どうしてそのような状況が発生したのか、彼女にはわからなかった。
壊れた月にしろ、攻撃パターンにしろ、このことと何らかの関連があるようにも思えた。
しかし、そのような駆け引きを行なうにはここはあまりに何もかもが速すぎる。
彼女は考えるのを止めて体制を立て直すことにした。
それが彼女の戦っている場所で要求される見切りだった。
――けれども、それは間違いだった。
壊れた市街地を見下ろす展望台にシンジは立っていた。コンクリートで固められている切り立った崖の向こうには、穴になった市街地が見える。数週を経ても相変わらず街は、まるでそこだけセカンド・インパクトを再現したように瓦礫の山になっている。市街地があったときには都市を見下ろす隠れ名所だったこの展望台も、街がこうなってしまえば意味はない。もっとも、災害の前からして既に隠れ名所、と言いたくなるほど忘れられた場所だったのだから、人の少なさは変わるところがなかった。
やはり周りを見渡しても人っ子一人いない。それどころか、あのの大災害に驚いてどこかへと逃げ去ったのか、あの日からは鳥も見えなくなっていた。
今こそ、シンジは本当にただ一人だった。
本来ならばこんな人気のない場所は避けるべき場所であるように思える。こういう場所こそ、シンジを殴りたい人間には絶好の場所なのだから。けれど、それでいいのだ。殴られても構わないとシンジは思っていたし、そういう人間を巻き込むような死の要素がなく、何が起きても関係ない者を巻き込まず独りだけで死ねるような場所を、シンジは他に思いつかなかったのだから。
川に落ちれば「偶然」助けに入った誰かを、そして川に突き落とした誰かがいればその誰かも襲うだろう。
山に入れば「偶然」山火事が起こって燃え広がるかもしれない。
街にいればいつものように「偶然」何かが起こって、敵味方の区別なく誰かを襲う。
校舎の中にいても、「偶然」牙を剥く危ないモノは腐るほどある。
家にも――だから、帰れない。
だからシンジはもう何日も、必要最小限の時間以外はずっとここにいた。
もう何もしたくなかった。自分が死ぬだけならば、それで構わない。
こういう何もない場所にいれば、誰も巻き込むことはない。
そう、思っていたのに。
「――ここに、いたの」
シンジは聞き覚えのある声を聞いてすぐさま振り向いた。最も会いたくない、あの女が、何故ここにいる?
シンジの視線の先、坂のきつい車道の縁に立ったレイは胸を手で押さえ、肩で息をしながら、それでも気丈にシンジを見つめていた。
そして、呼吸が収まるのを待たず、妙な音を立てかけた喉から声を搾り出す。
「どうして……」
レイの搾り出した言葉をかき消すように、シンジは吐き捨てた。
「来るなって、言ったろ?」
言い捨てると、廃墟になった街を再び振り返り手すりに身体を預けた。レイには背中がそれ以上の言葉を拒否しているように見えて、次に何を言えばいいのかわからなくなった。
「……私は……」
もどかしい。言い淀み、俯く彼女に苛立ちが募った。どうして、こんな自分にさっさと見切りをつけて立ち去らないのか。どうして、独りで死なせてくれないのか。
どうして。
「どうして、来たの?」
レイはまた口ごもった。
「……お父さん、も、赤木先生も、心配してるわ。だから――」
そうか。シンジは少しだけ安心して、また冷たく言った。
「いらない。用件はそれだけ?なら早く帰ったほうがいいよ。皆心配するから」
そして少し考え、こう付け加えた。
「僕に関わって、死にたくなければね」
言えば、相手よりも自分の胸をさらに深く貫くであろう言葉を言い放つのにも、もう慣れた。
そうとも。きっと初めからそうすべきだった。そうやって他人を突き放して、誰とも関わるべきではなかったのだ。自分がその中心にいるとわかった時点で、そうするべきだった。
怖くて死ぬこともできない弱虫ならば、せめて、誰もいない場所で独りでいるべきだった。
家にもいるべきではなかったのだ。
たとえ、それがどれだけ父親を心配させたとしても。
学校にも行くべきではなかったのだ。
たとえ、それが彼女との最後の約束でも。
あの頃、言いようの無い不安が常に付きまとい、それに答えるかのように常に何かが起こったあの頃。自分の起こった状況に、気づいてしまったあの頃。シンジは、その道を選ぼうとした。
家から出なければ、家から――
しかし、そこに彼女は現れてしまったし、彼の担任もそれを放って置くような人ではなかった。
「生きてりゃ、いいこともあるし悪いこともあるものよ、割り切れ、割り切れ」
ドラマに出てくる暴力団のようにドアの隙間に足を突っ込み、抉じ開けた隙間から無理やりシンジを外に連れ出した葛城先生は、この展望台で彼にそう言った。
しかしシンジには、それを彼女が心から信じているなどとはとても信じられなかった。
だって、シンジはそのちょうど二週間前に目の前で彼女の婚約者が死ぬ場面に立会って、その瞬間をその目で見ていたのだから。そして、ぶっつりと断ち切られた人間関係に泣くこともできず、ぽかんとした顔をしながら、家族のいなかった婚約者の葬儀の喪主として頭を下げていた彼女も。
明るく話す葛城先生を見ながら、シンジは疑問に思った。彼女は、ちゃんと泣くことができたのだろうか?
