
「それだけのことだ」
「え?」
老いも若きも、自らの言葉を伝えることができるものの全てが認めた全人類の記憶を、ゲンドウはこともなげに切り捨てた。
「サード・インパクトの根拠は、記憶だけだ」
そう、サード・インパクトの根拠は、莫大な証言である。その物理的実在を示す状況証拠は、一つたりとも発見することはできなかった。シンジはケイジでうずくまったまま見つかり、アスカは地底湖に刺さったエントリー・プラグの中から見つかり、その他の人々も、自らの記憶が途切れた場所で見つかった。
ゲンドウは立ち上がった。手ごろな平べったい石を選び、川へ放る。流れの早い川でも、その石は数度、水上を跳ねた。
「記憶だけだ。それならば、全ての人間に嘘をつけばいい」
跳ねる石を見ていたシンジは、そのとんでもない発言に危うく足を滑らせそうになった。
「だけ、って……あんなに沢山の人の記憶を全部いじったりするなんて……」
「できないことではない」
ゲンドウは言い切り、シンジはそれ以上追求することはできなかった。そうだ、こんなところで、自分の息子を騙して、何のメリットがある?
しかし、父親の話を信じるなら、それはそれで疑問は湧いて出てくる。
「なんで、そんなことを?」
そうだ、全人類を騙して、あの赤い海と、補完された世界を見せる。それに何のメリットがある?
「老人たちや、それに追随する馬鹿どもの欲のために、人類を滅ぼすことはできなかったからな。もし老人たちがあの白いエヴァンゲリオンを使ったサード・インパクトを成功させていれば、もはや人間は戻らなかっただろう」
奇妙な言葉にシンジは引っ掛かった。
「老人たち?」
「ああ。世界は、巨大な力を持った老人たちの手によって動かされていた。ネルフも、使徒もな」
秘密組織? シンジは首を捻った。そして、世界というもののうさんくささに改めて驚いた。
「よく、わからないけど、それが、サード・インパクトが起きるような状態になるまで――最後の最後まで嘘をついていた理由ってこと?」
質問してばかりだ。そう思ったが、何から何までわからないこの状況の中では、ひたすらに問い続けるしか道はなかった。
「そうだ。そうしなければ、私は彼らに消されていただろう。勝手な思惑を持ちながら彼らの掌の上で踊る、サード・インパクトの信奉者を演じなければ」
「……母さんも」
言葉を区切ってつばを飲み込む。川のせせらぎがどこか遠ざかっていく。
「母さんの……こと……も、嘘、だったの?」
うまく言葉がまとまらず、途切れ途切れの言葉を吐き出すのが精一杯だった。シンジがあのとき見たもの、その腕を失いながら母を請う父、苦笑いの母、父の告白、そして、母に喰われる父。ああ、そうか。シンジは思い出した。「すまなかったな、シンジ」それは、あの赤い海、ゲンドウに言わせれば嘘であるあの海の中で聞いた言葉だった。
「お前は俺を見たのだな。あの夢の中で」
「うん」
シンジは答え、ゲンドウはしばらく、視線を中に浮かせた。
「…………それも、半分は嘘だ」
ゲンドウはためらいがちに言った。この話を始めてから、初めて見せたためらいだった。
「確かに、母さんに――ユイに会いたいがためにサード・インパクトに心が揺れたときもあった。それは事実だ」
そう言って、ゲンドウは手の中にある竿を軽く振った。
「……だが、ユイの願いを叶えることができるのは、俺しかいなかったからな」
「母さんの……願い?」
「ああ。エヴァの中で永遠に生き、人類の生きた証となること、そして、この世界を生かすことだ。お前は、見たのだろう?」
シンジは目を閉じた。赤い海、そして、取り込まれた初号機の中で見たヴィジョン。優しい顔と柔らかい胸と温かい腕、おかあさん。
「うん」
「それは、初号機の中にあったユイの記憶だ」
「母さんの、記憶」
