トウジは屋根の上にいた。不自由な足を使って器用によじ登り、あぐらをかいて座っている。その原因を考えると今でも少し気分が重くなるけれど、それは今は関係ない。
そしてトウジの頭の中でも、その程度のことはすっかり忘却の彼方らしい。かなりの横幅になった僕が目の前に立って視界をふさいでもまだ視線は僕には合わず、後ろにある町並みへ向かっていた。
「そこにいたんだ」
一応言ってはみるけれど、そこにいるだろうということは登る前からわかっていた。ここ最近、仕事が早く終わるとトウジはずっとここにいる。
今と同じ、心ここにあらず、といった表情で、ずっと座っている。
「……なんだかなあ……」
結局、あの夜が、僕達が六人で集まる最後になった。
アスカは、んなことは自分で何とかするもんでしょ! いい歳してバッカみたい、とかなんとか言っておかんむりだし、ケンスケはケンスケで、綾波やアスカを見てじりじり募っていた危機感に火が付いたらしく、慣れない真新しいスーツを着て、所詮夢だ、なんてうそぶいていた出版社やマスコミの面接を所構わず受けまくっている。綾波はデビューの準備のために第2に生活の拠点を移しているし、洞木は洞木で、きっとトウジの状態を見て辛くなったのだろう、ここしばらく綾波の世話をしている。
こうして、僕一人が残される、もとい、ここに残っている。……厳密には、アスカは僕の部屋にいるんだけど、ああ言っている以上、そもそも戦力外だ。
「……ああ、センセか」
最近ちょっと聞かなくなった呼び名でトウジは僕のことを呼んだ。
懐かしいなあ、まったく。
僕は笑って、隣に腰を下ろす。屋根が少し心配ではあるけれど、それは今は気にしないでおこう。
あたしは聞き耳を立てている。この部屋の上、屋根の上で交わされている会話に。
あたしは怒っている。煮え切らないあの馬鹿にも、それを諭そうとしているあの馬鹿にも。
本当はあいつこそ、何にもわかっていないのだ。あたしのことだって、あいつのことだって。肝心なことを、忘れ去ってしまっているのだ。
「何よ、話って」
あたしは訊いた。ついにこの時が来た、と思いながら。
けれどその口から出たのは、想像とは裏腹の言葉。
「碇君を、よろしくね」
まだこの女は、あいつのことを碇君なんて呼ぶ。
「どういうことよ」
きょとんとしたレイの顔が、半端な月明かりとチカチカする道端の電灯の光に浮かぶ。あたし達はもうずいぶん長いこと、やけくそのように盛り上がった宴が終わった後の夜道を二人して歩いていた。
ヒカリは傷ついた顔で薄く笑って、帰るね、と言い残し、久しぶりに実家に戻った。これからの身の振り方、お姉ちゃんに相談するんだ。
レイが綺麗に桜色に染まった頬で「歩かない?」と言い出したのは、ヒカリを引き止められなかった少し後だった。
あたしはそれ以外に選択肢もなく、突っ掛けを履いてよく晴れた夜道に歩き出した。
何故って、高く高く積みあがった廃棄物の山みたいに愚かな男共は、揃いも揃ってぐでぐでに酔っ払っていたからだ。今頃寝ゲロでも吐きながら死んでいるんだろう。知ったこっちゃない。そのまま脱水症状でせいぜい苦しんでいればいい。ていうかもっと苦しめ。
そんな夜道、レイの頬は、まだ桜色が引いていなかった。
「……何が?」
突き放すような言葉が返ってきて、あたしは少し焦った。あたしのやっていることはとてもマッチポンプだったからだ。
「あたしがあいつの部屋に転がり込んだこと、怒ってるんじゃないの?」
冷たく見えた顔から、眉が上がり、驚きの顔へ。
「まさか」
「嘘」
眉間に皺が寄る。疑問の表情。昔よりずっとくるくると表情を変えるこいつの心の奥は、表情がなかった昔より、ずっとわかりにくくなっていた。
「嘘?」
「だってあんた……あいつのこと」
「昔の話」
また突き放したような顔に戻ってそう言う。昔の話。何もかももう割り切り、振り切った、という笑顔で、あたしが言い返そうと思った何かの言葉は、塩の柱にされたみたいにどこかへ消え去った。
あたしはその時やっと、この女が何を押し殺して、あんな歌を歌えるようになったのか知った。
「それは、昔の話。碇君に必要なものをあげられるのはきっとあなた。私じゃない。それに私はもう、ここからいなくなるから。第2新東京に部屋を借りたから、そこに移る」
いつもより饒舌に、自嘲気味の声で言った。レイは立ち止まったあたしを置いてまだ歩いていた。
「……ちょっと待ちなさい! あんたそれどういう」
やっと言葉を取り戻したあたしが肩を掴み、レイは振り向く。
あたしを睨むような、あたしに縋りつくような、矛盾したものが混ざり合った妙な表情で。
「あしたかみのいろをもとにもどすの」
のっぺらぼうみたいな声の意味を、あたしは掴みかねた。
