――あたしは、そこまで往ける?
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」
あたしは足を引きずって歩いている。そこは夏のアスファルトの上、もう何年も張り替えられていない色あせてひび割れたアスファルトの上だ。風や車が運ぶ砂が靴の奥に入り込んで足の裏の皮まで削ってしまうような感覚。
あたしなんでこんなとこ歩いてるの?
何してんの?
何がしたいの?
どうしてこうなった?
誰のせいでこうなった?
どれにも答えなんか出ない。考えるのも面倒くさい。暑くて頭がぼうっとする。ジリジリした熱気で引っ張り出された汗が下着に染みこむ。臭う。獣のような厭な臭い。べたつく。それでもあたしは足を止めずに歩いている。
「畜生、畜生、畜生、畜生畜生畜生畜生畜生ちゅ!?」
言ううちに唇を噛んだ。口に血の味が広がる。鉄っぽい味で、鼻がつんとする。
血は止まらずに、いつかあたしの唇の端から外に溢れる。
ごくごく簡単な話だった。
あたしはこの日常の牢獄に心から飽き飽きしていた。やることも、やりたいこともない、内側から腐っていくみたいな生活も、ときどき目に入る監視も、この街も、この街から見える空も、この街が思い出させる記憶も、何もかも、何もかも、何もかも。
始めは何か考えていたのだと思う。焦ってもいたような気がする。けれど、今となってはわからない。わかるのは、今現在の状況につながる直接の事実だけ。
ごくごく簡単な話の始まりはこうだ。
あたしはふとしたことから保護者を殺した。
そしてあたしは(たぶん)自由になった(自由なんていうものがこの世界にあるとすれば)。
とん、どたん、がつ。それでおしまいだった。
「……ねえ……? ミサト……?」
覗き込んだあたしが何度揺り起こしても、彼女は目を覚まさなかった。ただだくだくと後ろ頭から血を流して、力なくあたしの揺り動かすままにがくがくと糸の切れた木偶人形みたいに揺れるだけだった。
「ちょっと……冗談でしょ……あんた、軍人じゃない。サブマシンガンでどてっ腹撃たれても死ななかったんでしょ? こんなんで死んでどーすんのよ? ちょっと……ねえ……」
言いながら、あたしはついに現れた非日常になんとなくわくわくしはじめていた。
「ちょっと……ちょっと!」
あまりに強く揺らしすぎて(頭を打ったんだからほんとうは揺さぶっちゃいけないのに)あたしの腕の中から彼女は抜け出た。
ごつっ。
そんな間抜けな音を立てて、彼女の頭はまたフローリングの上をバウンドした。
あーあ。こりゃ、もう駄目だ。
無言のまま、とっくに意思を失って、それでもまだ温かい彼女を見てそう思った。
仕方がないので、ジャケットに手を入れて胸の辺りを探る。ますます傷の増えた(でももう少しで意味なんかなくなるはず)彼女のあばら骨らへんに、ちゃんと拳銃は収まっていた。
それを抜き取り、ジーンズの腰に差す。ちょっと邪魔だけどとりあえずこれで。
……べたべたする。
拳銃のないほうの手のひらを見た。彼女を抱き起こしたときに血がべったり付いていて、乾き始めてねばねばしていた。気持ち悪い。乾ききってから洗うのもどうかなと思って、彼女の服でその血をふき取った。
彼女のアンダーシャツで丁寧に血をふき取った後、ふと思った。
あっれぇ? 何でこうなったんだっけ?
その原因を思い出そうとした。かなり考えた。けれども、どうしてもその原因を思い出すことはできなかった。
なんであたし、ミサトを突き飛ばしたりしだんだろう?
