また朝だ。めんどい。超めんどい。ずっと寝ていられればいいのに、とか一瞬だけ思う。
でもそれもほんの一瞬だけだ。僕は起きる。戦闘服(白のワイシャツと黒のズボン)を着込み、日常(という戦場)に出陣する。
ぱんぱかぱーん(何かファンファーレの音)。
……駄目だ。たぶんまだ頭が半分寝てるんだ、僕は。
だってまだ僕は布団の……な……か……
「ぅ起きろ! 朝ごはんは!?」
がばっ。
がくがくがくがく。
ぱぁんっ!
いつも通りの過程を終えて、僕はぱっちりと目覚めていた。ほっぺたに紅葉付きで。この生活をこのまま続けていたら終いにパンチドランカーになりそうな気がするなあ。言ったらまた殴られるから、言わないけど。
――というわけで、僕はまだこの街にいる。どうして? そりゃあ、流れに身を任せていたらこうなったわけです。はい。
あの大災害の後には驚くほど何も起こっていなかった。第3新東京市は大穴になってて、ジオ・フロントが丸見えになってたり、量産機の死骸が落っこちてたりしたけれど、要するにそれだけだった。あの日僕が見た赤い海と荒地などは微塵もなく、あの悪夢のような一日のできごとはなかったかのように、誰も彼も生きていた。アスカもトウジも、それから彼の妹も、ネルフの最高級の技術が公開されたお陰で健康体へと戻った。誰も彼も熱病が醒めたようにあっけなく和解して癒され、僕はこの街の一高校生に収まった。当然、ミサトさんやアスカとも一緒だ。父さんと暮し、リツコさんを母さんと呼べるようになるのは、もうちょっと先になるだろう。
そんなふうに、全ては丸くまあるく収まった。
まるで安っぽいドラマのハッピーエンドみたいに。
昔の演劇にはデウス・エクス・マキナという機械仕掛けの神様が出てきて、色々と込み合った状況を何とかして大円談に持ち込んでくれるというとんでもないシステムがあるらしいと、世界史で古代ギリシャの文化史をやった時に習った。エウリなんとかという人が好きだった手法だそうだ。
今の状況にとてもよく似ている。
あんな世界の存亡に関わる大スペクタクルの後だというのに、僕の周りの世界は驚くほど穏やかで、その馬鹿馬鹿しい結末は僕に開き直って生きようと心に決めさせた。
というわけで、僕はちょっとだけ開き直ることにしたのだ。あの赤い海の中で見た夢と同じに。
「もう! まぁたあんたのせいで遅れるじゃないの!」
「じゃあ……はあ……先に……はあ……行けばいいじゃん」
走りながら僕らは話す。アスカは息も切らさず、僕は息も絶え絶えだ。高校生になってなおこの体力差、何とかならないものだろうか。
「んなことしたらまたあんた昼まで寝てるんでしょうが!? まったく、中学生の根暗優等生はどこいったのよこの馬鹿!」
「……馬鹿馬鹿言ったらかえって自分のほうが馬鹿に見えるよ」
「っさい!」
その言葉を合図にしてアスカは本格的に足の回転を上げ、ぐんぐん僕との差を開いていった。そして角を曲がる所で急停止。僕に向かって、べえっ、と舌を出した。ああ、まるで学園ドラマだ。
僕は夏の盛りをとっくに過ぎてもまだ強い日差しを手で遮り、ぷいと顔を背けてまた走り出したその背中を見た。
じー、じー、じー、じー、じーい。
夏の終わりに向けて少しずつ弱っていくセミの声を聴きながら、しばし考える。
アスカはあの海のことを忘れてしまったんだろうか?