自分は、ただ怖かった。彼が死んだことよりも、自分がそれを呼んだかもしれないことのほうが、怖ろしかった。
「葛城……先生は……」
「ストップ!」
言って、葛城先生は手のひらでシンジの口を塞いだ。
「信じちゃあいないわよ。絶対に」
はっきりした声で、言い切った。
「だから、学校、来なさい」
「そんなこと言っても……みんなは……」
また言い終わる前に、葛城先生は再び、そして今度は決定的にシンジの話を遮った。
「……『みんなが?』みんなが、なんだって!? 何だ! 言ってみろ!」
葛城先生はがくがくと何も言うことのできないシンジの肩を揺さぶった。散りかけた桜の木の下、始業式を目前に控えた春の淡い夕焼け空の下で、葛城先生は言い放った。
「じゃあ何!? あんたは、みんなが『死ね』っつったら死ぬわけ!? 『お前のせい』って言ったら、そう思うわけ!? ――あいつは、あんたが殺したってわけ!?」
葛城先生が激昂しているのがわかる。肩が、足が、腕が、体が芯からぶるぶると震えているようすが、言葉になりきらないほどの思いを言葉に無理やり叩き込もうとしているようにシンジには見えた。
「そんなのは、信じない。絶対に、認めない。そんな不確かなもんに、あいつが殺されてたまるか」
シンジはその気迫に何も言えないまま、ただ、うなづいた。
そして、シンジは学校に通うことにした。
けれど、やはり「そんな不確かなもん」はシンジの前に現れた。最悪の形で。
「……あのさ、あたし、これが碇君のせいだなんで絶対思わないから」
めちゃくちゃな激痛が走っているだろうに、それでも笑って葛城先生は言った。
「救急車……救急車を!」
「ああ……なんか、ちょっち、駄目っぽい。痛くないんだ、もう。なんか、痺れて」
「今……今……」
そう呟いて助けを呼ぼうと――逃げようとするシンジの腕を、葛城先生は物凄い力で掴んだ。爪が皮膚に傷をつけるほど強く。
まるで呪いのような強い声で、葛城先生は言った。
「私を言い訳にして、負けたりすんじゃないわよ。このまま、わけのわからないもんに負けるなんて、私、許さないから」
それだけをやっと言い終わると、けふっ、と、小さく血を吐いて、葛城先生は意識を失った。救急隊員に引き剥がされてなお、シンジは赤い水溜りの上で彼女の言葉を思い出し続けていた。
そして、シンジは今度こそ学校に行くようになった。もう、休むことなどできなかった。せめて、葛城先生から許しが出るまでは、意識不明のあのひとが、意識を取り戻すまでは、決して、休まない。
だから、殴られても蹴られても、学校には行った。何かが誰かを襲わないように、周りの気配に神経をすり減らしながら、必死に人を避け、それでも休まず。
「――でも、それも、結局は僕のわがままだったんだ。死ねば良かったんだ、あの時に」
あれは間違いなく自分の「周りにいる人間」を襲う。
自分に向かって落ちて来たはずのガラスが自分にはほとんど刺さらず、彼女にすべて突き刺さったときに、それはわかっていたはずなのに。たまたま彼女だけが「刺さり所が悪く」意識不明に陥ってしまったときから、そんなことはわかりすぎるほどわかっていたはずなのに。
「怖かったんだ。怖かったんだよ」
怖い。死ぬのは怖い。生きているのなんてどうでもいいことだと思っていた。死にたいと思った。でも怖い。怖い。何もなくなってしまう。何も、自分の何もかもがなくなってしまうのだ。
「だからきっと、学校に来ていたんだ。僕が近づくと、みんな死んでしまう。でも、人のぬくもりは欲しいんだ。ずるいんだよ。本当は、自分が独りで死ぬのが怖くて、きっと誰か一緒にいて欲しかったんだ。たぶん、君にいて欲しかったんだ。……君は、僕の家族を取る人だから」
彼女の目に涙が浮かぶ。自分のことなんかなんとも思っていないだろうと思っていたから予想外だが、嫌ってくれるならその方がいい。もしも間違って自分のことを好ましく思っていたのなら。
