- The rest stories of "Project Eva" #31 -

"帰り道"

1

第三新東京市では深夜に外を出歩いてはいけない――

そんな噂が広まったのは雑誌のよくある夏の怪談特集で組まれた一コーナーが発端だった。

急ピッチで復興した街にはびこる噂には壁に人が埋め込まれているなどというありがちなものから、闇に浮かび上がる人影などというものまで、多種多様に渡った。

つまりはよくある新興都市の都市伝説特集なのだが、この一連の話にはそれらを貫くひとつのモチーフがあった。

そのモチーフは、「紫の鬼」。

よくある都市伝説とひとつ違う点があるとすれば、全ての話に共通して、その根幹となる部分にかならずそのモチーフが登場することだった。


ある日の事件。会社帰りのOLが帰宅の道筋から少し離れたトンネルで、不審な音を聞いた。暗い中、何かを咀嚼するような、すするような音を聞き、慄きながら中を覗くと――思えばなぜそんな怪しげな場所に言ったのかはわからない――その現場に行くと紫の鬼がぴちゃぴちゃと音をさせながら人を食べていたという。翌日その場所からは身元不明の惨殺死体が発見された。地面に叩きつけられたかのように飛びちった血と脳漿。あまりにもむごいこの事件は猟奇殺人事件とされたが犯人はいまだつかまっていない。

――これは、本当にあった話だ。まだ犯人は上がっていない。


またある日の事件。深夜に母の眠る離れで不審な物音がするのに気づいた家主が音源に駆け寄ると、祖母の枕元に立った鬼がそのまま母を抱きかかえ、部屋のはりにもかかろうかという巨体で戸を壊し、そのまま連れ去ってしまった、という。彼は慌てて警察へ通報したが、電話を掛け終えて再び部屋に入ると、部屋も何事もなく母もちゃんと寝息を立てていた。そのため彼は間違って通報してしまったことを警察に詫びるのだが――この話はここで終わらない。翌日彼は冷たくなった祖母を発見する。死因は寿命による老衰だったが、このことから紫の鬼は死神とも考えられる。

――これはソース未確認。単なる噂の域を出ない。


またある日の事件。市郊外にあるある区画の住民が突然の轟音――後日の調査によれば何かの叫び声だったとの証言もある――に起こされ外に慌てて飛び出ると、そこには月を背にはるか上空からこちらを見つめる巨大な紫の鬼の姿があった、という。鬼は一瞬で地面に溶けるように消えたが、その後に深度6強の地震が起きた。その揺れはあたり一面の家をなぎ倒し、揺れが収まったあと、嬉しそうに笑う声を聞いた者がいたという。

――これは明らかに嘘。第三新東京市の市政施行以来、震度5以上の地震は観測されていない。


「……ふうっ」

私は目元をぐりぐりとつまみながら顔を上げた。元は報道のほの字も感じられない三文記事、そこから出発して、取材の際に頻繁に出てくる「紫の鬼」に興味をもち調べたはいいが……

「掴めんなぁ」

「うひゃあっ!?」

椅子をひっくり返して立ち上がり、後ろを振り返る。

私の斜め後ろにはぽかんとした顔の男が立っていた。

「な、な、な、な」

「な?」

「何やってんのよ!」

「妙齢の女性の苦悶の表情を観察……冗談だよ、そんな顔するな」

言って、苦笑しながら後を続けた。

「そーんな妖怪でも見たような顔しなくてもいいでしょーに。あれか? ホラー見るとトイレとか風呂とか駄目になるクチか。篠原は」

図星だ。

目の前のうだつの上がらない顔が途端ににやりとする。しまった、ただの鎌かけに引っかかった。

情けない気持ちをごまかすようにタメ口で言葉を返す。年数で言うと彼は遥かに先輩に当たるが、いつもこんな感じだ。

「うるさいわね! 取材はもう終わったの!?」

「取材って……ただ単に噂好きのおばさんや女子高生に話聞いて回るだけだろう? そんなもんとっくに終わってるよ」

肩をすくめてあっさり答える。この男、のほほんと見せているくせに、こういうことには卒が無い。嫌な男。

「あっそ、じゃあいつもどおりタイプ別に分けてから事の真偽を確かめといてちょうだい」

「それも終わってる。ほれ、これ今日の分」

なんでもないような顔でボストンバックから取り出した分厚い紙の束を私の前に積み上げると、彼はそのまま自分のデスクの近くに置いてある専用カップに私のコーヒーポッドからコーヒーを注いで飲み始めた。

