- The rest stories of "Project Eva " #21 -

"船頭の多い船に乗れば"

1

シンジは一分後、あの時手を放したことを少しだけ後悔した。

しかし、この世界――まるで、いつか図鑑で見た「太古の地球」みたいな世界に目覚めて、そこに自分と、自分との相性最悪の女の子のただ二人しかいなかったら、例え自分ではなくてもついついその子の首に手を伸ばしてしまうのではないだろうか? たとえそれが、一応は自分で選んだものであっても。他にも色々と理由はつくのかも知れないけれど、要するにそういうことだ。少なくとも「もう僕と君しかいない。僕らが新しい人類のアダムとイブだよ」とか、「愛してる」とか、そんな歯が浮いてどこかへ飛び出してしまいそうなことを言うよりは、普通じゃないだろうか。

まあ、そんなこと言える筋合いじゃないんだけれど。

そんなことを、隣にいた女の子――アスカの首から手を放してしまってからきっかり一分後に、彼女にその足で思いっきり蹴っ飛ばされながら、考えていた。

2

あの男――シンジの腹を思いっきり蹴っ飛ばしたとき、アスカは物凄く後悔していた。

何をって、自分の首を絞められているのに何だか優しい気持ちになってしまってシンジの頬を撫でてしまったことをだ。だから何を思ったかシンジがついさっきまできっちり殺す勢いで締めていた手を緩めた後、はっとそのことに気付いて「気持ち悪い」と言ったとき、その言葉の半分くらいは自分に向いていた。

そして「あたしって、まるでマゾみたいじゃないか」と心の中で悪態をつきながら、自分の腹の上で突っ伏して泣いているシンジを、アスカは思いっきり蹴り飛ばして、ぼこぼこにしてやったのだった。


「ッがぁ!……げ」

などと珍妙な声を出してのた打ち回り、真っ白だった砂浜に歯を二、三本落としているシンジを他所に、アスカは周りを眺めた。

ここはどこだ。

少なくとも、あたしの知っている地球ではない。あたしが知っている地球は、空が青くて、海も青い星だったはずだ。それがどうだ、ここは空がまっ黒いのはともかく、海が何だか変な色をしている。後……その他にも何だか凄いものがあるような気もするけれど、取りあえずは見なかったことにしよう。かつて、原始地球が確かこんな感じだったはずだけれど、それにしては硫化水素なんかではなくちゃんと呼吸できる大気があるのが変だ。身体の重さは普通、ということは別の星でもない。以上を総合すると、ここは「あたしの知らない地球」ということか? 周りはあまりにも変な状況なのに冷静に分析している自分が一番変な気もするが、アスカはそんな風に分析した。

とはいえ、やっぱり途中で脱落した者にはそれくらいしか分からない。仕方ないな、と小さく呟きながら、アスカはまだしぶとく転げ回る男に声をかけた。

「ねえ、シンジ?」

名前を呼んでみると、随分久しぶりのような気がする。確か、彼と最後に話したのは、ミサト……彼女と彼の保護者役をしていた人の家で、盛大に喧嘩をして以来だった。どことなく、懐かしい感じもしないではない。

もちろん、呼ばれたシンジにとっても、その響きは懐かしかった。目下折れた歯を眺めることに忙しくても、その感覚はあった。ぶっ飛ばされた痛みではなく、涙が出た。

「……ぺっ。なに?」

シンジは口に溜まった血を吐いてから、答えた。別に彼女とやり合うつもりはない。自分が悪いのは確かだったからだ。

アスカはとりあえず、シンジが恨めしそうに眺めている、彼の歯だったものを指差しながら言った。

「それで許したげるから、感謝なさい」

「……うん。ありがとう」

アスカは予想されていたその言葉に、予想通りのため息をつき、予想通りの答えを返そうとした。しかし、その言葉は予想外に途切れることになった。

「……飼いならされた男って……」

アスカがそこまで言ったところで、シンジが口を開いた。

「サイテー? まあいいよ、これ以上、落ちようないし」

その予想外の言葉と、これまた予想外にさっぱりした表情とに少し驚いたアスカが、やや目を丸くして言った。

「……あんた、ちょっと変わった?」

「どうかな? アスカも、変わった?」

シンジも言い返してみる。アスカの言葉には、それまで彼女から痛いほど発していた相手を潰してやるというむき出しの敵意が消えていたからだ。

「……一度死ねばね。一遍頭蓋骨貫かれてみなさいよ、死ぬほど痛いわよ」

しかしシンジはこともなげに答えた。

「僕もやられたよ、一番最初。……いきなり呼ばれてガツンだよ。……死ねるね、アレは」

「……そりゃ……ヘビーね……」

考えてみれば、こいつとこんなに普通に話したの、はじめてじゃないかしら、とアスカは思った。普通の相手の話に相槌を打ち、自分の話をする。まあ内容が普通じゃないのはご愛嬌としても、別に主張をぶつけるでも、何かを誇示するでもない会話をするというのは、初めてのような気がした。。

同居していた人間とこんな会話をしていないとは。とアスカは自分のしたことにも関わらず呆れた。普段の会話で200kmの剛速球を投げ合っていれば、そりゃあ疲れるわけである。あたし、この半年何やってたんだろう。そうアスカは思い、自分や、その隣で未だ口を押さえ続けている男の馬鹿さ加減に盛大にため息をついた。