本当は彼女が嫌いなのに助けるようなことをしたのも、全ては、自分のためなのだから。
「苛められるのも、嫌だったけど、本当は心のどこかで嬉しかったかもしれないんだ。殴られて喜ぶなんて、気持ち悪いだろ? でも、楽だったんだよ。あいつらだったら、不幸になったって、きっと死んだってなんとも思わないから」
間違ったことは言っていないつもりだった。でもどこか、回路が欠けているような感じがした。
「君は僕なんかの近くにいちゃいけないんだ。父さんは君にあげる。いや、もうずっと前から君のものだよ」
そう自嘲気味に言って、シンジは目に涙を浮かべる彼女に背を向けて空を見上げ、
――固まった。
言わんこっちゃない。
仰いだ天のその向こうに、昼の光の中でもさらに明るく光るものが見えた。
見えた物の意味を理解して、シンジは今まで無理やりにでも死ななかったことを、心底後悔した。噛んだ唇から血が滲むのがわかった。だが、そんなことでは許されるはずはない。死ぬべきだった。チャンスはいくらでもあった。道路が陥没した時だって。葛城先生の隣でガラスを握り締めた時だって。
――あの隕石の落ちた時、猫が崩れる瓦礫の下敷きになりそうだったあの瞬間だって。
何故、一思いに死んでおかなかった?
なぜ――
こうやって自分に向けて隕石が突っ込んで来るまで、決心がつかなかったんだ?
「逃げて!」
シンジ後ろを振り向いて叫んだ。いくら走ったとて、あの隕石には間に合わないのは何となくわかったが、そう言うしかなかった。
「――嫌」
「はあ!?」
意味不明な答えにシンジは駆け出し、レイの手を引いた。
「逃げろ! 逃げるんだよ!」
強く引いたら千切れてしまいそうな細い腕を強く引く。しかしレイは頑として動こうとしなかった。
「……私も、信じない」
シンジは引く手を止めてレイの瞳を覗き込んだ。コンタクトの奥の赤い瞳には、強い意思があった。
「私も、碇君が悪いなんて、信じない。全部自分のせいにする碇君の言葉も、信じない。絶対、信じないわ」
いつものなじめない他のクラスメイトに見せる強がりでなく、こんなにはっきりと物を言う彼女をシンジは見たことがなかった。
「……何を……」
言う間にも、隕石は迫る。ついさっきまで遠いところにあった赤い火球が、間違いなくこちらへ向かってぐんぐん大きくなる。
何か方法はないか?
今回もまた自分は誰一人救えないのか?
そしてまた僕一人が死なずに――待てよ?
自分は無事だと言うのなら。必ず自分に被害が来るようにしていれば、彼女一人くらいは守ることができるのではないか?
そうだ。葛城先生の時だって、葛城先生が自分と同じ場所にいれば、被害は最小限で済んだ。
ならば。
「きゃっ!?」
シンジは力が抜けかけていた手を目一杯強く引き、踏ん張るレイを思い切り引っ張った。標準的な体力も大幅に下回っているレイが細くても男であるシンジの渾身の力に勝てるはずはなく、彼女はたたらを踏んで、シンジの腕の中へ収まった。
「碇君?」
何も答えず、シンジはレイを覆うように、強くその身体を抱きしめ、頭を抱えた。
これで全ての傷は僕に。
お願いだから。
どうか。
彼女を、助けて――
どこにも届くはずのない願い。しかし、その返事は確かに聞こえた。
そして、答えは返ってきた。
『私を呼んだのは、誰?』
かたく閉じて震えるまぶたを次に開けた時、シンジは影の中にいた。
影――身の丈数十メートルはありそうな巨人の落とす、影の中に。
ずいぶんと長いこと、その呼び声は聞こえていた。彼女は初めのうち、彼女の流れから見れば極端に間延びしたその波が意味をなしているものだと気づかなかった。そしてやっとそれが「言葉」だと理解した後には、今度は疑問に駆られることになった。
何も見えず、何も聞こえず、何も匂わないこの世界に、どうして声が響くのか?
