それであたしはどーなったか?
微妙になじんじゃってるんだからまたこれが困ったものだったりする。
「それじゃ、行ってきまーす」
「んー」
ある日シンジの家に押しかけて何もかもぶっ壊し、溜まりに溜まった貯金の消化とばかりに鈴原に修理をさせたり家具を買い込んだりで人が住める状態に戻してから、もう早くも二ヶ月が過ぎた。
寒さも緩み、もう春も過ぎかけている今。
あたしはすっかりこの空間になじんでしまっていた。
すっかりデブになってしまったシンジは、……まあ外見の変化自体はサギ以外のナニモノでもないんだけど、落ち着いて話してみれば昔の尖ったところがなくなってずっと付き合いやすくなっていて、あたしはまるで普通の友人のように振る舞い、そのまま家に居座っていた。
そしてあいつも、昔のように焦り倒すようなことはなく、なんとなくその状況を受け入れた。
寝るときは設置しっぱなしのこたつと、買い増した布団を使って、あっちとこっち、離れて眠った。基本的にそういうことはなし。どう考えてもあたしの方が強いので、ジェリコの壁(を作れる距離じゃあないけれど)が破られることは基本的にない。
……正確には、何回か飲み倒したときにやっちゃったような気がしないでもないけど、それはまあ気にしない。こちとら伊達に軍人やってない、なーんて言ってみるあたり、あたしもかなり人間として末期かも。
とまあ万事そんな感じで、とにかくあたしは渾身の力を込めてだらだらしていた。
テレビでは「国連平和維持軍ネルフ大佐、惣流・アスカ・ラングレー(22)、行方不明から二月。未だテログループ等々の犯行予告はなし」などと長ったらしいタイトルつきで、自分の生活には何の関わりもないくせして大真面目な顔のキャスターがネルフの公式発表を読み上げ、どこの馬の骨かもわからないコメンテーターがこれまた深刻そうな表情で解説をつける。
もう忘れてもいいころなのに。
っていうか日本のニュースって何でいちいち人の名前の後ろに年齢をつけなきゃ気がすまないわけ?
ごく真っ当であるはずのあたしの疑問を置いたまま、キャスターは愚にもつかない質問を投げる。
「ユーロドイツのカトリック系過激派組織による反抗も示唆されているようですが?」
お笑い。あたしはドイツにはあれきり帰っていないし、そもそもあたしは合衆国の国民だぞ、一応。
ドイツには覚えているような知り合いもいないし、もっと言えば自分の父親と義理の母親が今どんな暮しをしているのかすらも、あたしにはわからないんだけど。
でも、コメンテーターは本人も知らない裏事情を知っているらしい。
「そうですね。惣流大佐はドイツ出身ですが、ユーロ圏には過激派グループ『神の声』があります。彼らはサード・インパクトまでの戦役をハルマゲドンと称し、ヒト変異体を使徒――神の使いと考えているので、その世界観に従うとネルフやエヴァンゲリオンのパイロットはデモン、すなわち神に対する反逆者ととらえられるんですね」
へー、そんなのがあるんだ。知らなかった。暇な奴もいるものだ。神の国がお望みなら、頼めば一気に殉教させてあげるのに。ま、そんな無意味な度胸がある奴がいるとも思えないけどさ。
使徒、という言葉に合わせて、画面の隅に絵が表示される。あ、十四番。こいつ強かったよなあ。
カメラがキャスターに戻り、また馬鹿な質問。
「世界の治安への影響もあるのではないですか?」
「そうですね……現在は沈静化していますが、ネルフの存在によって抑えられてきた各地の紛争の火種が、これを期に一気に爆発することは、ありえなくはないと思います」
何考えてるんだこいつら。あたしはただの宣伝塔でアイドルに過ぎないのに、それを期に爆発? 馬鹿。少なくとも政治犯を名乗るくらいの骨のある奴らなら、今のエヴァはあたしが操縦しなくったって、ダミーで事足りるのだということくらいは知っているはずだ。それが証拠に、この二ヶ月、平和なもんじゃん、世界。
あたしはいるだけでいい、笑っているだけでいい、歌さえ歌わなくていい。アイドルなんて言ったらアイドルに怒られてしまうような、ただの看板だったのだよ、キャスター君。
あーもう馬鹿ばっかり。
寝転がったまま、孫の手を使ってテレビを消す。
「あたし、何しにきたんだっけなあ……?」
ちょっと気を抜くと、それすら思い出せなくなりそうだった。
ええと……
「アスカ?」
声。落ち着いた感じの、女の声。どこから?