ため息と共に、少し、分かり始めてきた。そうだ、多分ここは、今は……

「ここ、サードインパクトの後?」

「……うん」

隣にいるシンジが相槌を打った。

「そっか。結局、起こっちゃったのね。……で? 何であたしとあんたが、ここにいるわけ?」

「……他人が、いて欲しかったから……かな」

「……!」

そのあまりにも自分勝手な言葉を聞いてムカっ腹が立ったアスカは、シンジの胸倉を掴みあげようとした。しかし、そのやせ細った腕はシンジを持ち上げることももはやできなかった。よく見れば、さっき渾身の力で蹴ったはずのシンジの顔にもそれほどの怪我はなかった。この調子なら、避けることも恐らくできたはずだ。

……同情された。そう感じると共に、アスカは腹の底からさっきまで収まっていた暗い怒りまでがまた湧き出してくるのを感じていた。精一杯ドスを効かせた声でアスカはささやいた。

「同情? それとも、慰みものってことなの? あんたの」

胸倉を掴んだ手をゆっくりと解きながら、シンジは言った。こちらは対照的に、穏やかな表情だった。シンジは慎重に言葉を選んで、ゆっくりと話した。

「違う……と思う。やりたい、とか、そういうんじゃ、ないんだ」

その口調が余りにも穏やかなことが、かえってアスカを傷つけた。やりたいって言うのなら、まだ納得もできたのに。さっきと同じように解かれた手をシンジの頬に伝いながら、アスカは言った。最後に見た時より少し長くなった黒髪が手に触れる。今回は、アスカはシンジをぶっ飛ばさなかった。

「じゃあ、何で、あたしをここに連れてきたのよ? こんな……こんな、場所に」

行き所を失ったアスカの怒りは、ぐるぐると頭の中を回りながら悲しみと哀れみの混じったぐちゃぐちゃの気持ちへと変わっていた。どこにも救いがなかった。目の前のこの男には、彼女を救う気もなければ、敵対する気もないらしい。何もする気がない。悪意すらない。あたしは無視されている。そんな風に考えると、頼むからさっきの続きをしてくれという気持ちにすらなった。

「……ごめん」

シンジは本気で謝った。初めて本気で謝ったかも知れない、と自分で思う。今までのどの「ごめん」よりも真摯にシンジは謝った。確かに、この世界に呼び出すということはとんでもなく悪いことだろうと思う。彼女が怒るのも無理はない。

しかし、シンジの言葉に「ごめんじゃ、すまないわよ」と答えたアスカの声は、涙声だった。シンジは、その言葉に何も言い返すことなどできなかった。

それきり言葉をなくしたシンジとアスカは、二人してぼうっと赤い海を眺めた。ぐすぐすと鼻をすするアスカの視線の先には、真っ二つに割れて、流し見していた再放送のアニメで見た「コロニー落とし」状態になっている巨大な顔があった。ふと、その時聞いた「人類は、自らの行為に恐怖した」というフレーズをアスカは思い出した。昔の人はうまいこと言ったもんね、などと思いながら、彼女は涙を流し続けた。

3

一通り泣いてから、アスカは改めてシンジを締め上げることにした。場合によっては殺すのも辞さない。同情だの慰みものだのですらなく、ただ単なる気まぐれで自分を呼び出したのだとしたら、自分は生きている意味すらないということになるのだから。

そういうわけで、何かを思い立ったように(現に思い立っていたのだけれど)はあっと息を吐き、すうっと息を吸うと、アスカは横で根暗らしく三角座りをしているシンジの首を絞めた。シンジは、うぐっ、とくぐもった声を漏らしながらも、抵抗する素振りも見せなかった。

「……答えなさい。何故、あたしはここにいるの?」

無言のまま、シンジはアスカの目を見つめた。何も言えないから、代わりにその蒼い瞳を覗き込んでみる。その必死な目を見て、余計に何も言えなくなった。どうしてこう、僕と彼女はうまく行かないんだろう、と思う。

一瞬で答えは出た。僕のせいだ。全く救いがない。


二人は袋小路の一番先にいた。要するに、行き止まりだ。前には壁しかない。二人は同じ問題に立ちすくんでいた。そして、二人とも誰かを待っていた。このどうしようもない状況を打開して、次にするべきことを提供してくれる、誰かを。特に、もうすぐ息が切れてしまうシンジは。あるいは、もうすぐこの世界に一人ぼっちになってしまうアスカも。

だが、恐らくは二人きりのこの赤い海の世界でそんなに都合よく誰かが現れるわけもないことも、分かっていた。

しかし……二人は「人間以外」ならここに一体いることを、忘れていた。予想もしなかった、というほうが正しいかも知れない。だが、ともかくも「それ」は目の前で繰り広げられるどうしようもない状況を打開するために(恐らくは)声を発した。

『理由ならあるわよ?』

二人は一瞬、分からなかったが――その声を発していたのは、二人が「背景」として意識の彼方においやろうと努めていた、巨大な顔だった。

かつてその造形の持ち主は「綾波レイ」と呼ばれた。

4

突然耳をつんざくような音が聞こえたせいで、アスカは軽く失神した。白目を剥いて倒れ付し、その髪が砂にまみれた。そしてシンジのほうも、こちらは失神こそしなかったものの、意識があるぶん、頭の中で象が小躍りしているみたいな耳鳴りにのた打ち回る羽目になった。

そして耳鳴りがやっと収まり始めて目を開け、後ろを振り向いてみれば。遠くに、ゆっくりと水面から顔を上げるレイ……「レイだったもの」の顔が見えた。

その顔はこちらを向き、その両の瞳はばっちりこっちを見ていた。

そしてシンジは失神した。

遠くに聞こえる悲鳴の主を思いながら、反則だよねえ。と心の中で呟いていた。

もちろん、誰にも聞こえなかった。


肩を揺さぶられて頭が地面にぶつかる痛みと、鼻に毛が当たってむず痒い感覚の中でシンジは目を覚ました。目を開けてみれば、そこにはさっき自分を絞め殺そうとしたアスカがいた。目の焦点が段々と合ってくれば、彼女が、引きつった半笑いという何だか危ない表情をしていることが分かった。どうやら、一端目の前にいる男を落としてはみたものの、自分が馬鹿なことをしたということに気付いて活でも入れたらしい。さすがアスカ、活殺自在だな。と、激しく頭を打ちながらもシンジは感心した。

