「明日か」
僕はカレンダーを見た。今週の週末、つまり明日の日付には、赤のマジックでぐりぐりと印がつけられている。
思わず口を突いて出た僕の言葉に、真っ赤な顔の綾波とアスカが反応した。
「えぇ、明日」
「で、決まったの?」
二人とも顔が赤いのはミサトさんに無理やりお酒を飲まされんだろうな。声も何となく上ずって、ふわふわしている。
僕はそれが可笑しい、というかもうむしろ微笑ましくて、小さく笑いながら答えた。
「うん、遠足に行こうかな、って」
「遠足ぅ? はっ、ガキじゃあるまいし……」
「なぜ……?」
相変わらずアスカは口が悪いし、綾波はとことんまで省略した短い言葉遣い。
でもやっぱり、それが僕らが手にした「いつも通り」。代わり映えのしない会話が花を咲かせる。
「うん、中学のときさ、僕ら、修学旅行いけなかったでしょ? だから」
綾波は納得したように頷き、アスカはハッとしたような顔をしてから、やっぱり早口でまくし立てた。
「そう……」
「はんっ、あんたにしちゃ上出来ね! いいわ、あんたたち二人じゃ何かと不安だからあたしもついていってあげるから光栄に思いなさい!」
何か日本語変だよ、アスカ。
綾波は何だか鬱陶しげな顔だ。
「……いい。碇君と二人だけで大丈夫だもの。あなた、邪魔」
「うるさいわね! あんた達二人だとなんか危ないのよ!」
「……何が?」
アスカと綾波が言い争い始めたところで、向こうで騒いでたミサトさんが気付いたみたいで近づいてきた。顔にはやっぱり、にたにたした嫌な笑いを浮かべていた。
おもむろに近づいてきて、一言。
「ナニがよ」
「止めなさいミサト。皆が皆、あなたみたいにいかがわしい思考をしているわけじゃないのよ?」
ツッコまれたミサトさん、吹く吹く。千年の恋も一瞬で冷めそうなのに、加持さんはなかなかしぶとい人なのかもしれない。
「んぐっ! げほっ! どーゆう意味よ!」
「言われなきゃわからない?」
「ははは、こりゃあリッちゃんに一本取られたなぁ、葛城?」
にやけたミサトさんの言葉にすぐさま返されたリツコさんの言葉で、ミサトさんの矛先は入れ替わったみたいだ。やっぱり仲、良いんだな……。そんな二人の隣には、笑いながら言い争いをなだめて間を取り持つ加持さんがいる。きっとミサトさん達はずっと昔からこうやって付き合ってきたんだろう。この三人が飲んでいるのを初めて見た僕でも分かるくらい、自然な雰囲気だった。
結局、ミサトさん達はそのまま居座ってしまった。
「いいじゃない遠足! 素敵よぉ」
「そうね。まあ、折角の休日なんだし」
「美しいご婦人方とご一緒できるなら、私めはどこにでも」
「あーあー、良かったわね下僕」
「おいおい、そりゃあ酷いな葛城」
「そうね、ピクニックには召使が必要なんじゃない?」
「リッちゃんまで乗るなよ……」
楽しそうに喋りながらお酒を飲んでいる三人を横目に、アスカと綾波は言い争い続けている。
「大体あんたっておかしいのよ! 裸でリビングうろつくしシンジの布団に入ろうとするし!」
「どうして? リビングを歩いたのは風呂上りで暑かったからよ。おかしいことはないわ」
「あんたの脳内メモリには、『慎み』とか『恥じらい』とかそういう言葉はないわけ!?」
じゃあアスカにはあるの? とは思ったけど、怖くてとても訊けない。
「……そう、あなたは恥ずかしいのね」
「当ったり前でしょうが!」
「そう、人に見せられないような恥ずかしい体をしているのね。私は違うから」
「っ……!!」
あ、アスカの顔が今まで以上に赤くなってる。お酒も入ってるし、冗談じゃなく血管切れないといいけど。
結局、この数秒後にアスカが爆発。リビングはえらい騒ぎになった。
「あんた……この!」
「……うるさいわ」
取っ組み合いを始めながら、でもどこか勝手を知った風な二人。そして、後ろの三人は相変わらずそれを肴に飲んでいる。
楽しい、和気あいあいとした風景。
でも僕には、いつものようにそんな声がどこか遠く感じる。これは癖みたいなもので、もう慣れっこだ。
僕は暗くなった気分を断ち切ろうと軽く頭を振りながらベランダに出た。
今日はちょっと、失敗だっだかもしれない。
暖かなリビングと違って外は少し涼しくて、静かで、ますます明日の事に思考が向いてしまう。いよいよ、明日か。実感なんて、湧かないんだな。ミサトさん達は……あまり考えないようにして、努めて普段通りにしてるんだろうか? でも、相変わらずミサトさんはお酒が飲めればそれでいいという感じで、ここの所もやっぱり飲んでは騒いでるし、加持さんはそんなミサトさんに言い寄っているし、リツコさんはどこか一歩引いた感じでそれを見ている。そんな三人は、掛け値なしにいつも通りに見える。
あ、でも。三人揃った姿を見ることは、最近めったに無かった。ということは、ここのところずっと一緒にいるのはやっぱり明日のことを考えてなんだろうか。でも、やっていることは結局飲み会で、先の事を憂えたり、悩んだりしてる、とかそんな感じはしない。
