俺たちは今日も川近くの木陰で寝っ転がっていた。もう二十一世紀が始まって十六年も経つって言うのに、中国地方の山の中にはまだこんな激しくのどかな田舎が保存されているなんて――そろそろ驚くこともなくなってきたけど、やっぱりこういう場所に来るとちょっと気分が良くなる。単純だ。
「なあ田中ぁー」
俺は隣に俺と同じように制服姿で寝っ転がる田中に声をかけた。いつものように、間延びしてやる気なさ気な返事が返ってくる。
「なにー?」
さらさらさら。岩清水の流れる小さな音が聞こえる。岩清水ですよ、いはしみず。
俺は超絶のどかな水音を聴きながら勝手に白状した。
「俺、惣流に告白したことあるんだわ」
「マぁジでー?」
田中は素っ頓狂な声を上げて身体を起こした。背中に枯葉が引っ掛かっている。俺は軽く手を伸ばして彼女の背をはたいた。
「あ、ありがとー。で、本気でマジっすか?」
「うい。マジッす」
田中は、たっはあ、と頭でも打ち抜かれたみたいにおでこを手のひらではたき、葉っぱの間から見える狭い空を見上げて言った。
「けっこうミーハーだねェ、イッシーも」
「いや、だってあれは行っとくでしょー」
俺は、ミーハーだねェ、というところにはあえて反論しないで続けた。確かにミーハーだ。なんか物凄い勢いでラブレターをゴミ箱にシュートしてるの見たことあるし、無理っぽいのは目に見えてる。でもあそこまで可愛いと普通駄目もとでも行く。金髪で細くて可愛い、そのうえしかもパイロットって。ホンモノの美少女戦士とか、反則。っていうか今どきミーハーて。
一瞬のうちにそんな色々な考えが走馬灯のように駆け巡った俺に、田中はにんまり笑って訊いた。
「無理だったんでしょー?」
「もち」
即答。うん、俺がそこそこ丹精込めて書いたラヴレターは速攻でゴミ箱逝き。
「だよねー。無理だって、フツーにいっちゃ」
俺もそう思う。そもそもそれほど期待もしてない。なんというかノリだ。ああいうのは。だから俺も奇もてらわずに没個性的にやったし、相手にされなかったからってそんなにショックでもなかった。
俺は目を閉じた。小学校を卒業してから使うのは久しぶりでいまだに使い慣れないノートやら何やらが入った鞄に頭を預け、周りの小さい音に耳をすましてみる。
じゃり、これはシャツが地べたに擦れる音。ちょろちょろちょろろ、これは水の流れる音。ざわさわしゃわしゃわ、これは風で葉っぱが揺れる音。どさっ、これは多分、田中がもっかい寝っ転がった音。こんなのどかな田舎でも世界は音で満杯だ。
でも、そんな音にも慣れてくると、段々と眠気がして目元があったかくなってくる。
俺が軽く耳の奥から湧いてくるあくびを噛み殺したとき、田中は思い出したように言った。
「イッシぃー」
「なんすか?」
俺が訊き返すと、田中はしばらく黙った。
けれど、それほどしないうちに、やっぱり間延びした口調で言った。
「あたし碇君けっこう好きだったんだよねー。暗かったけどさー。割と顔よかったし」
俺は田中を真似して、間延びした大声で答えた。
「マぁジでー?」
「うんー」
お、断言するねえ。
「告った?」
「もち」
「マジでっ!?」
「うそぷー」
何だよそれ。田中がもち、と言った次の瞬間、俺は思いっきり起き上がって田中の失笑爆発寸前の顔を見ていた。なんすか、思いっきり起きた俺、アホじゃん。おい俺、ナニ物凄い勢いで引っ掛かってるんですか俺。
くすくすくすくす。田中のそんな笑い声がはしたない大笑いに変わるまで、それほど時間は掛からなかった。
「だーっはっはっは! ひっ、引っかかった! 引っかかりましたよ馬鹿が!」
果てしない勢いで笑う。そりゃあもう。そして一方の引っかかった俺は、切れるのもダサいし、かといって恥ずかしがるのもとんでもなくシャクであり、仕方がないのでもう一度寝転がった。ガツッ。鞄の金具が頭に当たって痛い。無視。