寝転んだまま見渡すと、炊事場(キッチンというには古風すぎる)のすりガラスの窓を叩く手が見えた。
のっそり起き上がると、汗ばんだシャツのままで窓を開けた。
そこには二人。ヒカリとレイ。
ファースト、と呼ぶのは、もう止めていた。ちょっと付き合ってみて、やっぱり何か違和感を感じる黒目と、人工なのにこっちは本物らしく見える青髪のこの女が、昔とは別の人間だということをほんのちょっとだけ納得したからだった。
「どしたの?」
「どしたの、って、こんなぽかぽかしてるのにずうっと部屋にいたら腐っちゃうでしょ。実はね、今日すぐそこのライブハウスで演るの。見に来ない?」
見捨てられた場所で、再び私は産声を上げた。
そこが培養槽の底だと気づいた。暗い、ぬるぬるした場所。L.C.L.のにおい。その感覚と一緒に、焦点の合わない瞳と、掠れたビデオテープのような記憶も、ひとつの事実を私に示した。
四人目の綾波レイが生まれた。
個の意識がある。
何故?
わからない。
何もわからない。それなのに、とても晴れやかな気持ちだった。一人目の憎しみも、二人目の切なさも、三人目の虚しさも感じなかった。
無へと還りたいというあのとても強い欲求も。
そのとき初めて、新しい命としての綾波レイが生まれたのだと気づいた。
見捨てられた場所で、私は初めての産声を上げた。
光と闇。
水の音。
私の内にある命。
何故これまで三回も生きてきたのに、こんなに重要なことを見過ごしていたのだろう?
――ああ。
世界はこんなにも美しい。
さんざん迷った挙句、僕は彼女に会うことにした。
ジオ・フロント捜索隊が地下施設の最奥、予備培養槽の中で彼女を見つけたそうだ。散乱している肉体の中で崩れていないのは彼女だけで、彼女だけが息をしていた。
「いかりくん」
胸が震える。抑揚のない声。まるで書かれている文字を棒読みするような。
恐る恐る、その顔を見る。
――綾波、レイ。
見ていられず目を伏せる。僕の目の前にいるのは確かに綾波だった。あのとき僕の前に現れた巨大な白い女と同じ顔、僕の知っているあの綾波レイと同じ姿をしていた。
ただ、その髪と目だけが、黒かった。
「碇君」
はっとして顔を上げた。その口調は、僕の知っている、僕が命を助けて貰った彼女のものだった。
「綾波……なの? 君は……」
「違うわ。私は、多分四人目。あなたの知っている人とは別の人間」
きっぱりと否定される。馬鹿なことを訊いてしまった。僕はあのとき、綾波が光になって消えるのを見たはずなのに。あの蒼い髪は、彼女にはないのに。
「でも」
彼女はベッドの上で小さく笑みを浮かべながら、続けた。その笑みは昔綾波が見せた笑みに似ていた。
「私の中で、L.C.Lに溶けた記憶は生きている。あなたとひとつになりたかったという気持ちも、あの海の中であなたに言った言葉も、私が継いだ」
彼女の――綾波の目が潤んだ。
泣きながら笑った。それは見たことがない表情だった。
そうして僕はやっと、ずっと考えることを拒否してきたこと、もう僕の知っている綾波はどこにもいなくなってしまったのだということを受け入れた。
彼女は言った。
「初めまして、碇君」
僕は答えた。
「初めまして、綾波さん」
――嘘でしょ?
