彼女は戦っていた。
彼女は何も見ず、何も聞かず、何も匂わず、何も触れず、何も味あわずにいた。
見てからでは、聞いてからでは、嗅いでからでは、触れてからでは、味わってからでは遅すぎた。
月の屑を蹴り飛ばし、虚空を駆け、向こう数十万の意志を相手にするには、己の感覚器で感じている暇などはなかった。
それが彼女の戦っている場所で要求される速さだった。
六月の窓には湿気を含んだ生温い風と一緒に、微かな蛙の鳴き声が響いていた。
碇シンジは半開きの窓から身体を覗かせ、どこからか聞こえてくる音に耳を澄ませた。比較的郊外にあるシンジのマンションは山を切り開いて建てられたもので、すぐ裏手が山になっていた。その中には小さい池、というより沼に近いような湿った土地もいくつかある。新しく首都になろうという街のすぐ近くだというのに、この町には夏は蛍まで飛んでいる。ぐえ、ぐえ、というお決まりの群れなす声もきっとその湿地に棲むやつらのものだろう。
乗り出した顔を引っ込める直前にちらりと空を見上げれば、月や星は見えず、もこもことした淡い色合いの闇があった。
「降るかな」
蛙や空、そして風呂場のような湿気から推測し、そう独り言を呟くと、シンジは網戸ではなく窓を閉め、そっと鍵を下ろした。元々微かだった蛙の声は窓を閉めてしまうともうほとんど聞こえず、聞こえる気がする、というくらいになってしまった。
シンジは部屋の明かりを消した。ベッドに寝転び、掛け布団を足元に蹴りやって天井を見上げる。足を下ろした瞬間、ほんの少し太ももが痛んだ。
「また、雨か」
思えば去年も雨だった。雨の日は気が滅入る。それが「雨の日は憂鬱」という思い込みによるものだったとしても、滅入るものは滅入るのだからそんな説明はなんの役にも立たない。それに、自分の誕生日が二年連続で雨となれば、雨嫌いではなくても、自分でなくてもきっと憂鬱になってしまうだろうとシンジは思う。そしてそもそもこの数ヶ月、気の滅入らない日があったろうか?
「細かいのかな……はっ」
病気か、俺って。たった一人の部屋の中でずっと考えていたことを声に出していたのがおかしくて、シンジは心底馬鹿にしたように自分を哂った。
「ほんと、根暗そのまんまだよな……あっ」
まただ。最近ずっと独りでいるようになったシンジには、独り言がくせになりかけてしまっていた。
シンジは忌々しげに舌打ちをすると身体を横に向けた。肩がじんとするのは気にしないことにする。
ドアの隙間から光が漏れる。――あいつか。
シンジは壁のほうに向き直って目を閉じた。
逃がした。――しかし、間に合う。
爆風を押し込め、慣性を逃がして立ち止まる。
――ああ、見覚えがあるな、ここは。
暗闇の中で目を開くとまだ暗かった。夢か。珍しくもない。もう何ヶ月も深く眠れたことはないのだ。
まだ辛うじて微妙なまどろみの中にいたシンジは、ふわふわした意識をそのままに、無理やりあくびをしながらむっくりと身体を起こし窓の外に注意を向けた。
誰かいる?
窓の外、ぱたぱたと雨粒の当たる窓の向こうに何かが見えたような気がした。
――?