「だから移るの。……つらいから」
その言葉の意味を、あたしは後で知った。
何も話さないままで時間だけが過ぎた。もう日は落ちかけている。あの日の屋上を思い出しながら、僕はトウジと並んで黙って同じ方向を見ていた。
アスカは、そんなのわかんないわよ、というけれど、僕にはトウジがどうして悩んでいるか何となくわかる。一歩を踏み出せない理由も、理解できると思う。それを責める気にはなれない。
「ワシ、ホンマ、ヘタレやなあ……」
覇気のない声でトウジは呟いた。
「そうだね」
僕は肯定する。それは否定できない。
確かに、あれは情けなかった。トウジは男らしいさまをちっとも見せられず、あわあわ言いながら酒を呷り、酔い潰れた。
でも僕だって混乱して一緒に潰れてしまったわけだし。そこのところは同罪だ。
それに、それは自分の気持ちをどうやって上手く言葉にすればいいのかわからなかったからだ、ってことは、ちゃんと知っている。
トウジは洞木のことが好きだから。だからこそ、その一歩を踏み出せない。
それはあの時の僕が、好きになりたいと思ったもの全部に背を向けたのと、一緒ではないけれど、少し似ている。
だから僕は言った。
「でも、どうするかは、もう決めてるんでしょ?」
ごめん、ときっと下で聞き耳を立てているアスカに心の中で謝る。僕にはトウジを叱りつけることもできないし、物知り気に説教することもできない。
トウジにはそれほど多くの言葉はいらないはずだと思った。飲んだ調子に小さな声で言った、ワシなんかに、という言葉を僕は覚えているけど、トウジなら、きっとそんな壁は僕よりずっと器用によじ登ってしまうだろう。
だから僕は一言でいい。ただ一言、背中を押してあげられれば。
「……おう」
その声は、もうしょげ返った声ではなかった。
トウジは言うが早いか、すっくと立ち上がり、屋根を軽やかに滑り降りて廊下に降り立った。
僕が重い身体をもてあましへっぴり腰で降りた時にはもう、その背中は遠くなっていた。
「何よ、あれ」
どすん、という音を待ち構えていたように部屋から顔を出したアスカが、ちょっと不機嫌そうに訊く。
やっぱり聞いてたんだ。
少し考えてから、僕は笑って言ってやる。昔僕が彼女を泣かせたとき、洞木に言われたことだ。
「女の子泣かせた責任を取りに行くんだよ」
何がどう転んでこうなったのか?
それがわかれば苦労はしない。
でも、そんなことは終ぞわからないままの俺の目の前には理解しがたい事実がひとつ。
俺がこぼした初号機の話が、本当にバラバラだった六人を初めてひとつにまとめていて、今俺たちは暗い部屋の中で少し怯えて苛々する惣流をなだめながら屋上へ行くための計画を話し合っている。
誰が言い出した?
誰からともなく。
何のために?
それぞれの目的のために。
それを考えて、俺は笑った。なんてことはないんだ。目的地が一緒なだけで、結局俺たちはバラバラのままだった。惣流とシンジは視線を合わさない。
ダメじゃん。
「どないした? ケンスケ」
「いや、何でもないよ。……再接近は、今日。洞木……それ、確か、なんだよな?」
「……うん。職員の人が話してたのを聞いたの。明日、私達は移送される」
「そう……なったら」
「後のことは、わからないわ」
「やだ……ヒカリ」
「騒いでは駄目。誰か来る」
髪が暗闇に溶けるような黒に変わった綾波の声でそのことに気づき、俺たちはまたベッドの下に身を潜めた。惣流の個室は大きく開いた窓で、廊下から中の様子を見ることができる。俺たちの姿が気づかれ、警備員がドアに近づけば、アウトだ。
「……行った?」
ベッドの上で寝た振りをする惣流の手をしっかり握った洞木がささやく。そっとドアに近づいたシンジが、答える。
「うん」
「ほうか。ほなしばらくは、いけるか」
「ああ。で、確認なんだけど……本当に、行くんだな?」
暗い部屋から、ひそひそ声が消えた。
その沈黙を破ったのは、惣流だった。
「行く。……あたしをこんな目に遭わせた奴の顔、拝んでやるのよ」
精いっぱいの虚勢で、初めて俺達の前に姿を表したときのような自信満々の声を発した。
「……ええ。私も、逢っておきたい」
以前の綾波とは少し性格が変わったように見える綾波が、続いて言う。
他は、誰も話さなかった。
しかし、洞木はきっと、惣流についていくだろう。シンジだってそうだ。そして、そうなれば、俺も、トウジも、きっとついていく。
それがわかったように、トウジが宣言した。
「ほな、決まりや」
いい加減歌い疲れた頃、ここしばらく聞いていない着信音が鳴った。これは確か、鈴原君用の音だ。
ヒカリは私を見た。私は頷いて見せた。
「はい。……ええ。うん。……え? ……もう一度、言って?」