訊いたことはない。訊かれたこともないし、言ったこともない。
確かめる気も、ほんとうの所はなかったりする。
今はただ、この毎日が続いていけばそれでいい。――多少の難点はあるにしても。
「――待ってよ!」
もうかなり差をつけられた僕は半ば諦めに近い気持ちでそう言って、アスカの背中を追って駆け出した。
夕方はなんだか気が惑わされる。
「おうまがどき」とか「たそがれどき」とか、昔の人はよく言ったものだ。夕暮れが近づいてきた薄明の家路をとぼとぼ歩いていると、なんだか自分はいつまでも家に帰れないのではないかという気がしてくる。
ちょっとしたやっかいごとを抱えているトウジに捉まらないよう、部活終わりのミーティングもそこそこにして帰ってきているというのに、僕ひとりがいつまでも夕暮れの街を彷徨いつづけなければならないような。
……いや、気がしてくる、ではないんだけど、実際。
この感覚に僕は覚えがある。そう、こういうときはたいてい「彼ら」がやってくるのだ。
「そろそろ……かな」
僕はふと見かけた公園の中に入った。都会の真ん中にあるエア・ポケットのような公園にはもうほとんど子供はいなかった。しぶとく残る子供たちも、お母さんやお父さんに急かされ手を引かれて僕と入れ違い、ぐずりながらも公園を後にしていった。
ばいばーい。ばいばーい。ばいばーい。
何度も何度も振り返り、ばいばいの応酬をする声。距離は離れていっているのにその間を埋めようとするようにどんどん声が大きくなっていくのも、お約束の光景だ。
自分の家に帰っていく子供たちを横目で見送ってから、僕は公園の真ん中、どこからでも確認できるようになっている時計を見上げた。長針はちょうど真上を指していた。
「もう、五時か……」
独り言を呟き、だんだん日が落ちるのが早くなってきたな、などと思いながら、僕は誰もいなくなってほんとうの真空地帯になった公園をゆっくり歩いた。木の間にいるだろうセミも、僕ひとりに聞かせる声はないのかほとんど鳴いていない。
ジャングルジムの横を通り抜け、すべり台の下をくぐり、壊れているらしいパンダの乗り物に貼ってある「キケン」とかいう張り紙を遠目に確認しながら、僕は水飲み場の隣のブランコに座った。鉄でできた鎖には小さな錆がこびりついているけれど、座り心地はそれほど悪くない。
僕はブランコに掛けて、まだ砂場にしぶとく残っている最後の子供を眺めた。
その子は、誰もいない公園で一生懸命何かを作っている。
僕は目を凝らしてその子が何を作っているのか確認しようとした。
でも実際、それはなんでもなかった。
その子が作っていたのはただの砂山だった。砂をすくって山の上にさらさらとこぼし、じょうろで少し湿らせた砂と一緒に、ぺたぺたと積み上げてさらに大きな山を作っていた。どんどん大きく、どんどん滑らかに、どんどん正しく。
でも結局のところ、それはただの砂の山でしかなかった。いくら大きくなっても、滑らかにしても、正しい形につくろっても、それは単なる無愛想な砂の山だった。僕は知っている。たったひとりでそんな物を作ってもただただ悲しくなるだけで、全然嬉しくなんかはないのだ。
そこまで考えて、僕は次にその子がすることが何か手に取るように分かることに気づいた。
たぶん、この子は――あ。
「やっぱり」
その子はすっくと立ち上がり、今まで精魂込めて作ってきたはずの砂山に蹴りを入れ始めた。どかっ、どかっ、どかっ、どかっ、ぼすっ。さめざめ泣きながら砂の山を蹴るその子の足に均衡を崩され、柔らかい音をたてながら砂の山は無残な形に崩れた。
そして、山を蹴り終わってしまったのに未練がましく元・砂の山を見る子供を見て、僕はもうひとつ気づいた。
あれ、あんなところに子供がいたっけ?
――ああ、そうか。あの、男の子は――
疑問を感じたすぐ後、本格的に遠ざかっていくセミの声と、もう一度見上げた時計の針を見て、僕は納得した。
公園を見渡す時計は、僕がこの公園に着てから時間が経過しているはずなのに、まだ五時ちょうどのままだった。公園を一番最後に出た子を見送ってから、もうかなり時間が経っている。
誰そ彼の逢う魔が刻には、誰も彼も、誰でもなくする魔と出逢う。
視線を時計から男の子に戻したとき、首筋にすうっと絡むひんやりと冷たい手を感じた。
「……可哀想だね、あの子」
耳元で覚えのある声が聴こえた。音はこんなに近いのに鼻息ひとつ当たらないのは、きっと彼がもう呼吸を止めているからだ(あるいは元々そんなものはしていなかったのかもしれない)。
僕は驚きもせずため息をつきながら、その、何を考えているのか一回聴いただけではわかりにくそうな、しかしほんとうはかなりはっきりしている無遠慮な声に答えた。
「今日は君か。――カヲル君」
彼は僕の質問には答えずに、すたすたと僕の隣に回り込み、隣のブランコに腰を下ろした。目は合わせなかったが、やけに白い肌と髪は、僕の知っている渚カヲルだった。
「ほら、泣いている」