「……やあ」

間抜けだな、と自分で思いながらシンジはアスカに挨拶した。他に何を言えばいいのか分からなかったからだ。しかし、目の前のアスカから聞こえてきたのは意味をなさない言葉だった。

「ふぁ、ふぁふぁふぁひぁふぁふぁふぁ……」

? ……まずい、いよいよおかしくなってしまったのかも知れない。そう思ったシンジはアスカの目をはっきり見て言った。

「アスカ、しっかりしてよ、アスカ。大丈夫、僕は大丈夫だから」

アスカはシンジの言葉を聞いて、ふっと顔に貼り付けていた半笑いを引っ込めた。そして、哀れみの表情で彼の顔をじっと見た。

「……あんた、いよいよおかしくなっちゃったのね」

心外だ、と思ったシンジは、すぐに言い返した。

「何がだよ。僕は大丈夫だよ。この通り、ちゃんと分かってる。ここはサードインパクトの後で、そこにはちゃんと大きいあや……」

そう言いながら赤い海の向こうを指差して振り向いたシンジは、海の向こうにある「レイだったもの」の目がこちらに意思のある視線を向けているのを見て目を見開き、おまけに瞬きしたのを見てまた気が遠くなり……アスカに平手でぶん殴られた。

頬に綺麗な紅葉柄が浮かぶ。

「起きろ。あんたが毎度毎度失神してたら話が前に進まないでしょうが」

この時間の意味もない世界にも関わらずアスカは律儀に突っ込みを入れる。真っ赤になった頬をさすりながら、シンジはほんの少し尊敬の入り混じった眼差しでアスカを見た。

「あ、ありがとう。で、あれは……」

「だああ! 言うな! 頭がおかしくなるわ」

そうだ、ありえない

あくまでも現実逃避を続けようとする二人に、黒き月の女王は無慈悲にも話しかけた。

『あれ、とは失礼ね。私はリリス。かつてあなたたちが「綾波レイ」と読んだものの本来の姿』

先ほどよりはだいぶ小さな声だが、その声はこのだだっ広い世界に遠くまでこだまして響いた。赤い海に波が立ち、いくつかのビルがその最後の力を失って崩壊した。

「な、『成れの果て』の間違いじゃないのぉ?」

足まで震えてるんだから言わなけりゃいいのに、とシンジは嘆息した。

『黙れ。生命の母たる私への侮辱は許さない』

アスカが震える声で強がりを言った途端、リリスの声色が変わった。その声は風を生み、シンジとアスカの回りの砂を吹き飛ばす。足元に赤い水が流れ込んでくる。アスカは目を見開き、斜め上……水面からぷかりと半身を出しているリリスを見た。

『……まあ、いいでしょう。今回だけは、許してあげましょう』

「……は、はい……」

アスカが(ひとまずは)大人しくなったのを見ると、満足そうにリリスは話の続きを始めた。

『理由を知りたい?』

「え?」

『理由を知りたいのか、と訊いている』

理由を知りたいのか。まさに「カモがネギを背負ってきたみたい」な胡散臭さだったが、アスカはその言葉に食いついた。状況を打開するにはそれしかなかったからだ。

「ええ。何故、あたしはあっちじゃなくて、ここにいるのか。理由があるなら、是非教えて欲しいわ、神様?」

神様と言われ、少々ばつが悪いような表情で(シンジもアスカも、いまだかつてばつが悪い状況に陥った例を見たことが無かったから分からなかったが)答えた。

『私が呼び出したのよ。貴方を』

「そう……ってあんたじゃないんだからそれで納得できるワケないじゃないのよ。ちょんと説明しなさいよ、神様なんだから」

この期に及んでノリツッコミとはこの子は本当に天才だなあ、とさっきから目の前で交わされる会話を聞くしかないシンジはまた感心の度合いを高め――それとともに、今の状況をゆるやかに飲み込んだ。

しかし、そんなスローペースのシンジを他所に、アスカはとんとんと調子よく話を進めてゆく。どうやら追い詰められた状況から抜け出せたために心に余裕が生まれたらしい。

そのせいで、シンジは追いついたと思ったのもつかの間、また話の本筋から外されようとしていた。

『この世界の再生……』

「何よそれー? もうこんなになっちゃってるんじゃないのよ?」

「あのさ」

『だから……AT-フィールドが……』

「アレがどうしたのよ?」

「ねえ……」

『AT-フィールドというのは、心の……』

「あたしそういう精神論って嫌いよ? ゲームじゃあるまいし」

『二人の力が世界の再生には……』

「おーい……」

「まさかあたしとこのバカに『新時代のアダムとイブになれ』とか言うんじゃないでしょうね!? 幾らあんたがでっかくなったからってそれとこれとは……」

話しかけても二人(または一人と一体)は自分たちの話で一生懸命で、この状況を作り出した張本人である(そして、アスカにとってはさっきまでは殺そうとまで思えた人間である)シンジのことは全く忘却の彼方だった。そして、シンジの絡まない二人の会話は、とことんまでこの話のメイン・テーマにたどり着いていかない。