何よ、この紙束。

「何、これ」

「だから、今日の分だって、ナッちゃん」

私の嫌いな呼び名を使い、どう考えても不可能そうなことをしごくあっさり言い切ると、日本茶でも啜るようにみみっちくコーヒーを啜りながら話を始めた。

「いやなに、この件、TVのほうでも興味を持ったらしくてな。昼の番組で心霊特集かなんか組んだらしいんだが、その関係で、こうさ。TVってだけでここまで現金に増えるとかえって笑えるな」

「ああ、それで」

不味いな。真っ先に頭に浮かんだのはそのことだった。

「……んー、疲れた。パス。悪いけどこれファイリングして、私のパソコンに打ち込んどいて」

「……で、その疲れたお嬢さんは麦藁帽子なんか持ってどこにお行きになるんで?」

ひとまず疑問に答えないまま、私は席を立った。

こういう記事はあまりメジャーになってからでは遅い。あまりメジャーになってしまうと、一山幾らの二番煎じや三番煎じの記事共とあまり代わり映えしない。調査報道が記者の夢とはいえ、やはり早さは重要なのだ。

というわけで。

最近また買った、仕事とはちょっと不釣合いな麦藁帽子を被って、彼の疑問に答えた。

「本当はもうちょっと資料集めてからにしようと思ってたんだけど、周りがうるさくなってきてるなら仕方ない。偉い人にお伺いたててくるわ。それなりにツテはあるから。噂の元凶はさて置くとしても、せっかくここまで調べたのに、このままビミョーな番組のネタで消費させんのはシャクでしょ?」

「まあ、そりゃそうだけど」

言いながら、彼は麦藁帽子をしげしげと見る。これは昔の番組からのゲンを担ぎなのだが、それを言うのも少しシャクだった。

だから、人を馬鹿にしたような営業スマイルを作りながら答えた。この帽子を被っていればこういうことだって簡単。

「実地取材。いくつか目星つけてるのがあるから、お伺いの後にでも行ってくるわ」

「その麦藁帽子の説明にはなってない気がするけど?」

「細かいわねぇ。ついでにちょっと寄りたいところがあるの。炎天下に帽子も被らずに歩いたら大変でしょ」

やはり答えにはなってなかったけれど、それ以上追求する気はないらしい。

諦めたような顔でデスクの上のノートを立ち上げながら、ふん、と軽く鼻息を鳴らす。

「ご苦労なことでまあ。人気お天気おねーさん『だった』篠原ナツコさんが畑違いのこんな場所に移ってきて泥臭いことやってるとは。いやはや世の中ってーのはわかりませんな」

それは言わない約束だ。後悔させてやる。

「やぁっと念願の報道に移ってこれたのよ! これ以上足踏みしてる暇はないのよ! そう、篠原ナツコの成功物語はここから始まるの!」

寒い。物凄く寒い。自分の昼行灯調のキャラでは対処しきれない状況に、フリーズしたように固まった後、彼は「見なかったことにしよう」と呟きながら、またディスプレイに見入った。