――まあ、いっか。
いい加減思い出すのが面倒になったあたしは立ち上がって、自分の部屋に引きこもっているはずの彼の名前を呼んだ。
「シンジー? ちょっとこっち来てー」
がさ、と戸が開く音がした。
その数時間後には、あたしたちはもうあの街の外にいた。
辛うじて金が集まってくる偽物の街の外には、数年前までとはえらい違いになっただだっ広い荒れ野が広がっていた。
あたしたちはそれを実際には見たことがなかった。
なぜって、ずっとあの街の外には出なかったから。
「暑い……」
「あんたにわざわざおっしゃっていただかなくてもんなこたぁ五歳の子供にでも分かるわよ、このバカシンジ、がっ!」
何度目かの言葉にあたしはうんざりして、とぼとぼ歩くあいつの後ろに回りこみその尻を蹴り飛ばした。
「痛って! 何するんだよアスカ!?」
「うっさい! キリキリ歩け! そんなペースじゃ夜んなるわよ、次の街に着くの」
そう、あのワケの分からない出来事の後、日本はそういう国になった。まるで合衆国の西部みたいに、石がごろごろの荒地の所々にぽつんと街があるだけ。特に"グラウンド・ゼロ"に近いこの辺は酷い。
でもそれでいて端のほうには昔ながらの風景がちゃんと残っているっていうんだから、変な話よね?
というわけで今の日本は、長い列島の端にだけ人が住むまことに奇妙な国家になったのだった。
当然、破綻した。
でもまあ、そんな予備知識は今は関係ない。
ほんとのところ端のほうがどうなってんのかはあたしたちにはわかりようがないし(見たことないから)、端のほうがどうであれ、ここはとにかく突如としてマカロニ・ウエスタンが始まりそうなくらい、圧倒的に荒野なのだ。
それに。まったくもっておあつらえ向きにあたしは拳銃も持っている。
反動は割と大きいけど、軍人とはいえ女のミサトが携帯用に使ってた銃だからあたしでも撃てないということはないだろう。
射撃はそれなりに得意だった。今のこの目で扱えるかは怪しいけど。
まあいい、何かあればとりあえず脅し、しかる後に機会があればぶっ放す。それだけだ。当たる当たらないはこの際問題じゃない。
「それにしても……」
あたしはその後を言わずにひび割れた地面を見た。
下手な爬虫類だったら一瞬で干からびてしまうくらい暑い昼だった。
荒地に固まる土くれを蹴ると、簡単に粉々になった。
口に、粉っぽい感触が広がる。
あたしは唾を吐く。カラカラの地面は唾さえ一瞬で乾かした。
結局、夜になっても次の街なんて見えやしなかった。でも、ここの地理に詳しい日本人ならともかく、アメリカ国籍(またあたしの国籍は残ってるんだろうか?)でこうなる前の日本なんてひとつも知らないあたしにはそのこと自体については感慨も怒りも沸いてこない。
ふうん、と納得するだけだ。
一方、地上がどうあれ星は変わらない。
下手な感慨など求められない分、こっちのほうが楽だ。てなわけで、このクズみたいな土地とは全くそぐわない満天の星空を、あたしはあろうことか廃車の後部座席から眺めていた。
廃車とはいえ座席はまだそれなりに柔らかい。
端の方に強く体重を掛けると妙な音がするけど、それ以外はまあ、快適と言っていい。
物凄くお腹が空いてることを除けば。
でも、除くのはちょっと無理だ。
あたしの歳の割には細すぎるほど細いウエストの少し上、浮いたあばらの下辺りからは、空腹を告げる音がしっかりと出ていた。
全天を満たす百点満点の星空も、どうやって食物にありつくか、という矮小な問いにはとてもじゃないけど勝てない。
これは情けないけど現実。
そして、そんな切羽詰った問いを抱える餓鬼二人が乗った車の中にロマンティックな雰囲気の欠片もあるはずがない(そもそも、この男相手に欲しいとも思わないけど)。
ダサいけどこれもやっぱり現実だった。
それ故にあたしたちは、どことなくちりちりした雰囲気の中で、キリキリする空腹とジンジンする足の痛みとヒリヒリする肌の痛みをまとめて誤魔化すために揃って黙りこくっていた。馬鹿みたいに口をぽかんと開けて、月のない空を見て。
「きれいねぇ」
言ってから、自分の言葉に1マイクログラムも感情が篭もっていない事実を発見して、この非常に美しいはずの空を見てそういうドライな感想を述べることができる自分をある意味尊敬した。