だがともかく、その声は助けを求めていた。
ふと声の方へと意識を向ければ、隕石がじりじりと落ちようとしている地点があった。そして、長い長い呼び声はそこから聞こえてきていた。
失敗した、と彼女は思った。もう何万世代も世代を重ねた使徒共やそれが紛れた隕石の中には、ごくまれにこんな風に感覚をすり抜けるものがある。彼女にとってはもう大昔のことだったが、隕石一つを見落として、都市を一つ消されてしまったこともあった。
あの時は、思わず長い時間地上に居座ってしまい。さらに被害を拡大しそうになってしまった。
あのような惨事は繰り返したくない。
彼女は久しぶりに地上にまで下りることにした。
そのためには猶予を稼がねばならない。最低でも地上に降りる、外部時間にして数分の猶予は必要である。多少の抵抗ならば軽減できるとはいえ、大気がある所でそうそう無理をするわけにはいかないからだ。隕石を防いだとて、自らが衝撃波を生んで地上を破壊してしまったなら、地上に住む人々にとっては何ら変わるところはない。
手馴れた時間の流れ方の内に考えをまとめると、彼女は一気に運動速度を高めた。使徒共は少し遅くなり、それと同時に世界が暗さを増す。もっとも、もはや内蔵された視覚を使っていない彼女には意味はない。
猶予を生むために倒しておくべき敵と打ち落とすべき攻撃を外部の時間にして0.3秒と経たない内に次々と処理しながら、彼女はその長い呼び声をいくつかの感覚を占有して感じ取ることにした。
彼我の間にある時間の速度差がさらに広がったせいでその声はひどく理解しにくくなってしまっていたが、それまで聞こえていた声の記憶を呼び出し、少しの作業空間を使って補完してやれば、その言葉は解読できた。
その思考言語は彼女の知る言葉だった。
――全ての傷を自分に、だから、この人だけは助けて――
見上げた心意気だ、と彼女は思った。あの頃の私とは大違いだ。この役割を買って出た時の自分を思い出して、彼女は体感時間にして数万年振りに、くすり、と微かに笑った。
そして。勇敢な呼び声の主が解かるくらいにゆっくりと、たっぷりと時間を掛けて彼女は声を返した。
声を返し終わる頃には準備も終り、壊れた月の上には久々に異形の死屍が累々と積み上げられていた。
彼女は、このように声を放った。
『私を呼んだのは、誰?』
そして声を放つと同時に、また空間の裂け目近くを駆けた。
目の前に現われた赤い巨人、大きな背を持つ巨人を、シンジはよく知っていたような気がした。
「……弐号機……」
ニゴウキ?
自分の口をついて出た言葉の意味がわからなかった。目の前にいる巨人はマンガやアニメの中の巨大ロボットなどではない。当然のことながら、シンジは現実世界にいる巨大ロボットなど見たことがなかった。
にも拘らず、自分はこの巨人の名を知っている。
目の前に降り立った巨人の前に赤い壁が広がり、その向こうに自分達に向かって落ちてきていた隕石があった。何が起こっているかはすぐにわかった。大きく足を開いて手を伸ばした巨人は、落ちれば間違いなく周囲を吹き飛ばす大岩を受け止めていた。
「受け止めて……いるの?」
シンジの腕の中にいたレイが言った。シンジと同じように、レイにもそうとしか見えなかった。間違いない、この巨人は私達を守ろうとしている。
「何故……?」
その言葉を最後にして、レイの意識は闇に落ちた。巨人を見つめていたシンジはレイの体重が掛かったことでそれを知ると、膝から崩れる彼女を支えて地面に座り込んだ。
見上げれば、もう巨人の戦いは終焉を迎えようとしていた。
みるみる内に巨人は隕石を押し返し、今では巨人の背の遥か上にその全貌が見えていた。既にその先端は崩れ去っていた。