かたやこの世界の神、そしてかたや昨日まで病床に臥していた少女、という取り合わせでは無理もないことだ。

少年を放って、少女と「元」少女の会話は続く。無視され続けて徐々に俯く角度を大きくしていったシンジはついに耐え切れず、ふん、と鼻で息をつくと、声を荒げた。

「ちょっと!」

ぴたり、と空気が止まる。目の前の二人(または一人と一体)は物珍しい出来事でも起こっているみたいにシンジを見た。

「……何よ?」

「何よ、じゃないよ、勝手に話進めて」

「あんたに何が分かんのよ」

「分かるよ。世界をAT-フィールドで分離するのに僕たちの力が必要ってことなんでしょ?」

しごくあっさりとシンジは要点をまとめた。淀みない、何の疑問もないという口調だった。

『……貴方にしては明晰な理解ね』

シンジの数ヶ月ぶりかもしれない恰好良い立ち回りに、リリスは誉めているのだか貶しているのだか分からないような言葉をシンジにかけた。

「何であんたがそんなにすとんと理解できてるのよ? あたしが分かんないことを」

「それはこっちのセリフだよ」

シンジはそう言い返した。アスカと自分のどちらが変かと考えれば、彼女の方が絶対変だ、とシンジは思う。例え、頭がおかしくなりそうな状況に泣き叫ぶだけだったとしても、彼にはリリスとの面識があり、S2機関やAT-フィールドの知識も、使徒についての知識もある。一方彼女は精神の壁であるフィールドに向って『精神論って嫌いよ』などというくらいなのだから、それらに関する知識はないに等しいはずだ。時間的にも、頷ける。何しろ、彼の保護者である葛城が事実を突き止めたのは、サード・インパクト直前なのだから。

にも関わらず。

この状況についていけてないシンジをおいて、アスカはさっさとこの冗談みたいな状況に順応しているのだから、これはどうにも理不尽なことに思えた。

「もういちいち驚くのがバカらしくなったのよ。……それとも、少し壊れちゃってるのかもね、あたしは。……どーでもいいわ」

アスカはそんな風に言い捨てた。そうだ、この世界がそもそも冗談みたいなものなのに、このくらいで驚いていたら身が持たない。それに、深く考えると頭がおかしくなってしまうような気がする。あたしにできることと言えば、ひとまずは状況を受け入れることしかない……アスカは、目の前の情けない男が白目をむいて泡を吹いている間に出したその結論を再確認して、彼を睨みつけた。

「とりあえず、知ってること、洗いざらい教えなさい、バカシンジ」

シンジは頷くと、ゆっくりと説明を始めた。

5

赤い海のほとりで、シンジは語り続けた。長い時間が掛かったが、S2機関、AT-フィールド、使徒……あらかたのことを話し終えた。彼よりはずっと飲み込みの早いアスカは、すでにほとんどのことを理解していた。そして今、彼はやっと本題に入る。

「……『自分の形をイメージできれば、元に戻れる』って言うことらしいんだ」そう言って、シンジが言葉を切る。

よいニュースだ。とアスカは素直に思った。この世界には人間が帰ってくる。しかし、問題は、その帰り方だ。……が、これまでの話から大体想像はつく。「ははーん」とドラマの刑事のように呟き、アスカは彼の言葉を奪った。

「イメージがフィールド形成につながって、あの人間が溶けてる海からの脱出を可能にする、か……で? それになんであたし達が必要なのよ? ファースト」

情報が得られればそれでよいとばかりにアスカはシンジからリリスに視線を移し、話しかけた。リリスはその呼ばれ方に一瞬眉をひそめたものの、それについては何も言わず、ただ質問について答えを返した。

『次の世界の形を決めたいのよ』

「それで?」

『貴方たちひとりひとりの世界は、狭量な世界観で創られた、歪んだものよ。……だから、好き勝手に世界を創造されると、困る。だから、基準が必要になる』

「なら……」

それなら、シンジ一人で構わないではないか、そう言おうとしたアスカは、リリスの発言にその言葉を遮られた。その声には何の感情もなかった。ただ簡単な事実を述べている、という口調で、リリスは言った。

『彼一人では、不安だから』

それっきり、数秒会話が止まった。白い浜に打ち寄せる波の音だけが、耳に染み込む。

その沈黙を破ったのは、ほぼ同時に発せられた、シンジの一言と、アスカの笑い声だった。

「酷いなあ……」

「あははははは! 結構鋭いじゃないの! 確かにこのバカに世界を任せるのは危険だわ」

高らかに笑い飛ばすと、アスカはリリスに問うた。

「それで」

『何?』

リリスはかつてのファースト・チルドレンを思わせる調子でその言葉に答えた。アスカはふと、そういえばこいつ、あの女の数百倍はでかいのよね、などと思い、そのことを考えぬように頭を振った。髪にまとわりついた砂がぱらぱらと落ちる。

深呼吸をして、アスカはもう一度顔を上げ、さっきよりははっきりとした口調で訊いた。

「何をすればいいの? あたしたちは」

『何も』

予想外の答えに、アスカは瞬きをするばかりだった。それを補うようにシンジが訊いた。

「どういうこと? あや……リリス?」

リリスはその巨大な瞳を動かしてシンジに視線を向けた。シンジは改めてその異様な姿を凝視して、よく考えたらリリスって、裸なんだよな。などと場違いなことを考えた。

そんな思考を知ってか知らずか、多少、馬鹿にしたような口調でリリスは答えた。

『そのままの意味。あなたたちは、ただ、望む世界をイメージすればいい。そうすれば、それを呼び水にして、世界を再生することができる』

その言葉に、停止状態だったアスカの目に意志の光が戻った。

「……そっか。んじゃ、とりあえずやってみますか」

「乗り気だね、アスカ」

その、さっきとは打って変わったような明るい様子にため息をつきながらシンジは言った。この海で目覚めてからのアスカは、どうにも行動に一貫性がない。どん暗くなったり、底抜けに明るくなったりする。これじゃあ、まるで何かの病気の人みたいだ、とシンジは思った。