俺は黙って頭を動かして、鞄の柔らかいところに頭を乗せて目をつむった。
そこは家からの帰り道の途中にあった。
そこは、迂回するつもりだった。
そのはずだったんだけどなあ。
ことの始まりは昨日に遡る。私は、夕焼けに照らされる、かつて、というほどでもない昔には自分の家だったところにいた。
やっぱりね。
私はドアがない玄関を見て、そう思った。
ひどいありさまだった。何がひどいって、その惨状が爆弾とかそういう壊しつくすためのものによってではなくて、紛れもなく人間によって引き起こされたものに違いなかった、というところがだ。
疎開しているほんの何ヶ月かでここまでひどいことになるとは、さすがに思わなかった。
家の中にはほとんど何もなかった。がっぽりごっそり物が持ち去られた家は知らない空間のようだった。ドアのない玄関に、家具の失せた居間に、小物の消えた部屋。まるで他人のような顔をする、つい最近まで私の家だった空き家は私を身震いさせた。私はそのとき初めて、家というのは立地だの大きさだの部屋数だのではなく、その中にあるもの、人と、その気配と思い出のこもった物が大事なんだということを真に気づかされた。
二階に上がって机もコンポも姿見もクッションもないすっからかんの自分の部屋を見たときは、思わず言葉まで出た。
「あー、なァんも、ないや」
妙にウケた。
それが、ちょうど昨日の夕方。
何となくそこで一夜を明かした私は、辛うじて残っていた幾つかの宝物をリュックに詰め、今の家に向って出発した。
私の今の家と私の家だった場所を直線でつなぐと、ちょうど第3新東京市があった場所が間に来る。
私はできれば迂回して、そこは通らないつもりだった。
けれど、ヒッチハイカーにそういう我がままは許されない。車の持ち主が第3新東京市へ行くと言ったら、そこまででも乗せてもらわなきゃ仕方がない。良縁を捜し求めるあまり、二日も続けて外で夜明かしをするわけにはいかないのだ。
というわけで私は、第3新東京市があった場所の近くまで乗せて貰った車のお兄さんに頭を下げて、歩き出した。
そのせいっていうわけじゃない。そこはまだ第3新東京市があったところからはかなり離れていて、意図的にその方向に足を向けなければ、私は第3新東京市を迂回できたはずだった。
私が避けよう避けようとしていた第3新東京市に行かなきゃならなくなった原因は、ひとりの、おばあちゃんだった。
妙だった。
そのおばあちゃんは、日傘つきの手押し車を押しながら、ゆっくりゆっくり、私の反対側の歩道を歩いていた。
『反対側』
そっちの方向には、第3新東京市の……跡地しかない。
一瞬、見て見ぬ振りをしてやろうかと思った。
けれど、おぼつかない足取りで手押し車を押す姿がなんだか必死そうに見えて、私はつい声を掛けてしまったのだ。
「おばあちゃん! ちょっと−!」
声を掛けた少し後、その目を見て、私はかなり後悔した。
今、私の隣にはそのおばあちゃんがいる。というか、正確には私の隣を歩いている。クソ暑い日差しの中を、のほほんと。どこへ向かって? 第3新東京市へ向かって。
なんでだよ。
「ごめんねえ」
「あ、いえ」
私の機嫌が徐々に悪くなっていってるのを察したのか、おばあちゃんが謝る。さっきからこういう、ちょうどいいときに入る合いの手みたいな「ごめんねえ」のせいで、私は文句も言わずにおばあちゃんにくっ付いて、行かないはずだった第3新東京市へ向かって歩いている。
なんだこりゃ。
「ほんとにごめんねえ。でも、どうしてもね、行きたいのよ。ああでも、やっぱり悪いわ、付いて来させるなんて。やっぱりお嬢さんはここで……」
……無意識に思ったことを口に出してるのかな? 私。おでこにでも書いてあるのか? テレパスか?