どうなんだろう。明日のことなんか、あんまり気にしてないのかもしれない。事実をありのまま受け入れて普段より素直に行動してるってことなのか? それとも、僕がもう決まっていることなのにいつまでも悩みすぎてるだけなのか。
「……ふうっ」
ループしそうになった思考を深呼吸で落ち着けて月を見上げた。
丸くなりかける月は雲に隠れてはいない。天気予報によれば、明日も晴れだ。
明日も、月はちゃんとそこにあるだろう。
それでも僕は何となく、月に願いをかけた。
晴れますように。
にぎやかなリビングとは対照的に、ベランダの向こうでは、満月が機械仕掛けの街を静かに照らしていた。
部屋に入ると、騒ぎ疲れたみんなが予想通りに潰れていた。誰が? 当然、全員。あられもない姿のミサトさんの隣で本来ならぐでぐでに酔ったりなんかしないはずの加持さんまで酔っ払っているのは、僕がいるからなんだろう、きっと。
僕は仕方なく、片づけを始めることにした。
と、その前に、やることがある。電話を取り出し、メモリーから登録している番号を呼び出した。
今はまだそんなに遅い時間ってわけじゃないから(驚くなかれ、この飲み会、なんと昼からずっとやっていた。お昼から呑み続けたら、いくらミサトさんでも潰れちゃうよね)そう迷惑でもないはずだ。 それに、やっぱり明日は……
「シンジか?」
男の声。良かった。また委員長が出たらどうしようかと思った。気まずすぎてどうしようもない。
僕は話を切り出した。
「あ、トウジ? 明日なんだけど……遠足、行かない?」
「あん、遠足ぅ?」
突然の申し出に、訝しげな返事。ま、当然だよね。
明日のことは、本来はネルフの中だけの秘密らしい。情報操作、っていうのが具体的に何なのかはよくわからないけど、ネルフが色んなところに圧力をかけて情報をシャット・アウトしてるってリツコさんは言っていた。
だからなんだろう。街の中も外も、テレビの向こうでも、明日のことは何も言わず、いつも通り。
そんな風だから当然、誰にもこのことは秘密のはずだった。けれど何故だか、トウジとケンスケ、それに委員長には特別に教えてもいい事になった。それはアスカに言わせれば「大人のエゴでしょ。罪滅ぼしのつもりなんだからどーせ」ということらしいけど、僕は結構、このことには感謝していた。勿論、口外しないっていう契約は絶対に守らないといけないが、それは仕方ない。それに、誰もこんなこと、信じないだろう。
僕としては、数少ない友達と同じ気持ちで明日を迎えられるならなんでもよかったのだ。それこそエゴかもしれない。でも、僕はそうしたかった。神様には許してもらえないかもしれないけど、そんなときは神様に言い返してやるから、構わない。
「うん、いつものメンバーで沖縄に行こうかと思って。ほら、僕達修学旅行いきそびれちゃったしさ。この機会に行っちゃおうかなって。その……トウジと委員長は、二人っきりでいたいんだろうとは思ったんだけど、やっぱりみんなで行きたいんだ」
呆れたような調子でトウジは断言した。
「アホ」
「うん……ごめん」
「ちゃうわドアホ。そんなん気にせんでええっちゅーとんねん。ワシら友達やろが。皆でワイワイやるんやったらそれに越した事ないやろ」
「……うん、ありがと。あ、じゃあ僕ケンスケと委員長にも電話しとくからこれで」
僕がそう言って電話を切ろうとすると、トウジは妙な間を置いて言った。
「……あー、ええわ。ヒカリにはワシから言うと……」
トウジの言葉が終わろうとしたその時、電話口の向こうで「トウジまだー? のぼせちゃうから早くぅー」という、聞き覚えのある声――委員長の声が聞こえてきた。
そういうことか。悪いことしたな。
「……えっとな?」
僕は小さくなるトウジの声に、なんでもないように答えた。
「うん、じゃ頼むね。僕ケンスケに言っておくから」
「お、おう、すまんな」
――まあ、一言くらい、いいか。
「……風邪、引かないでね?」
言いざまに電話を切った。トウジが何か叫んだ気がするけど、そのまま電話を切ったから何を言ったのかは分からなかった。
その後ケンスケも誘うと、こっちも一も二もなく了承してくれた。
「明日、遠足に」
「行く行く! 腕がなるなあ! フィルム用意しなきゃなんないから、それじゃ!」
何するつもりなんだろう……
この意気込みは、明日は覚悟したほうがいいかもしれない。
何はともあれ、これで明日はみんなで遊べることになった。
後片付けを済まし、冴える目と気持ちを落ち着けて布団に潜る。眠れないけど、寝ておかないと。
窓のないこの部屋からは空は見えないけど、きっと、まだ雲は掛かっていないだろう。
うん、晴れるといいな。
翌日はこれ以上ないってぐらいの快晴だった。
加持さんに車で送ってもらって国連軍の基地まで着いた頃には、まだ日も昇りきってないのに汗が吹き出そうな暑さだった。
こんな暑い日には、あの夏ばっかり永遠に続くと思っていたころを思い出しそうになる。
止めよう。もう終わったことだ。
そう決めた僕の頬を伝って汗が流れる。うーん、何度考えても暑い。いったい今日の気温、何度なんだろう?