あの朴念仁みたいだった女が、こんな、抑えて抑えて心の内に押し込めて、それでも抑えきれない情感が溢れたような歌を歌うなんて。
あたしとレイの日々、否応なしにその差を見せ付けられてしまうような。
自分の前で上がる歓声と、その向こうで飛び切りの笑顔で微笑む彼女の顔が見ていられなくて、アンコールは聞かずに外に出た。
スタジオの外は、壁にライブの広告やメンバー募集の紙が無節操に貼ってある細い廊下で、公園から盗んできたような安っぽいベンチと灰皿が見るからに狭そうに縮こまっていた。
そこには先客がいた。
「よ」
ベンチに座って手を上げたのはヒカリだった。
「何で?」
「ちょっとねぇ」
「そっか」
わからないことは当然あるけれど、ひとまず会話はこれで十分。とりあえず、一本。
あたしは隣に腰を下ろし、ポケットからメントールの煙草を取り出す。女っぽくて柄じゃないなんて言われるけど、別に無理やり男っぽくなったわけじゃない。
性別なんかを理由に、何かを諦めたくはない。
「火、いる?」
「あ、ありがと」
ちん。石の鳴る小さな音の後、薄暗い廊下に灯りがひとつ増える。
「そっちは?」
「ん。私は吸わないの、禁煙」
「なーんだ。つまんない」
ヒカリが風上へ向かうのに合わせて、風下へ座りなおす。結局、座っているヒカリを壁際に追い出す形になってしまった。
「ゴメン」
「いえいえ」
それっきり会話は途切れ、あたしはフィルターの際まで煙草を吸って、さらにもう一本同じように吸った。
「いいの?」
「何が?」
「中、入らなくて」
「ああ、いいのよ。私の出番は、今日はもうなし……違うな、これからしばらく、個人的にじゃなくレイとやることはないと思う」
「え?」
同じバンドだったんじゃないの?
わけがわからなくなったあたしに、ヒカリは優しく告げた。
「バンドは少し前に解散しちゃったのよ。今日は旧メンバーから新しくサポートに入る人への、レイちゃん申し送りライブ」
驚いて立ち上がりそうになるあたしを軽く制して、ヒカリはゆっくりと語り始めた。
私にとってもそれなりに予想はできた出来事だったし、それほど驚きもしなかった。
「ごめん」
目の前で頭を下げる男に、私は答えた。
「顔、上げてください。大丈夫、何となくわかってますから」
目の前にある企画書。有名バンドが行うライブのメンバーとして飛び込み参加、そしてそれを切っ掛けにしたデビュー。髪の毛も黒に戻し、ビジュアルではない実力勝負のシンガーとしてデビューさせる。確かな歌唱力を持つ希代の新人、「RA」。レイ・アヤナミの、頭文字。
きっと上手く行くと思った。
彼の判断は残酷なくらい正しい。
「……やっぱり、彼女の歌唱力は別格なんだ」
その目は長い髪に隠れて見えないけれど、きっと真剣な目をしているに違いない。プロとして活躍している人が、こうまで言うほどなのだから。
私はなんでもないように答えた。
「はい。私達のことはいいですから、レイをよろしくお願いします」
「で、それで引き下がったっての?」
「だってしょうがないでしょうそういう条件で企画が通ったって言われて納得しちゃったんだもの」
「そりゃそうかもしれないけど……何だってレイもそのフジなんとかっていう奴の口車に乗っちゃったのよ」
「だってこのこと、あの子には言ってないもん」
「へ?」
アスカの口から煙草が落ちる。
「うわっちちち」
まるで酔っ払いのおじさんみたいな声を出して煙草を踏み消してから、アスカは不思議そうな目で私を見た。
「馬鹿」
たまには私から言ったっていいだろう。
「そんなこと言ったら、あの子、歌手になるの止めるって言うかもしれないじゃない。せっかく目の前に自分の望む道が開けてるんだから、進ませなきゃいけないの」
「……あたしにはとても真似できない」
「だろうね」
私はちょっと笑った。真似されるようなえらいことじゃない。アスカが真似しないのは、それが必要ないくらい強いからだ。そう。自分でも思う。もしかすると私はただ、体よく夢を諦めただけなのかもしれない。
でも、夢という程にはそういうことに執着がないのも、恐らく事実。
実際、元々は私の趣味でも、途中からはレイのためのものになっていったし、そうなる理由もわかっていた。たまたまレイに実力が育って、それがしかるべき人の目に止まっただけ。
これは彼女が成し遂げたこと。
言い方は悪いけど、ここから先はレイの世界であって、私のものではない。
つまりは、そういうこと。
じゃあ私に何が残るのか?