けれども、その影は音もなく消え去り、シンジの頬に先ほどまでは当たらなかった月の光が当たった。
月はいつも通り幾つもの大岩の尾を引き、崩れた姿を空にさらしていた。
シンジは気にせず首を掻き、ぽふ、と布団に顔をうずめた。
まだ薄明のうちにシンジは目を覚ました。目覚まし時計は要らない。
とはいえ、それほどの寝起きの良さを誇る彼でもさすがにいきなり飛び起きることはなく、まだ起動しきらない重い頭を枕に預けて目を閉じた。
雨の音は、しなかった。集中して耳をそばだてても、聞こえるのは電線に留まっている鳥の鳴き声だけだ。
予想が外れたか。ならば、閉めきった部屋で汗のにじんだシャツと一緒に起きたのも無駄だったというわけだ。汗には暑さによるもの以外も含まれていたが、シンジはそれを無視した。
シンジは待望の晴れにも拘らず、やはり憂鬱そうな表情で身体を起こした。
窓を開けて空を見、地面を見下ろす。空には昨日の曇り空が嘘のような梅雨の合間の青空が広がり、道路には雨水の作る黒いしみの名残すらなかった。
「……寝ぼけてたのか、僕は」
昨日の雨の記憶を覆す事実にそう結論づけたところで、シンジはまた独り言を呟いてしまったことに気づき唇を噛んだ。
着替えを済ませ、そっと部屋を出る。この時間なら、どうやら酷い低血圧らしいあいつはまだ起きていないに違いない。
廊下の軋む音にも気を使いながら、肩を竦めて靴を履き、逃げるように玄関から外へ出た。
「行ってきます」
もぞもぞと小さく呟いた声は誰にも届かなかった。
苛められっ子の朝は早い。その原因の一部が同居人にあるならばそれはなおさらのことだ。
だからシンジは足早に学校へと歩いていた。教室にさえ入ってしまえばいい。怖いのは、登校中と放課後、そして休み時間なのだ。
淡い紫に染まっている紫陽花に目もくれず、シンジはほとんど走る勢いで学校へ急いだ。走る最中に、いつものように考えられる限りの悪態をついた。
ばか、あほ、まぬけ。
始まりからもう子供の悪口だが、それは彼が元々悪口などを好んで口にする人間ではないからだ。
そして、考えつく限りのほんの少しの悪態を(それは同級生、鈴原トウジが普段ひねり出していた悪態の数十分の一にも満たないだろう)ついてしまった後には、いつもの言葉に感情が収斂していく。
いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに。
主語は考えない。考えると、あまりに簡単なことができない情けなさに死にたくなる。けれど、それができるなら、そもそもこんな言葉は考えない。
さりとて、何も考えずに笑って過ごしていられるほど、シンジは強くない。
だから、彼は必死に主語を考えないようにしながら、それでも呟いている。
いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに、いなくなればいいのに。
しかし結局は、やはり考えずにはいられなかった。
いなくなればいいのに。
僕なんか、いなくなればいいのに。
そして運よく、シンジは誰にも殴られずに学校の門をくぐった。
いつものことだ。
いつものような昼休み、いつもの校舎裏で、シンジは魂が身体から切り離されたように冷静に事態を把握していた。
腕に二回、腹にも二発、脚には五発。顔は、殴らない。やや、運がいい。
「はい、せーのっ!」
シンジを抱えていた男子が掛け声を掛けると、少し離れた所で身体を揺らしてタイミングを計っていた男子が駆け出した。
「ドロップでフィニッシュ!」
そんな掛け声と共に、シンジの薄い胸に吸い込まれるように飛び蹴りが入った。
「あいよ、おつかれー」
「んじゃな。ちっとは反省しろや? 『人間災害』」
様々に言葉を掛けながら、彼らはゆっくりとひなたへ歩いていった。
胸骨に打撃を喰らって必死に咳き込むシンジにそんな言葉が届くはずはない。彼はひと通り咳き込んだ後、やっと彼らが去ったことを知った。
そうして暗い校舎裏でシンジはまた独りになった。当人は、そう思った。
けれども、そこにはもう一人いた。
「……碇、君」
不意に後ろから掛かったその声に、シンジはびくりと肩を振るわせた。この声は知っている――あいつだ。
「……来ないでよ、『碇さん』」
背を向けたまま言った。振り向いたところで、どんな顔をすればいいのかわからない。
シンジは立ち去ろうとした。
だが、そこにもうひとつの声が掛かった。咎めるような、大人の女性の声。