こうまで暑いと、ここにいない人たちのことが心配になってきた。
冬月先生、大丈夫かな。「折角だから、思い出の山に登っておきたいんだよ」って言ってたけど、この暑さで倒れてないだろうな、まさか。
――大丈夫か。ああ見えて冬月先生、僕より体力ありそうだし。
リツコさんは……こっちも大丈夫か、リツコさんだし。
結局みんな僕より丈夫みたいだ。僕もあれくらい……止めよう。それこそ泥沼だ。
今日、リツコさんと冬月先生にはそれぞれ行くところがあるのだという。
冬月先生は山に、リツコさんは、実家に。
朝早くに出発する二人の見送りには僕が行った。アスカも綾波ももうちょっと寝かせておかないときっとフラフラになるし、ミサトさんと加持さんは、遠足のことで色々とやることがあるみたいだったからだ。
山登り、というより登山って格好をした冬月先生は、僕よりよっぽど機敏に動きそうだった。
「すまんね、シンジ君、赤木君、わざわざ」
「いえ、ついでですから」
駅の近くにあるバス停には、時間が早いせいで僕らしかいなかった。
「お一人で、大丈夫ですか?」
リツコさんが訊く。当然僕よりは全然様になっているけれど、それでも、いい歳の男性が一人で登山、というのは危険であることには変わりない。
「奴のようにやろうとまでは思わないが、やはりね」
「そういうもの……ですか?」
僕の質問には、リツコさんが答えた。
「そういうものよ。……特に、研究者肌は。恋愛下手だから」
「違いない」
二人は可笑しそうに笑ったけれど、両方に自分の母親が関わっている僕としては、笑っていいものかどうか迷った。
だから、冬月先生が「お互いうまく行かないものだね。やはり年の差があると恋愛は難しい」と冗談めかしに言葉を投げかけたとき、リツコさんは笑いながら「そうですわね」と返してたけれど、僕は曖昧な笑いしか返せなかったのだ。
「ああ、来たようだね」
そう言う冬月先生の見るほうには、ちょっと古めのバスが、一台。
ぷしゅう、と音を立ててドアが開いた。
「それでは、副指令」
「もう副指令ではないよ、赤木君」
「……そうでしたね。それでは、冬月先生、行ってらっしゃい」
「ああ、君も……ナオコ君によろしく頼む」
その言葉を最後に、冬月さんはバスの中へ消えた。
僕は、最後まで何もちゃんとしたことは言えなかった。
冬月先生を見送った後、僕らは駅へ向かった。リツコさんは実家に帰るらしくて、おみやげ(色んな種類の猫用の缶詰だった。あんなに沢山どうするんだろう)を携えていた。駅までは、僕が持っていった。
缶詰とその他の荷物を受け取って、リツコさんは言った。
「母さんの墓前にも長いこと参ってなかったからね。仲良く飲むわ。負け犬同士」
僕を見て悪戯っぽくそう言うリツコを見ていると、自分のことじゃないのに思わず謝りそうになった。
「あの……ごめんなさ」
僕は最後まで言い切ることができなかった。
!
それしか頭には浮かばなかった。リツコさんは僕の言葉を、あろうことか自分の唇で遮った。
大人のキス――そんな言葉が頭に浮かぶ。ミサトさんにあのキスをされた時以来の大人のキスだった。
しばらく舌を絡めた後、唇を離すと、何も言えない僕の耳元でリツコさんは囁いた。
「そんなことを言うもんじゃないわ。謝りすぎると、いい男には、なれないわよ。私はああやってでもユイさんを愛し続けるあの人のことを好きになったの。後悔はしていないわ。今はね」
僕には、何も答えることができなかった。
「このことは私たちだけの秘密よ?」
「……はい」
「よろしい。ん……ミサトと加持君をよろしくね。あの子達、いい歳だっていうのに落ち着きがないから」
「……はい」
「答えは?」
「え?」
その目を見て、期待している答えが何なのか解った。リツコさんは僕に、父さんを重ねているんだ。
「問題、ありません」
「ごめんなさいね、ワガママで」
「いえ」
「それじゃあね、シンジ君。また、明日」
そしてリツコさんは改札の向こうに消え、ホームから笑って僕に軽く手を振って電車に乗り込んでいった。
そうしてそれぞれに行くべき場所に向かった二人は、やっぱりなんだかいつもと違っていた。
そうやって二人を見送ったばかりだったので、他の皆がどうなんだろうと思うと、正直言って心配だった。
だけど、それは杞憂に終わった。
今日もトウジ達はいつも通りだった。
ケンスケのほうはもういつも通りを通り越して、体中からカメラをどっさりぶら下げた格好で待ち構えていた。
ああ、ヤバイ。
それを見た加持さんは笑ってすましていたけど、冷や汗が流れてたのを僕はしっかり見てしまった。まあアレはさすがに加持さんといえども引くと思う。後部座席のアスカもさすがに何も言おうとはしてなかった。僕もそんなつもりはない。触らぬマニアに、祟りなし。
その後に行った委員長の家からは、なぜかトウジまで出てきた。
さては、昨日?
僕はここで詮索するのは止めにしたけど(男の情けだ)アスカのほうは違ったみたいだ。寄り添いながら出てきた二人を見て委員長に話しかけてたけど、たぶん冷やかしてたんだろうな、あれ。委員長とトウジ、真っ赤になってたし。ごちそうさま。
車に乗り込むトウジに、すっと委員長が手を貸す。微笑みながらそうする委員長はとても自然で、その姿を嬉しそうに笑うアスカと、羨ましそうに見る綾波が対照的だった。
そうして僕らは出発した。ケンスケはミサトさんの車だ。果たして生きて飛行場まで来れるのか、まあ、きっとケンスケなら大丈夫だろう。
加持さんの余裕のハンドル捌きもあって、僕らは無事に全員揃って駐屯地にたどり着いた。うん、ここまでは予定通り。
……正確にはこっちの車じゃないほうに一人ふらついてるのがいたけど、カメラを構えようとするぐらいだから多分大丈夫だろう。うん。そういうことにしておこう。
軍用の飛行場では、日光でもうアスファルトが温まり始めていた。
相変わらず無言の綾波をアスカと委員長が騒ぎながら引っ張るように連れ込んだ後、取り残された荷物を僕とトウジで運び込む。
ふらつくケンスケに仕事を回せないのを恨めしく思いながら作業を終えようとしたとき、声が掛かった。
「準備はいいかい?」
加持さんの声。操縦席側を見ると、ミサトさんもちゃっかり先に乗り込んで、誰よりも早く即席で設置したらしいソファに寝そべっていた。
汗を拭いながら答えた。
「はい!」
「OK! それじゃ、出発!」
ミサトさんが言うが早いか、戦闘機は大空へ舞い上がり、僕らは洋上へと出た。
周りを見回せば、あくせく働いていた僕とトウジ以外はもうすっかり和んでいる。女性陣はちょっとアレな会話に興じていて、ケンスケは……あれ? ケンスケは?