彼は砂場で泣いている僕を指差した。
それは僕、ずっとずっと昔、ひとりだけ迎えに来てもらえなかった子供の僕だった。
「ずいぶん陰湿だよね、大昔の記憶を引っ張り出すなんて」
僕は泣き続けている昔の自分を無視して言った。構うことはない、あれは彼が作り出した幻影だ。――彼自体、僕の作り出している幻影かもしれないけど。
「悪いね。僕もシェアの獲得に大忙しなんだ」
「何? シェアって」
「そういう込み入った質問は傀儡の僕じゃなくて、彼女のときにしてくれると嬉しいんだけど、駄目かな?」
僕は少しブランコを揺らして、もう一度ため息をついた。まだ僕は無残に顔をくしゃくしゃにして泣き続けている。そして、自分の他には誰もいない公園で、ゆっくりと、地団太を踏み始める。
「そうするよ。正直、『次』はごめんだけど」
「大丈夫、僕たちはいつでも現れるよ」
「心の底から嬉しくないよ、カヲル君」
「それはどうも」
彼は慇懃無礼な口調で羽根のように軽く言い放ち、ふわりと立ち上がった。ベンチが軋む音ひとつしなかった。
「今日は質問をしに来たんだ」と彼は言った。
「知ってる」と僕は答えた。
「内容は?」と彼は訊いた。
「知ってる」と僕は答えた。
「答えは?」と彼は訊いた。
「ことわる」と僕は答えた。
ふう、と彼は芝居がかったため息をついた。いつものことだった。
いつだって彼らは同じことを訊いて、
いつだって僕は同じようにことわる。
今日も同じだった。もう内容も熟知している。
彼と彼女はいつも、ことあるごとに僕の前に現れて、あることを訊く。彼だけだったり、彼女だけだったり、両方だったりすることもある。でも、いつでも質問は同じだ。
その内容は、
「人間、辞めませんか?」
今の僕の言葉で言えばそういうことになる。彼ら風に言えば、
「僕と(私と)ひとつにならない?」
となる。
当然、嫌だ。
だからその度に僕は断り、彼らはその度しぶしぶ引き下がっては、何回でも諦めずに現れる。心が独りでいることに疲れそうになったいかなるとき、いかなる場所にでも、彼らは現れる。寒波に耳が痛い冬の夜道、足がずぶ濡れになった春雨の中、枯れ葉に滑って転んだ秋の校庭、そして今日みたいに他人の人間関係に辟易した夏の終わりの逢う魔が刻、誰もいない公園なんかに。
一度彼らに訊いたことがある。彼らは何なのか? 彼らはどんな可能性であり、どういう理由で僕の前に現れるのか?
その質問に彼女は人間だったときと同じように簡潔に答え、彼は人間と思わせたときと同じように柔らかく続けた。
「絶望なのよ。人と人は、決して互いにわかりあえない、ということの」
「『寂しい』という、言葉と共にね」
その言葉には聴き覚えがあった。似たような言葉を僕はあの橙の海の中で聴いた。
あのとき、彼と彼女はこう言っていた。
「希望なのよ。人は、互いにわかりあえるかもしれない、ということの」
「『好きだ』という、言葉と共にね」
それで僕は理解した。彼らはきっと、あの時に現れた彼らの「裏」なのだ、と。だとすれば、僕は彼らからは逃げられない。いつも彼らに心を捉えられないように闘い続けなければならないのだろう。
そして、今日も彼は僕に訊く。
「僕と、ひとつにならないかい?」
「さっきも言ったけど、質問を訊くまでもなく断るよ」
「どうして?」
彼はぐいと顔を僕に近づけて訊いた。この彼はあの橙の海の彼とはまるで違う。どこまでも執拗にいやらしく、僕を追及する。
僕はきれいなのに凄惨に見える彼の表情に汗が引いてしまって、寒気がしたら涼しくなったな、とか間抜けなことを考えながら言った。
「だって、僕は女の子が好きなんだよ、一応」
「はぐらかさないで欲しいなぁ、シンジ君」
あくまでも彼は笑いを絶やさない。笑いを絶やさないまま、彼はゆっくり、ブランコを揺らし始めた。
「僕が言っているのはそういうことじゃない。わかるはずだよ?」
キイ、キイ。ちょっと嫌な音を出しながら、ブランコは揺れる。
「ひとつになるというのは、あのL.C.L.の海に、原初の海に戻るということさ」
かつて僕だった男の子は、まだ泣いている。もう砂の山は踏み荒らされて、砂場の他の場所と区別ができなくなっていた。
「それはどこまでも自分で、どこにも自分はいない世界」
彼は足を上げ、しゃがんだ恰好になってさらにブランコを揺らす。
「……それで、相手も自分もなくなって、曖昧なまま溶けてしまうんだろ?」
ちょっと乱暴な言い方になってしまう。いけない。向こうのペースに嵌ったら最後だ。
「そうだね」
彼はあっさりと認めた。立ち漕ぎになってさらにブランコは揺れる。地に足をつけて座ったままいる僕の隣で、彼はどんどん勢いを強めた。彼がぐっと足を蹴りだすのに呼応して、彼の身体がほぼ真上に向くまでブランコは揺れあがる。ギイイ、ギイイ。無茶な漕ぎ方に、所詮は子供用のブランコが悲鳴を上げる。
僕は黙って彼を無視して、泣き続ける男の子――昔の自分を見ていた。この公園では、あの終わらない夏と同じようにずっと時計が五時ちょうどを刻み続けている。