「ほんとに」
返す言葉を聞いて、その言葉にはあたしの言葉以上、恐らく小数点以下三万桁を数えてもゼロしか見あたらないくらいに感情が含まれていない事実に気づいた。かなりの冷笑家でも思わず声を漏らしてしまうようなこんな乾いたクリアな空を見てそういう機械的な反応を返せるこの男に、あたしはこのとき初めて共感できた。
「寝る?」
「うん」
「どっちの意味?」
「あんたがミサトに言われてた卑猥な意味じゃないほう」
「なるほど」
無感動に答えたシンジは、助手席越しにおやすみ、と言って、それからもう一言も喋らなかった。
気を許してしまうのが嫌だったあたしは、それからまだしばらく、寝転がった後部座席の窓から見える空を眺めていた。
窓からは逆さまにオリオン座の三つ星が見えた。ひとつ、ふたつ、少しラインを外れて、みっつ。
どこからどう見ても人の形には見えなかった。昔の人間は無駄に想像力が豊かだ。きっとあたしと同じくらい暇だったんだろう。
なんのことはない。あんなもの、ただ恒星が燃えて出た、百年や二百年前の古臭い残りカスみたいな光が見えているだけだ。
残りカスに名前を付けて生きる人生。
ふん、残りカスの光と同じくらいカスだ。
あたしは何故だかそんな風に攻撃的な気持ちになって、それ以上苛つくのも面倒だったのでかたく目を閉じた。
その夜も、別に圧し掛かられたりはしなかった。あんなに彼女をヒイヒイ言わせるように仕込まれていたくせに。
そういうわけで、ぶっ放した。そして、ぶっ放せなかった。
その時のことを極限まで抽象化して言葉にするとそういうことになる。
切り過ぎて何にもわかんないか、これじゃあ。
というわけでもう少し詳しい状況を話すと、こうなる。
もう何度目かの野宿の後、有り体に言って死にかけているらしいあたしは夜明け前に目を覚ました。
何故夜明け前だとわかったのか? そりゃ、これだけ寒くて真っ暗ならあたしの回らなくなった頭でだって判別はつく。荒地になってしまった場所は昼夜の温度差が苛烈なのだ。
目を擦り、包まっていた布切れを身体に巻きなおしながら、知覚に感じたものの中からあたしを目覚めさせたものを探した。
手に触れるのは、砂でざらついたボロ布の感触だけ。舌が感じるのは、乾きかけてねちゃねちゃした唾だけ。鼻の奥は細かい土埃に乾ききって、息をするのも嫌だ。目にも、見飽きた星の光しか見えない。
しかし――耳には、いつもとは違う音が聞こえていた。強盗を怖れて飛ぶように走る車のエンジン音じゃない、ゆっくりした、止まりかけの、それ。
「――来たね」
隣から声がする。視線を向けると、そこにもあたしと同じようにボロっきれが転がっていた。
「……起きてたの?」
「……いや。今だよ」
短い会話の間にも、遠くから響く音はじょじょに大きくなっていった。
「行く?」
シンジが訊いた。訊くまでもない。鳥が飛んで魚が泳ぐように、やることは決まりきっている。
「うん」
あたしは答えた。
もう遠い昔みたいな気もするが、少し前、まだ残っていた見かけの可愛さで騙し取ったウエイトレスの仕事は客をぶん殴って数時間の内に追い出された。その後、かなり死にそうになってからやっと娼婦でもやろうかとした時にはもう、あんまりにも汚らしくて無理だった。
これはあたしの話だが、この男も使えなさでは似たようなもんだ。
だから、ここは正攻法で行く。
即ち、ぶっ放す。
光が見えた。
ついにこの時がやってきた、とあたしは思った。
この銃をぶっ放せば、あたしの世界の何かが劇的に変わるんじゃないか、そんな気がした。
――んなわきゃないってのに。
あたしたちは身を潜め、機械の音が完全に止むのを待った。
バタン、バタン。ドアを閉める音が、二つ。二人か。
ライトは点いたまま。あたしたちのほうを照らしていた。そりゃそうだ。今日は月も出ていない。ライトを消したら何も見えなくなるだろう。
さっきと同じようにボロ布に包まり、哀れな子羊(予定)を待つ。消耗した身体で真正面からぶつかるよりは、こうやってもうすぐ死人になる奴の振りをしていたほうがいい。
もっとも、そろそろ、振りじゃなくて、正真正銘もうすぐ死人、だったけど。
そもそも、死に掛けていて、かつ死人の振りをしている人間と、ただの死に掛けている人間をどうやって区別する?