私はそっと玄関を出て、アスカと歩いたあの夜と同じに、また夜の道へ歩き出した。
つまりは、目の前にヒカリがいることに、そして、私から見ればそれだけで幸せであるはずなのになおヒカリが不幸であることに、私は耐えられなかった。
だからだった。
私がついに苛立ちを抑えられずそのことを話すと、ヒカリはすぐに目を潤ませた。
そんな情緒不安定さすら、私には羨ましいのに。
しかし、それはヒカリのせいではないし、私はきっとその代わりにこうして力を与えられた。
より正確に言えば、これは奪い取ったのだ。
私はどうしても手に入れなければならなかった。
彼女は私を生かしてくれたけれど、誰かを生かす力までは与えてくれなかったから。
だからこそその代わりに、私は私の歌で、人間とつながるのだ。
昔の私のように真面目くさって、私はまたそう決意する。
ヒカリは俯いていた。
私は昔ヒカリがそれを使って教えてくれた古いアコースティック・ギターを取り出して、軽くチューニングした。
かなり前から交換していない古い絃だけれど、音は出た。
「弾いてくれる?」
謝る代わりに、許す代わりに、そう言った。
ヒカリは顔を上げて、頷いてくれた。
少し細くなった指が財布を開いた。その中にはまだピックが数枚入っていた。
ヒカリは涙の跡も気にせずに、ゆっくりとコードを進め始める。
それを見届けて、私は軽く息を吸った。
夜道には月は照らない。曇った雲に開く針ほどの隙間にも、周りが明るすぎて星は見えない。明るい街頭や建物は、掠れた記憶に残る第3新東京のビルに似て、どれも同じに見えた。
そんな目印のない街を、私は歩いていた。
きっと、いい知らせだろうな、と思った。
私は、ついに一人になる。
私には何もない。そんなことを言ったことがある。
始めに戻った。それだけなのかもしれない。
でも、ただひとつ、違う。今の私には歌がある。
高架下を通ると、顔に水滴が当たった。
水漏れ? 室外機?
違った。ゆっくりと高架下を抜け出ると、そこは雨の街だった。
ため息ひとつ、雨の中、私は軽く、さっきヒカリが弾いたメロディをハミングながら歩いた。
歌を歌おう。私のために。ヒカリのために。碇君のため、アスカのため、鈴原君のため、相田君のため、他の皆のために。
雨は少しずつ、本降りへと変わっていく。黒に戻した髪がじっとりと雨を含む。構わない。私はまだ歌うことができる。
歌を歌おう。そうすれば、私は人間とつながっていられる。私は、これからも生きていける。
家に戻ると、ヒカリが待っていた。私が濡れているのも構わずに抱きついてくる。
「いい、知らせ?」
「うん」
「そう……よかったわね」
「うん」
ヒカリは頭を私の濡れたシャツに押し付けたまま、続けた。
「ねえ。もう一度、みんなで集まろうよ。そう言ってたの。もう一度、本当に――ちゃんと、お祝いしよう」
私は濡れた手をジーンズで軽く拭いてからヒカリの頭を撫ぜ、心を決めた。
「ええ……そう、しましょう」
そう言いながら私が涙を流していたことに、きっとヒカリは気づかなかったに違いない。
全て終わった後から考えると、惣流は導火線に点いた火みたいなものだ。本当はもっと前から事態は着々と進行していたのだろうけれど、見た目にはそうだ。
そんな風に俺は、この数ヶ月に起こった様々な出来事のまとめにかかっていた。
あの日惣流が現れ、そして数ヶ月が経った後についにダイナマイトに火を付けた。別にプラスチック爆弾でもいいけど、個人的にはダイナマイトの方が好きだ。これは余談。
そして綾波はめでたくステージに躍り出て歌手になり、
トウジは洞木の親父さんよりむしろ姉貴やら妹やらにボコボコにされつつ何とか父親になり、
洞木はトウジのたどたどしいけれど真っ直ぐなプロボーズを受けて、母親で花嫁になり、
俺と言えば、運良くそれほどせずに内定を取ることができた。余り名前を聞かない会社だったが、そういう業界の関係会社ではあった。
これで、まるで状況が変わってないのはシンジくらいになっちまったな。
思いながら、俺は立ち上がり、綾波待ちで少し静かになってしまっている場を活気づけるべく盛大に――
「では! 状況終了を祝したこの会、主役が来るまでまずは練習ということでぅるごわっ!?」
「一人で盛り上がんじゃないっ! なァにあんたが場を仕切ってんのよ! 状況終了の宣言も訓練の宣言も! 階級が一番高いあたしに決まってんでしょうが! ちょっとほらそのマイクみたいなの貸せ!」
言いながら、惣流の腕が風を切る。久しぶりに見る薄着の腕にはやはり相当筋肉がついていて、しょせんインドアオタだった俺はその腕のスイングの前にあっさり仕切り役の座を明け渡した。
おもちゃのマイクが飛び、世界がくるりと回る中、ああ、そういえばもう夏なんだな、などと今さら実感を込めて思ったり、した。