トウジに目を向けると、無言のまま顎で操縦席を示した。
ああ、そういうこと。ケンスケは加持さんと操縦席に消えたままだった。気づかなかったのは、当てが外れて静かなままだったからだ。おかしいな、物凄い声が聞こえると思ったのに。
「どうしたんだろう?」
「さあなあ。大方、『私不肖相田ケンスケ、感動です!』とか言いながら気絶でもしとるんちゃうか?」
トウジはケンスケの声真似をして言ってから、我冠せずという感じで目を閉じた。
そうしてひとり残されて、けれどもアスカ達の会話に参加できそうもない僕は、早々に寝付いてしまったトウジを横目に窓の外を眺めた。
さっきまで忙しかったし、こんな日にこういうゆっくりした時間を過ごすのも、なかなか悪くない。
窓から見下ろすと、やっと地図を書き換えずに済むようになった日本列島が見えた。でも、その形は昔に習ったのとも少し違っていて、さらに面積が縮んでいるように見えた。
変わってしまった本州を通り過ぎる間、そこにあったはずの吹き飛んだ土地のことを考えながら、僕はいつの間にか眠っていた。
どん、という軽い衝撃で僕は目を覚ました。寝惚けた目を擦りつつ視線をさまよわせると、落ちる影。僕の目の前には、アスカが仁王立ちになって覆いかぶさるように立っていた。何、してるんだろ? ……まあ、この構えからして、どうせいつものようにまた妙なことでも考えてたんだろうけど……
片足を挙げて蹴りかかろうとするような姿勢を疑いの視線で見つめる僕に、アスカは小さく舌打ちをしながら言った。
「ほら、着いたわよ」
僕はそそくさと身を起こした。とりあえず、気のせいだと思うことにしよう。少なくとも僕が起きた時に見たアスカのあの、獲物に逃げられた肉食獣みたいに残念そうな顔は、特に。
「あっつーい! 太陽がまぶしー!」
無邪気に言いながらはしゃぐアスカを傍目に、僕はエアコンが効いているはずの機内から汗だくになりながら出る事になった。アスカが飛行機の中から姿を消してはたと我に返ると、機内には僕と大量の荷物しか残っていなかったからだ。
そんな僕を、アスカは当然として、前を歩くトウジ・委員長のカップルから無言で目を細めて空を見上げた後それに続いた綾波に至るまでも手伝おうという素振りはなかった。揃って鬼か。でも、そこで「人でなし」などとこのメンバーに言うと後がやたらと怖いので、口が裂けても言わないでおく。
僕は荷物を持ってトウジが降りるのを待った。トウジは車に乗り込む時と同じく、委員長に手を貸してもらいながら僕の少し前をゆっくり降りている。こういうとき、トウジと委員長がお互いを大事にしあっているのが、少し羨ましい(もちろん、荷物を持たなくていいっていう羨望の眼差しも、ちょっとは含まれているけど)。
そして、トウジ達がゆっくりと地上に降り立ち、荷物を抱えた僕が降りようとし始めたとき。
「くーっ! まさかこの手で運転できる時が来ようとはー!」
僕の頭上で突然叫び声が上がった。いけない、あまりに静か過ぎて完璧に忘れてたみたいだ。彼がいた。
見上げると、操縦席から余韻を残して降りてきたケンスケは感極まって叫び、涙まで流していた。何だ、気絶してたんじゃなかったんだね、ケンスケ。
隣にいる加持さんやミサトさんも、ここまで喜ばれると悪い気はしないらしい。
でも、その姿に冷静にトウジがツッコんだ。
「なんや? オートパイロット言うて、機械が運転しとったんやなかったんか?」
慌てて委員長が口を塞いで、もがもが、とか言ってるトウジの耳元でささやく。ちょっと艶っぽく見えるのは、気のせい?