まあいい。ともかくその辺の哲学的議論は放って、あたしは腐臭もしない乾いた布に口をつけ、息を殺した。
ぱた、がた。
確かめるようにゆっくり足音は近づいてきた。
ぱた、がた。
まただ。
足音はちぐはぐだった。
珍しくもない。大方、アレに巻き込まれて足でも吹っ飛ばされた口だろう。
いいことだ、と思った。これで、例え返り討ちにあったとしても、それはそれでドラマになる。客席には人はいないけど、それはよしとしよう。
あたしが知っていればいい。
この筋なら、今までの筋よりは、だいぶマシだった。
惣流・アスカ・ラングレー、墓場の土のような日常で腐りきって死ぬ。
とかそういうのよりは、
惣流・アスカ・ラングレー、蝿も飛ばない荒れ野のど真ん中で復讐されて死ぬ。
のほうがちょっと恰好いい。
どっちにしろ意味なんてないし。だったら面白いほうを選んだほうがいい。
一応の結論が出たところで、思考を一端切る。
頭を動かさないように注意しながら、予め明けておいた隙間から少し離れた推定・死体を見る。車のフロントライトのせいでシルエットになったそれは良く見えなかったが、あたしと同じように動かなかった。
ちぐはぐな足音は止まった。
どす、と蹴りを入れた。あたしにじゃない。
シンジは声ひとつ漏らさなかった。さすが。素直に感心する。あの負け犬根性はなかなか真似できない。
シンジが軽い感じに蹴りまわされている間に、ちぐはぐな足音を通り越して小走りで走り寄ってきた。
さっきのドアの音の、もう片方。
どんな奴?
考える前に、膝に痛みが襲った。
脚でではなかった。義足の奴ですら自分の脚で蹴ったというのに、あろうことかこいつは棒でゴルフをするみたいに遠心力をつけて殴った。
膝の皿、割れたんじゃないか。
確かめることはできない。しかし、考えには入れておこう。
負け犬根性に恐れ入ったあたしは、とにかく耐えた。相手は膝を打って一安心なのか、それ以降は軽く端のほう(きっと、頭を殴るつもりだったのだろう。効率のいいやりかただった)を適当に殴って、それでよし、とした。
「そっちは?」
頭の上から声がした。少し高めの声、女だ。
「動かん。死んでるん違うか」
遠くから小さい声。こっちは男の声だった。
「そうかぁ……じゃあ」
言うなり、女はあたしの懐に躊躇なく手を入れた。
ここだ。
そのタイミングであたしは即断し、一気に掴んでいた銃を引き抜き、もう一方の手で女を引っ張った。
女はたたらを踏んだが、転びはしなかった。
一方のあたしは辛うじて立ち上がり、殴られなかったほうの脚に体重を掛けて立った。
腕をまっすぐ伸ばし、背中に銃を突きつけて、いなかった。
あたしが銃を構えるより早く、体制を立て直した女は手馴れた手つきで、引っ張ったのとは逆の手に持ちっぱなしだった棒で、あたしの左側頭を強かに打っていた。
体力が残っていなかったあたしは、軽めの一撃でほとんど重心を中心に四分の一回転し、地面に倒れた。
回る。世界が。
遠くに声が聞こえた。
「多いね、こういうの」
「弾が手に入るやろ、儲けもんやと思っとき」
「あ、そっか。銃もだね。……どこだろう?」
ちゃんと動かない頭で所々理解できる部分だけをつなぎ合わせ、あたしはぐるぐるの頭で銃を探した。しかし、早々に諦めた。こんなじゃとても見つけるのは無理だ。
自分のことを諦めてみて、そういえば、とあたしは思った。
シンジはどうなったんだろう? 死んだんだろうか?