それはわからないけど。
……いや、ちょっと心当たりはないでもないんだけど、まあ、それはそれとして。
なおもちらちらと私の目を見ていたアスカは、ついに短くため息をつくと言った。
「……わかった。ヒカリが納得して選んだんなら、もうあたしは口出ししないわ」
アスカはまたもや吸わないまま火だけがじりじりフィルターまで迫ってしまっていた四本目を灰皿に放り込み、立ち上がる。
そして言う。
「んじゃ、とりあえずお祝いね」
え?
「だってさ、祝い事はみんなで祝うでしょ? それとも、日本人はそーじゃないわけ?」
六人でパーティ?
頭に一瞬、大昔に葛城さんの家でしたパーティのことが浮かんだ。最後のパーティ。アスカの周りの世界が崩れ去る直前の、最後の瞬き。
いいこと思いつくなあ、アスカったらもう。
「いいわね。アスカのおごり?」
「もち」
「それなら付き合う」
「何それ、ひっどー。性格悪くなった? ヒカリ?」
「まあねー」
アスカの声は、私が感じているちょっとの寂しさを見透かしていて、それを紛らわそうとしているような明るい声だった。遠慮なく甘える。私達は他愛のない話をして二人で笑いながら、二度目のアンコールの響く会場にもう一度足を踏み入れた。
音のない、明るい部屋にいた。
音は怖い。日陰も怖い。時間切れの音、翼が落とす影。
パシュッ。
ドアの開く音。少し怖い。
「戦闘時の後遺症ですね。音と、それから影に過敏に反応してしまうようです。……静かに、彼女に影を落とさないように」
先生の声。怖くない。落とす影、わたしにはかからない。
「はい……アスカ?」
だれの声? 怖くない。もっと聞きたい。
「だれ?」
わたしの目の前にいる女の人は、目に涙をいっぱい溜めてひざまずいた。
抱きしめられる。
ひっく、ひっく。
しゃくりあげる音。怖くない。でも、悲しい。
「だれ? 泣かないで」
しゃくりあげる音はもっと大きくなって、声が混じった。
「アスカ。私よ、ヒカリ、洞木ヒカリ」
「ヒカリ?」
よく知っているような気がした。
「うん……うん。怖かったね。ごめんね。私、何にもできなかった」
泣き続けるヒカリからは、シャンプーのとてもいい匂いがした。
それから長い時間をかけて、あたしは少しずつ、あたしを取り戻していった。
とても長い時間がかかったように思う。
そしてある日、あいつがやってきた。
無影灯が照らすその部屋に入ることを許されたのは、彼女が目を覚まして数ヶ月が経ってからだった。
「……アスカ」
「久しぶりね」
冷たい視線が真っ直ぐ僕を射通す。
僕はその視線をまともに受け止めることができなかった。僕と会うことは受け入れても、僕という人間自体は決して受け入れない。その決意が伝わってくるようだったから。
当然のことだった。
「ひ、久しぶり」
何も変わらない。彼女の前では、この通りだ。
「よく、ここに来れたわね」