しかし、返って来た言葉を聞いて彼は自分の鈍さを呪うことになった。

「……他にやることがないからよ。察しなさいよ、バカシンジ」

ああ、そうか、だよね。とシンジは心中でその言葉に答えた。ごめん、アスカ、僕が馬鹿だった。

納得できた。彼女は戦っているのだ。心を守るための戦いだった。何かをしていれば、この冗談みたいな世界に心が潰されずに済む。


彼らはまだ、あの首を絞めあった袋小路から前に進めてはいなかった。

6

誰も一言も言葉を発さなかった。シンジとアスカは考え込み、リリスはその答えをじっと待っている。

リリスの申し出から、既に数時間が経っていた。

リリスの言葉は単純だった。望む世界をイメージしろ、それだけだ。それは自分のことを不幸だと思っている、いや、客観的に見ても割と不幸なほうに入るであろう二人の少年少女にはしごく簡単なことのように思えた。しかし、結局のところ二人がまず考えたのは「これまでとは違う世界」という、リリスに拠れば「何の意味もなさない答え」でしかなかった。そして、「もっと主体的に考えて」というリリスの言葉に、彼らはそれ以上の言葉を続けることができなかった。様々なイメージが二人の中に溶岩の泡のように吹き出たが、その一つとしてしっかりとした形にはならなかった。

「……なんて言うかさ」と、ぼそっとシンジが言った。

「何?」と、アスカはため息と共に答えた。乾いた唇から、擦れた言葉がこぼれた。

「想像力が枯渇してるよね、僕たち」

僕たち。その言葉に、アスカはブレーキをかけずにガードレールにぶつかった車のように音を立ててぶち切れた。脳の血管が切れる音が聞こえてきそうな顔だった。

「……一緒にすんじゃないわよ!」

そういうと、アスカはとりあえず苦し紛れの答えをひねり出し、リリスに言った。

「……決めたわ! 私は帰還して人類の英雄に!」

「ちょっとアスカ!?」

何を無茶な、そう思ったシンジは問いただした。しかし、リリスはあっさりとその言葉に答えた。

『分かったわ』


そして、アスカは街中にいた。周りには多くの人だかりができている。その人だかりは、中心にいる人物――即ちアスカに大きな声援を送っていた。

「……ここは……」

『これが貴女の望んだ世界。あなたはこの世界の救世主であり、英雄』

その言葉を耳の奥で聞くとアスカはしばし驚きを隠せなかったが、状況を飲み込んでしまえば、にやり、と笑んだ。目の前に広がっているのは彼女の熱望した世界に他ならなかったからだ。

「いいじゃない、これ。満足だわ」と、アスカは自分に握手を求め、警備員に抑えられている人々に手を振りながら答えた。

『そう。ならば、この世界でいいのね?』

「ええ。……で、シンジは?」

アスカは気まぐれにそう訊いた。ついさっきまで隣で自分をイラつかせていた男がどうなっているのか知りたかったからだ。

しかしリリスは、ここにきてこの世界の秘密をアスカに教えた。

『居ないわ』

アスカは自分の耳を疑った。居ない? 何を言っているのだ?

『旧ネルフの職員は、あなたを除いて死刑よ』

目が点になった。思わず階段から転げ落ちそうになるところを、屈強なボディガードに抱きとめられた。ボディガードは顔色一つ変えずに「大丈夫ですか? ミズ・アスカ」とアスカに問いかけた。アスカはこめかみを押さえて「ちょっと疲れたみたい、一人になりたいの。部屋で休むわ」と告げた。

部屋に入るやいなや、アスカは頭の中に響く声に大声でわめいた。その声はワンフロアを使ったロイヤルスイートの部屋の隅々まで届いた。

「どういうことよ!?」

『そのままの意味よ。彼らは死んだ』

「何故!?」

『何がおかしいの? 貴女は「私は」と言った。だから貴女をここに帰還させた。そして貴女を英雄にした。そのために、他に英雄として祭り上げられるであろう人々を除いた。貴女の望みは適えた。何が、不満なの?』

「あ、あたしは確かに……そう……言った……けど……これは!」

『何?』

「何であいつらを殺すのよ! 人殺し!」

『これはあなたが望んだ世界よ』

「違う! 違うわよ!」

その声には幾分かの狂気が混じっていた。

『……好い加減なことを言うからよ』


その言葉を聞いた時には、アスカは元の海岸にいた。紅黒い空と、白い浜、赤い海。しかし、さっき見たものよりはずっとましに思えた。

「あ……ここは……」

「アスカ? どうしたの?」

「あ……う……大丈夫? シンジ?」

「は?」

シンジの顔にはただ疑問の表情のみが浮かんでいた。アスカはその顔を見て、彼は自分の殺される世界を見ていないのだと分かった。

アスカは目の前にいる黒い月の女神を見た。その顔には相変わらず彫刻のようなつるりとした無表情以外、表情らしい表情は浮かんでいなかった。だが、その無表情が何かを語っているようにアスカには思えた。