死んだかもしれない。
あたしはさっきの蹴りまわされようを思い出した。
血を吐いていたような気がしないでもない。
他には? 何か考えようとした。あいつらが銃を見つけたら、五割くらいの確率であたしは撃たれると思う。そういう表情をしていた。特に、あの女の声。あれは銃の残弾の数を心配するような手合いじゃない。
それはあたしがなろうと思った本来の「しかる後にぶっ放す」という類だった。
ちょっと羨ましいな、と思いながら、あたしは目を閉じた。
あたしが目を開けると、まだ二人は銃を探していた。もとい、もう見つかってはいるのだが、あたしが殴られたときに近くの廃屋のほうに放り出したせいで、どこか瓦礫の隙間に落ち込んでしまっているらしかった。
「取れる?」と女は訊いた。
「あかん」
男は身体を起こしながら答えて首を振った。
相変わらず車のライトは点いたままだった。エンストとか、しないのだろうか?
あたしの疑問は特に誰にも答えられることなく、時間は淡々と過ぎた。何とか試行錯誤を繰り返し、男は銃を取り出そうとしていた。
あたしは、黙ってそれを見ていた。
ああ、これでこの地上での人生は終了だ、なんて思いながら。
神様には祈らなかった。そもそも祈っても聞き届けてはくれないだろうし、それなら、そんな祈ったって何の得にもならない神様は不要だった。
あたしは何がしたかったんだろうな?
腹が減って目が回りだしたくらいから考えていなかったことを、あたしは考え始めていた。危ない証拠かもしれない。死ぬ前には、今までの人生を総括しようっていう欲望が芽生えるらしいから。
だからって別に避けなくてもいい。そういうものなのなら、そうするだけだ。
何であたしはここにいるんだろう? 何がしたかったんだろうな?
最初の質問には、はっきりした答えは出そうになかった。逆に言えば、答えが無数にある。
二つ目の質問には、答えが出せるだろうと思った。自分のことだ、自分にわからなければ、誰にわかる?
けど、これにも答えは出なかった。
あたし、バカ?
昔のことを考えるからいけないんだろうか。昔のことは定まらない。あたしを作った原因は無数にあって、したかったことも、もしかしたら無数にあったのかもしれない。その内のどれが決定因か、ということを決めるのは容易じゃない(世の中全ては不確定なのだ、そして、いつでも知ることができるのは今の脳にある記憶だけでしかない)。
……でも、これからのことは、決めようと思えばひとつに決めることができる?
じゃあ、これからのことでも考えてみる、か?
思考が変な方向に向かってきているのは、自分でも薄々感づいていた。これから死ぬ人間に、これからなんてない。いや、一応あるけど、これから死ぬ人間のこれからは、死だ。そのまんまだ。
それに、これからのこと、なんか考えたのはそれが初めてだった。あたしには、渾身の力を込めて打ち消すべき過去と、たゆまぬ努力で維持し、更新し、塗り替え続けるべき現在しかなかった。これから、なんてものは必要がないと思っていた。
それを今になって考えている。
妙な気もするし、世の中ってそんなものであるような気もする。
あたしはそんな風に半端に悩みながら、もはやあたしにほとんど関心を払っていない強盗二人(あたし達ではないほう)を眺めていた。
眺め始めて少しして、ついに車の光が消えた。どうやらついにエンストらしい。男が舌打ちをする音が聞こえた。女は、あーあ、という感じで俯く動作を見せた。
確認し終わって初めて、あたしは彼らの動きが見えることに気付いた。強い光のせいでわからなかったが、彼らの向こうの空の色は、真っ黒に近いミッドナイト・ブルーから、インディゴ・ブルーに変わり始めていた。
夜明け?