「大丈夫……なの?」
少し離れて見ていたのでよくわかったけど、あれはかなり盛大にひっくり返っていた。アスカ、調子乗りすぎ。
「……わかんない」
アスカが腕と同じく惜しげもなくむき出している足でつんとつついても、ケンスケはまだ目を回したままだ。
「わからんって、そら、殺生やで……?」
言いながら、トウジがこちらは主役らしいきっちりした服で、ちょん。まだまだ、意識は遠い。
「まあ、いいじゃん。……そういえば、レイは?」
「ああ……」
洞木が眉をひそめ、それから、僕の方を見た。僕も見返す。結婚を決めて服から髪からすっかり落ち着いてしまった洞木は、以前の「委員長」だった頃に戻ったようだった。
「何?」
「あのね、碇君」
「うん」
僕は答えて――そこに、アスカが声をかけた。
「ヒカリ」
ぴしゃりと室内に響いたその声は、僕と洞木を同時に黙らせるのに十分だった。
「……それは、駄目」
「……わかった。ごめん」
何のことだか、わからなかった。
「――お待たせ」
その姿を見ると、頭の底にこびりついていた記憶が疼いた。幽かに残る記憶、笑み。そうして、僕は彼女がこの数年、髪を染め続けていたわけを、やっと理解した。
僕は黙ったままで、彼女は――綾波は、僕の中に残っている薄ぼんやりとした記憶にある母親の顔そのままに、少しだけ笑った。
振り向いたトウジが、僕の様子に気づかないまま声をかけた。
「おお! めっきり真面目になってもうたやんけ、綾波!」
意外とタフなケンスケが起き上がってトウジに続く。
「主役登場。さて、と……始めようか」
「あんた、いつの間に復活したのよ」
「まあまあ、犯罪者になんなくてよかったじゃない、ね? アスカ」
ケンスケの復活に女性陣がツッコミを入れると、さっきの雰囲気はどこへやら、一気に祝いの場の空気ができあがっていた。
僕を置いたままで。
「乾杯!」
そんな簡単な挨拶で、祝宴の続きは始まった。私とトウジの結婚、レイのデビュー、相田の内定祝い、祝い事の名目が多すぎて、何から祝ったらよいか決めかねたからだ。
私はやっぱりオレンジ・ジュースを飲みながら、勢いづけて飲む我が夫予定と相田、そしてレイとアスカに挟まれて動きが取れなくなっている碇君の姿を眺めていた。
レイがここに来るためにしなければいけなかった決心のことを、私が知ったのはかなり後だった。
こんなに長く、今となってはアスカと一緒にいるより長く一緒にいたのに、気づかなかっただなんて。
私はレイと碇君の顔を、交互に見た。華奢で少し釣り目のレイと、ふっくらしていてやや優しげな目の碇君、ぱっと見るとそれほど似ていない。けれど、よく見れば主要なパーツのそこここに、どことなく共通点があるのがわかる。
「飲まないの?」
レイの声。落ち着いている。対する碇君の声は、どもりがちだ。
「あ、ああ、うん、ありがとう。アスカは?」
苦し紛れに話を振られたアスカは、その消え入りそうな声に被せて大声で私に話しかけた。
「ねえヒカリ! あんたホントにこのぶぁかと結婚しちゃうわけえ!?」
「おん? 何ぞ喧嘩売っとんのか惣流?」
「ますます言葉おかしくしてんじゃないわよこの根性なしっ」
「そ、そりゃ禁句だ、あははは」
「お前どっちの見方やねんケンスケ!?」
言い争いが始まる。トウジも相田も、にやにやと笑いながらアスカに絡んでいた。やっぱり、男って馬鹿だ。
私は碇君の方をちらっと見た。碇君はまだ口数少なく、でも、レイはそれを少しだけ憂いの混じった目で、優しく見ている。できるなら、彼がトウジの背中を押してくれたように、私もその背中を押してあげたい。でも、うまい背中の押し方は、その時の私にはちょっとわからなかった。
だから――ごめんね、碇君。
心の中で一言謝り、私は段々アスカのリードが広がっている口喧嘩に、助っ人参戦した。
「もう! いくらアスカでも私の旦那様に暴言は許さないわよ!」
こうして、夜は更けていく。碇君がレイの決意をしっかり受け止めるまでの時間が、ゆっくりと流れていく。
――そう、思っていた。
そして僕達は、軋むドアを開いて、歩き出した。
並ぶ六人。
足は、少しずつ速さを増す。
リノリウムの床を、僕達は音を鳴らさないように裸足で歩いた。トウジの片足だけが、かちゃ、かちゃ、と、小さく音をたてた。
息を潜めて、曲がり角の向こうを窺う。
誰もいない。
息をつき、また進む。誰も、一言もしゃべらない。もう、お互いを罵るのに使うような余った気力はなかった。
綾波は、小さく息を吐く。
アスカは、前を睨みつける。
洞木は、アスカの隣に寄り添う。
トウジは、ケンスケに肩を借りて歩く。
ケンスケは肩を貸しながら、周囲に目を配る。