そして残る部分も終にはゆっくりと崩壊して、最後にはただの砂となって巨人の肩の上を流れ落ちていった。
こうして危機は去り、そこに残るのは二人の中学生と、彼らを救った赤い巨人のみになった。
巨人は赤い壁をかき消すと、緩慢な動きで先まで背を向けていた展望台に向き直った。
巨人の顔が見えた。
その顔には布のようなものが巻かれていた。それはちょうど目がある部分で、布に浮き出る形と染みる青い色から、その下の素顔は大きく歪んで、傷ついているのがわかった。それだけではない。よく見れば、その巨人は顔中、そして身体中に傷を抱えていた。
言葉が出なかった。自分はこの巨人のことなど知らないはずなのに、自分の罪を突きつけられているような気がした。
目の見えぬ盲目の巨人はその下にある目でシンジをしばし見つめた。少なくともシンジにはそう思えた。
『私を呼んだのは、あなた?』
突然響いた声に辺りを見回しても、そこには誰もいなかった。そしてもっとおかしなことに、今さっき聞いたばかりだというのに、その声が男の声なのか女の声なのか、子供の声なのか老人の声なのか、そして、人の声なのか人以外のものの声なのか、何ひとつシンジにはわからなかった。
けれども、唯一つ、呼ばれたことは確かだった。恐らくは、この巨人から。
シンジはレイが頭を打たないよう鞄を頭の下に引いて寝かせると、巨人を見つめ立ち上がった。
「はい!」
巨人に届くような大きな声で叫ぶ。怖れはなかった。この巨人は自分のことを助けてくれたのだし、何かを失う恐怖ならもう、とうの昔に味わいきった。
シンジが答えると、巨人はしばし沈黙を守った。何かを思い出すような沈黙。
そしてしばしの沈黙の後、巨人の背から何かの駆動音らしい大きな音が響いた。
肩の少し上に、白いものがせり出しているのが見える。やはり、シンジはその先もよく知っていた。
何か、出てくる?
シンジの知らないはずの記憶は正しかった。
巨人の肩に、人影が現れた。人影は女性だった。彼女は巨人と同じように片方の目に包帯を巻いて、もう片方の目も閉じていた。
「――あなた――碇、碇シンジね?」
巨人の肩に乗った女性は、先ほどの妙な声とは違い、少し調子の外れた声でそう叫んだ。
どうして、この人は僕を知っている?
シンジが疑問に思うより早く、彼女は巨人の手を借り、展望台の上へと降り立った。その途端、巨人は来たときと同じく、残像を残してかき消えるようにその場から消えた。一陣の風が吹いた後、彼女は目を閉じていながらシンジの立つ場所へと真っ直ぐに歩き進み、今度は調子の外れていない落ち着いた声で、もう一度訊いた。「碇、シンジね?」
シンジはまじまじと彼女を見た。その長身の女性は、どう見ても十代か、よく行って二十代かそこらにしか見えない若い姿で、少し濃い茶色にも見える金髪と好対照の真っ赤なウェット・スーツのようなものをぴったりと見にまとっていた。胸の形も、脚の形もくっきりと浮き出ている。それだけならばどう見ても、冗談にしか見えないところだが、それにも拘らずそう思わなかったのは、彼女が見た目にそぐわないような落ち着いたたたずまいを見せていたからだった。
シンジは少し気後れしながら、その見知らぬ女性の質問に答えた。
「えと……はい」
彼女は少し首を傾げた。しかしすぐに状況を理解したのか、くすりと笑って言った。
「そうか、覚えていないのね?」
覚えていない? シンジはその言葉でさっき感じた既視観のことを思い出して少し混乱した。もしかしたら自分が覚えていないだけで、このひとは自分の知り合いなのか?