「何よ?」

『別に。……貴女には、彼だけでは不安だから来て貰っているのよ。あなたまで勝手なことを言ってもらっては困る』

無表情なその顔が、少し膨れたように思えた。もっとも、気の持ちようの問題かもしれなかったが。

『とにかく、始めましょうか』とリリスは言った。その声は表情と同じく無表情だったが、アスカとシンジには諦めにも似た口調に聞こえた。

「……そうだね、考えていても始まらないし」

シンジがその声に答えた。

アスカは黙って頷いた。

『……では、何か言って』

「……そうだなあ……」

「……争いのない世界、なんてどう?」

黙って一人考え込んでいたアスカが口を開く。その言葉に、ほんの少しひっかかりを感じたが、思いつくこともなかったシンジは「そうだね、いいかも知れない」と答えた。

『……いいのね?』

さっき聞いた言葉。アスカはその言葉にごくりと生唾を飲んだが、シンジはそのアスカの様子に気付かず答えた。

「うん。やってみてよ」


そして、シンジとアスカは、それぞれ一人で赤い海にいた。


「……ここは?」とシンジは尋ねた。


「……どういうこと?」とアスカは尋ねた。


『争いの無い世界よ』

リリスはその二つの問いに答えた。


「……そうか……」


「確かに……」


それぞれ、そう言った後に、続けた。


「たった一人しか人がいなければ、争いは起きない……」


『そう、もしくは、ここ』


次の瞬間、二人は交じり合っていた。シンジには見覚えのある風景、アスカには見覚えのない風景だ。

裸のシンジの上に、同じく裸身をさらしたアスカが乗っている。そんな状況なのに、二人は羞恥心を感じることはなかった。

その身体は、文字通り「溶け合って」いたからだ。

アスカの腕はシンジの胸を突き通っている。それだけではない。二人は輪郭すら危うく、今にも赤い海の中に溶け合ってしまいそうだった。

「ここ……どこ?」「赤い海の中だよ」「そう……なんでだろ、裸なのに、恥ずかしくないや」「……他人がいないからだよ、今の僕とアスカは……他人じゃない、溶け合っているもの」「そうなんだ……確かに……ふわふわしてて、どこまでが自分か分からない……」

もはや、どちらが自分の言葉で、どちらが相手の言葉かの見分けもつきにくくなっていた。

『そう、他人がいない世界。どこまでも自分しかいない世界。孤独も、触れ合いも無い世界。虚しさに包まれた世界。けれど、「絶対に争いは起きない」』

リリスの声が遠く、頭の奥に響いた。

「うん、そうだね」「でも、これも」「さっきのも」「違う……違うと思う」

7

その言葉を発したとき、二人は赤い海のほとりにいた。

シンジの上に、アスカが重なっていた。はっとしたシンジが起き上がると、目の前にプラグ・スーツ越しの胸があった。

「うわっ」

「……!」

二人は言葉にならない声を発して身体を引き離した。普段(という言葉など、もはや遠い昔のことのように思えたが)なら、アスカはシンジの頬の一つでも殴って罵声を浴びせていただろうし、シンジも、どもりながら必死に言いつくろおうとしただろう。しかし、先ほどの世界の後では、お互いそんなことをする気にはならなかった。

『……お帰り』

「……悪趣味ね」

『……そんなことはないわ』

そういうと、リリスはきっぱりと言った。

『さあ、次へ行きましょうか』

「駄目だったね、アスカ」

アスカは「うるさいわね」と言った後「でも、確かにそうね。争いのない世界なんて、今の世界そのものじゃない」と言った。

「うん。じゃあ、次、どうしようか。『満ち足りた世界』とか?」

「あんたバカぁ? あんたね、満ち足りたんなら今生きてる意味もなくなるでしょうが」

さっき自分で同じようなことを言ったくせによく言うよ、と思いつつ、少し安心しながら、シンジは答えた。

「……抽象的過ぎるのかな」

「かもね。……ねえ、あんたはどんなのがいいの?」

アスカは尋ねた、さっきから、自分ばかりが希望を出していたように思えたからだ。

ふむ、とシンジはしばし考え込んで、答えた。

「……普通の家庭に生まれればいいかな」

「普通って? 大雑把なイメージね」

「だからごくごく一般的なお父さんとお母さんがいる家庭」

シンジにそう言われてアスカはそんな光景をイメージしようとした。

しかし、どんなに想像力を働かせても、ドラマの家族のような嘘っぽい情景しかイメージすることができなかった。

「でもさ。親、変えられないんでしょ?」

不意にアスカは、そう言った。

『いいえ? ただ世界がそうであったと仮定するだけだから、経過なんていくらでも捻じ曲げられるわ』

リリスは答えた。少しも考えるところがない、当然だ、というような口調だった。

「僕は嫌だよ。ちゃんと、父さんと母さんが父さんたちじゃなくちゃ嫌だ」

「……あのさ、シンジ。忘れてない? あの人たち、これの、主犯よ」

「……父さんがあれだから、平和もなにもない気がしてきた」

「結局だめなんじゃない。あんたねえ、ありもしない理想郷ばっか考えるから駄目なのよ」

それは、自分にも言えることだとアスカは気付いていたが、構わず言った。シンジは露骨に顔をゆがめた。

「……なら、アスカはどうなんだよ? さっきから人の意見に文句ばっかりつけてさ」

「う、うるさいわね……バカシンジの癖に!」

会話は一周して最初の言い争いに戻ってきていた。リリスは何も言わず、ただ、彼らの言葉の行く末を見守った。

「思いつかないの?」

アスカは少し考えて、苦し紛れに言った。

「えーと、そうだ、あれあったじゃない、一瞬だけあったイメージ……えーと……あたしがあんたを起こしに行く、アレ」

「ああ、なんだったっけ、幼馴染なんだよね」

そうそう。……でも、ファーストも出てくるわね。大丈夫なの?」

『構わないわ。私は下着を見せてはしゃげばいいのね』


そして、彼らは朝の道を走っていた。

「今日も、転校生が来るんだってね!」

渋滞の車の横を走りぬけながらシンジは覚えている言葉を繰り返す。……大丈夫、この世界の僕をイメージできれば、ちゃんと喋れる。

「まあね、来年はここも遷都されて新たな首都になるんですもの、どんどん人は増えていくわよ」

シンジの隣を走りながら、アスカは聞き覚えのある言葉を話す。ふうん、ここはこういう『設定』なんだ。

「そおだね。……どんな子かなあ、可愛い子だったらいいなあ」

軽い言葉。そうか、この世界の僕は、こういうキャラだったんだ。僕の願いか、これが。

『もお……』

隣の幼馴染の言葉を聞いて、アスカは面白くない。幼馴染の無神経な発言にヤキモチか……リビドー満載中学生の生臭い妄想とはいえ、悪くないかもね。

二人は朝の道をひた走る。アスカは時計を見た。8時18分。大丈夫、ギリギリ間に合う。そして、もうすぐ出てくるはずだ、ファーストが。そうすれば、楽しい学園生活が始まるだろう。