そして僕は、そんなみんなを見ながら、少しだけ後ろを、歩く。
いつでもそう。終わりは突然やってくる。
戸を叩く音がした。壁に掛かっている時計を見れば、もう深夜に近い。誰? こんな時間に。
「お?」赤い顔をしてトウジが言う。駄目だ。これを玄関先に立たせるわけにはいかない。こんな状態で玄関先に出せば、悪質なセールスだか何だか知らないけれど、時間を気にしない来訪者の首根っこをつかまえてもおかしくない。
ここにはレイがいるし、もう私も半ば忘れそうになっているけど、そもそもアスカは逃亡の身。トラブルは避けなければ。
私は腰を上げようとするトウジを手で制した。
「いい、私出るよ」
「そうして。こいつすっかり酔っ払っちゃってるし」
「お前に言われたないわい」
「はいはい、後は二人でよろしくね……まったくもう」
立って、玄関に向かう。
女の勘などという都合のいい言葉は嫌いだけど、その時、私は少し嫌な感じを受けていた。戸の叩き方、タイミング。なんだか、追い詰められるような響きだった。
スリッパを履いて戸の前へ、そして、何か気になって、私は後ろを振り向いた。
アスカの隣では、この場にいる中ではマシな酔い方の相田が、微かに私に注意を向けながらも、もうほとんど寝そうになっている私の未来の旦那様を放置して、アスカと話をしていた。
そしてレイの横には、こちらも酒の力を借りながら、少しずつ話を続ける碇君がいた。
ああ、これなら、なんとかなるか。
何がかはわからないが、そんな風に納得してから、少しだけ戸を開いた。
結論から言えば、私の勘――女の勘でも母の勘でもいいけれど、その感は正しかった。
「どちらさまですか?」
現れたのは、にやにや笑いの男。
「あのう……RAさんのお宅は、こちらですか? ……おいアンタ、なにすんだこっちが先……うわっ!」
もしかすると、私も空気に当てられて酔っていたのだろうか? それとも、妊娠検査薬の結果を見た時に、十年分は驚いてしまったからだろうか? その言葉にも、ドアの隙間に差し込まれた、小汚いスニーカーを履いた足にも、ちっとも驚くことはなかった。
スニーカーの男を押しのけて現れた、黒いスーツの男達にも。
私は何にも驚かず、ただただあの人を、みんなを信用しきって、こう言った。OKOK。腐っても元委員長、合図を出す役は、任せて欲しいわ。
「碇君! 相田! ――逃げてっ!」
そして私はどん、と弾かれて後ろに転倒し――床にぶつかる直前に、私のこととなると物凄い勢いで駆けつけてくれる私の愛する旦那様が、その酔い方と義足からはとても想像もつかない速さで私を受け止めた。
だいじょぶか、気つかんとごめんな。
私だけに聞こえる声で小さく呟いた後、一言、場を震撼させる大声で、輩に咆えた。
「ひとの大事な嫁はんに何さらしとんじゃこんクソガキゃアッッッ!!」
私はそのド汚いけど愛が満タンに詰まっている啖呵を聞いて、ああ、私って本当にこの人の妻になってしまったんだなあ、と、妙に納得し直してしまった。
――そして、警報ベルが鳴る。
まるであの日をリプレイするように、俺たちは動いた。
一番初めに動いたのは、惣流。テーブルの上にあるまだ開けてない酎ハイの缶を、ひょいひょいっ、とまるでテレビのパイ投げのように投げつけた。
投げた缶は異常な速さで洞木を受け止めたトウジの頭の上を滑り、黒服の頭に直撃した。二人、昏倒する。
次に動いたのは、綾波。惣流とほぼ同時に動いた彼女は躊躇わず窓を蹴り割り、それにはっとした俺とシンジも一緒になって窓枠をぶっ飛ばした、その間、僅か数秒。
そして。トウジが愛だらけの啖呵を大声で叫び、残りの薄給ライターか何からしい奴らがビビッてカメラを取り落とす。
その一瞬で十分だった。
奴らがカメラを取り上げたその時には、もう俺たちは部屋を脱出していた。この前の教訓で裏に停めることにしていた、俺の中古車の上に。
後部座席に助手席まで先に乗り込んでいた三人に取られれば、俺が運転するしかなかった。それによく考えると、鍵は俺のポケットの中。この脱出自体、大バクチだったのだ。
「どこへ!?」
「とりあえず出せ!」
「了解!」
キー一発、ギヤ一倒、アクセル一蹴、買い換えたばかりでもうへしゃげてしまった中古AT車は、それでもかなりのスピードで路地を飛び出した。
「うぐ、せっまいのよデブ!」
「仕方ないだろ! うわケンスケ前!」
「黙れよお前ら! うわっ!?」
「きゃあっ!? あれはいったい、何!?」
走りながら口々に叫ぶ。酒の力も手伝ってか、綾波さえもが思い切り声を張り上げていた。
「黒服は多分、あたし狙い」
「じゃあ、あのカメラはなんなの?」
「……恐らく、私。でも……住所は、どこから?」
言われて、思い出す。あのカメラの男……見覚えは、ないか?