「だめよ鈴原、喜んでるのに、水差しちゃ……ね?」
「い・い・ん・だ・よ! 信じられるか!? 最新鋭の戦闘機の操縦席に座ってここまで来たんだぞ! くぅー! あ、そうだ記念に一枚撮っとこう」
そんなラブい二人の姿をあえて見ないようにして、俗なしがらみなど振り切るようにケンスケは叫ぶ。あ、ちょっと恰好いい。なりたくは、ないけど。
その言葉に加持さんはまた作り笑いをしながら冷や汗、そしてトウジはと言えば、今は委員長のほうに神経が集中しているらしい。
「あ、あぁ……さよか」
そんな感じで、降りた途端にもうてんやわんやの状況に、呆れたアスカが一言、愚痴る。
「やっかましいわねぇ……」
「賑やかでいいじゃない。折角沖縄まで着たんだから、人数多いほうが楽しいでしょ?」
「……」
僕はとりなし、綾波はやっぱり無言だった。昨日トウジ達にも声を掛けた事を伝えてから、綾波はちょっとご機嫌斜め気味なのだ。いつも言葉は少ないけどちゃんと喋るし、無言なのは綾波なりの抗議なんだろうな、やっぱり。
まあ、それもしばらくすれば何とかなるだろう。
僕は残りの荷物のあるタラップからみんなを見た。
ああ、やっぱり、最後はこのメンバーで来てよかった。やっぱり、僕らはこうじゃないと。
と、ちょっと感慨に耽っている間に、みんな僕を置いて先に行ってしまった。しばらくして僕を呼ぶ騒がしい声に気づき、慌てて追いかけた。
走る途中で何の気なしに振り返ると、さっき降りた輸送機が静かにそこにあるのが見えた。
誰もいない無人の滑走路ではそこかしこから陽炎が立ち昇っていて、その中に静かに一機だけ佇む戦闘機の姿が、何故だか妙に物悲しかった。
その姿はどこか、仕事を終えて引退しようとしている老人のように見えた。それはきっと、この星の全ての――止め止め、今日は楽しむために来たんだ。
僕は少しだけ物悲しくなった気持ちを振り切るために、また元のようにみんなを追いかけた。
沖縄駐屯基地から出た後、道にぽつんとあった小さなお店らしきところに麦藁帽子が売っていたので、綾波に買ってあげることにした。それで綾波は少しだけ機嫌を直してくれたみたいで、微かにだけど笑ってくれた。その後、アスカがぶーぶー言って二人分買う事になったのはお約束。
「すいませーん」
「あれ? 返事ないわね?」
「……駄目、誰もいないわ」
無人のお店は、よく見てみるともう使われていないみたいにも見えた。とりあえず、いくらか分からなかったから二千円ほど置いておくことにした。もしかしたら、後で誰かがお金を取りにくるのかもしれない。
人もいやしないのにお金払うなんて、あんた律儀ねぇ、とかアスカは言ってたけど、顔は笑っていた。
売店の軒先を借りてでちょっとだけ休憩し、また浜辺まで延々と、炎天下を汗を流しながら歩いた。
途中でキーが刺さったままの車があって、アスカとトウジが運転するからこれで行こうって騒いだり、危ないからって僕と委員長で必死でなだめたりもしたけど、それはそれ。
そんなこんなで、僕らはやっと浜にたどり着いた。
一秒と間をおかずケンスケは叫んだ。
「くぅー! この世の春だぁぁあ!! あぁぁ手が足りないー!!」
そして僕は。
うわ……おっぱいが、いっぱい。
それが最後の思考。
浜辺に着くなり雄叫び(っていうかもう咆哮?)のような声を上げて猛烈な勢いでカメラのシャッターを切るケンスケと、鼻の下を伸ばして走り出そうとした所を委員長に脛を蹴り飛ばされて(義足を蹴るんだから、結構凶悪だ)悶絶してるトウジを他所に、僕の意識は暗闇に包まれていった。
次に目が覚めると、そこは日陰だった。
「あ……?」
「やっと気づいたの? ばぁーか」
気がつくとそこは静かな浜辺で、僕はパラソルの影に寝かされていた。鼻血を吹いて気絶したらしい。僕を担いで運んでくれたアスカがぶーたれて、散々文句を言われた。情けないだのスケベだの、そりゃ、確かに反論できないけどさ。でも、あれは無理だよ。
僕が倒れた後、アスカ達は僕を担いで誰もいない海辺に運び込み、ようやく腰を落ち着けたらしい。僕が今寝てるパラソルやレジャーシートの準備とかは全部トウジとケンスケがやらされたみたいで、恨めしそうにこっちを見ながら横でぜーぜー言っていた。
「なんでワシらだけでこんな事……」
「うぅ。折角のシャッターチャンスなのにぃぃ」
ケンスケのになるともう恨み節だ。
さすがに申し訳なくて、そんな二人に曖昧な笑みしか返せなかった。顔を見たら頬が赤くなってるので訊いてみたら、ぶーたれた際にアスカにビンタをいただき(おまけにトウジは委員長に、ちょっと遠慮がちの奴を、もう一発喰らっていた)、罰としてお菓子とかジュースとかを買いにパシらされたって話だった。そりゃあこんな炎天下で、砂浜パシらされたら息も切れるはずだ。
そんなトウジ達を気にするそぶりも見せずに(委員長はトウジにさりげなくタオル渡してたりしたけど)アスカ達はまださっきの事についてぶちぶち言っている。
「ったく、ネルフも地に落ちたもんね。天下のネルフ職員がすっぱだかで海水浴なんて……」
「人目を気にする必要がないから……」
「だからってアレはちょっと」