「そうだ。俺がやったのは、サード・インパクトの一歩手前、人類の祖、リリスを利用して人類の集合的無意識にアクセスし、擬似的な『ひとつ』の状態を作り出すということだからな。もっとも、それも賭けだったが」
ゲンドウはシンジの肩に手を置いた。大きな手だった。
「あのとき、全人類とつながっていた人間は、二人いた。リリスにつながっていた俺と、初号機に乗っていた、お前だ。もしもお前があの夢の中で補完を望めば、老人たちの考えていたサード・インパクトはやはり起こっただろう」
その言葉を聞いて、シンジは改めて背筋を寒くした。やはり世界はあのとき、彼の手の中にあったのだ。そして彼の父親は、最後の最後で、彼を信じた。
「しかし、俺と――お前は、サード・インパクトを阻止した。擬似的なサード・インパクトで、本来のサード・インパクトを押さえ込んだのだ」
「母さんは」
「この星での役目を終えて、旅立った。永遠に」
俺を置いて。その言葉は口に出さず、ゲンドウはまた川に見入った。
「じゃあ、父さんは、なんで今まで、死んだことになってたの? 世界を、救ったっていうのに」
ゲンドウは即答した。
「俺はサード・インパクトを起こした」
「でも、それは」
「俺は、サード・インパクトを、起こしたんだ」
川を見つめたままそう言ってシンジの言葉を遮った後、ゲンドウは隣に並ぶシンジを振り向いた。笑い顔の父親など、シンジは見たことがなかった。
「嘘は最後までつき通さなければ、意味などないだろう? ――サード・インパクトは起きた。そして、人類はこちらを選んだ。そうでなければならない。あの悪夢に憑かれる新たな愚か者が現れないようにするためにも」
「どうして、なんで、父さんが一人でそんな事をしなくちゃならないの? 逃げたいって、思わないの」
今まで知らなかった父親の姿を知って、シンジは泣きそうな顔になっていた。ゲンドウは困り顔でシンジを見た。
「シンジ。俺はこの嘘のために、多くの血を流してきた。お前の血も、お前の友人の血も。そのために何人殺したか知れない。そして俺がそうしたのは、人類のためなどではない。ユイのためだ。そして、ユイが幸せになって欲しいと思ったお前の」
そう言ってゲンドウは、シンジの目を覗き込んだ。
「そんな人間が、今さら後悔することもできまい。……本当は、憎い父親のまま死ぬのだろうと思っていたんだが。これのお陰で、そうも行かなくなった」
鼻で軽く笑うと、ゲンドウはシンジに掌をかざした。
その掌には、奇妙な瘤があった。
「これが、今俺が生かされている理由だ」
セミの幼虫のように奇妙な形の瘤だった。
「何? これ……なんだか動いてるようにみえる、けど」シンジはそう言った瞬間、ぎょろりと動いた目らしきものと目が合い、言葉が続かなくなった。
「うわあ!?」
思わず後ずさったシンジは足を踏み外し、川に片足を突っ込んだ。すかさずゲンドウは、痣のないほうの手を出し、シンジを引き上げた。
シンジがほうぼうのていで岸に上がると、ゲンドウは言った。
「アダムだ。怖がることはない。これはただの抜け殻だ。もっとも、それでも怖れる者はいるが」
「アダム……使徒?」
「そう、最初のヒト。人類になるはずだった種の原種……これはその抜け殻だ、フィフス・チルドレンになった少年の魂が、本来宿るはずだった肉体だよ。俺はこれを自分の身体に接続し、レイ――リリスにプログラムを侵入させ、全世界の人間に大嘘をついた。それなのにこれが俺を生かしているとは、皮肉なものだな」
レイ。シンジは問うた。
「綾波は、どうなったの?」
「あれはリリスへと還った。あれはあの卵の中で生き続けるだろう、それがあれの本領だからな。かつてヒトの形をしていたときの意識は、すでに保ってはいまい。そして、そうなったあの生き物は……やはり、人間とは違うのだ、シンジ。どこまで人間に近くても、あれにはあれの生き方がある」
「そんな」