「そんな言い方はないんじゃないの? シンジ君。仮にも家族でしょう」
これも、知っている。――あの女だ。ほんの少しだけ私的な響きを含み始めたその声が、シンジにはたまらなく怖かった。
だから、精一杯の憎まれ口で返した。
「なんですか? 『碇先生』? ……ああ、まだ、違うんでしたっけ、赤木先生」
「……似合わないから止めなさい。そんなことを言うのは」
「失望しました? いいんじゃないですか、それで。何でもいいんで、僕のことは放っておいて下さい」
やはり後ろを振り向かないまま言って、シンジは歩き出そうとした。
だが、彼女はその声を無視して、彼の肩を掴んだ。
「……ッッ!」
シンジは顔をしかめ、小さなうめき声を漏らした。彼女の腕はちょうど、ついさっき思い切り殴りつけられたところを掴んでいた。
彼女は努めて静かな口調で言った。
「シンジ君。これはれっきとしたいじめよ。ちゃんと――」
「放っといてくれよッ!」
彼女の言葉を遮ってシンジは叫び、彼女の腕を振りほどいた。こんな風に叫ぶ所を彼女に見せたのは初めてだったし、もちろん学校で叫んだりするのもこれが初めてだった。
面食らってしまった彼女は、走り去る自分の生徒――もう少しで、息子になるであろう彼を、追いかけることができなかった。
シンジが走り去った後には、二人の新しく『碇』の姓を持つことになる女性が残った。
「先生……私……」
家族になるはずの少年に振り返ってももらえなかった少女は泣きそうな顔になっていた。
彼女が普段は表情を硬くし誰も隙を見せまいとしていることを、先生と呼ばれた女性は知っていた。けれども、自分の胸で泣き始める少女の顔には、そんな「強い女の子」の仮面は見る影もなかった。やはり彼女も十四歳の女の子だった。
「大丈夫、レイちゃん。あなたのせいじゃないのよ……ただ、色々なことがあって臆病になっているだけ。……優しい子だから」
色素が極端に薄い髪を撫でながら、先生と呼ばれた女性はもうすぐ自分の娘になる女の子を慰め続けた。
半年ほどの間のできごとだった。
去年の夏頃から、第3新東京市在住の平凡な中学二年生であったはずの碇シンジの周りでは極端に事故が多発した。それは統計的に起こりうるかどうか検討するというレベルではない、完全に異常な発生率だった。あの年のシンジの周りでは、壁が崩壊し、手すりが壊れ、信号が誤作動し、車のブレーキが壊れ、窓ガラスが落ち、ガス爆発までが起きた。そのひどさは「第3新東京の怪」などという見出しでタブロイド紙や週刊誌の記者が取材に訪れたほどだ。
そんな様々な事故のまさに中心にいたシンジが(今年度に入って殴られるようになった以外には)怪我ひとつせずにあの一年を過ごせたことは、正に奇跡と言う他はなかった。
そう、奇跡――しかし、その奇跡が彼にしか起きなければ、それは決して諸手を挙げて歓迎されはしない。
特に、その奇跡のすぐ隣で数多くの人々が傷を負っているような場合には。
それは遠い場所からやってきた。
ちょうど去年の夏の初め、梅雨が明けたころに、友人の鈴原トウジの妹が壁から剥落した建材で頭を酷く打った。幸いにして命は取り留めたものの、頭に大きな傷が残り、いまだ完全には回復していない。
このときはまだ、シンジはそのような事故と自分との関係について全く気づいていなかった。シンジは友人の妹に突如起こった不幸を大いに嘆き、一緒に見舞いに行った。
その次は、また近くなった。
夏休みの少し前、トウジと、もうひとりのシンジの友人、相田ケンスケが街を歩いていると、建設中の建物から建材が降ってきた。
幸いにも二人に怪我はなかったが、シンジはほんの少し、ざわざわするものを感じた。
そしてついに、運命のような『何か』は本格的にシンジの周りの人々、そして第3新東京の周辺へと牙を剥き始めた。シンジが直接関わっていないところでも、大停電、市役所のコンピュータの大規模な故障などが起こったが、シンジの周りではさらに様々なことが起こった。
夏休みの初め、シンジの通っていた塾でガス爆発があった。その塾は結局閉鎖され、夏期講習は中止になった。
知っている先生が何人か巻き込まれ、シンジは何だか自分のせいであるような気がして、他の塾生よりずっと熱心に見舞いに行くことにした。
夏休み、第3新東京港に入港しようとした国連軍の空母が、原因不明の事故で相次いで沈没した。数十人が犠牲となり、見物に行ったケンスケがその事故に巻き込まれそうになった。
このときもまだ、シンジは内心疑いながらも、まさか、と思っていた。