とても静かな声だった。けれど、少しずつ僕の身体を切り取っていくような鋭い響きだった。
「ごめん」
「何謝ってるの?」
「それは……」
「あんたの謝罪なんか要らない。もう何もかも終わった後で、謝ったって遅い」
はっきりした声を聞くと、もう何も言えなかった。
僕が黙りこんでいると、またメスのように鋭い声が切りつける。
「……どうしてあたしを見捨てたの? こうなるまで」
言ってアスカは腕を掲げる。真っ白な腕が柔らかい照明に照らされる。
しかし、白い壁に溶けそうな白い腕の真ん中には、恐らくは一生消えない傷跡があった。
「どうしてあのとき来なかった? 答えられるような理由がある?」
言い返したい、という黒い気持ちが湧いた。
だって君は、僕を要らないと言ったじゃないか。当てにできないと言ったはずだ。
それに僕にはそもそも動かせなかった。ベークライトに覆われてて乗り込むことができなかった。ミサトさんが死んでショックだった。撃ち殺されそうになった。友達を殺してもう乗るのが嫌になった。
仕方なかった。
僕のせいじゃない。
いつの間にか僕はアスカと睨み合っていた。
「へえぇぇ」感心したような声。「ちょっとは骨があるみたいじゃない。馬鹿にしてよぅとか気持ち悪いこと言って擦り寄ってきたときよりはずっとマシだわ」
「……僕のせいじゃ、ない」
「ふうん、じゃあ誰のせい」
「それは、エヴァの」
突如浮かんだ、にっこりとした笑顔が、笑みのまま歪む。口の端が信じられないほど釣りあがる。
「見てたんだ」
また僕は、何も言えなくなる。
「あたしが喰われるところを黙って見てたんだ」
目だけが笑っていない笑い顔を少しずつ蒼白にしながら、アスカはなおも続ける。
「あたしが……腕を割かれて目を潰されて……何も……かも……引きずり出され……うぇ」
その言葉を言い終わらずに、アスカは予備動作もなく吐いた。軽く下を向いてしばらく吐き続ける。
濁った汁がシーツに流れ、吐き気を誘う酸っぱい匂いが部屋に広がる。
がたがたと唇を震わせながら、それでも、アスカは止まらなかった。もう顔に笑みはなかった。
凄絶な目をして僕を睨みつけて、自分が吐き戻した汚物にまみれた手で僕の腕を握った。
熱い。
「引きずり出っ、出されるまで放っておいて、じ、自分のせいじゃないなんて」
バシュッ。ドアの開く音と共に、白衣を着た人々や、洞木が部屋に踏み込んでくる。
引き離されながら、僕は最後の言葉を聞いた。
「――認め、ない」
僕は自分の腕を見た。痣のように赤く、くっきりとアスカの手の形が残っていた。
正直に告白する(モノローグだけど)。
俺は今物凄く焦っている。
だってそうだろ。
惣流が立派な軍人になり、トウジがきっちり大工になり、綾波がなんと歌手になって、でも俺はただぼけっと生きてるだけだ。
しかも大学四年。
これって極めてヤバくないか。どうするよ俺?