「あ、大丈夫です、別に」
いや、大丈夫じゃないんだけど、絶対諦めないじゃん、あんた。
このおばあちゃんは物腰の柔らかさとは逆に、異様に決意が固い。最初に話しかけたときも、さらっと「第3新東京市に行くんです」と言ったこのおばあちゃんに私は「いやいやいやいや無理ですって」と言って、けれども何度「無理です」と言ってもこのおばあちゃんは「でも」(これがポイントだ。どう説得してもこの「でも」ひとつでひっくり返される)「行きたいの」の一点張りだ。
一瞬、ボケてるんだろうか? とも思ったのだが、そうではないらしい。足元はふらふらしているが、ちゃんと私と会話できている。最近の交通事情の話とか、このうだるようなお天気の話とか、就職事情の話とか(暗鬱になるだけだからすぐに止めた)。
でも、それだけしっかりしているのに、やっぱり第3新東京市を断固として諦めない。
何がこのおばあちゃんを第3新東京市へ駆り立てるのか。外見からはおおよその年齢しかわからないが、かなりの年齢であるのはわかる。何がこの町ひとつ歩き回るのにも難儀しそうなおばあちゃんをして、荒れたオンロード(アスファルトは一応残っている)を歩かせるのだろう?
道路の反対側に渡って、「こっちには何もないですよ?」と訊ねる私に、小柄なおばあちゃんは言った。
「第3新東京市に行くんです」
「いやいやいやいや無理ですって」
いや、を後二、三個つけてもいいくらいだった。
ねえおばあちゃん。後10キロ以上もありますよ? いちおう若者の私の足でもかなり辛いですよ? おばあちゃんの足では無理ですよ。
とっても常識的な私の言葉は、ことごとく無効だった。
「そうねえ……でも、行きたいんです」
この鉄壁の切り返しは無敵だ。馬鹿と泣く人と子供と老人には勝てない。勝てない人ってけっこう多いな。
何度かやりとりを繰り返して、私はため息を吐いた。そして、言った。
「ああもう! いいですよ、行っていいです! でもひとりで行っちゃ駄目です。私が付いてきますから」
あらまあ。なぁんてお人よしなんでしょう、私は。でも放っておいて野垂れ死なれても後味悪い。いや、放っておいてもどうせ――とかいうことは一瞬思うけれど、だからって目の前で『電波少年』(私の生まれるころにはもう終わってた)ばりの無茶をしようとしている老人を見て放っとけるか? 少なくとも、今現在の私には無理な相談だった。
そして私は今日中に家に帰るのを諦め――その気がそもそもあったのかは微妙だけど――おばあさんの隣を普段の半分以下の速さで歩き出した。うわ、老人って足遅。
とまあそんな感じで出発した私たちも、もうかなり歩いている。……かなりどころではなく。着実に、第3新東京市に私たちは近づいてきている。この道を私は、通ったことが、あるような気がする。
――あ、嫌だ。こっちに行きたくない。でも。
「ほんとに、ごめんなさいね」
タイミング、完璧に把握されてるし。
なぜ、私はこの人に付いて行ってしまうのだろう。なぜ、絶対に避けようとした街に足を向けてしまうのだろう。止めるチャンスはいくらでもあったはずなのに。
――そもそも、普通ならあんな風に、お人よしみたいに声を掛けたり、しないのに。
坂を上る。長い坂、でも、おばあちゃんは歩く足を緩めない。よたよたしているけれど、その足音はまるで、この行程が終わったら別に死んだって構わないのよ、と宣言しているみたいで、そんな足音を出されたら、私は思い出してしまう。
止まりたいのに、止まれなくなる。
私たちは歩く。木が、変な方向に薙ぎ倒れている。道路が、どんどんオフロードに近づいていく。細かい段差に足を取られそうになりながら、それでもおばあちゃんは休まずに歩き、私もまた歩いてしまう。
やはり、この道は、通ったことがある道だ。
確か、この坂を上り終えれば、