疑問が湧き上がるのとほぼ同時に、インディゴ・ブルーの中にシルエットが現れた。
「……もう少し……」
何度も腕を差し入れ、しまいに女と一緒になって瓦礫を動かしていた男が呟いた。
「……重い……よ」
女は構造上退けることのできない瓦礫を支えながら、男に言った。男は頷いて、さっきまでは届かなかった瓦礫の奥へと腕を伸ばした。
その動きをあたしは半ば見ていなかった。
あたしは、もっと重要なものを見ていた。
存在感の欠片もなく彼らの前に立った人型のシルエットが、彼らが一番気を抜く一瞬――銃を取り終えた瞬間に、彼らに尖ったシルエットを差し込む光景を。
ぐさり。
そんな音はしない。けれど、そう形容するしかない深々とした突き。
ぐさり
隣にいる男が刺されたという悲しい事実に女が気付く前に、慈悲深い影は女にも同じことをした。
その光景はとてもきれいだった。人型の動きには無駄もためらいもなく、尖った影は二人の中に、彼らの元々の部品であるように収まった。
歓喜の声を出すはずだった二人は、虚を突かれた攻撃に小さなうめき声を漏らして、その後動かなくなった。
あたしは身体を起こした。
立てるか?
大丈夫、立てる。
膝が動くことを確認して、あたしは覚束ない足取りで歩いてくる、陽炎みたいに揺れるシルエットに歩み寄った。
シンジはさっぱりした顔であたしを見た。
「大丈夫?」
「うん。死んでない」
あたしが答えると、シンジは一回だけこっくり頷いた。きっと、何回も頷くには頭を殴られすぎたのだろう。
シンジはそのまま近づいてきて、あたしの横を擦れ違い、自分のボロ布を拾いに向かった。インディゴ・ブルーが青みを増し、その下の端が少しだけ白んできていた。
「今度は、殺した」
妙なことを言ったので、あたしは訊き返そうかと思った。けど、まあいいか、と思いなおし、適当に相槌を打った。
「そっか」
心底気のない答えを返したにも拘らず、シンジはあたしには解らない話を止める気は無さそうだった。
「こんな所で会うって、思わなかったな。でも、気分良かったよ。今度は。すっきりした」
「へえ」
あたしは素直に感心した。今のこいつでも、気分良かった、と思うときがあるんだ。
でも……
「知り合い?」
今さらの質問に、シンジは薄く笑って答えた。
「あ、気付かなかったんだ。あれ、鈴原と、洞木だよ。中学のときの、覚えてない? いたでしょ? 参号機に乗った。僕が潰して、その後親父に反抗して気絶させられた奴。洞木ってアスカの友達だったんじゃないの?」
シンジはいつになく饒舌に話した。こんなのを見るのは久しぶりだ。初めてかもしれない。
「ああ、いたわね、そんな子」
じゃあ、この女が? あ、そうか。いたいた。青みを増す世界の中ではっきりと見えるようになってきたその横顔を見て、あたしは納得した。こういう子ではなかったから気付かなかった。人間、変わるものだ。
「この二人、こうやって生きていたんだろうね。殺したり、殺されかけたりしてさ」
「あんた、楽しそうね、なんか」
指摘すると、シンジは自分の顔を触って、頬が緩んでいるのを確認し、真面目に考え込んだ。
「そうだね。なんでだろう?」
「羨ましいんじゃないの?」
あたしがまた指摘すると、シンジは笑った。
「あはは、そうかもしれない」
否定はしなかった。
急に、あたしの勝手でこんな所に連れてきたことが、申し訳なくなった。
だから、あたしは申し出てやった。
「――なら、やってあげようか? あたしが」
シンジは黙って、倒れている男の手から拳銃を奪い、気軽なようすで、ぽん、と手渡した。
「そう? なら、頼める?」
その言葉を添えて。
あたしは拳銃を構えた。
夜が暴力的に朝に追い立てられて、世界が青く染まっていく。
まだ日の光は見えない。
「どうする? 太陽が出るまで待つ?」
「いいよ、今さら。もう、太陽は飽きた。夜も」
そう、とあたしは呟いて、視力の悪い片方の目を瞑って狙いをつけた。額ど真ん中に、真っ直ぐに。
引き金に、指をかける。
と、そのとき、シンジは少々考えるような顔をして、それからあたしに訊ねた。
「ねえ、理由はあるの?」
「何が?」
「いや、ええっと」
今さら怖気づいたの?