「ケンスケ?」
「焦らないか」
怪訝そうな声に、質問で返す。エプロン姿で炊事場に立つシンジは包丁片手にちょっと思案した。怖いって。
しかし答えは普通だった。
「まあ、ね。でも、僕もケンスケも洞木も大学生なんだしさ」
そりゃお前と洞木は三年だから、まだ焦ってやしないかもしれないけどさ。
「その後は?」
「僕はまあ、院に行くつもりだけど」
「それなんか考えあってのことか?」
「いや、教授から誘われて」
そういえば、こいつこう見えて学者夫婦の息子だった。
ってことは、ナニか。
「……やっぱり先決まってないの俺くらいじゃんかよー」
「あんた達なァに辛気臭い話してんのよ」
俺とシンジの間からぬっと顔を出したのは、惣流だった。
「な、なんだよ」
「べっつにー。どう? 準備進んでる?」
「こっちはもう終わりそうだよ。そっちは?」
答えは少し遠くから。
「完了済み。食材も運び込み終わった」
振り向くと、食材を山盛り積んだ盆を持ってふらついている洞木がいた。早くも若奥様の貫禄、とか言っても最近は否定しないのが何ともはや。
「そっか、じゃあ後は……トウジと綾波が帰ってくるの待つだけだね」
「愛しのダーリン様はどちらかしら? ヒカリさん」
あ、あーあ。その方向でからかってもきっと報われないと思うな、俺。
「ああ、家に帰ったって連絡あったから、もうすぐ来ると思う」
ほら。
「ひ、否定しないわね……」
負けた……。という顔をしている惣流が忍びなく、仕方なくフォローなど入れてみる。
「いい性格になったもんだよ、委員長も」
そこに、無駄話に花を咲かせて手が止まってる俺たちを急かすようにシンジの声。
「はいはいはいはい、セッティングするよー」
俺たちは顔を見合わせ、三人合わせて元気いっぱいで答えた。
「はーい、お父さん」
シンジがしばらく隅っこですんすん言ってたのは、お約束。
綾波が泣くところをワシは初めて見た。
「あり……がどう」
もう鼻水やらなんやらで、声は濁ってしまってた。
そんなぐじゅぐじゅの顔で綾波は笑い、ヒカリに抱きついた。
「うん」
それを何の迷いもなくそれを受け止めるヒカリは、これはもう母親の貫禄。
――って言うたらさすがにシバかれそうやから、言わんけど。
それから。
「うわっちょっまてレイ汚っ!?」
「えっあっちょっと綾波!?」
「え? マジちょっと待って俺も?」
「ほ? ワシもか?」
ぼふぼふぼふぼふ。ヒカリを皮切りに、惣流に抱きつき、シンジに抱きつき、ケンスケに抱きつき……
結局ワシら五人全員、服が綾波の鼻水つきになってもうたのは言うまでもない。
しかしそこでも事を収めたのはやはりヒカリやった。さすがは元委員長である。
ヒカリは綾波の肩を抱いて、まるで猫の子でも持ち上げるように柔らかく持ち上げ席に着かせた。うむ、さすがワシの彼女。
――アカン、泣けてきた。
と、そこですかさず相変わらずの宴会部長・ケンスケが声を上げた。
いかん。思わずもらい泣きして期を逸した。
「ええっそれではっ、この度は綾波レイさんの歌手デビューと言うことで、スポンサーである惣流・アスカ・ラングレーさんの援助の下、このように盛大な……」
ここぞとばかりに立ち上がったケンスケが演説をぶつ……が、しかし。
その横ではひそひそと。
こっちでも。
「……っていうかさ、何で相田が音頭取ってるわけ?」
「……まあいいじゃない。こういう時に前に立たないと……ね?」
「あんたなかなかヒドいこと言うようになったわね」
あっちでも。
「ヒカリ、私……」
「うん。頑張ってね。ここ出ても、ちゃんとごはん食べるのよ? 私でよければいつでも作りに行ってあげるから……」
アカン、誰も聞いとらへん。こいつら、情け容赦のない。
……しゃあないのう、ここらでワシの出番か。
こいつらにかかったら、ワシ、すっかりツッコミ役やなぁ、などと思い、周りこれボケ供給過多の状況に内心ため息を吐きつつ、ワシは叫んだ。
「長いわいケンスケ! 肉焦げてまうぞ! お前ら、食え!」
ええ加減うんざりした顔をし始めた三人(元々話を聞いてない綾波を除く)がほっとした顔で答えた。
「さんせーい!」
泣くな、ケンスケ。お前はお前なりによう頑張った。
私にとって、こんなに嬉しいことはこの人生で初めてだった。
かつて私だった人の歳の半分と少しを私は生きた。
そのまだ短い人生の中で、きっとこれが一番嬉しかった。