委員長の言う通りだった。日向さん、青葉さんに、どこか見た事のある人たち。ネルフの人たちなんだろうけど、みんながみんな、ほとんど裸同然で泳いでたり日光浴したりしてるのには参った。伊吹さんまで、あんな紐みたいな水着じゃ裸と一緒じゃないか。アスカによれば「あれはヤケよ、リツコに置いてかれたもんだから」らしいけど、それにしてもあんなの、健全な高校生には刺激が強すぎる。特に普段おしとやかなイメージだった人が必要最小限に足りていないようなのを着ていると……
駄目だ、また鼻血が出そう。
それに、もしかすると裸の人もいたような気もする。旅の恥は掻き捨て、だっけ? 違うような気もするけど、そんなの気にする必要がない、って言う意味じゃ同じかもしれない。何にも気にしないでやりたいようにやるんだし。なんだかヤケクソ気味な人もいたけど、今日みたいな日の過ごし方なんか人それぞれ。
それでいい。僕らは僕らでいつも通りに、楽しもう。
僕らは各自自由行動という事にしてお昼まで泳ぐ事にした。やっぱり海は、泳がなくっちゃ。とはいえ、僕は泳げないんだけど。
トウジは、誰より先に海に突っ込んで行った。
「よーっしゃ! 泳ぐでぇー!」
「あ、鈴原待って、あんまり沖に行くと危ないからっ」
委員長はそんなトウジに仲良く寄り添っていた。委員長がトウジを呼ぶ呼び名は、ここでは鈴原のままだ。
そして、そんな二人にカメラを向けて無言でシャッターを切り続けるケンスケのメガネは光ってて、その表情は見えない。怖いよケンスケ……。
ふと見ると、アスカもどこかに行ってしまっている。
それぞれに突っ走っているみんなに(特にケンスケに)声をかけそびれ、一歩海に出遅れた形になっていると、綾波が喋りかけてきてくれた。
「碇君、行きましょう」
そう言って海に入ろうとする綾波は、白いワンピースだった。何だか儚げで、思わず見とれそうになった。
「あっ、待ってよ綾波。ちゃんと柔軟体操しないと危ないよ?」
そんな内心を悟られないように、僕の腕を引っ張っていく綾波を軽くたしなめると、綾波はこっくり頷いてその場でラジオ体操を始めた。素直だよね、綾波って。
そのまま第二体操(知らなかった)までやり終えて、律儀にアップ運動を始めた頃に、アスカがやってきた。こちらは、黄色いビキニ。あまりに際どいその水着にまた鼻血がでそうになった。意識をそらせようとしてアスカが手に何か持ってるのに気付いた。
「シンジ、ほらこれ着なさい」
言うと同時に、アスカが足元に置いた何かの道具はズシャッっという重々しい音を立て、軽く砂浜にめり込んでいた。
どうやってこんなの二つも持ってきたんだろう?
ふと視線を巡らすと、いつの間にかケンスケがぜぃぜぃいいながら、それでも辛うじてカメラを構えてた。気の毒だ、とは思ったけど、そこは触れない方が賢明だと思ったのでそのまま視界から外しておくことにした。
ごめん、ケンスケ。
とりあえず訊いてみた。
「……何? これ?」
アスカはさも当然で明白とでもいうように答えた。寝耳に水なんだけど。
「ダイビングセット一式に決まってんでしょうが。せっかく沖縄に着たんだから! 水中散歩としゃれこむのよ!」
「……僕、ライセンス持ってないよ?」
たしかこーゆーのってちゃんとライセンス取らないといけないんじゃなかったっけ?
「いいのよ! あたしが教えてあげるから」
無茶苦茶だよアスカ……。
「っと、綾波?」
事前準備を全て終えたらしい綾波は、また僕の腕を引いた。
「準備体操は終わったわ。行きましょう」
いつの間にかシュノーケルの道具をつけた綾波は、アスカと同じように僕に同じものを突きつけた後、そのまま海に向かって引っ張っていく。慌てて引き止めようとしたんだけど中々力が強くて止まらない。綾波、結構力強いんだ。……僕が弱いだけかな。
「って綾波、ちょっと待って、あの僕」
「待ちなさいよファースト! シンジはあたしと潜るって言ってるでしょ!」
「いや、あのねアスカだから僕は」
「碇君は私と一緒に泳ぐ。あなたはそのD型装備で一人海の底に沈んでいれば」
ふっ、とかまるで父さんみたいな笑い方をする綾波にアスカはやっぱり爆発した。
「いや、だから、僕、泳げないんだってば……」
僕の言葉は、きれいにスルー。喚くアスカと、それを言葉少なにいなす綾波は、僕の話を聴いてくれそうになかった。
結局その後、何とか泳ぐのを避けきった僕はビーチバレーとビーチフラッグでごまかしきった(アスカと綾波はかなり不服そうだったけど、結局はそれぞれに委員長やケンスケを連れて水中散歩や遊泳を楽しんだみたいだし、まあよしとして欲しい)。
アスカのスパイクでケンスケのカメラがいくつか壊れたり――たぶん、水着が食い込んだアスカ達の写真取ったりしたからだろうけど――綾波の水着が絶妙のタイミングでめくれたり、トウジがフラッグに滑り込んで水着が脱げかけてアスカ達にぼこぼこにされたり(あれが「どつきまわす」っていうんだ、きっと)。
そんな風に僕らは、一生分遊ぶくらいに騒いだ。
そして気づけばもう夕暮れ、海は夕日を映して黄金色に染まりきらきらと輝いていた。
「はー……遊んだわね」
「……疲れた」
「あかん、もー動かれへん」
「くそ、もうちょっとフィルム持ってくればよかった」
「結構焼けちゃったなぁ……」
口々に言う。でも、その言葉は言わない。
「……んじゃ、そろそろ帰る?」
アスカがその言葉を言ってもなお、みんなどこか名残惜しげに海の向こうを見て、なかなか立ち上がろうとしなかった。
僕も同じ。
そして、最後にはアスカまでがその雰囲気に負け、もう二度と見れないくらいに輝く海を見つめることになった。