第3新東京市をはもうすぐ目の前。
もし、まだ第3新東京市がそこにあるなら。
――行きたくない。
なんだかんだでずっとおばあちゃんをリードしていた私の足が決定的に重くなる。足が、前に進まない。時速はきっと1キロを切った。要するに、ほとんど動いていない。ほとんどその場で足踏みしているたいに、かかとが虚しく上がり下がり。
どんどん下がっていた視線もついにどん底で、もう地面しか見えない。地面も、見たくない。
このままずっと忘れていたかったのに、わかってしまうから。
忘れたままで諦めようとしていたのに、わかってしまうのよ。
でも、私よりずっと背が低いおばあちゃんは、日傘の下から私を見上げる。どうしたって、目が合う。そして、おばあちゃんの迷いのない目を見ると私は止まれなくなる。何度でも、そうやってこのおばあちゃんは、こうして私を歩かせてしまう。もう、おばあちゃんは、お嬢さんはここで、なんて言わない。
風が通り過ぎる。荒れた道に、砂塵が舞う。
私は絞首台に向う死刑囚のように、もう土の山道でしかない坂道をゆっくりと歩いた。おばあちゃんも、同じように歩いた。
そして、坂は、終わった。
私は目を閉じる。
身体の芯が震えるような感覚を抑えながら、目をかたく閉じたままで、顎を上げる。
顔にこんなところでは当たらないはずの海風が当たる。
――ああ、私はついに来てしまったんだ。
目が、熱い。
彼女は言った。
「イッシー」
彼は眠ったふりを止め、目を開けて言った。
「ん?」
「見たー?」
彼は少しだけ身体を起こし、組んだ両手を後ろ頭にくっつけると、また寝転がった。
「んー」
「なーんも、なかったねー」
彼女はなーんもと言いながら手を空にかざし、なかったねーと言いつつその手を横に放り出して大の字になった。
彼はそんな仕草を横目で見てから、寝転んで口を結んだまま大きく息を吸い込み、ゆっくり、深い鼻息を吐いた。
もぞ、と動いて足を組み、彼は答えた。
「……うん」
彼が答えてから、長いこと二人は黙っていた。ずっと黙ったままで、二人は次の言葉のタイミングを計っていた。
やがて彼は言った。
「穴んなってたなぁ」
んぐ、と小さく喉を鳴らし、彼女は答える。
「うんー」
「街にできてた池って、どーなったんだろ?」
「さぁー?」
視線を上まぶたの向こうに向けて、彼は在りし日の街と、去った日の湖を思い出す。
「……池、どうしちゃったんだろうなー、マジで」
答えは、返ってこない。
そこには、何もなかった。
頬を伝った涙が教えた、私は泣いているという認識は、坂の下にあるなくなってしまった街の情景と同じに頭に入ってきて、けれど私はそのどちらもまるで他人事であるようにただ茫洋とした気持ちで、涙をゆるゆると垂れ流し、馬鹿みたいに口をぽかんと半開きにしながらその新しい海を見ていた。
下を向いて、髪をかき上げ、それでもやっぱり、目の前にあるのは大きな新しい海。
手をひたいにかざして、指の間から見える景色に向かって言った。
「あー、なァんも、ないや」
やっぱり、ウケた。
なーんにもない。ほんとうに、なーんにもない。ただ大穴が開いている。山が削られた丸い崖が、海と空が結ぶずっと向こうまでぽっかりと続いている。そんな穴に、海が満ちている。
私は泣きながらウケている。傍から見ればその光景はきっと妙だ。
でも、それを止めればきっとぶっ壊れるんだ。
あー……
「孫がね」
涙を拭かないで坂の頂上に突っ立っていた私の耳に、ここに来たっきり忘れていたおばあちゃんの声が聞こえた。
私は見下ろす。私の少し後ろにおばあちゃんが立っていた。手押し車は、車輪をロックされてそのまた隣にあった。
「孫がね、ここで勤めてたの」
おばあちゃんは、何か思い出すように目を閉じ、襲ってくるものに耐えるように背中を丸めた。