二学期が始まってすぐ、社会科見学で行った浅間山の実験施設で、何億円もする実験作業機械のケーブルが切れて機械が溶岩の海の藻屑と消えた。ちょうど珍しくくじ引きに当たったシンジが操作させてもらっていたところで、本来ならばその深度でケーブルが切れるはずはなかった。
シンジに落ち度はなかったので弁償はせずにすんだが、来年からは社会科見学は別の施設で行なわれることになった。この現象が自分の周りで起こっている可能性をシンジは信じ始めていた。
秋の終り、手抜き工事が行なわれていた道路が陥没し、自動車数台が被害にあった。それは本当に偶然だったが、陥没のきっかけになったのはシンジが水溜りを飛び越して地面に着地したときの衝撃だった。水溜りの向こうに着地したシンジの目の前で地面が沈み、ちょうど壊れた信号のせいで突っ込んできた車がシンジを避けたせいで穴に落ちた。ドライバーは即死で、同時に事故に巻き込まれた歩行者数人も大怪我を負った。
目の前で車が爆発する所を見てしまったシンジは、今度こそこの状況が自分を切っ掛けにして起こっていることを確信した。
年末、ブレーキが効かなくなった車が、多くの中高生が登校中の歩道に突っ込んだ。その場にいたトウジが巻き込まれ、脚を折り、脾臓を失った。不思議なことに、事故後の検証ではブレーキに特に異常は見当たらなかった。しかし、事実として事故は起き、複雑骨折と内臓破裂で生死の境をさまよったトウジは今でもまだ入院している。
ついに、ここまで来てしまった。自らの真横で車に突っ込まれたトウジに付き添って病院へ向かいながら、そう思った。
シンジは年明けから登校するのを止めた。家から出なければ、誰も巻き込むことはない――そう思ったからだった。
しかし、そう簡単には行かなかった。
今日もきっと、彼はギリギリまで家には帰らない。昨日や一昨日、あの屋上で何も言えなかった日と同じに、日付が変わりそうな頃か変わった後に家に帰ってきて、誰とも顔を合わさず眠るのだ。
彼の足音を聞いて自分が眠りに着くことを許せるまでの憂鬱な時間を考えただけで、レイはため息を吐きそうになった。
しかし、そんな資格はない。こんなに恵まれている自分が、ため息など。
「どうした? レイ」
叔父さんは言葉少なに、だが彼女を気に掛けていることがすぐに解るような低い声で言った。
けれど、その気持ちに答える言葉をレイは持たない。答える資格があるのかどうかにも、とても自信など持てなかった。
だからレイはここにずっとそうであるように、歯切れが悪く無愛想に聞こえる言葉を返してしまう。
「いえ……何でも、ありません」
「そうか……なら、いいんだが」
まただ。レイは思った。また、他人みたいに答えてしまった。もうここに引き取られて三ヶ月が経とうとしているというのに、この叔父さんは血もつながっていない、誰の子供かもわからない自分を本当の娘のように扱ってくれているというのに、いまだその状況を受け入れられないでいる自分が、申し訳なかった。
こんなに、こんなに、私は恵まれているのに。
「ごちそうさま」
「あ、はい」
言いながら、また目を伏せる。どうして?
「うむ、旨かったよ。やはり、男所帯だからな……いや、もう、違うが」
そんな些細な言葉からも気を使って貰っているのがわかって、余計に辛い。本当は、ここにいるのは彼女ではなかったはずなのに。
レイが何も言えないでいると、小さく咳払いをして、叔父さんは切り出した。
「シンジのことが、気になるか?」
レイは何も言えずに俯いた。すると、それに呼応するように叔父さんも黙った。レイの前では無理をして話を膨らませようとするが、元々それほど口数が多い人ではないのだ。
二人は見合った貝のように黙ったままだったが、先に耐えられなくなったのはレイのほうだった。
レイは無言のまま立ち上がって食器を片付け始めた。叔父さんも、無言のまま皿を片すのを手伝う。二人分しかない食器をものの数秒で片付け、洗剤をつけたスポンジで擦る。ダイニングからつながる割と広めの作りをしているキッチンには、蛇口から流れる水音だけが満ちた。
水切りが終わりそうなころ、今度は叔父さんが行動を起こした。
「問題ない」
唐突な声にレイが振り向くと、叔父さんは目を閉じながら茶を飲んでいた。ずずず、という啜り音の後に、言葉をつなげた。クーラーを動かしているのに、汗が流れた。
「あれは私の子だし、君の叔母さん、ユイの息子だ。今は辛いかもしれないが、これで折れてしまうような柔な男ではないはずだ」