頭の中で猛スピードのサーチが始まる。早送り、巻き戻し、巻き戻し、コマ送り……、あっ。
あいつ。面接を受けた後、廊下でぶつかった、あの男。
「たぶん俺、だ――糞ッ! 惣流! トウジと洞木は大丈夫なのか!?」
「焦んな前見ろ馬鹿! ……黒いのは素人に毛が生えたみたいなもんだった。あたしが仕留めたからしばらく起きない。もう片方は、あんなのにあの熱血嫁好き馬鹿が負けるとは思えない!」
俺よりは冷静らしいシンジが口を挟む。
「なら、とりあえずあっちは大丈夫なんだね? じゃあ……これから、どうする?」
「相田君?」
「俺に訊くなよ! とりあえず裏道進んでるけど、報道はともかく惣流狙ってる奴らに勝てるわけない!」
会話が途切れる。
俺も言いながら、しかしそう言ったって何の解決にもならないこともわかっていた。
どこに行く?
「――仕方ない」
さっきまでと打って変わったような冷静な声は、惣流の口から出たものだった。
「え?」
「二手に別れましょう。あたしを追ってくるのは確実だから、あんたらも危ないわ。あたしを殺すつもりはさらさらないにしても、あんたらにまでそうとは限らない。これ以上、あたしのワガママにはつき合わせらんないもん」
サバサバとした調子で、そう言った。
「ちょっとアス……」
「そうね――ああ、そうだ。あの、病院があったでしょ? この先に。あれ、まだ残ってるはずよ。そこ行ってちょうだい、相田」
シンジの声は虚しく遮られ、代わりに言葉を返そうとした俺の声も、同じく冷静になったらしい綾波に遮られた。
「いい考え。私も相田君も、今はトラブルに関わりたくないもの」
ぞくり、とした。冷静どころじゃない。怖ろしいほど冷たい言葉だった。
「おい、綾波……」
しかし、俺が言葉を挟む間も無く、すぐに次が続く。
「でも――碇君はそうではないわね。だからあげる。持ってって」
まるで荷物でも渡すように綾波はさらりと言ってのけた。
「えっ?」
「はあ?」
「はあ、じゃないわ。逃げるときに、重たい碇君は、邪魔」
「あんた……」
不穏な空気が走ったように思えた。しかし、サイドミラーのついでに綾波の横顔を見て、どうも状況は俺が思っていたのとは違っていることに気づく。綾波は冷たい言葉とは裏腹の顔をしていた。そしてバックミラーには、何か気づいたのか静かに不満げな顔の惣流と、困惑した表情のシンジがいた。
車線を変えて、また、ミラーを見直す。三人の顔を見れば大体の状況はわかった。
まずい車に乗っちゃったなあ。仕方ない、かあ?
標識を見る。猛スピードで後ろに去って行く標識には、第五芦ノ湖、5キロ。なら、あの病院は、もうすぐそこだ。
仕方ないな。
「そうだな。行けよ、シンジ」
「相田君?」
「ケンスケ……何を」
「一つ、惣流だけ一人置いて逃げるってのはムカつくから却下。一つ、綾波はどーやっても逃がさなきゃなんない。一つ、シンジ、お前車の運転できないだろ。それに――約束があるんじゃないのか、惣流と」
立て続けに理由を並べると、隣の綾波が、横顔を見せたままふっと笑った。そして、少し目を伏せ、口を開く。
「そう! そういうことなの、わかる? アスカ! ――シンちゃん!」
俺は重い門も外れてしまっていたあの病院の前で、車を止めた。
シートが外れるほどの急ブレーキ。
そしてそれだけではなく、惣流も俺もシンジも、しゃべれなくなっていた。今、誰がしゃべった? 「シンちゃん」だって?
口をあんぐり開けて助手席を見る。綾波は目を伏せたままだ。しかしその勢いは、もう止まらないほど激しかった。
どん、とダッシュボードに拳を打つ。
「ああっもうマジムカつくわもうシンちゃんあんた何!? 男でしょう!? ちっとは強くなったんでしょ!? そう見込んでアスカが来たんでしょ!? バッカじゃないのそんなの責任取りなさいよ!? ――つべこべ言わずに行けぇッッ!」
異常なテンションの早口でまくし立てる言葉に、俺とシンジはあっけにとられたままだったが……惣流だけは違った。
くっ、くっ、くっくっくっくっくっくっくっかっはっはっはっあははははは!!