「あの、僕……あなたと……」
「――いいえ、いいのよ」
彼女が途中で言葉を遮った。とてもきっぱりとした口調で、話題を打ち切らせる強さがあった。
「今は、高校生?」
あんな巨人を乗りこなす謎に満ちたひとだというのに、その口から出る話題はまるで近所の人と会話をしているようなものだった。シンジはますます混乱しながら答えた。
「……いえ、中三です」
「まあ、そう――そう」
彼女は一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに悟ったように軽くうなづいた。
「私の主観では『あの日』からももう数万年の月日が流れているけれど、それもここではそれはほんの少しの間のできごとに過ぎない――何、わかりきっていたことだわ」
「あなたは、何を……」
シンジが彼女の言うことがわからずに混乱していると、彼女は、ああ、と小さく呟いた後で言った。
「ごめんなさいね。永いこと独りだったものだから、人と話すのに慣れなくて」
やはり、言っている意味はわからないままだった。彼女はそれを無視して訊ねた。
「あなたが呼んだのね? 私を」
「はい」
「どうしても、何かを守りたかったのね?」
「……はい」
シンジは答えながら目を伏せる。シンジはそれまでのことを思い出していた。自分を中心とした事件、それに巻き込まれてしまった人々、それをただ見ているしかできなかった自分。
それは半ば、何かに記憶を吸い上げられるような気持ちだった。
「――ごめんなさい」
はたと気づいて顔を上げると、彼女は閉じた目から一筋、涙を流していた。
「何も知らずに、あなたに運命を押し付けていたのね」
「どういう……」
「あなたは、何も悪くないわ」
何も知らないはずの彼女は言い切った。
「あなたは自分のせいで人が死んだと思っているのでしょう?」
言い返せない。
「……でもね、それは逆よ。あなたは私が捻じ曲げた場所から元の流れに戻ろうとする運命を引き受けて、皆を守っていたのよ。あなたがいなければ、きっと、そんなことでは済まなかった」
少年にはきっとわからないであろう理由を言いながら、彼女は少年の記憶に過ぎった人々のことを思い、自らが望んで捻じ曲げ、消し去った本来の日々のことを思い出した。そうだ、彼がいなければ、例えば途中で生きることを諦めていたら、目標を失って淀んだ流れはもっと多くの人々を巻き込み、彼女の知る何人かの人々も怪我などではすまなかったはずだ。この場所も。
しかし彼女はそれを言うことはなかった。そんなことを言っても彼には何の慰めにもならない。彼にとってはこの、変えられてしまった後の日々が唯一の現実なのだから。
だから彼女は、言った。
「あなたは何も悪くない。これは、私の咎よ」
そして、もう一言。
「生きていてくれて、ありがとう」
「どういう……ことですか」
答えは、彼女の目の前に立ち尽くしている少年からのものではなかった。
彼女は彼の肩越しに、よろよろと立ち上がりながらそれでも厳しい目で睨みつけてくる少女の姿を認めた。
それは見知った顔だった。
「あなたが……あなたが、したの? これを」
彼女は、さっき少年を知って驚いたときと同じように、いや、それ以上、憎しみすらも含まれた気迫をその蒼ざめたような髪に返した。
「おまえは……」
レイは動けなくなった。
問い詰めてやるつもりだった。目の前に突然現われたこのひとに。何もかもを自分のせいだというこのひとに。
もしそれが本当ならば、決して許さない。
けれど、その決意は怖ろしい目に見つめられた途端、凍り付いて動かなくなった。彼女は、目を閉じているというのに。その下にある目が、怖ろしい。
まるで眼球に刃物を突きつけられているような。
しかし、すぐにその恐怖はやわらいだ。
彼女は考えるような顔をしてから、ゆっくり、訊いた。
「綾波――レイ?」
名前を言い当てられて、レイは目を剥いた。だが、このひとが知っているのは、きっと……
「母を、知っているんですか?」
何時の間にか敬語になっている。彼女の放つ恐怖と威厳の証だった。
「お母さん?」
それを話を促していると取って、レイは話を続けた。
「母は、死にました。突き落とされて」
それが、レイが知る自らの母、綾波レイその人の最後だ。情夫に突き落とされた身元不明の女と、その娘。娘は、持っていたお守りに「レイ」と縫い付けられていたことから、それが名前だと推定され、苗字は不明のまま孤児院に預けられることになった。死んだ母親も、もう元の姿がわからぬほどに崩れていたが、残された娘のほうは、さらにひどい状態だった。その子は年のころで四、五歳だと思われたが、先天性と思われる色素欠乏による極度の弱視を放置していたためにものがよく見えておらず、また、ろくに話かけもしていなかったのか、その語彙は同年代の子供よりはるかに貧弱だった。自分の名前すら、答えることはなかった。