レイは皿を拭く手を止めて叔父さんを見つめた。何も言えない。肯定はしたくない。否定するのは怖い。
レイの様子で彼女の意見を察して、彼はもう一度咳払いをして付け加えた。
「……あれも私と同じで、人を遠ざけようとするところがある。あんなことの後なら余計だろう。しかし、私とは違って、シンジにはユイの血が流れている。私はそれを、信じているんだよ」
途中からはもう、レイに向けられての言葉ではなく、自分に言い聞かせるような言葉だった。
それを聞いてレイは、それまで親子であることが疑わしいようにも思えた、線の細い彼と髭面の叔父さんの間にある共通点が、やっと見えたような気がした。
「……はい」
「顔色が悪い。今日はもう休みなさい。大丈夫、シンジはちゃんと帰ってくる。私が起きているから」
本当は手を動かして起きていたかったが、元々病弱である手前無下に断わるわけにもいかなかった。
「……はい」
言われるまま布団の中に入っても、寝れそうにはなかった。いや、本当は眠い。だが、それを許せない自分がいる。朝も、いつも彼と同じ時間に起きようと思っていてどうしても起きられないのだから、せめて、寝る時間くらいは。そう、レイは思っていた。
時刻は十一時を回っている。もう梅雨も終わりかけの夜空には、どんよりとした雲が掛かっていた。雨の気配があった。もうすぐ梅雨は明ける。恐らくこの雨の次に降るのは、夏の雨だろう。天気予報ではそんなニュースが流れ、2016年度版の最新水着特集を組んでいた。
もっとも、日差しには極端に弱いレイにはそんな場所に行くことはもちろん叶わない。
きっちりとブラインドを下ろし、紫外線避けに常用しているコンタクトを外して目を閉じた。
口には出さず、唱えた。
――碇君が帰るまで、雨が振りませんように。
レイがシンジを呼ぶ呼び名は、ここに至ってもまだ、碇君なのだった。
彼はきっと今日も怪我だらけの体で帰ってきて一人で隠れるように消毒をするのだろう。そんな彼を心配しても旨く言葉をかけれずに無言のままでいるしかない叔父さんの姿が目に浮かぶ。そんなのは、悲しすぎる光景だ。
だからせめて、碇君の傷の上に雨が降らないように。
そして、祈りながら同時に思う。
私は、ここにいていいのだろうか?
もちろん、ここを出ても行くところなどどこにもない。
しかし――
碇君が誕生日にも家に帰ることがなかったのは、今もって殴られ続けているのは、やはり私のせいなのではないか? 他人が家にいること、特に自分のような奇妙な女がいることが、どれだけ彼に迷惑を掛けているのだろう?
目立つ上に人付き合いが上手くないレイに危害が加わらないように、避けながらも目につく位置に彼がいてくれていることに、彼女は気づいていた。
人形。病気。馬鹿。
ずっとそう言われて育ってきた。だから、そんな風に言われていることは、知っている。でもそれを面と向かっては言われないのは、目につくところに彼がいて、全ての反感を受け持っているからだ。
実際、自分を適当に育てて結局は放り出して死んだ母親のせいで誕生日というもののないレイには誕生日に家に帰れないやるせなさはわからなかったし、その後の推測には的を外したところもあった。
それでも、心配する気持ちは本物だった。
好きになってはいけない。
私はこの家に引き取られてきたのだ。
私は異常な姿をしている。
私は他の人が知っていて当然のことを知らない。
私は勉強ができない。
私は彼から様々なものを奪っている。
私は彼に嫌われている。
私には自分の素性が何もわからない。
私は、気持ち悪い。
――でも。
それでもレイは、彼が、殴られても蹴られても弱音を吐かず、ただひとり耐えるシンジが、どんなに辛くても、決して彼女のせいだなどと口に出して言ったりしないあの優しい男の子が、好きだった。
レイは覚えている。
初めて会ったとき、明らかに異様な外見をしている彼女にも、彼はおどおどしながらもどこか優しかった。その優しさは決してこの身ゆえの不幸を哀れむようなものではなく、不慣れな環境に戸惑う彼女を案ずるものだった。
あれは――……
回想に浸るうち、レイは危うく眠りに落ちそうになった。
けれども、半分もやのかかった頭は突如耳に飛び込んだ轟音で覚醒した。
いや、それは本当に轟音だっただろうか? 半分は虚ろだったのですぐに意識の奥に消えうせてしまったが、彼女の耳には、こんな音が飛び込んだような気がしたのだ。
――しまった!