並木道の終わり、建設中のビルの前を通り抜けると、ごごん、という音がした。さすがは、建設中の次期首都である。

曲がり角を曲がる。

『あー、遅っ刻遅刻〜!』

明るい、聞き覚えのある声が聞こえた。忘れるはずもない。レイの声だ。

声は大きくなって行く。

『初日から遅刻じゃかなりヤバイってカンジだよね〜』

シンジは、目の前の角をまっすぐ見た。ここでぶつかるのか、と思い、少しだけスピードを緩める。

それが彼を救った。

……どん。

シンジは倒れた。そして倒れたのは、シンジだけだった。

「いつつつつつつつつ……」

盛大な音に雀が飛ぶ中、シンジは頭を押さえて痛みに耐えた。

だが、思っていたよりもその痛みは大きかった。

「……?」

ふと頭を押さえる手を見れば、そこには血がついていた。

前を見る。

「……綾波?」

『いたたたたたた……あっ』

がばっ。と制服姿のレイはスカートを押さえた。白い下着がほんの一瞬ちらりと見える。しかし、その光景にごちそうさま、と唱える前にシンジは後ろに吹き飛ばされていた。確かにそこにいたのは制服姿のレイだった。ただし、赤い海のほとりでみたリリスと同じサイズの。

『ゴメンね! マジで急いでたんだー……って、アレ?』

「あんた、でっかいままで女子中学生しようっていうわけ?」

爆風を逃れていたアスカが言った。レイ……もといリリスは、そのくるくると変わる顔を元の無表情に戻し、肌の色を陶器のように真っ白な色に戻して言った。

『……仮定を間違ったわね?』

「責任転嫁だ……」

「どこの世界に全長一キロを越す中学生がいるのよ」


『確かに、幾らなんでも、お遊びが過ぎるんじゃないのかい?』


その声が聞こえると、彼らは再び赤い海のほとりにいた。浜にいる二人と、沖合いから顔を覗かせる一体。しかし、その声はその誰でもない、新たな人物の声だった。

「カヲル君……?」

そこにはかつてシンジがくびり殺した少年、渚カヲルがいた。しかし、その身体はリリスと同じように巨大だった。

『……いや、彼は死んだよ、残念だけれどね。私は私の元に帰った彼を含んでいるけれど、彼自身ではないんだ。私の名は、アダム。……でも、久しぶりだね、シンジ君』

渚カヲルの顔をしたアダムはそう言った。

「ねえシンジ、こいつ誰? ……いや、こいつがアダム?」

アスカは何だか訳が分からなくなってきていた。何しろ、アスカは彼に会ったことがない。

辛うじてアスカは問いを作り出した。

「えーと、こいつの顔のモデルよ、あたし、知らない」

少し考えてから、シンジは口を開いた。

「えーと……フィフスチルドレンで……」

「ふむふむ」

「最後の使徒」

弐号機のパイロットだったことは言わなかった。話が進まないと思ったからだ。ここで彼とアスカが喧嘩でもしようものなら、ますます収集がつきそうにない。

その努力のかいがあったかは分からなかったが、アスカはさして抵抗もなく新たな登場人物を受け入れていた。

「へえ……」

『分かってくれたかな? 惣流さん』

「まあまあね。……でっかくても、使徒なら許せるわ。隣に、それがいるしね」

『もう一度、吹き飛ばされたい?』

アスカの言葉にリリスの声色が変わりかけ、

『ねえリリス、やはり君は、もっと冷静になるべきじゃないかな』

と、アダムはそれをとりなした。アスカはふと、いつか聞いた「アダムは正常位以外の体位を拒んだためにリリスはアダムのもとを去った」というカバラの伝説を思い出した。昔から、男は女の尻に敷かれてきたのか、と、アスカは少し可笑しくなった。