やがて、彼は漕ぐペースをゆるやかに緩めた。そしてブランコが前に揺れる反動を利用して、ぽーん、と跳んだ。
そしてすとっ、とまるで体操選手のように華麗に着地して、彼は男の子に歩き寄った。
「……でも、この子のように泣き続けることはないんだ。あの世界には、裏切られる悲しみも、わかりあえない苦しみもない」
彼は半ズボンの僕の頭を撫でる。小さな男の子の僕は自分を撫でてくれる手のひらの主を見つめて、救われたみたいに笑った。
「……止めなよ」
「なぜ?」
「君じゃ、その子は救えない」
そうだ、救えるはずがない。「絶望」なんかに。
でも彼は、くるりと首だけ回して、僕に訊ねた。彼がいつもの質問以外の質問を口にするのは、初めてだった。
「なら、君なら救えるのかい? それとも、他の誰かが救ってくれるのかな?」
僕は言葉に詰まった。確かに、誰もあのとき僕を救ってはくれなかった。僕には、あのときの僕を救うことはできない。
でも、それは――
「運が、悪かっただけさ」
僕は思いつくままそう言った。そう考えておきたい。
「そうかい?」
不用意な僕の発言に彼はあくまでも食い下がった。
「ほんとうに、そうかな? それは運の問題かい? シンジ君、僕に誤魔化しは効かないよ。君は、人間というものがそもそもそういうふうにできているんだ、と知っているんじゃないのかい?」
それはもはや、僕の知る渚カヲルの口調からは外れていた。それはそうだ。きっと彼は渚カヲルじゃない。あくまでも彼の姿をとった、僕の中にある絶望のかたちだ。そしてそれが言うことは、確かに僕の考えていることでもあるのだろう。
だからだろう。自分に嘘はつけない。
そうかもしれない。とふと思った。
あ、ヤバい。これは向こうのペースだ。
彼は僕の変化を見逃さなかった。もう興味もないように男の子から注意を外した彼は、僕のほうを向いた。
「ほら、そこを見てごらんよ」
彼は不意に、さっきまで男の子を撫でていた指で僕を通り越したその後ろ、公園の外を指差した。
僕が振り向くと、そこには僕の知っている男の子と女の子がいた。茶髪に学生服姿の不良っぽい男子が、真面目そうなセミロングの髪の女の子を追いかけている――姿が、その途中で静止していた。空中に静止する学生鞄、持ち上がったままのつややかで長い髪。
「トウジと……洞木?」
僕は二人の名前を呼んだ。先週の初めから喧嘩をしていて、ずっと口をきいていない二人だった。普段は周囲が首を傾げるほどめちゃくちゃに仲がいいのに、ふとしたことからこんな風に擦れ違って、別れ話まで飛び出したりする。そして僕は彼氏に相談を(素直に謝れば済むことなのに)持ちかけられ、かといって謝れと言っても聴かないので、ここ数日はもっぱら逃げて過ごしていた。
そんな二人は今、見るからに修羅場だ。かたや洞木は少し赤くなってつんとした表情で歩き、彼のことなど歯牙にも掛けない雰囲気にも見える。かたやトウジはやる気満々で、彼女の何倍も真っ赤になって走っていた。
後数秒で追いつく。そんな瞬間だった。
「あんなに好き同士なのに、こんな風に喧嘩をして、傷つけあうんだよ」
人間は、と言外に述べて、彼は続けた。
「彼らだけじゃない。どんなに愛し合った人々でも、いつかどこかで裏切り、疑い、嫉妬し、怒り、恨む。L.C.L.の外では、みんな相手のことがわからないからさ。AT-フィールドが全ての人々を引き離した世界では、わかりあうことなんてできやしない。君はわかっているんだろう?」
「それは――」
そうなんだ。わかってる。こんなときによくわかる。ほんとうの、ほんとうの意味では、僕たちはみんなひとりなんだ。あの孤独な砂場で、僕は気づいてしまったのだ。あれは運が悪かったのさ、なんて、気休めみたいなことを考えたのも半ばそれを意識したくなかっただけなんだろう。違う。運が悪くても、悪くなくても、周りに人がいてもいなくても。
僕たちはいつもひとりだ。
まあ、あまり運が良くない子供だったのは事実だと思う。
そのせいで、普通なら気づかないうちにサクッと乗り越えてしまうことに気づいてしまって、きっちりそれに引っかかる羽目になってしまったんだから。
僕と彼の会話が続くうちに、男の子の泣く声はますます大きくなった。周りの注意を引くように強く泣く。僕にはその意味がわかるような気がした。遊ぼうよ。僕と、遊ぼうよ。僕を見てよ。僕を、僕を、僕を、僕を、僕を僕を僕をぼくをぼくを。
――ひとりにしないで。
彼は視線を男の子に戻し、優しいふりをしてまた頭を撫でた。あれだけ泣いていたのにひどく簡単に泣き止んで、男の子はしゃくりあげて笑った。
とたん、にゅるっ、と水が滴るように男の子の姿が歪み、また元に戻った。
「おっと。子供は素直だね。誘ってもいないのに、僕とひとつになろうとしているよ」
そのとき、男の子は初めて僕のほうを向いた。少しの間だけ、伏せていた顔が上がる。その据えたような目は全然子供らしくなかった。