そして見るからに辛うじて、という感じで一言。

「大人しくレポーターやってれば未来バラ色だったのに、物好きなこって。そんじゃま、俺はひとまず一服させてもらいますよ。まあ頑張って」


と、言って別れたのが二時間前。


まさか、こういう事態に陥ろうとは思わなかった。

こおおおおお。およそ動物のものではない、何かの機械が駆動して空気が振動しているような音が聞こえた。

えーと? 可愛らしく首を傾げて音源を見てみた。

現実逃避だ。わかっている。事実から――自分の置かれている状況や、自分の年齢から逃げている――そんなことはわかりすぎるほどにわかっている。

けれども、どこかで信じて、願ってもいた。可愛らしく振り向いた先、そこに何もありませんように。

けれど、「それ」はそこにいた。

証言の通り。紫の、

鬼。


こぉぉぉぉぉ、ほぉぉぅぅぅうぉ……

何にも考えられない。

目の前の景色がまるで映画やTVみたいに流れていく。

カァ。

一声鳴いた烏の声が響き終わるとき。

いつのまにか観客席から、私は自分の意識が消える直前の映像を見ていた。

2

「これで合ってるか?」

「ああ。悪いな、無理言って」

「全くだ。遺留品パクってこいなんてよ。下手しなくても窃盗罪。警察官が率先して犯罪を犯すなんて目も当てられねぇ……おい、ちゃんと返せよ」

暗いバーの一角に陣取った俺と彼、男二人でタバコをくゆらせながら酒を傾けた。

「この麦藁帽子……」

予想外にきれいだよな。俺の言葉を先回りして彼は言った。

「現場はまあ、ある意味酷ぇもんだった。あたり一面血の海ならまだわかるんだよ、けどな、遺留品は被害者――シノハラさんだっけ? 彼女の靴と数滴の血痕、それと、頭蓋骨(トウガイコツ)を始めとして数本の骨だけ。ま、その骨があったから行方不明じゃなくて殺人だと断定したわけだが、そんなもんだけでどうしろってんだか……まあ、実際捜査するのは俺たちじゃあなくて捜査係の人間だから? 肉は肉屋に任せるとしても、かなり苦労するんじゃねえかな、と思うよ」

酒に任せて捜査状況をべらべらと喋る。やりやすい男だ。

「紫の鬼」言うのはためらわれたが、言葉を続けた。「ってのを調べてたんだよ、こいつ。どう思う?」

「あの現場見てると、案外本当にいるのかもなって思うぞ、きっと。この街は出来た理由からして一筋縄じゃあない。『どこぞの研究所からモンスターが逃げ出した』なんて冗談が冗談に聞こえんよ」

怖いことを言う。

「知らぬが仏ってか」

「……まぁ、知らない奴が仏様になっちまってるってことなのかもしれんが。で、どーするんだ? さすがにここまで連続でコトが起きてしかも被害者の関係者となればそうそう……」

最後まで聞かずに席を立った。

「ま、そりゃこっちの話さ。適当に言論の自由、振りかざして水面下で調査するよ。……あ、そうだ。これ、この前の出産祝いのお礼。ありがとう」

もちろん俺には妻もいないし子供もいないが、それはまあ、符牒みたいなものだ。こんな所で隠す必要は大してないが、こういう風にやった方がこの男は安心するらしい。相手に合わせて柔軟に。これも、知恵という奴だ。


帰ってきて、黙祷一分。そして、仕事を再開。まあ行きがかりの縁だ、仇くらいは取れるよう努力するよ、篠原。

「あいあい、さて、と。どーするかね。現地調査ってのは最後まで勘弁願いたいな……と、なると、しばらくはお前さんの画面とにらめっこか」

いなくなった篠原にぶつくさ言いながら主の居なくなったパソコンに向かい合い、紫の鬼と行方不明者の情報を収めたファイルを片っ端から調べていく。

「事件の発端は――新しいな、一年前か。被害者は家族旅行に出かけた。一家の車は、第三新東京市郊外で大破……ってうぇえ……ひっでえなあ。現場で見つかったのは、長男の片足だけ。後は血痕すらなし、と。そんで(了)。何だこりゃ。ん、で? 次が行楽帰りのサラリーマン二人で、これまた消える、と……?」

そうして改めて調べ始めて、俺はようやくその異常さを理解した。大物を取ろうと躍起になっていたあいつが拘ったのもわかる。

一年前に端を欲するこの一連の事件の記事をまとめてみれば、この街では、公式な情報があるものだけでも一日に最低三人、多ければ十人単位で人が消えている計算になる。にも拘らずそれを騒ぎ立てる輩もいなければ、噂に上る事もなかった。一応は記者であるこの俺も含めて。……いや、紫の鬼は噂になったか。しかしこれは、やはり異常だ。いくら他人への関心が薄い大都市とはいえ、ここまで人が消えればどれだけ情報規制を敷こうと必ずどこからか漏れるし、騒動にもなるはずだ。人の口に戸は立てられない、ということわざの通りに。

「さてさてキナくさくなって参りました。一体この一連の事件には、どんな組織が何の目的で起こしているのでしょうか。匂いです、作為的な陰謀の匂いを感じますね、っと。被害者達に接点なし、共通項もこれといってなし、目撃者には……」

リポーターをしていたときのあいつの口調を真似て独り言を呟きながら、しかしその指と目を動かすペースは決して変えず、続ける。ペースさえ掴めば、こっちのものだ。

「……ふう」

しかし、どれだけ目が堅くても辛い時間帯はある。凶悪な朝日、というよりももう半ば昼の日差し目を刺す。二徹三徹当たり前の業界だが、まだまだ若手の俺だって新任のときほど若くない。