頭がどうにかなったかと思うほどの高笑いを発し、ついには腹まで抱えてひいひい言って笑った末に、惣流はドアを盛大に蹴り開け(俺の車なのに)、シンジの首筋をひっ掴んで、言った。
「あんたがそこまで言うなら仕方ない。こいつ、持って行くわ。――ありがと、レイ」
そして反論の機会さえ与えられないまま、猫が借りていかれるようにシンジは惣流に連れ去られた。
最後の呼びかけは、半ば聞こえず、俺はしばし呆然としたまま、声の去る方向を見送った。
「出して」
助手席の言葉に、我に返る。もう、さっきの異常なテンションは収まっていた。
「あ、あの……」
「出して!」
「はいぃっ」
シリアスな状況もぶち壊しの情けない声と共に、俺はアクセルペダルを踏み込んだ。
黒い要塞のような病院が、バックミラーの中で急激に小さくなっていく。荒れたアスファルトの道から抜け出す直前に、いくつかの車のフロントライトが、見えたような気がした。
「――びっくり、した?」
それはもう数十分も夜道を走り、洞木たちの無事を確認した後のこと。俺が、「国連の機関の者」とかいう怪しい自己紹介をする奴らがあの押しかけた奴らを一切合切片したことを伝えると(当然、きっとそれで俺の内定先が消えてしまうことは言わないで)、綾波はほっとしたようにうなづいてから、そう俺に問いかけたのだ。
俺は逆にきょとんとしてしまって、その悪戯っぽい目を見返した。
「……そりゃあ」
「そう、よね」
「もしかして、アレが……素か?」
「いいえ。あれは……私ではないわ。かつて私だった、誰かの残響。……いえ、それもやっぱり、私を構成する一部なのだから、私なのかもしれない」
「どういう……」
「……ああ、ごめんなさい。いくら相田君でも、何でも調べているわけではないものね」
それだけ言って、綾波は笑った。急に綾波が何十歳か老け込んだように見えるような笑い。「知らない方が、いいこともある」そう諭されているような気分になって、俺はそれ以上のことを訊くことができなかった。
ただ、綾波の独り言だけを、聞いていた。
「そう。今私の中に残っている、この気持ちは……碇君を自分のものにしたいんじゃない。だからこの切なさは、きっとあの人の気持ち。もうすぐ負けてしまう、あの人の。碇君が欲しいという気持ちは、私が途切れたあの時に、あの蒼い髪が、記憶だけ置いてどこかへ持っていってしまったのよ」
俺は意味がわからないまま――でも、綾波がかつて碇を好きで、それを吹っ切ったということだけは何とか理解して、やっぱり訊き返さずに、もう一度エンジンをかけた。
「追っかけてくる車もないけど、もうちょっと走ろうか、綾波」
「ええ」
車はゆっくりと走り出す。タイヤが乾いた夜のアスファルトの上を転がる。
これで、状況が変わってない奴なんか一人もいなくなったな。
そう考えると、自然と笑いがこみ上げた。そうだ。あの時と同じ、何かひとつでも変化を免れるものなどないのだ。いったん状況が回りだしてしまえば、俺達はあの日と同じく、目的地に向かって転がり落ちてしまうしかない。
でも、それはあくまでも比喩。目的地が地面とは限らない。
空に向かって転がり落ちていくなら、それは駆け上がっているということで――それも、あの日と同じだ。あの日の、逃げて逃げて、屋上まで逃げ切った俺たちと。
「さて、どうなんのかなあ、あいつら」
俺がこぼすと、綾波はさっきと同じように、ふっと笑った。
「大丈夫。もう、選んだみたい」
「何が?」
「いえ、なんでもないわ」
その横顔を見て、どきりとする。その笑顔はまるで、小学生の時の薄い記憶にある、子供のことならなんでもわかってるのよとばかり隠し持っていたエロ本を机に積み上げたお母さんのように、超然として何でも見透かす笑顔だった。
「やな顔で笑うよなあ」
これなら、俺がまた求職学生に戻ったのも、お見通しか?
「ああ、そうそう。相田君、仕事を探していない?」
勘弁してください。俺は思わずこの千里眼に哀願しそうになった。
誰もいない。まるで、あの日の廊下のようだった。
けれどあの日も、あの場所を過ぎたあたりから――
「――来た! 走るわよっ!」
言うと、アスカは強靭な脚をネコ科の肉食獣のようにしならせて、駆け出した。
「ちょっ、まっ!?」
慌てて僕も走り出すが、まるで追いつけない。身体についた肉の重みをはっきりと感じた。息が上がる。
昔と同じだ。やせ細って走れなかったあの日とは、体格は違っても、走れないということは全く同じ。僕は心の中で怠惰な自分にいまさら悪態を吐いた。
「置いてくわよ馬鹿!」
アスカが叫びながら僕の方を振り向き、そう急かした。
無駄な思考が掻き消える。僕は動かない身体に鞭を打って、記憶にある曲がり角を曲がる。
――「行き止まりだよ!?」
――「こっちだ」
錆びついて転がる消火器に足を引っ掛けそうになりながら僕はそれでも走る。
廊下の突き当たりに、アスカの姿は無かった。
僕は迷わず月明かりの差す方を見る。
そこには、僕とケンスケがガラスから枠まで蹴っ飛ばした、窓があった。
――「ワシは置いといて行け!」
――「ばかっ!」
――「思い通りに行かせやしないのよ、畜生ォ!」
僕は窓から外へ出た。ガラスの破片が身体を傷つけるけれど、僕はもうそんなことに気を使う余裕がない。
窓の外には古い学校のように、コンクリートでできたしっかりとした雨避けがあった。僕は危うく落ちそうになりながらそこに立ち、あの日と同じように遠い背中に追いつくことだけを考えるようにして、僕の横幅ギリギリの雨避けを走り、雨どいパイプを通す隙間を跳ぶ。
――「駄目、向こうにも、いる」
――「こっちだ。上に――屋上に!」
そして僕はまた傷を増やしながら再び建物の中に入った。遠くに、走ってこちらに回り込もうとする足音が聞こえた。複数の足音が、段々近づいてくる。
屋上に上がる階段に通じるドアは、やはり開いていた。
――「無理だよ!」
――「うるさい! ワシは、必ず登る」
僕はあの日のトウジよりずっとゆっくりと、ぜいぜい肩で息をしながら、手すりに必死でしがみ付きながら階段を登った。
驚いたことに、重くなった身体を疎ましく思ったのはこれが初めてだった。
誰かに追いつけなくて悔しいと思ったことも。
あんなにつらかったはずなのに、どうして、忘れていたんだろう?