そんな恨めしそうな目をするなよ。駄目なものは、駄目なんだ。そんな絶望を抱えてうじうじしていても、何にもなりはしないんだ。いつかは受け入れて、前に進まなきゃいけない。
「……わかっているさ」
言い切った僕に、彼、いや、僕の影のかたちは怯んだ。
「だったら」
「でも、それでも。僕はもう一度逢いたいと思うし、思い続けるよ。もう高校生なんだからさ」
僕は後ろを振り向いた。洞木とトウジ。もし彼らが次の瞬間に別れることになったとしても、他になんの意味もない、ただの「別れないこと」など、二人の世界とこれからをすべて手放してまで守るものじゃない。
確かに、僕は割と不幸な子供だった。幼い子供が気づかなくてよかった絶望に気づいて、今でも引きずっている。
でも、だからって。
赤ん坊みたいな、相手も自分もない、なんていう極端なところにまで還って、何かもかもなかったことにして、目を背けてしまうわけにはいかない。
それはいつかは乗り越えなければならないことなのだから。
彼が誘う世界は相手も自分もない世界。
わたしはあなた、あなたはわたし。
薄い肌ひとつ隔てずなにもかもひとつ。
そんなのは「わかりあう」などとは言わない。
それはやたら楽だけど、わかりあえたと感じることができたときの喜びはどこにもない。
僕の立ちたい世界は、わかりあえない絶望があるけど、わかりあえるかもしれない希望もある、この世界だ。
もう一度あのころの僕を、そしてその隣に立つ僕の影を見た。
僕の影は訊いた。
「この子が泣き続けることになっても?」
「構わない」
そう言ってから、付け足した。
「それにね。今の僕は、壊れてないだけのつるつるの山より、壊した後の山のほうが好きだよ」
挫折してめげて、それを抱えてもう一度立ち上がってこそ、恰好いい男になれる。……加持さんの言葉の受け売りだけど。
「……そう」
ずっと黙っていた男の子が声を出した。僕はもう一度、その男の子の目を見た。
その瞳は、赤かった。もう顔も、女の子のそれへと変わっていた。よく見ると服も違う。そこにいたのは昔の僕ではなく、赤いスカートを着た蒼い髪の、可愛らしい女の子だった。
彼女は、くい、くい、と隣にいる彼のズボンを引いた。
「今回は無理ね。引き下がりましょう?」
彼は肩をすくめると、負けたというのに微笑みながら言った。
「やれやれ。今回も僕たちの負けか。……でも、覚えておいでよ。僕は、僕たちは」
僕がその後を続けた。いつもの逃げ口上だ。
「いつだって現れる――でしょ?」
「そう。すべての孤独、すべての痛み、すべての傷――すべての絶望から、僕たちはやってくる」
「あなたが痛みを感じたときはいつでも、私たちはあなたのすぐそばにいる」
夕暮れの光が彼らの白い頬を染めた。その姿はあの橙の海の彼らのようだった。それにしても、いつもながらこの言葉は……
「なんだか、挑戦されているんだか励まされてるんだかわかんないな」
僕が言うと、彼と彼女は顔を見合わせ、ふふふ、と静かに笑った。
キイイ……
さっきまで気づかなかったブランコの音が、耳鳴りのように遠くから聞こえた。
キイイ……キイイ……
規則的な音は、もう鳴り止むことがないみたいに、夕暮れの公園に響く。
ゆっくりと大きくなってゆくその音は、次第に僕の頭から彼らの姿をかき消してゆく。
キイイ……キイイ…キイイ……
彼が消え、彼女が消え――僕の目の前にはまた、あの男の子が現れた。
誰もいない砂場に、あの日の僕はぽつんと立ちすくんでいた。
キイイ……キイイ……キイイ……キイイ……
僕は立ち上がって、男の子に近づいた。
男の子は下を向いたまま、顔を上げようとしない。ああ、きっと彼は気づいてしまったんだろう。僕と同じに。
キイイ……キイイ……キイイ……キイイ……キイイ……
僕はしゃがんで、下から男の子の顔を見上げた。まだ、泣いていた。
頭を撫でてあげたかった。でも、この世界の宿命に気づいて泣いている男の子を簡単になぐさめることは、僕にはできない。もう今の僕とこの子は違う人間で、ぶっちゃけ僕にはこの子のことなんかわからない。今の自分が持ってる昔の記憶をそのまま当てはめてこの子をわかったふりをするのも、なんか違う気がする。
キイイ……キイイ……キイイ……キイイ……キイイ……キイイ……
――でもま、いっか。そういうものだ。知ったか知ったか。他の人よりは、わかったふりもうまくできるはずだ。
僕はやっと顔を上げた男の子の目を覗き込んで、満面の笑みで笑ってやった。
大丈夫。世界はこういう風にできているけど、それなりに楽しいこともあるんだよ。たぶんね。
「シンジ?」
自分の名前を呼ぶ声に、僕ははたと我に帰った。足元を見るとそこは砂、僕は砂場の真ん中に突っ立っていた。
僕は時計を見た。五時五分。
「……あ?」
自体が良く飲み込めなくてそう言うしかない僕に、アスカは呆れ顔で言った。
「馬鹿みたいに大口開けて、あ、じゃないわよ。何やってんの?」