海を見る横顔が並ぶ。僕は一瞬みんなの顔を見渡して、もう一度海を見た。
ありきたりだけど、やっぱり思う。海はどこまでも大きい。悲しくもないのに、涙が出そうになる。
この一瞬が、永遠に続くような気分。
それでも、終わりは必ずやってくる。
「はいはい! 撤収撤収!」
顔の赤い加持さんと一緒に迎えに来てくれた(昼間はやっぱりホテルで飲んでたらしい)ミサトさんがもう一度同じ言葉を繰り返してやっと、片づけの時間となった。やっぱり、ミサトさんの声は力がある。
片づけを終えてもと来た道を引き返すと、帰る途中で沢山のカップルの人達に出会った。みんなやっぱり、どことなく、何かを惜しむような切なげな表情をしている。
僕らはそれに少し息を飲み、まるで儀式に参列する人々のような列を見た。
そしていつしか、そのカップルの列に、その人たちを横目に眺めつつどこか羨むような表情をしていた委員長とトウジが混じった。そっと手を差し伸べるトウジと、その手をはにかみながら握り返す委員長は、朝のふたりとは逆、今度こそ、まるでドラマのワン・シーンみたいだった。トウジの顔が、いつもの三割り増し、男前に見える。
きっとこれも、ラストシーンのマジックだ。
さすがのアスカとケンスケも、こればかりは冷やかせなかった。
基地に着いたころには、すっかり日が落ちて夜になっていた。まだ高みにある雲は金に染まっているけれど、それもしばらくすれば消えるだろう。僕らの一日は、終わる。
のろのろと戦闘機に乗り込み、遊び疲れて寝入った僕らを乗せて、音速の戦闘機は静かな月の光を浴びながら夜空を駆けた。
数時間もかからないうちに第3新東京市に戻ってきた僕達は、最終のバスに乗って帰ってきた。
ミサトさんと加持さんは、もういない。
今夜、ミサトさんと加持さんは帰らずにそのまま沖縄に残る。ミサトさんからそう告げられたアスカが特に何かを言う事はなかった。彼女の憧れは、もう、終わったんだ。もう、加持さんは全てミサトさんのもの。アスカはきっと傷ついている。けど、それは誰にもどうしようもないことなんだ。全ては、いつかは必ず終わってしまうのだから。
バスが僕らを降ろすと、僕らはそのまま寝ぼけまなこを擦りつつ別れを告げ、それぞれの岐路に着いた。
特に別れを惜しむような事はなかった。当たり前に、いつも通りに。
ケンスケは「写真、焼き増ししとくから」と言いながら、曲がり角の向こうに消えた。来た時より少なくなったカメラを見るときにちょっと凹んでたけど、なにも言わずに溜息一つで済ませて笑ってた。
トウジは「ほな、おつかれさん」と軽く呟き手を振ると、僕らを振り返らずに曲がり角の向こうへ消えた。委員長は一瞬振り向き「それじゃあ」と笑いかけてそれに続いた。アスカが笑って応じると、小走りにトウジに追いついて、そっと手を繋いでいた。
そして僕らはと言うと、何だか歩き足りなくて、街灯の照らす大通りに出てそのまま無言で歩いた。でも、それが苦痛ってわけじゃなくて、逆に心地よかった。そしてそのまま歩き続けて、最後に坂道を若干息を切らせながら上りきった。
そんな大回りをして、僕達はやっと家に帰ってきた。
「たっだいまー」
「……ただいま」
鍵を開けて真っ先に家に入った僕は、ふたりを迎える役だった。
「うん、おかえり」
そう言った僕に、綾波は玄関に立ったまま、言った。
「……碇君も」
「そーね。ほら、いったん外出なさい」
ぽん、と手を叩いたアスカに背中を押されるまま外に出て、玄関に向き直る。アスカと綾波は、それぞれにらしくない笑顔を見せていた。アスカがそんなに控えめに笑うのを僕は見たことがなかったし、綾波がそんなに表情を崩して笑うのを僕は見たことがなかった。
僕はちょっと照れながら言った。
「えっと、ただいま」
「……おかえりなさい」
「おかえりーっと。あーつかれた」
綾波はまた微笑んで、アスカのほうは靴を脱ぎ散らかしながら早々と上がってしまった。正反対に見える、けどそれぞれの心遣いがおかしくて嬉しくて、思わず笑ってしまった。
すると綾波は不思議な顔をして、アスカは荷物をこちらに投げてくる。
やっぱり正反対だ。いつも通り。僕はまた笑った。
リビングに入って、僕らはそこに寝転んだ。大きくため息をつき、電気もつけずに天井を見上げる僕らは無言だった。アスカも綾波も。このまま寝るのが惜しくて、今もうじうじしている僕に、少しの間、付き合ってくれるみたいだ。
「はー……遊んだわねぇ」
しばらくして、アスカが沈黙を破った。
「……それはさっきも言ったわ」
返す綾波の声には、険はない。
「うっさいわねぇ。遊ぶだけ遊んだんだからいいじゃない」
返すアスカの声も、同じ。
「うん……楽しかったね」
そんな風にのんびりと言葉を交わすのがなんだか心地いい。
「ええ。副指令――」
「違うわよ。今は冬月、せ、ん、せ、い」
アスカがこれみよがしに間違いを指摘する。恥ずかしいのか悔しいのか、むぐ、と黙り込む綾波の言葉を、僕が引き継いだ。
「ああ、そだっけ、冬月先生に感謝だね」
「ええ……」
「でも、まさか沖縄のリゾート地、丸ごと借り切ってくれるなんて思わなかったな……」
アスカが、ふん、と鼻を鳴らした。
「いいんじゃない? ネルフ職員全員で使ったわけでしょ。それに、あたしがいなかったら、ネルフだってもうなかったわけだし」
「あたし、ではなく、あたしたち」
今度は綾波が間違いを正す。アスカは軽く笑って、「へいへい」と答える。