しかも状況の方は調べるうちに全体像が理解できるどころかどんどん煮詰まってこんがらがってきた。そろそろ一端引き時か、と考える。

仕方ない、混乱しないうちに今までの思考の流れを確認してみるとしよう。

「無差別か? が、それこそ……」

わからん。

あー、と呟いて頭をガシガシかきむしった後、咥えたまま短くなっていたタバコを灰皿に押し付ける。

駄目だ、この方法では埒が明かない。

「仕方ない。その手の奴にあたってみるとするさ」

今月、厳しいんだがな。それなりに口が固い者の口を開かせるため出費せざるを得ない酒代や、それに加えた情報料を考えるとどうしても憂鬱になる。

そうしていざ出かけようとしたときに、ふとおかしくなってしまった。

いつのまにか、いない人間に話しているということを忘れていたのだ。

何やってんだか、なあ? 最後にやはりあいつに語りかけてから、俺は陽炎立ち昇る街中に歩き出た。


「で、なんでお前さんは堂々とここに来る?」

「別にいいじゃないですか。しかしそれにしても」

ぐるりと部屋を見回すとなんとも味気ない。

まぁ、ここで金ぴかの装飾などがあれば大変な事だが。叩きがいがあるネタだ。

「何を考えとるんだこの罰当たり。んなことするのは人としてどこか欠落してるんだ。俺はせん」

俺の思考を読んだかのように男は答えた。

「でー? 一連の事件について何かコメントをいただけますか」

「わからん」

「へ?」

「なんとも不可解だよ。それこそどこかの実験生物でも野に放ったってのがしっくりくる。この仕事をやって長いが、こんなに変な仏さんは本当に初めてだ」

「そんなに酷い、と?」

そう言って、もう一度部屋を見回した。

静かな室内を照らす蛍光灯。

遺体安置所で会話を交わす二人以外物音もせず、蛍光灯のちかちかという音が聞こえそうなぐらいだった。

「まぁ見ることができるものがあったとして見せるわけにはいかんがな。これは少なくとも人の仕業じゃない。もし可能性を全部挙げていいなら、それこそ化け物やら大型の……それこそ体長3、4mはある獣と言いたいところだ」

「はーん……長年の経験を持った爺さまがそうまで言います、か……さて」

出口に向かって歩き出すと、老人は背中越しに言葉をかけた。

「無茶はするなよ。それが逃げだ、なんて考えるな。化け物の尻を追いかけて出くわさんよう精々気をつけることだ。定年直前に知り合いが殺人鬼に襲われて死亡、なんちゅうのは寝覚めが悪くてかなわん」

「はいはい。心に刻んどきます」

手を振って言った台詞に、はあ、深いため息が聞こえる。

「鑑識には鑑識道、記者には記者道がある、ってか。まぁいいさ、それもお前さんの道だな。しかし、どんなもんにも親はある。親不孝者は賽の河原で石積む羽目んなるぞ。悪いことは言わん。せめて顔見せだけでもすましとけ」

答えずに一礼して部屋を出た。この人のコメントは役には立つが記事には決して使えない。金で動くような人間じゃあないからだ。もし一度書けば、この人は二度と俺に内情を教えてはくれないだろう。けれども、もうこの件は記事にするしないというレベルを越えていることに、俺は心のどこかで気づいている。

廊下に出ると古びたカレンダーが目についた。酒屋かどこかで配っているようなカレンダーには、のどかな風景が描かれていた。

田舎か。思い出してみる。親父もお袋もあれで存外しぶとい。

ま、先に死ぬのは確かに親不孝か。いくらろくでもない人生だからって、死んだ後まで石積みはごめんだ。

久しく見ぬ親の顔を思い出し、電話でもかけるか、とひとりごちた。

3

こりゃあ冗談じゃないぞ。

数百円で炎天下から隔離してくれる喫茶店の隅でとうとうそんな愚痴をこぼしたのは、自分の仕事の合間にこの件を調べ始めて一月ほど経ったときのことだ。

冗談じゃない。この事件、調べれば調べるほどそれこそ都市伝説やら怪談になってくる。

実験生物から生態兵器にはじまって、後は鬼だの幽霊だのはまだ可愛かったが……

「なぁんで神様になるのかね?」

ばさりと汗で滲んだメモ帳をテーブルに落として天井を仰いだ。

終末思想? ノストラダムスの新解釈? カルト・新興宗教? ――馬鹿馬鹿しい。

本当に馬鹿馬鹿しい。しかも、その馬鹿らしい妄想の原因だけは確実にあるのがわかっているだけに本当に始末が悪い。

さてはてどうしたものか……と頭を抱えたところで目の前に立つ影があった。

なんだ、コーヒーのお代わりは結構だよ、と言いかけたとき、やっと俺はそこに立った相手に気がついた。

姉貴だ。あれ?