僕はしばし考えた。でも、記憶がおぼろげであまりよく思い出せない。
きっと「彼ら」だったんだろう。
「……ごめん、ぼーっとしてた」
「いつも通りってわけね」
そりゃないよ、と心の中でため息をつきながら、今度は僕が質問した。
「アスカこそこんなとこで何してるの? 今日は午後から大学だったんでしょ。方向、逆じゃない?」
僕が訊くと、アスカはちょっと肩をすくめて見せてから、どこか指差した。
「そーなんだけどさ。……アレ、見なさいよ」
「ん?」
僕はアスカの指差すほうを見た。
「あー……」
彼女が指差すほうにいたのはトウジと洞木だった。喧嘩をしていたはずの二人はまんざらでもないようすでベンチに座っていた。転んだんだろう、半そでの肘がすりむけちょっと血も出ているらしいトウジを、洞木が心配そうな顔で手当てしている。
僕はアスカの真似をして、肩をすくめて見せた。
「ずっと仲悪かったのに、元鞘に収まってるね。どうしたの?」
アスカはうんざりしたような顔で言った。
「その質問を待ってたのよシンジ。あたし、ヒカリに相談乗ってって言われたもんで、ゼミが終わってから学校まで戻ったのよ」
「ご苦労様だね」
「まあね。でさ、そこに鈴原が来ちゃって、あたしに愚痴言って盛り上がってたヒカリが怒って帰っちゃったわけ」
「わあ……ド修羅だね」
「でしょ? それで、あの馬鹿偽茶髪が追っかけるもんだから、あたしも追っかける羽目になったんだけど……それが、ああよ」
アスカはしゃくった顎でお熱い二人を示してから、大げさにため息をついた。トウジは頭をかきながら何やらごにょごにょしゃべっていて、その言葉に洞木は何だか涙目でうんうんうなづいていた。
一件落着の図だった。
「まったく、自己解決すんなら勝手にやっといて欲しいわよね。見てらんないっての」
「それで、あの空気にアテられてこっちへ逃げてきたってわけ?」
「そゆこと。どっか逃げ場所がないもんかしらって見回してたら、あんた見かけたからね」
「それは光栄」
「加持さんのマネなんかして恰好つけても、似合わないわよ」
「そっかな?」
「そーよ。……ま、それはいーわ。いい? とりあえずあのでっかいオブジェの影に潜伏、バカップルの帰宅を見計らって、帰るわよ」
アスカが示すほうには、子供が中に入ったり上に上ったりして遊ぶドーム型の遊具があった。あれ、何て言うんだろう?
まあいいや、僕もいまあの二人に見つかるのはごめんだ。
僕は大げさに敬礼した。
「了解、惣流大尉」
冗談めかして言った言葉に、アスカはちっちっち、と舌打ちしながら人差し指を揺らして訂正した。
「ぶぁーか。どうせ言うなら大佐くらい言いなさいよ。それじゃミサトに負けてんじゃないの」
大雑把に見えて細かいよなあ、まったく。
「……ん?」
目を開けると、周りは暗かった。あれ? 僕は自分の今の状況を確認した。暗くて狭い空間、壁際に座っている僕。首筋に触れると、寝汗で少しべたついていた。
それから記憶を辿って、ああ、そうか、と僕は納得した。アスカとあのオブジェの中に入って無駄話をして、それからの記憶がすっぽり抜け落ちている。いつの間にか、僕は寝入っていたのだ。
入ったときは出入り口から光が入って明るかった穴倉はもう暗くなっている。
ふと、肩に重みを感じた僕は隣を見た。そこには明るい色の見慣れた髪があった。僕の隣に腰を下ろしているアスカは頭を僕の肩に預け、小さく寝息を立てていた。
……こうやってると、可愛いんだけどな。
そんなことを考えながらも、僕は困っていた。もうちょっとこうしていたいのは山々だけれど、これ以上放っておいて真っ暗になったら、あることないこと言われてどやされるのは目に見えている。
もっとも、今起こしたところでどやされるのは同じだけど。
まあ、傷は浅いほうがいいよね。彼女より後に起きなかっただけでも、よしとしよう。
僕はそうっと肩をずらした。半分は僕の肩、半分は壁に重みを預けていたアスカの頭はゆっくりとずり落ち、こて、と僕の腿のあたりに落っこちた。
あ。
予想とは違う動きに、僕は思わず固まった。壁に立てかかって寝た状態にしておいてから起こそうと思ったのに。
僕は振動が伝わって彼女を不用意に起こさないように、小さくため息をついた。
見下ろすと、さっきは見えなかった顔が見えた。半分は髪に隠れて見えないけれど、やや小さい唇や整った目鼻はばっちり見える。薄暗がりの中でも、いや、だからこそ健全な男子高校生の目は最強レベルで働く。
思わず、生唾を飲みそうになった。
困ったな。
さっきのはさっきでまずいけど、これはこれでまずい。この状態で起こしたらさっき以上に間違いなく殴られる。まったく、何であんなことをやらかした僕に対して、こんな風に無防備になれるんだろう。
もぞ、とアスカが少し動いた。柔らかくて触り心地の良さそうな髪が揺れる。
僕は思わず、手を彼女の額に――
「何、やってんの?」
穴倉にぼそっと声が響いた。壁に反響して変な感じになっていたが、それは確かにアスカの声だった。