「娘に似ておばあちゃん不幸でねぇ。一回帰ってくる帰ってくるって電話ばっかりで、ちいっとも帰ってきてくれなくてね」
おばあちゃんは短く、何度も息を吐いた。
そして手を合わせた。
小さく。
もう夕方に近い空に、小柄な老婆ごときが放った祈りは簡単にほどけてゆく。
「……リッちゃん……」
おばあちゃんは私にはわからない名前を呟き、そのまま嗚咽を発してゆっくりと崩れ落ちた。
私はなんだか自分の涙が止まってしまって、でも声をかけることばできずに、おばあちゃんの小さい肩と、日差しのせいで砂っぽい地面とを交互に見ていた。
小さい肩が震えるのが止まるころ、私はまだ夕日を背にして海になった第3新東京を見ていた。
私たちはもうずっと何も話さずに手を合わせていた。
私には信仰はないけれど、隣のおばあちゃんがそうしているのに合わせた。悪い気分ではなかった。それに、こうやって手を合わせていなければ、自分の手をどこにもって行けばいいかすらわからなくなる。きっと最後には、どうやって地面に立てばいいのかすらも。
自分の手に、自分の手のぬくみを感じる。少し湿った手のひらは――
もうあの人に触れることもできない。
しまった。
手の力が抜けた。だらんと腕が落ちる。止まったはずの涙が、また出てきやがる。
私は目を閉じた。けれど、一度始まった連想は止まらない。
あの人の手、あの人の顔、あの人の髪、あの人の肩、あの人の背――
忘れるはずで、忘れられなかったこと。
あの人の声、あの人の腕、あの人のぬくみ、あの人の――
忘れることのできないもの。
もうどこにもないもの。
きゅっ。
私は手に圧迫感を感じた。私の手ではない。乾いた手。皺の深く刻まれた、柔らかい手だった。
目を開けると、そこには手を合わせるのを止めたおばあちゃんがいた。
「落ち着いた?」
「うん」
おい、赤の他人のおばあちゃんに手を握って貰って泣き止んで、それで答えがうん、って。お前は何歳だ。そんな自らの声に耳を貸す余裕もなく、まるで子供みたいにうなづいた私はそのままおばあちゃんの手を握っていた。
人の手を握るなんてどれくらいぶりだろう。
あの人がいなくなってから、私は誰の手も握ってはいなかった。ずっとひとりで、ひとりでいる振りをしていたんだ。
でも、その振りももうできない。
私はここに来てしまったから。ここに来ることを選んだのだから。
「……付き合っていた人が、ここに勤めてたんです」
だから、疎開しようと言ったのに。仕事は命には換えられないんだから、一緒に来て、と言ったのに。整備士なんか、どこでだってやっていけると言ったのに。
なのに。
でもさあ。子供が凄い頑張ってるんだよな。なんか、恰好悪いじゃん、逃げんの。だから、ごめん。俺、一応地球防衛軍だしさ。
そんな意地を張って、ヒステリーみたいに叫んでる私にひたすら謝りながら、電話の向こうで笑っていた。
最初に会ったとき、見たこともない所に連れてこられて、ぽつねんと座っているしかできなかった私に話しかけてきてくれたときと同じ、子供っぽい、だけど芯が強い笑い声で。
「結局、別れるときは顔も合わせなかったんだけど」
そう。結局その喧嘩別れのやりとりが最後になった。私が最後に聞いたのは、小さな彼の、途中で切れたごめんの声。きっと彼が最後に聞いたのは、彼のごめんの声を掻き消した、私のバカッ、の金切り声。
声がきれい、って言ってくれた彼に、私は最後なのにあんな声しか聞かせられなかった。
そんな風に終わって、忘れよう、忘れようとしていたのに。
ずっるいよなあ。ほんと、ずるい。
「でも……」
こんな置き土産。
私はお腹を押さえた。おばあちゃんは驚いた顔で私を見て、私はうん、とまた子供みたいにうなづいた。
「いるの、ここに」
そう、いるのだ。ここに。ずっといないことにしようとしてきた者は、確かにここに。私のジーンズの下、きっちりジーンズの中に入れたシャツの下に、ショーツの下に。