シンジが反論しようとするのを、ゲンドウが制した。
「それが、俺がしたことだ。多くの血を流した。レイも、例外ではない。正義を成したなどとは、思っていないさ」
ゲンドウは話を終え、立ち上がった。
「これで俺の話は終わりだ」
長い長い告白を終え、ゲンドウは肩の荷が下りたように大きくため息をついた。シンジには、父親が一回り小さくなったように見えた。
「シンジ」
ゲンドウはシンジを呼び、シンジは答えた。
「何? 父さん」
「……ユイは、何と言っていた?」
「何にも」
「そうか」
ゲンドウは肩を落として、流れる川を見続けていた。
シンジはその視線の先から、さらに下流までを眺め――ふと、あるものに目を留めた。
……そうか。これだけでは、駄目なのだ。自分にまだ役目が残っていることに、シンジは気づいた。まだだ、まだ、言うべきことがある。
シンジは考えるより先に口を開いていた。
「父さん」
ゲンドウは振り向いた。今度はシンジがゲンドウの目を真正面から見た。
「僕は……もうすぐ、日本を離れる」
「そうか」
力のない声。しかし、シンジはさらに続けた。
「リツコさんに引き取ってもらってから、外にはあまり出られなかった。けど、色々教えて貰ってたんだ。それで、向こうの――アスカや、みんながいるところの大学に、行くことにしたんだ。無理かも知れなかったけど、頑張って頼んでみようって、決めたんだ」
ゲンドウは小さな驚きの表情でシンジを見た。
「い、今まで、自分で何か決めたことなんかなかった。でも、これは、僕が決めた。リツコさんや、他の人にたくさん迷惑かけちゃったけど、決めたんだ。だから、僕は……僕は、もう、大丈夫だから」
いつかの日のように、シンジに背を向けたゲンドウは無言で息子の言葉を聞いている。
「……父さん、行っちゃ、駄目だよ」
その顔は、ゲンドウが見たことのない、決然とした表情だった。
「これから、どうするつもりなの?」
ゲンドウは答えることができなかった。自らの処遇などは、ゲンドウの意識の外にあったことだった。彼は既に死を覚悟している。生きていることがイレギュラーなのであって、それ以上など、考えることもしなかった。
「このまま、牢獄に帰るなんて、駄目だよ。父さんにはまだ、守らなきゃ……ならない人が、いるんだ。ほら、ね」
シンジがどこかを指差し――そう言われたゲンドウが振り返った先には、いつかの絶望に満ちた泣き顔ではなく、笑顔があった。
「赤木……君」
「そうです、もう、行かせはしません」
リツコは手に持った拳銃を、すっとゲンドウに向けた。
それはあの夢の直前、彼が彼女に麻酔弾を打ち込んだ拳銃だった。
「なぜだ。私は、君に……」
「女は、怖いんですよ。狙ったものは、そうそう諦めません」
リツコは言い切った。そう、彼女は半分はそのために、彼を連れ出したのだ。誰にも言えない秘密を抱え、全てを騙し通した希代の大嘘つき、六分儀ゲンドウを生かすために。あのとき、自らの目的のためなら人の血を流すことを厭わないその生き方を曲げて、自分を助けた彼のために。そして、そんな彼をかつて愛し、今もなお愛している自分自身のために。
その言葉を聞くと、ゲンドウは観念したように目を閉じ、小さく笑いながら手をかざした。
ドン。
鳥が脅されて木から飛び立つ。
その下には。
異形の抜け殻が棲む手を打ちぬかれたゲンドウの姿があった。
「! ……っ……」小さく声を漏らしたゲンドウは、血が溢れるように流れ出すのを気に留める風もなく「問題ない、とは言えんかな」とだけ呟き、リツコに笑いかけた。
リツコは言った。
「……これで、あなたはあの監獄に帰れば殺されるかもしれません。私を、恨みますか?」
リツコの顔に浮かんでいたのは、挑戦的な笑顔だった。
「赤木リツコ君、本当に――」
その後に続く言葉を聞いて、リツコはあのときよりずっと美しく笑った。
「……嘘つき」