「は、はいい!?」
僕は香港映画に出てくるヒーローばりの勢いで声を上げた。見下ろすと、アスカの目はぱっちりと開き、からかうような顔で僕を見上げている。
「お、起きてたの?」
「今起きたのよ」
嘘つけよ。今何のためらいもなく一瞬で目開いたくせに。
「何か文句ある?」
「……ありません」
僕が答えると、アスカは予想外な冷静さで、僕の腿に頭を預けたまま言った。
「寝ちゃってたみたいね」
「僕もだよ」
はあっ、とアスカはため息をついた。壁はため息の音まで反響させる。
「ほんと役に立たないわね、あんた」
「自分だって寝てたくせによく言うよ」
「そのあたしが寝てる間に自分の都合のいいように位置を変えて、頭まで撫でようとしてた変態さんはドコのダレだっけ?」
「やっぱり起きてたんじゃないか」
「細かいことを気にすんじゃないの」
僕の反論をばっさり斬り捨てると、アスカは反動をつけて身体を起こした。殴られないところを見ると、どうやらそれほど怒ってはいないらしい。虫の居所が悪くなくて良かった。
でも念のため、アスカが伸びをし終わるまで待って、僕は彼女に話しかけた。
「もう、大丈夫かな?」
「さあね……あ、ちょいまち、メール着てる」
アスカは小さなストラップがついた携帯電話を確認して、妙な表情で黙りこくった。
「どうしたの?」
ディスプレイから目を背け、しばらく何にも話さなかったアスカに訊ねると、彼女は無言で僕にディスプレイを見せた。
う、うわあ……
その画面に映る文面を見たとたん、僕はケーキをホールで一気食いしたような気分になった。
「よく、耐えられるね」
「……これはさすがに……あたしもキたわ……」
内容はもうきれいさっぱり忘れることにするが、とにかく彼らはもう家に帰ったらしい。僕たちは暗い穴倉からもぞもぞと這い出た(途中「エロい目で見んじゃないわよスケベ」と言われて軽く顔を蹴られた)。
僕らが這い出たときの空は、西の端に薄黄色が残っていたが、かなりの部分が群青色に染まっていた。
「んがー! 肩凝った! うっわ、めちゃくちゃ時間経ってんじゃないの」
アスカは時計を横目で確認しつつ、腕をぐるぐる回して言った。鞄は僕が持っている。
「そうだね……さすがにあの狭いところに長時間いれば」
「あんたみたいなのと二人ってのも、何だかねえ」
そんな風に言われると、ちょっと残念かもしれない。そう思って、何か言い返そうとしたときだった。
アスカが、何もない場所を見つめて固まった。
「どうしたの?」
肩を叩いてそう訊いてみるけれど、返事をしない。何か呟いているようにも見えるけれど、声は聞こえない。
「……アスカ?」
もう一度声を掛けて、僕はぎょっとした。
アスカは静かに泣いていた。目から一筋、つうっと涙が落ちる。なんだ、僕は何か気に障ることでも言ったのか? いや、でも、そもそも僕は何も言ってないし……
僕が悩んでいるうちに、アスカは憑き物が落ちたようにはっとして公園の時計を見て、それから僕のほうを向いた。
僕はずっと隣にいたのに、アスカは久しぶりに逢ったような目で僕を見た。
そして、思いなおすように言った。
「なんてね、嘘よ。……さ、行くよ、シンジ」
僕は何も言えずに(鞄くらい自分で持てよ、とも言えずに)歩き出す彼女の後ろに続いた。
無言のまま、僕たちは家路を歩いた。まだあまり高くない空に、ここからは見えない遠くの太陽の光を辛うじて受けている雲がまばらに浮かんでいた。これからしばらくすれば、この空もぐんと高くなるのだろう。
とん。
先を歩いていたアスカが立ち止まった。突然のことに対応できなかった僕は、軽くその背中にぶつかった。
「どうしたの?」
また何かあったのだろうかと思いながら、さっきと同じように僕は訊いた。
「……水たまり」
アスカは後ろを振り向いて言った。僕が身を乗り出して見ると、確かにそこには水たまりがあった。
雨でもないのに、と思ったが、すぐにその答えはわかった。その水たまりは少し黄みがかっていて、鈍い色で光を反射していた。きっと、油か何かが混ざった水を零したのを処理しきれずに放っていったのだろう。水たまりの淵には、古着のような布までが落ちていた。
「あー、ほんとだ」
僕はそう言って。水たまりを跨ごうとした。しかし、すんでのところで、アスカに引き止められた。
「興が削がれたわ。こっちから帰るわよ、シンジ」
何だよそれ。たまにアスカはこういう、ヘンに古風な言葉を使う。でも、さっきの負い目がある僕は、有無を言わせぬその口調におとなしく従った。アスカの気分屋は今に始まったことじゃないし、ここの角を曲がってもちゃんと帰れる。
ほら、と促されるままに、僕は二人分の鞄を持って歩き出した。
ここの道を行けば、確か商店街の近くに出るはずだ。しめた。それなら帰りがけに夕飯の買い物もしていける。なんだ、興が削がれた、とか言ってるけど、夕飯の心配をしているだけだったのか――あれ?