また涙が出る。そして泣きながら私はぐだぐだとまとまりのない言葉を話す。
「でもあたし全然、子供で。ただのフリーターだし。……コンビニとか、コネで貰ったウグイス嬢のバイトとか、捻じ込んでもらった電話対応の仕事とか、全……然、続か、ないし。あたしもう、まるで親の寄生虫で……その上こんなひどい状況なのに……だから、このまま……」
終わらせてしまおう。そう思った。だからここには来るつもりはなかった。
「でも、あなたはここに来たんでしょう?」
やっぱり、まるで酒の席の合いの手みたいにタイミングがいい。
「……うん」
私は言い訳を止めた。私はついにここに来た。そして多分最初っから、ほんとうはここに来たかったのだ。あのとき、あんなに簡単にこのおばあちゃんに声を掛けたのも、来たくなかったはずのここに足を向けたのも、ここについに来てしまったのも。
きっと、ここに来たくない以上に、ここに来なければならないと思ったからなのだ。
そうだ。子供が凄い頑張っているのだ。あんなひどい日々で、体力も精神力も削れてどん底の地の底の奈落の底のへろへろで、どう考えても不健康だったのに、私が気づくまで、耐え切った。気づいてからも。
なのにさ。
なんか、恰好悪いじゃん、逃げんの。
でも私は弱い。
だから――勇気が、きっかけが欲しかった。
「どうするの?」
私は少し笑った。
「諦めました。だって――あたしは、もうここに来てしまったから」
もう諦めるのは無理だ。もう逃げらんない。私は腰を据えるしかない。人生を賭けるしかない。もう忘れられない。ここにいるこの子のことも、もういないあの人のこと。もう昔の、割かし気楽に生きていた私には、戻れない。
でもいいじゃん。地球最新の海に眠る地球防衛軍の男の子供よ。凄く恰好いいじゃん。そして私はその母親。もう物凄い恰好いいんだ、絶対。誰も彼も羨むぐらいに、怖ろしく恰好いいはずだ。
誰も、彼も。
私は訊いた。
「ねえ……おばあちゃん」
「どうしたの?」
「この子は……こんな大災害の後に生きていくの?」
私はたぶんもう諦められない。だけど、この子は、それで幸せになれる?
しかし、おばあちゃんは若い私の疑問を軽く笑い、言った。
「なんの。戦後の焼け野からだって生き残ったんだから、これくらい」
私もつられて笑った。戦後。そうか、セカンド・インパクトだけじゃない、その前だって、その前も、その前も。いつだって、大災害の後にも私たちは生き残ってきたんだ。そしてきっと、これからも。
「そっか。……そうか……」
私は腕を天に伸ばした。私が伸ばした腕は崖に至る坂に長い影を作った。
うん、決めた。やっと、決めた。
オーケイ。大丈夫だよ。あたしがちゃんとお母さんをやってやるから。
群青の空に手を振りながら、私の中にいるひとりと、もういないひとりに向って、私はそんなふうに話しかけた。
川近くの小さな山村に、わたしたちは疎開している。ここは世界の端っぽくて、ぶっ壊れているらしい日本の状況がわからないくらい平和。
でも、それでも、何もかもずっとそのままというわけにはいかないみたい。
さっきから石川はぜんぜん話さない。いつもなら適当なことをぺらぺら喋ってくるのに、今日は池の話をしたっきり、ずうっと黙っている。
ここに疎開して当然のようにハブられてから、ずっとわたしたちは二人だった。
お互い好きでもなかったけれど、いつもいつも二人でここに来ては、寝っ転がった。
それでもいつも、こんなに静かじゃなかったのに。
「なあ田中ぁー」
やっと、石川はわたしにさっきと同じように、ゆるい声で話しかけた。
わたしは今までと同じように返事をした。
「なにー?」
また、黙る。たぶん、あのことを考えているのだと思う。さっきの白状話の続き。失われた子供。