碇君。ヒカリ。アスカ。相田君。鈴原君。
一人だった私の周りには、今はこんなに友達がいる。
私は人間とつながっている。私は、これからも生きていける。
「どう? レイ。初めてじゃない? こうやってみんなでパーティすんのはさ」
アスカが、私よりはずっと逞しい手で頬杖をつきながら訊いた。
言わんとすることはわかった。昔――私ではない私の記憶で、私は碇君の誘いを断わった。
馬鹿だった、とは思わない。
あの私はそうしたいと思った。それが必要だった。
でも今は。
「ええ。楽しい」
「ぼそぼそ喋るのは変わんないわね、あんた」
くすくす笑う。
彼女の、その精悍な笑顔を見て思う。
彼女は本当に変わった。私が最初に――この私が最初に出会ったときには、物凄い形相だった。誰も寄せ付けない。二人目だった私よりずっと頑なに何かを拒んでいた。
でも今の彼女は、強い笑みで私を見ている。眩しい。
「いじめちゃ駄目だよ、アスカ」
「だーれがいじめてるって言うのよォ、ええ?」
「その口調も詰め寄り方も既にいじめっ子そのものなんだよ……」
碇君はその言葉を最後に、丸々した首を絞められてじたばたともがき、そしてぐったりしていた。
もちろん冗談。
全く酒に酔っていないアスカが、それでもまた笑う。
かなり酒が回っている碇君も、赤い顔で笑う。
彼の、その強かな笑顔を見て、思う。
彼も変わった。外見だけじゃない。彼女と再開したときには、「記憶」にある彼と同じに戻ってしまったように思えたけれど、今考えれば、やはりどこか違っていた。
もしかすると、私という存在が「途切れて」いる分、余計に強く感じるのかもしれない。
今の彼らの中にあるしなやかな強さを。
私とは違う、もっとずっと力強い響きを。
少し、切ない。
――それは、あの約束のせい?
「……あの」
二人が私を見る。片方は細い顔とタカのような鋭い目、片方は丸い顔とハトのように優しい目、あのときよりずっと姿形は異なっているのに、今こそまるで姉弟のよう。
「どうしたの?」
「あの……約束は? アスカは、そのために来たのではないの?」
アスカがどきりとした顔をしたので、これは訊いてはいけないことだったのだと悟った。
だから先に謝った。私には、深い心の動きがわからないときがあるから。
「……ごめんなさい」
「謝る必要なんてないわよ」
アスカは少し投げ捨てるような感じで言って、碇君は……首を傾げている。
何故?
「あの……ごめん、何の話?」
何故?
「本当に覚えていないの? あなたたちが交わした約束を」
彼らの他では、きっと私しか知らない約束。きっと重要な約束。
それなのに。
「まあしゃあないわな、シンジ」
隣から掛かったのは、鈴原君の声。
いつのまにか、ヒカリも相田君も鈴原君も、黙って私達の会話を聞いていた。
けれど、何故?
「お前あんとき一番ボッコボコにされとったさかい、覚えてへんのも無理ない思うで。あのおっさんら、アホみたいにワシらの頭バコバコどつき回しよってからにホンマ。ワシらの頭はサンドバッグやないっちゅうねん、なあ? ……ワシもな、あの日のことは所々記憶が抜けとる。せやから、なんやわからんけど、堪忍したりや、惣流」
鈴原君が言い終わると、場が静まった。相田君もヒカリも、次の言葉を待っていた。
ふう。
息の抜ける音が聞こえた。
アスカだった。
「なぁんだ。そういうこと、かぁ。そうとあっちゃあしゃーないわね。思い出すまで気長に待ってやるわよ。まだ休暇中だし」
場がふっと和む。休暇というのが嘘なのはもうみんなわかっていた。
「……ありがとう」
「なになに。今日の主役は綾波やからな。変な質問も愛嬌愛嬌。……さてと、ケンスケ?」
鈴原君が話を振ると、相田君がにやりとして準備よくコップを配って回る。
「OK。仕切り直しだ! 乾杯乾杯!」
それは、よく考えれば初めての乾杯だった。
「ええっ、それでは……」という相田君の言葉に鈴原君が被せた。
「アカンアカン、お前に任すとまた長なるやんけ。……それでは! 綾波さんのデビューを祝して! 乾杯!」
「乾杯!」
五人は笑って、一人はちょっと不服そう。でも、コップの当たる音で、わだかまっていた空気はほどけていった。
しかし何故か、掲げられたコップは六つなのに、飲み干されたコップは五つだけだった。
「おん? どないしてんな」
顔をしかめた鈴原君と、その隣のヒカリ。コップに口をつけていないのはヒカリだった。
どうして?