「違うよ」
あたしの考えを先読みしたようにシンジは答えた。
「じゃなくて、僕を殺して前に進むだけの理由が、アスカにはあるの? それとも、言われたから、やるだけ?」
「えっ? ……それは……」
言われて、考え込む。
どっちなんだろう?
あたしはずっと、死にたくない、と思って戦っていた。死ぬのは嫌だったからだ。
で、しばらくしてそうではなくなって、それからはずっと、死んでもいいや、と思っていた。どっちでも意味なかったからだ。
そういえば、生きたいとか考えたことって、ないなあ。
よく考えてみればそうだった。
ついさっきだって、こんな砂漠で復讐されて死ぬとか、意外と面白い死に方だなあとか思ったのだ。返り討ちにされていても、殺されるような状況になっても、それはそれでいいや、とか思っていた。生きていてもいいし、死んでも構わない。
それはやっぱり、積極的に死ぬんじゃないにしても、生きたいってのとは違う、よなあ。
何だか混乱してきたぞ。っていうか、そもそも……
「あたしに謎をかけて、何の意味があんの? あんた」
あたしは呆れて訊き返す。意味が解らない(元々ないのか?)。死にたいと言ったんだろう。なら、つべこべ言わずに殺されていればいいじゃあないか。
「いや、そりゃ、特に意味はないけど……いや、何て言うかさ、僕はこういう風だけど、アスカはちょっと違う気がするんだ」
「はあ? その説明で何をわかれっつーのよ」
「ごめん」
あ、久しぶりに聞いた。こいつの「ごめん」って奴。
あたしはちょっと懐かしくなって、くすっと笑った。もう見れないんだ。これ。
思いながら、あたしはもう一度引き金に人差し指をかけた。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」
引続き、あたしは痛む右足を引きずって歩いている。ここは夏のアスファルトの上、真上からの太陽に熱せられたアスファルトは容赦なく熱を放射する。目前の風景が揺らめいた。
唇から流れていた血はとうに固まった。
相変わらず考えるのは面倒だけど、それでも、あたしは考えなければならないんだろう、そろそろ。悪態ばっかりついていても、能がないから。
あたしは結局、ぶっ放すことはなかった。
どっちが先だったのかは、わからない。
何気なく、つかつかと距離を詰めたシンジが、力の入っていないあたしの腕から銃を奪い、自分のこめかみに突きつけて自分が他人を殺したときと同じようなさりげなさで引き金を引いたのと、
死んだことをしっかりとは確認していなかったあの男が、女に刺さっていたものを後ろからシンジに刺し込んだのは、
ほぼ同時だったからだ。
ただ、どちらも致命傷で、きっとシンジはどっちで絶命したって構いはしなかったのだと思う。
膝とか肘とかを変なほうに折り曲げて、まるで非常口のマークみたいな形で寝転がるあいつの顔は、やはりすっきりしていた。
なぜだろう。楽に死んだはずなのに、別に羨ましくはなかった。
あたしは膝をつき(片方が痛かったけど、そんなことは気にならなかった)、背中を抱き起こした。
「あーあ、結局自分で死んでやんの。バーカ。おまけに刺されてるし。最後まで中途半端じゃん、あんた」
この場に一人になったあたしの言葉を聞く者はもう誰もいないけれど、それでもあたしはしゃべった。
鼻先に顔を近づけてみる。まだ、温かい。けれど、息はしていない。顔に鼻息は当たらない。
シンジは死んだ。ミサトと同じに。
――そうか。
あたしはここにきてやっと、自分がしたことがどういうことかわかった。そうか、あたしはこういうことをしたのか。いや、もっとひどいことだ。こいつが自分を殺すより、ずっと。