こうして、日光で荒れた肌をかきむしっていた幼女は、母親の名前を与えられた。誰も、お守りは母親である綾波レイの腹違いの姉、碇ユイがその妹に送ったものであり、子の方は初めから名前すら与えられていない「名無し」だったのだとは気づかなかった。
その事情を、レイはもう知っていた。だから彼女はその質問にはっきり答えることができた。
「何人目?」
そのことから逃げたりはしたくない。叔母さんが彼女を見つけ、引き取る決心を決めたとき、この名前がきっと影響しただろう。母とレイの顔は瓜二つだという。叔母さんは生前、よくレイを見て、レイ、と言った。レイちゃん、ではなく。
母親から継いだものに助けられたこともあったのだ。だから、もしこの人の知るレイが私ではないとしても、はっきりと答えよう。どうあれ、私はあのひとの娘なのだ。
「二人目です」
アスカが答えると、アスカはすべてを知って得心がいった、というふうに軽くうなづいた。
「そう――あなたなのね」
全てはついさっきの瞬間のために遡及的に組み上げられていたのだ、と彼女は気づいた。
壊れた月、地球に落とした数々の隕石、白き月と交わってあの黒い月が量産した悪魔のはらから、歪んだ運命。その全ては、この華奢な女の子ひとりのため、彼女に隠れて、この蒼い髪の女の子に過酷な運命を背負わせて苦しめ、そして殺すためのものだ。理由も、簡単にわかった。
やつは、我慢がならなかったのだ。自分と血を分け、本当ならば自分に代わってあの大きな白い女に還るはずだったこの少女が、のうのうとここで生を得ているなど。同じ記憶を継いだ三人目であり、ついに自分はあれに還るという欲求に逆らえなかった脱落者だからこそ、許せないはずだ。
そして、もうひとつ、仕掛けられていたことがあったことにも、彼女は同時に気づいていた。それはあの大きな白い女がこの場所から運命を手繰って張り巡らした策略と比べれば、彼女とこの小さな肩の男の子を信じて託されたほんの小さな可能性にしか過ぎなかったが、確かにここに実を結んだ。彼女がこの世界を選んだこと。ここに現れたこと。流れの中心にこの少年がいたこと。この少年がここに彼女を呼んだこと。それは、きっとあのひとの願いと償い。我々は、自分の血を受け継ぐ少女に引き裂かれ続ける命を与えてしまったあのひとが、少女に与えた自分の――叔母の記憶と一緒に、この星に残した置き土産なのだ。
利用されたことがわかっても、気分は悪くなかった。悪くなるはずもない。あのひとは仕掛けをしただけで、それを実現したのは彼女と、その目の前で戸惑いながらやりとりを見つめるこの少年の自由意志だったのだから。
今、彼女の目の前には若い二人がいる。運命の糸が引き寄せて、引き裂きそうになった、もうすぐ恋人になれるだろう二人が。
彼らのことを若いと思う自分に気づいて、なんて自分は歳をとってしまったのだろうと彼女は思った。そう、彼女は歳を取りすぎてしまった。この若い二人を、応援してあげたくなるほどに。
黙り込んだ女性が急に泣きそうな笑い顔をしたので、二人はきょとんとしてその女性を見つめた。女性は先までのはっきりとした調子ではなく、もっとずっと弱々しいため息をついた。
「……若いのね、あなたたちは」全てのことを諦めてしまったように感慨深いようすだった。「私は、もうこんなにも魂がすり減ってしまった。独りの時間が長すぎて、すっかりおばあさんになってしまった。――きっと、例えば私の使命が終わって私たちがあなたたちの前に帰ってきても――記憶を戻してさえ、あなたたちは気づきはしない――」
二人は何も言えなかった。何も理解できない。彼女が悲しんでいることは辛うじて理解できたが、抱えている悲しみがどれほどのものなのか、若い二人にはわからなかった。
やがて、彼女は初めて包帯を解き、両のまぶたを開いた。包帯の下にあった片方の瞳は、もう片方の強い青の目と異なって、少しくすんだ青色をしていた。
彼女はその勿忘草色の瞳でレイを見据えた。
「ねえ……レイちゃん」
彼女はもうはるかに年下になってしまった、同僚になる可能性があった女の子をそんなふうに呼んだ。そして、その頭に直接声を響かせた。
『何も怖れることはない。約束する。あなたたちの間に何も障害は無い。きっと、彼はもうあなたのもの』
声を響かせながら、彼女は体の奥で何かがちりちりと痛むのを感じた。