しょーじき、わたしは悲しいっていうより、戸惑っている。あの光景にも、流れたニュースにも。
別に涙は出ない。残念ながら。無理やり泣くのもなんか、嫌だ。
石川はまだ黙ってる。
「……何?」
あ、ミスった。つい、キャラじゃないしゃべりを。
でも石川は、そんなことには構わず答えた。
「ん。……惣流、死んだな」
わたしは、マジでー、とは言わなかった。代わりに、石川の言葉に欠けていた子たちの名前を言った。
「んー。碇君と、綾波さんも」
石川も軽い答えは返さずに、真面目な顔で押し黙っていた。
わたしも黙って、川の流れる音を聞いていた。
そのニュースは昨日流れた。わたしたちの街だった所。そこはもう、辛うじて跡地を表していた池までなくなって、根こそぎ抉り取られていた。その奈落の底の大穴になった風景に被せて、亡くなった人の名前が出た。
その中に、わたしのクラスメイトだった三人もいた。
「悲しい?」
わたしは訊いた。訊いてみたかった。
石川は寝転んだままで、しばらく、んんん、とうなりながら考えて、息が続く限りうなり終わった後で、答えた。
「いや、そーでもない」
「イッシーのはくじょうもーん」
「……かなぁ、やっぱ」
ちょっとほっとして言ったわたしに答える声は、小さかった。
――あ。本気で、へこませてしまった?
わたしは慌てて言った。
「う、うそぷー」
石川は少し身体を起こしてわたしを見た。それからちょっと安心したように小さく笑って、言った。
「フォロー感謝」
こいつは普段おちゃらけているくせに、たまにちょっとこういうしおらしいところを見せる。ずるい。
「ほんとだよ」
だからわたしは身体を起こして石川を正面から見て、久しぶりに真面目にしゃべった。でも、ほんとにうそぷーっていったいなんだ。自分でもわからない。
「うん。ありがとう、田中」
でも石川もわたしを正面から見て、真面目に答えた。
わたしたちはそのまま見詰め合った。
あ、ちょっと気まず。
さっきは笑ってたけど、何かギャグをかます雰囲気でもない。
だから仕方なくそのまま見合っていると、石川の口が、なんだかもごもごと動いた。
「あの、さぁ」
石川はいつになく真面目な顔をさらに真面目にしていた。
「あの、なんていうか」
そこで言葉が切れる。かなかな言い出したセミの声と、さらさら言い出した葉っぱの音だけ聞こえた。
それと、自分の心臓の音。
「えっ、と、何……?」
つい、さっきの後遺症で、真面目な受け答え。あ、ヤバイ。何か雰囲気が変だ。ナニ盛り上がってんの。
「なんつーか……ずっと、生きてろよ」
は?
「な、なにそれー?」
石川はわたしのツッコミにはっとしたような顔をして、何回もまばたきをした後、呟いた。
「……わかんない。いや、あれ? えっと、なんだっけ?」
おいおい。――焦った。何か告白とかされるかと思った。でも、これもなんか告白?
「いや、わたしに訊かないでよ」
「だよ、なあ……」
わたしたちはもう一度顔を見合わせた。
わたしはたぶんまだ顔が赤い。
石川の顔もやっぱり、ちょっと赤い。
そのうちに。
「ぶっ」
わたしは吹いた。あんまりにもアホまるだしの受け答え。でも、言いたいことはわかる。
そしてわたしがまたあんまりにも笑うもんだから、しまいには石川まで一緒に笑い出した。
川近くの小さな山村に、わたしたちは疎開している。ここは世界の端っぽくて、それでも、ぶっ壊れているらしいこの国で、何もかもずっとそのままというわけにはいかない。
変化は訪れる。いつだって。今だって。
悪い変化ばかりじゃない。たとえ大災害の後でも、良い変化はあっていい。まだ生きてるもん、わたしたちは。
だから、わたしたちはげらげらと笑い続ける。こんなかなりやばい世界の中で、それでも楽しげに、もうこれから世界が終わるときまで楽しいことしかないかのように、わたしたちはいつまでもいつまでも笑い続ける。