あたしはそのまま、ほんの少し顔を近づけた。それで十分なくらいに距離は縮まっていた。
まだ硬直も始まっていない唇を、舌で無理やりに開く。もう動かない舌に自分のを絡ませる。
舌の上に血の味がにじんだ。
口を離して、あたしは数秒迷ってから、口の中に入り込んだ血を吐き出した。
うん。それでいい。多分、知らないうちにあんたを好きな時期もあったのだろうけど(そうか、だからミサトとあんたがヤッてるのを知って、イライラしたのか)、それでもやっぱり、あたしとあんたは、違う人。
「じゃ、お疲れ、シンジ」
あたしは最後の言葉を掛けて、のろのろと時間をかけて立ち上がった。時間はかかったが、このままここで死のうとかはもう思わなかった。
あたしは血を吐き出したし、それに、
夜明けの空の色はやっぱり何だかんだ言ってきれいで、つまんないとか言いながら、今目の前で死んだこの男よりは、心のどこかで新しい太陽に期待してしまう自分がいるのがわかったからだ。
たとえ1マイクログラムでも。
あたしはまだ太陽には飽き切っていない。良いことか悪いことかは知らないが、まだちょっとだけ。
だからあたしは、彼は誰の冴え冴えした空気の中、これから太陽の光を迎え、いずれまた太陽の光を送る世界にとにもかくにも出発してみることにしたのだ。
「『だって僕は』」
あたしは歩きながら、シンジが距離を詰めながら呟いた言葉を反芻していた。
「『だって僕は、死んでさっぱりしたいけど、アスカはただ、死んでもいいやって思ってるだけだろ?』」
あたしにはしたいことが何もない。ここにいる理由も、何もない。
死にたくもないし、生きたくもない。
生きててもいいし、死んでてもいい。
ここにいてもいいし、いなくてもいい。
なら、
あたしなんでこんなとこ歩いてるの?
何がしたいの?
どうしてこうなった?
そんな質問の答えなんか出なくて当たり前なのだ。無い袖は振れない(振る袖がある服なんか着たことないけど)。
でも、最後の質問には、答えが出る。
誰のせいでこうなった?
それは、あたしのせいだ。それは全部あたしのことで、あたし自身の性質なんだから。
じゃあ、どうしよう、これから? あたしのことは全部あたしのせいでしかないこの世界で、これから。
これから?
そうか、考えたことがないんだ。これから。途中で考えるのを止めていた。
あたし、今何をしてる?
何してんの?
そうか、その質問もあった。簡単。これには答えが出る。
あたしは歩いている。
理由はなかった。目的もない。でも、それはあたしのせいだ。あたしは選ぶともなく選んでいた。結局のところ、シンジはぶっ放し、あたしはぶっ放せなかった。そういう形で、選んだのだ。
じゃあ、今度はちゃんと選ぼうか。
あたしは生き残ることにした。
何を理由にして、目的にしよう?
遠くて目に見えない目的なんか嘘くさい。
気高くて崇高な理由なんか、カスだ。
あたしは顔を上げた。目の前には、真っ直ぐな道が見える。そのずっと遠くは、地平線。荒地と青空が交わっている場所がある。
――よし、あそこに決めた。
そこまで往ける?
さあ?
でも、とりあえずこれで、理由と目的ができた。
あたしは荒地と青空の隙間に在る場所を目指して歩いている。目的は、そこに辿り着くことだ。
ははは、ざまーみろ、死んだ奴ら。
あたしは笑いながら天を仰いだ。変わらず膝は痛くて、服に覆われたところは汗臭くてべたべたして、おまけに服から出てる肌なんかとっくに真っ黒のカサカサだった。けど。
雲ひとつない青い空は澄んでいて、真昼の星さえ見えそうだった。いや、見えた気がした。
「きれいねぇ」
見えてもいない星を見て、あたしは言った。掠れた言葉に渾身の感情と趣きを込めて、呼ばれた星が慌てて残りカスの光を増すぐらいの声で言った。