僕のことを心底憎んでいたアスカが、僕のことなど目もくれず、無理やりにリハビリをした身体で執念を糧に階段を駆け上がって行ったとき、あんなに、悔しく思ったはずなのに。
僕を見てよ。あの日だって、そう思ったはずなのに。
そして、それでも僕を見なかった彼女と、やっとあの日、約束したはずなのに。簡単な約束。でも、忘れちゃいけなかったはずの、約束、それなのに――
どうして、忘れていたんだ。
――「畜生」
「畜生」
そう、あの日も彼女はそう言った。
僕はぜいぜいいう息をなんとかなだめながら、次の言葉を待つ。
「……ここまで、か」
「はあっ、はあっ、はあっ……ここ、まで?」
「ええ。……聞こえるでしょ?」
僕は耳を澄ませた。……パラパラパラパラ。断続的に続く音。これは……
「ヘリ。下から追っかけてこなかったのは、そのせい、か。――ねえ、あんたはここに」
僕は無理やり声を絞り出してアスカの言葉を遮った。
「いっ! ……や……だよ。それ……なら、僕が、ここまで来た意味、がない。この病院の、こんな所……まで」
もう、この病院にアスカが詳しかったことがたまたまだなんて、思わなかった。アスカはずっと覚えていたのだ。あの約束を。
「どうしたっての? なんで、そんな」
「ごめん。忘れてて」
アスカは言葉を失ったように、僕の方に顔を向けた。
鉄のドアについた窓、鋼線入りのすりガラスから、強い光が差す。
僕の目に、アスカの姿を映す。
「……遅いわよ! バカ!」
「……ごめん」
本当に馬鹿だ。僕は。
「だから、行こう。僕は、あの約束、ちゃんと覚えてるから」
「その言葉、取り消し効かないわよ? あたし、凄い酷い奴なんだから」
「僕もだよ」
僕は笑って、アスカも笑った。
そして僕らは、また、あの屋上へと足を踏み出す。
空に、光があった。
彗星――母さん。
アスカが真っ先に外に出た。その後に綾波が続き、僕とケンスケと洞木の、その後ろに、痛む足を押さえてそれでも笑顔のトウジがいた。
みんな、汗と埃と、切り傷から出た血でぐちゃぐちゃだった。
でも、それでも、僕らは笑っていた。
「――来てやったわよ!」
へたり込んだまま、僕達はアスカを見た。アスカは一人で立って、彗星に向かって精いっぱい気を張って中指を立て、雄叫びを上げた。
「このクソババア! 見てろよ! あんたなんかに、あんたなんかにあたしをずっと苦しめることなんかできないって、教えてやるわよ!」
途切れ途切れの声で、アスカはそう叫び、ふらりと、倒れそうになった。
「アスカ!」
すぐ隣にいた綾波がその身体を支え、僕もそれに続いた。アスカはそれまで頑として遠ざけて拒否していた僕も綾波も拒まず、その身を預けた。
「――シンジ」
「え?」
空を睨んだまま、アスカは呟いた。
「まだ、あんたを許さない。あんたも、あたしを許さなくていい」
僕は何も言えない。アスカは彗星を睨み、こういい切った。
「でも、約束するわ――あたしはあんたのママに、あのクソババアには負けないから、あたしたちの世界を、あんなののせいで最低になんてさせないから、だから――いつか、あんただって許してみせるわ。あんたがどんなカスだって、許してみせる。だからその時は、ちゃんと友達として会って――あたしを、許してよ。そんでさ、またここ、来ようよ」
立て続けに言って、アスカは僕を静かに見つめた。言葉で答える自身がなかったので、僕はただ、うなづいた。
そうして、僕達は約束を交わした。あの彗星なんかではなく、自分達に誓って。