少しして、それが、長らく経験していなかった。葛藤というものなのだと思い至った。もう永い間、本音や建前などという駆け引きとは無縁の場所にいたので気づかなかったのだ。
彼女は薄く笑って、その痛みを無視し、さらに続けた。今度は少年に、視線を向ける。
「ねえ……シンジ君」
彼女はまたもうはるかに年下になってしまった、同居人になる可能性があった男の子をそんなふうに呼び、その頭に声を響かせた。
『迷わないで。あなたはあの夏を越えられるのだから。約束する。すべて上手く行く。だから、もう、彼女を手放さないで』
そして最後に、二人に向けて。
『――またね。あなたたちにとってはまばたきをするくらいの一瞬、わたしにとっては宇宙の端から端まで往復する旅のような永遠の時間の後で、また、逢いましょう』
その言葉を届け終わると、彼女は彼らの視界から掻き消えた。彼女の言葉は、ちょうど降り出した夕立が展望台の荒れたコンクリートに浸み込むのと同じように二人に浸み込み、それ以外の記憶を覆い隠した。
彼女は何もしていない。ただ、ほんの少し背中を押してやっただけだ。自らの決心が鈍らぬよう、追い討ちをかけるように。
もうずっと昔から思いあっていた二人には、それで十分だった。
夏の始まりを告げる夕立の中、少年と少女は口付けを交わし、女はそれを眺めていた。
一瞬、彼女の姿はもう見えないはずの少女と目が合った。すぐに彼女はその理由に気づき、小さく苦笑して言った。
「まったく、妹だなんて、あたしに遠慮してそんな無理をしなくたっていいのに。ファースト。あんたにはその資格がある。しっかりと、こいつを捉まえていなさい。大丈夫、この道は――私が全うする。さあ、もう記憶の中へお帰り。この世界では、あなたはもう、普通の女の子なんだから」
言い終わると、緋色の服を着た女はそっと目を逸らし、踵を返してゆっくりと崖へと歩き出した。
「ああ……夏は雨まで熱いものだったかしらね」
くすんだ蒼い目の女は呟いた。雨を受けた顔は頬まで熱く、その顔は少女のようだった。
しかし、すぐに少女の顔は年かさの女性の顔に、そしてさらに老成したそれの後ろへと隠れた。そしてついには、それら全てを突き抜けて、戦士の表情が現れた。燃えるような緋の服と同じような息を漏らし、自信に満ちて背を伸ばしたその姿は、間違いなく戦士の立ち居だった。
それでも、その声だけはまだ老成にはほぼ遠かった。
「因果な道を選んでしまったものね。でも、私はここまでやってきた。たとえ、勢いでも。ならば、全うするしか、ないわね」
もはや少年たちには見えはしない、自らの姿を見ることは叶わない盲目の赤い巨人の手のひらへ乗り、声を掛けた。
「永いこと任せっ放しにしてしまってごめんなさい、ママ。申し訳ないけれど、もう少し、この殺し合いに付き合って。――ええ、決めたの。ちょっと、あいつらの親玉と話をつけなきゃいけないことがある。友達に約束してしまったから」
永遠の闘いに付き合わせてしまった母親にそう詫びると、彼女は次に空を睨み、今度は地の底から燃えるような戦士の声でささやいた。
「さて、待たせたね、懲りない天使共。大丈夫。たとえお前らが全ての人の子のように多くなろうと、針の頭の上で踊りきれるほどにすばしこくても――今度こそ、光の速さで全て屠ってくれる。大気圏内にはもう一歩たりとも通さない」
自分と、母親と、そして敵への呼びかけですっかり戦士の声に戻った彼女は、また空気を伝う音波も、空間を伝う光波も忘れ去った。視覚も聴覚も味覚も嗅覚も、触覚さえも捨て去ってなお感じるものだけを頼りに、光にも近い速さの闇へと戻るのだ。
「ねえ、でも……」
闇へと歩みだし、彼我の時間が決定的にずれ、また永遠にも近い時間がその間に横たわる瞬間に、彼女はひとつの思念を発した。もう彼には手が届かなくなった、という小さな後悔と、最初から最後まで不幸なままで死んだあの子が救われるという安堵とともに。本音も建前もない世界に帰った彼女には、もうその思いは隠せなかった。それは彼らの幸せを願うのと同じくらい、心からの願いだった。
彼女は願った。
ねえ、どうか、どうか私を、忘れないで――
心のほんの隅でいいから、ずっと、覚えていて。
「……碇君?」
はあっ、と小さい吐息でレイは訊ねた。
「なに?」
「私のこと、好き?」
「……うん」
シンジは告白した。勿忘草色の目をした女の放った思いは、その言葉と共に、シンジの頭の片隅に刻み込まれた。
夕立が止んだ空に、シンジはふと何かを思い出しそうになった。けれど、その思考は途中で遮られる。
手に力を感じた。見ると、レイが不安げにシンジの手を強く握っている。シンジは小さく笑って、その手をしっかりと握り返した。