そんなアスカを他所に、アダムは言った。

『ありがたいね。シンジ君、君が考えているより彼女はずっと優しいと思うよ』

シンジは「確かにね」と言った。

状況に潰されさえしなければアスカが基本的には自分が考えていたよりもずっと適応力があることを、シンジは理解しないわけにはいかなかった。ずっと、優しいことも。

「……な、何言ってんのよ」

少し焦ったような声でアスカは答えた。彼女が柄にもなく照れていることが分かり、少し可笑しくなった。

『……確かに、パイロットの中で一番まともではあったわ。碇シンジも綾波レイも、変人だから』

彼らの会話に、リリスの声が重なる。

「……どうせ何かしら落とす気なんでしょ。馬鹿共」

そう言って、アスカは話を打ち切ろうとした。しかしシンジは、その言葉に顔をしかめた。

いつの間にかシンジは、アスカの言葉に言い返すのが苦痛ではなくなっていた。

そしてアスカも、彼と言葉を交わしても、嫌悪感を持つことはなくなっていた。

「あんたさあ、あれは違う、これも違う。って、ただ否定してるだけなんじゃないの?」

「違うよ」

「ほらあ」

そういうとアスカはくっくっく、と笑った。

そのアスカのらしくない笑い声に、シンジも釣られて笑った。

そしてシンジは「そうか」と言った。

アスカは「何?」と訊いた。

「……分かったんだ。リリス、……アダム」

『カヲルという名でも構わないよ』

「……うん。君たちは、思い出させてくれたんだね、僕たちに」

『そうよ。貴方たちは忘れっぽいから』

『それに、彼女はおぼろげにしか覚えていなかったしね?』

「……どういうこと?」

アスカが尋ねた。目の前で行なわれている会話についていけていなかった。

「……ねえ、アスカ、気付いてた? 抽象的な理想の世界、具体的な欲望の世界……そのどちらにも、僕ら以外は出てこなかった……」

そう言われて、アスカは小さく、あっ、と言った。

「……確かに、そう……ね」

「……だから、どっちも変わらないんだ。忘れてた。他人がいない。それじゃ、駄目なんだ」

『駄目なのかい?』

「……違うな『そうじゃないのがいいんだ』」

『他人がいては成り立たない理想の世界よりも、他人と共にある現実の世界を選ぶんだね?』

『他人がいなければ簡単に成り立つ欲望の世界よりも、他人の恐怖の中で世界を創ることを選ぶのね』

その言葉に答えたのはアスカだった。

「ええ、そうよ。だいたい、こんなとこでこじんまりと世界のあり方を決めちゃうなんてちゃんちゃら可笑しいのよ」

しばらく呆けていたアスカが発した言葉に、シンジは笑った。笑った唇の隙間から、折れた歯が見えた。

それを見て少し悲しげな顔になったアスカに、シンジはもう一度笑いかけた。

リリスは言った。

『貴方たちが望めば、サード・インパクトが起きなかった現実がよみがえるわ。死者が累々と折り重なり、弐号機はもはや動くことはない』

その言葉に、シンジはまた少ししり込みする。

「いや……それは……ちょっと困るかな……」

だが、彼の隣には、アスカがいた。

「じゃあどこまでさかのぼるのよ? セカンド・インパクト? それとも第二次世界大戦かしら? ……結局、どこまで行っても、自分の救いたい人を救ってるだけじゃない。それなら、そこから始めるのが、一番フェアよ」

「……そうだね……」

「……結局、さ。それぞれのヒトの意思を信じるしか、ないのよ、あたしたちは」

そう言い切って、アスカは目の前にいる二人の巨人を真正面から見た。

もう、その視線に怯まなかった。

「……まだ試す気? あたしもシンジも、もう、大丈夫よ」

『生きていく価値がなくても?』

それは、アスカがさっきシンジの首を絞めた理由だった。

「自分が認めればいいんだ」

「それだけじゃないわ。自分が認めてあげられなくったって」

シンジははっとした顔でアスカの顔を見た。

アスカは笑った。シンジは、嘲笑でも、自信の高笑いでもない、彼女のそんな笑い顔を見たことがなかった。

「『自分には理解できない』他人なら、認めてくれるかもしれない」

シンジはアスカの言うであろう言葉を言った。

「そうよ、よくできたわね、バカシンジ」

『それが貴方たちの結論?』

リリスが言った。

アスカは再びリリスを見た。シンジもそれに続く。リリスと彼らの目が合った。

アスカは不意にシンジの腕を掴んだ。それは握る、というにはあまりにも力が篭っていてドラマチックでもなんでもなかったが、シンジは笑ってそのままにさせておいた。

「そうだよ、ごめんね」

『もう一度あの苦しみの中に叩き込まれるとしても?』

「……うん。でも、次は何とか、やってみるわ、このバカもいることだし」

『結果、君たちが責められてもかい?』

「かも、知れないわね。でもいいのよ。神様になるなんて、まっぴらゴメンだわ。何が正しいのかもわかんないのに。……ただし」

『何?』

『なんだい?』

「あんたたちも、ちゃんと協力すんのよ。今までのことは知らないけど、これからは、役に立って貰わなきゃ困るんだから」

「確かに、僕たちだけでみんなをどうにかできるわけないしね。協力してよ、カヲル君、リリス」

『……図太いね。生きる意志に満ち満ちている。やはり生き残るべき人々なんだね、君たちは』

『……分かったわ。責任は、取りましょう』

「自分の、子供達なんだしね? 神様。子供を導くのが、親の役目よ」

『痛いところをつくね、君は』

「生きるためには、なんだってするわ。……よっし。んじゃ、この話はこれでおしまい」

『そう。わかったわ。私の意志を信じるのね?』

「ちょっと何よ、その含み笑い?」

『別に?』

「……結局この流れから逃れられないのか……」

そう言って、シンジは苦笑した。その言葉とは逆に、全く嫌そうではなかった。

『最後になって、またこの流れに戻ろうというのかい』

そうアダムは呆れたように言ったが、リリスがその言葉に答えた。

『お約束だものね?』

「そうそう! 分かってないわね、最後の使徒」

はるか上空のアダムを指差して、アスカは言い放った。紅い空に声が響く。

「もうちょっと遊んで行くんだよ、ね? アスカ」

「分かってんじゃないシンジ! ニブチンも大分マシになったみたいね」

シンジはまた苦笑した。うん、もう大丈夫だ。

「おし! んじゃ次の世界、行くわよ!」

そして、赤い海のほとりでのロール・プレイングは、三日三晩続いた。

これが、サード・インパクト後の「失われた三日間」の真相であることは、彼らしか知ることはない。

- The rest stories of "Project Eva" #21 - "2 selfish angels" end.
first update: 20041104
last update: 20060103

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作者:north
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