私が顔を見ると、ヒカリは困った顔で言った。
「あー……私、ちょっとお酒だめなの、今」
「へ? 何でえな、ヒカリは飲めたやんか、酒」
鈴原君は不思議そうに言った。すると、ますますヒカリは言いにくそうに下を向いてもじもじする。
「いやあ、だからあの……何ていうか、その……」
それをきっかけにしてみんなの注目がヒカリに集まる。
鈴原君と同じく、誰もが不思議そうな表情をしていた。――アスカを除いて。彼女だけは、何かがわかったのか、目を見開いてヒカリを見ていた。
「……あの……この場でなんなんだけど……言っちゃって、いい、かな?」
「どうぞ?」
「いいけど……どうしたの?」
「……何?」
「ヒ、ヒカリ、あんた、もしかして……」
四者四様の答え、そして。
「どないしたん? ええから言うてみ?」
どちらかと言えばはきはきとした声を出す鈴原君が出した、恐らく普段はヒカリの前でだけ出すに違いない、とても柔らかい声を聞いて、やっと決心したようにヒカリはうん、とうなづいた。
そして、言った。
「私……妊娠、しちゃったみたい、なんて。あははははははは……あは」
それから数秒、焼肉の焼けるじゅうじゅうという音と、油のぷつぷついう音だけしかしなかった。
「聞いたか?」
「え?」
風が吹いている。台風のせいで生じた、強い風。わしわしと木が揺れる音が聞こえた。
夜空では風に雲がどんどん流され、欠けている月が見え隠れしていた。このくらいの明るさなら、まだ星もよく見える。
「帰ってくるってさ、初号機」
シンジが驚いて出した、えっ、という小さな声は、今にも風にかき消されそうだった。
何を言っているのだろうと、自分でも思う。
俺とこいつに、二人で屋上に来る理由などない。
惣流はいまだシンジを近づけない。
トウジは、委員長といる。
綾波はまだ、こちらは一足早く訪れた検査の嵐の只中だ。
だからシンジは俺といる。他に誰もいないから。
無言で夜空を見上げるシンジの姿からは、そんな、俺を屋上に誘った後ろ向きな理由が透けて見えるようで、だからこそ、誰でもいい内の一人、なんて扱いには我慢がならない俺は、話さないでおこうかと思ったことを話すことにした。
「どうして……」
「宇宙オタクのウェブ・コミュニティで話題になってたんだ。楕円軌道に突然現れた未確認飛行物体がこちらへやってくるぞ、って。それでどんどん距離がつまって観測できるようになってきたからよく調べたら、そのUFOは数十メートルの人型でしたー……ってわけ。初号機、だろ?」
シンジは俺の顔をまじまじと見て、俺が言っていることが冗談でないことを確認してから、落ち着かなげに首筋をかいたり手を組んだりを繰り返した。
「台風でしばらく無理だけど、その後ならこっちでも夜に見えるってさ、光ってんのが」
駄目押し。
俺は黙って、まだそれらしい光は見えない空を見上げた。
シンジもまた視線を空に戻し、雲間の月を見つめた。
何もかもがザワザワしていて、何か起こりそうな気配がそこかしこに満ちていた。