ふと気づくと、隣にアスカがいない。
僕は左右をきょろきょろ見回してから、後ろを振り返った。
僕の少し後ろに、アスカはいた。アスカは、立ち止まってさっきの水たまりを振り返っていた。
「――――」
アスカが何か口走っているのがわかったが、声が小さすぎて、何を言っているのかまでは聞き取ることができなかった。
ただ、その悲しげな目だけが、さっきの泣き顔を思い出させた。
なんだか僕はたまらなくなって、鞄を置いてアスカに走り寄った。
僕のほうを見たアスカは、ぐす、と小さく鼻をすすって、下を向いた。その姿は、さっきの公園で見た――なんだろう。何か思い出せそうな気がしたが、思い出せなかった。
まあいい。今大事なのは、アスカだ。
「大丈夫?」
「大丈夫、じゃ、ないかも」
途切れ途切れに言って、少しだけアスカは泣いた。
僕は何もできないで、ただそばに立って、彼女の肩に手を置いていた。
やがて、アスカは泣き止み、ばつの悪そうな顔をして口をへの字に曲げた。
「バカシンジに泣き顔見せるなんて、一生の不覚ね、あたしも」
目を拭うアスカに、僕は何も言えなかった。何を言っても、彼女の悲しい気持ちにまでは届かない気がした。いつもと同じ、僕はひとりで、誰にも何も、できないのだ。
――ほんとうに、そうか?
できることは、ないのか?
そう考えて……僕は自然と、アスカの手を取っていた。
「……あ?」
アスカはきょとんとした顔で僕を見て、僕も自分が何をやったのかいまいち把握できていなかった。
何やってんだ、僕は?
僕は慌ててアスカの手を放した。アスカはまたきょとんとして、それから怪訝な表情で僕を見た。
「何? 今の」
「さあ……僕にもさっぱり……」
「……手、つなぎたいの?」
僕の間抜けな回答にまばたきをして、アスカは静かにそう言った。冷静に訊かれてしまうと、僕も考え込んでしまった。
「……そうかも、しれない」
「あたしをなぐさめるつもり?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど」
口ごもってしまう。そういうわけではないのだ。僕が君の悲しみを何とかしたい、なんて恥ずかしくて大それたことを考えているんじゃなくて、ただ……
僕が考え込んでいると、アスカはふっと笑った。そしてその左手で、僕の右手をしっかりと握った。
「いーわよ、手くらい」
「え? あ、でも」
「何? つなぎたくないの?」
その目が剣呑な光を帯びてきたので(それに、断わる理由なんか何にもないので)僕はぷるぷると首を振った。
「よろしい」
そう言って、やっと、アスカはにっこり笑った。そしてつないだ手をぶんぶん振りながら、また歩き出した。
――ああ、そっか。けっこう、簡単なんだ。
次に「彼ら」に逢ったときには、今まで答えたはずのこととはまた違った答えを返せるかもしれない、と僕は思った。
手なんかつないでも、相手の感じていることを、そのままわかるわけじゃないけど。
でも、それでもきっと、伝わることは、感じられることは、あるんだ。
「ねえ」
もう家に近くなったところで、アスカは言った。僕は片手に持ったビニール袋を持ち直してから、訊き返した。
「何?」
「あのさ……あたし、何にも覚えてないから、あのときのこと」
言って、アスカはきゅっと手を握る力を強くした。僕は彼女が何を言いたいのか、わかるような気がした。さっきの涙の意味も。
「……うん。僕も、何にも覚えてない」
だから、僕は嘘に嘘で答えてアスカの手を握り返す。彼女の手は、柔らかかった。
かなかなかなかな。かなかなかなかな。
もう僕たちは家のある郊外に近づいてきていた。道の向こう、木立になっている場所からその音は聞こえていた。
かなかなかなかな。かなかなかなかな。
アスカはつないだ手を放して、音のするほうを指さした。
「ねえ、あれって何の虫? あれもセミ?」
かつての四季のある日本を知らない彼女の質問に、辛うじて四季の知識だけはある僕が答える。
「ああ、あれは確か、ヒグラシっていうやつだよ。生態系が戻ってるから今年は鈴虫の音も聞こえるかもって……母さんが、言ってた」
「そっか」
短い会話を交わして、僕たちはまた手をつないで、家までの道をゆっくりと歩く。
かなかなかなかな。かなかなかなかな。
少し涼しくなってきた風に乗って、ヒグラシの声が蒼さを増していく紺青の空に響いた。日が暮れる。夏が終わる。