ぐらり、と部屋が揺れた。ベッドが大きくずれ、レイは床に投げ出された。
衝撃で半ば恐慌状態に陥ったレイは軽く悲鳴を上げた。そして、とにもかくにも身を起こし、ドアから出ようとした。
「叔父さん!」
レイは普段は出さない大声を出して叔父を呼んだ。今は、声はすぐに返ってきた。
「大丈夫か、レイ!」
彼は風呂上りの寝巻きのままで駆けつけ、彼女の無事を確認するとほっとため息をついた。
だがその直後、彼のもうひとりの子供がいまだ帰っていないことに思い当たった。
廊下に座り込む恰好になっていた二人は同時に玄関を見た。腰が浮きそうになるレイを、叔父さんが制した。
「――レイは、ここにいなさい」
「でも」
「あれは恐らく隕石群だ。連続して降る可能性もある。建物内のほうが幾らか安全だ」
隕石群。去年何らかの原因で崩壊した月の破片の中には引力に引かれて地上に落ちてくるものがあった。幸いにも大規模な被害は現在のところ、アメリカの研究施設に最近隕石が落下した以外には出ていないが、それも運が良いというだけのことで、落ちないという保証はどこにもなかった。
それに、シンジの周りでは、余計に――
そんな思考が浮かんで来そうになる己の頭を、彼は必死に制した。
自分の子を信用しないで、どうする?
碇が逡巡していると、レイは強く彼の手を掴んだ。
「私も、行きます」
碇は息を飲んだ。
その姿が、生前の妻の姿と見間違うほどに重なったからだ。
しかし、などと言葉に出す事もできずに、年端も行かぬ少女の眼に呑まれた。
さすがお前の姪だな、ユイ。
「わかった。なら、一緒に行こう。私の傍を離れてはいかんぞ」
「はい」
碇が答える前にもう歩き始めていたレイは、裸足の上に靴を履き、紐を結びながら答えた。
「これ、は……」
その惨状にたどり着くと、碇は呆然として呟いた。
市街地に、大穴が穿たれていた。
第3新東京市の市街地は、完全に住居区画と分離しているオフィスビル街が主である。それを考えれば、人的被害はほとんどないだろう。
しかし、いったい何人の居住者が、仕事場を失ったのだろうか。
ここまでの被害となれば封鎖は間違いない、この土地を再び使うまでに一体どれほどの――
「碇君!」
レイが叫んだ。
碇が視線を向けるとその先には、幾つもの傷を身体に刻まれて歩くシンジの姿があった。
脚を少し引きずりながら家、そしてレイと碇のいる方向に歩いてくる。
「無事、だったか……」
碇はそう呟いてほっとした表情を見せたが、レイは違った。駆け寄ろうとしたレイは、小さく声を上げてその場に立ち竦んでいた。
シンジは、その腕に血だらけの猫を抱え、まるでレイが見えないように目前を睨みつけて歩いていた。
「……畜生」
バランスを崩してレイに倒れ掛かってきたシンジは、そう一言罵って、そのまま気を失った。
レイはシンジを支え、その肩越しに燃える街を見た。
コンタクトを外した目には明るすぎ、輪郭もぼうっとしか見えなかったが、夜空まで赤く染めそうな火災の中、陽炎がゆらりと揺れた。
誰かいる?
揺らめきの中に、さっきの自分と同じように、誰かが立ち竦んでいるような気がした。
――?
けれども、膝から崩れ落ちるシンジをしっかりと抱えなおして顔を上げると、その影はもうそこにはなかった。
そしてそもそもそこに何かがいたのかどうかさえ、目の悪いレイにはもう確信が持てなかった。
「レイ」
「! はい」
「帰ろう。すぐにここも人や車で埋まる」
レイは自分が引き取られてきてすぐ後の状況を思い出して、答えた。
「はい」
碇はレイからシンジをそっと引き離すと、負ぶって歩き出した。
その後ろについて歩いたレイは、家に向かう坂を上る途中、一度だけ惨状を振り向いた。
隕石で雲は晴れ、その向こうには元凶となった崩れた月がその姿をさらしていた。
レイは炎が揺らめいた場所を眺めた。今はもう様々な怒号やサイレンで埋まる音の上。低い空に星が瞬いたように見えた。
――?
「――イ、レイ」
「え? ……はい」
「大丈夫か、レイ」
「……。はい」
レイは言うなり、距離の離れた叔父さんとの間を詰めるために走った。そして二度と後ろを振り返ることはなかった。