「……お前なんでここにいるんだ?」

「うん。それを説明しましょう。で、その前に」

ごつん、と拳骨で俺の頭を小突いて一言。

「久しぶりに会ったお姉様への第一声がそれか、お前言うな」

「そっちこそ、久しぶりにあった弟に抱擁ぐらいかましてもいいじゃないか」

頭を押さえる俺に、もう一度拳骨が襲った。

「でー? なんでまたこっちに出てきたんだ?」

どん、と向かいの席に座り込んだ姉貴に問う。彼女の家も第三にあるが、ここいらに来ることはそれほどないはずだ。そして、ここに来たのにはきっと理由があるのだろうが、俺はまだその理由を聞いていない。はずだ。どうも最近物覚えが悪い。

そんな俺を他所に、姉貴はあっさりと答えた。

「んー? アンタの顔見にー」

嘘吐け。

突っ込むのも面倒だ。目の前では俺の反応など気にせぬ彼女が空になったパフェの器をまた一段重ねてお代わりを頼みつつ、ずずっとオレンジジュースを飲み干している。太るぞ、きっと。

俺はひとまず、確率的に一番あり得る話題から振っていくことにした。普段これが俺を呼びつけるときの話題と言えば、振った男の愚痴、振られた男の愚痴、付き合っている男の愚痴、このどれかの可能性が一番高い。

「でー? 義兄さんに何したんだ? あんた」

自分より歳の若い男を兄とは呼びがたいが、まあ仕方がない。そして、訊き方はこれでまず間違いない。あの気の小さい彼がこの女に歯向かうことは、まずあり得ない。

その話題を振ると、途端に目の色が変わる。

「そうっ! 聞ーてよ! あたしが速く赤ちゃんほしいね! って言ったらさ! あいつなんて言ったと思う!? 『僕まだ大学生だから』なんてゆーのよ!? 別にあたしが働けばいいんだからそんなことぐちゃぐちゃと……」

ビンゴ。素直に答えて説教されている彼の顔が浮かぶ。スマンな、兄弟。

「……気持ちはわかるが」

「でしょっ!? ったくあいつったら何を小さい事でグチグチグチグチグチグチ……」

「いや、彼の方の」

「えー? なんでー?」

「あのさ。基本的なことなんだけど、あんたがお腹大きくした状態でどうやって働くんだよ? あたしがこの人養うって言って無理やり結婚したんだろうが。若い身空を」

この場合、若い、というのは姉貴ではなく夫である義兄のことだ。

「大丈夫よー。どうせ一日中座ってあれこれ言うだけなんだから」

「教師がんな事でいいのか」

「可愛い教え子をモノにできたんだから間違っちゃいないわよ」

半分は冗談だとしても、教師としてはずいぶん問題がある態度だと思う。女としても。

「不憫だなぁ……」

同じ男として義兄に心底同情する。

「で? あんたは何やってんの?」

自分の話をひと通り終えて気分がよくなったらしい姉貴が訊く。

しかし、こっちにはもっと訊いてやりたいことがある。

「仕事」言って、さっきから気になっていたことを向こうの話が始まらないうちに訊いた。「そういえば、何でここがわかった?」

鼻で笑われ答えが返る。

「あーん? あたしにあんたの事でわかんないことがあるわけないでしょー? あんたの脱童貞の場所と相手と体位から、初めての失恋の原因がちょっとアブノーマルなAVが原因だった事までお見通しー」