僕はそのやりとりに笑いをこらえながら言った。
「うん……でもやっぱり、手を尽くしてくれた冬月先生には感謝しないと。おかげで楽しい遠足になったじゃないか」
また少し静かな時間が流れた後、次に沈黙を破ったのは綾波だった。
「……疲れた」
今にも寝てしまいそうな、ふわふわした声。そのまま寝ちゃったら風邪引いちゃうじゃないか――そう思えた自分が、少し嬉しかった。
「あ、ちょっと待って、今布団引いてくるから……」
僕は立ち上がった。しかし、歩こうとした途端、腕が引っ張られてかくんとつんのめった。
見ると、綾波が僕のズボンの裾を控え目に、だけどしっかりと持っていた。
その仕草は、一人で寝るのは嫌だとむずがって親の手を引く子供みたいに見えた。
「綾波?」
「……ここがいい」
綾波ますます強くズボンの裾を引っ張った。ついに僕は耐えられず、アスカと綾波の間に座り込んでしまった。
「リビングで寝るの?」
目を閉じたまま無言で頷く綾波に、アスカまで加勢する。
「いいんじゃない? 川の字で寝るってのもオツじゃん」
まったく、ふたりには勝てない。
結局、その十分後。僕らはリビングを片付けて布団を引いて寝転がり、天井を見上げ続けていた。
最後に沈黙を破ったのは、僕だった。
「今日で終わり、か」
思いついたように、呟いてみる。言わなかった言葉、誰もが知ってて、それでも口にしなかった言葉。でも、今ならば、言えるような気がした。
「ディエス・イエーレ(審判の日)」
特に感慨もなく、ただ事実を告げるようなアスカの言葉。そして、それと同じくらい冷静な、綾波の言葉。
「……ええ。赤木博士がそう言っていたもの」
「朝日が見れないのはちょっと残念だな……」
「だーいじょーぶよ、終わるちょっと前には飛び切りの朝日代わりの閃光が見れるって」
「……なんかちょっと違うと思うんだけど」
もうちょっと情緒を感じさせるような会話をしてくれてもいいのに。
「……すぅ」
今日一日でよっぽど疲れたのか、綾波は寝息を立て始めていた。
「あれ?」
「寝ちゃった? ……あはは、ガキなんだから、こいつ」
起こさないように小さく笑いながら、アスカが、こてん、と頭を僕の方に向けた。僕はそれを横目で見て、相変わらず天井に顔を向けていた。
「そいえばさ」
「何?」
「碇司令はどこ行っちゃわけ?」
僕はちょっと悩む振りをした。言葉にしてしまえば単純なことだけど、けっこう凄いことだ。
「うん、できるだけ近くに行きたい、って言ってた、から……今頃、宇宙のどこかじゃない? 水星か金星かは、知らないけど」
アスカは心底あきれ返ったようにまた天井に視線を戻した。
「……純愛なんだか馬鹿なんだか」
僕もそう思う。でも今は、嫌いじゃない。
「私は最後までユイの傍にありたいと思う。最後まで自分の願い……欲望のままに生きる事を選んだ。たとえ途中で朽ち果てようと、その時はその時だ。お前と会うのもこれが最後だろう。今まで済まなかったな、シンジ」
足早な言葉に、精一杯言いたいことを詰め込んでスペースシャトルに乗り込んで行く父さんの背中は記憶にある僕を置いていった父さんの背中より、ずっと小さく見えたからだ。
「しっかし、あたし達ってとんでもないものに乗ったのよねぇ。今更だけどさ」
「そうだね……」
「S2機関があんな怖ろしいもんだなんて……」
「……そうだね」
何回目か分からないアスカの愚痴混じりの説明。今日も内容はいつもと同じ。何回聞いても良くわからないけれど、宇宙に出た初号機が太陽に突っ込むと、その際に起こる防衛反応でS2機関が過剰に働いて太陽ごと大爆発。太陽系ごと一瞬で消えてなくなるらしい。
「……よーするに、太陽に爆弾が落っこちて大爆発――って、どこのB級SFよ。全く馬鹿らしいったらありゃしない」
「そうだね……」
「ん、ちょっと、あんた聞いてんの?」
「うん、そうだね……」
僕はアスカの疑うとおり、まぶたが降りてきて今にも寝そうになっていたけど、そんな僕にため息一つ、アスカはそのまま窓から入ってくる月の光を見つめ、こぼした。
「『人の生きた証』」
「……うん?」
「あんたのママの遺言なんでしょ?」
その言葉に思わず、ちょっと目が覚めて苦笑してしまった。
「らしいね。人の生きた証になるはずだったのに、永遠に残るどころか、地球ごと道連れに消し飛ばしちゃうんだから何て言ったらいいのかわからないけど」
これ以上ない皮肉だな、冬月先生がそう投げやりに呟いてたのを思い出した。僕は史上最大のテロリストの息子だ。無意識のテロリストの。
彼女の子供らしく無責任に笑う僕にアスカは言った。
「あんたねえ、そう思うんならちゃんと手放さずに地球に縛り付けておきなさいよ。あんたが無計画に宇宙に放っちゃうからこうなったんでしょうが、このっ」
そっと身体を起こしたアスカに、軽く、でこピンを貰う。
「そうだね……」
僕はもうほとんど寝ちゃってて、寝ぼけた返事しか返せなかったけど、アスカが溜息をついたのと、布団を被る音がしたのは辛うじてわかった。
そして僕らは、寝る前の、最後の挨拶を交わした。
「んじゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
「今までお疲れさま、シンジ」
「うん。アスカも、綾波も」
そして、人類も。
僕は眠りに落ちた。
そうしてそれっきり室内にはかすかな寝息が聞こえるだけになった。