!? 慌てて携帯の電池を外して確認する。

視線を上げると、おほほほ、といって何杯目かわからないパフェを突っつく姉貴がいた。こんな典型的女の子の仕草をやっていながら、当然俺よりも年上だ。

脱力しながら一応訊く。

「あのなぁ……盗聴してんじゃねぇだろうな」

「んな事せずともあたしのネットワークを使えばこんなことは造作もない」

悪い組織の親玉のごとく低い声を発する姉貴。お前はいったい何者だ。

俺はどうしようもなく勝ちようのない会話に匙を投げた。

「まあそれはいいや、面倒くさいから。で、何? どーせ俺ん家にでも来るんだろ? いや、まあそりゃ構わないけど、どうせ今日にでも義兄さんが連れ戻しに来るだろう? お約束だし。今ちょっと立て込んでて家の中でいちゃついてるのを茶化す気力すらないんだが」

「んー。どうだろう。あの子合宿だとかで暫く出かけてるらしいし」

そうか。目の前で展開される青臭い夫婦喧嘩を見なくていいと知って少しほっとする。ということは結局彼女は話し相手がいなくなったから、持ち前の妙な友達ネットワークを使って俺を探し当て、こうしてここにやってきたというわけだ。仮にも教師の癖に暇な女だ。

俺がそうして、ほっとしてから別の苛立ちにさいなまれるようになる間に、目の前の首は俺の状況などお構いなしにこきりとかしいでいった。

そしてしっかり傾げた首のまま、姉貴は全く文章になっていない言葉を吐く。

「いや、あーでも、んー」

「どうした?」

「いや、なんかよく思い出せなくて」

あ、まだ続いてたのか、義兄さんの話。

「ついに頭が本格的にやばくなったか? 頼む、勘弁してくれ。俺はまだ姉の介護はしたくない」

散々家を騒がしたことを思い出しながら言ってやる。が、気の強い姉貴もこれには言い返さなかった。

「うー。ちょっと笑えないわ、それ」

妙な反応だ。いつもなら何か飛んでくる。俺のこめかみにはそうしてできた縫い傷がある。

「あん? ……おいおい勘弁してくれ。俺、そんなプレイの惚気が聞きたいわけじゃないよ?」

ガン。今度こそ物が飛ぶ。しかし、手にした安っぽい灰皿の勢いはやや弱い。

「違うわよ! そーじゃなくて。んー、最近生徒の顔が覚えられないのよね。顔見ても名前が浮かばないし、なんか何時まで経っても生徒達の顔になじみがわかないっていうかー」

「元々人の顔覚えるの極端に苦手だったじゃないか」

一回挨拶して家に入ってきた俺の友人を、しばらくしてからうっかり泥棒と間違って大騒ぎになったのは語り草だ。

「んー、そうなんだけど。なんでだろ? なーんか変なのよね」

「なんかって何が?」

「だってさ、えーと、あの、つい最近あたしの持ってるクラスに転校してきた、えと、誰だっけ?」

「いや俺に訊くなよ」

「……とまあそんな感じで、全然なのよ」

全く我が姉ながら仕方がない。一回こいつの周りでも取材して懲戒免職に追い込んでやろうか?

そんな黒めの希望を抱きつつ、俺は試金石となる最後の質問をした。今話しているのが真面目な話か、ただの暇つぶしの話のネタかを確かめる質問。

「さいですか。んじゃ最近義兄としたのは?」

「三日前の旅行出る前に七回ほど。いやー久しぶりに高校の時制服きたんだけど気分出たわー!」

「……じゃ、コーヒー代よろしくー」

俺はさらに追加したパフェに口をつけつつそこは即答、きっちり答える姉貴を置いて立ち上がり、罵声を背中に浴びながら店を出た。これ以上相手してられるか。頼んだって泊めてやらんぞ、俺は。

4

「んーこっちも特にないかなぁ」


「なんだ、特ネタか?」


「怖いわねぇ。外で歩く時気をつけなきゃ」


「あー久しぶりー。ねー最近お店に来てくれないから寂しかったよー。今晩空いてるー?」


「あ、旦那、こいつはどうも。お役に立てなくて申し訳ない」


そろそろ回る場所もなくなってきた昨今である。

成果のあがらない事を延々と繰り返して我が家に戻ってみれば、そこは真っ暗。当然のことではあるが。

「おかえりー」

ひとり自分に挨拶。

軽く切ないが、慣れればどうってことはない。

テレビをつけ、冷蔵庫から酒とつまみを出し、ソファに寝転ぶ。最近少し酒量が増えた。悪い傾向だ。

「さて、現代では若年性痴呆症が問題……」

情報をただ垂れ流す健康番組を見、んな健康の約束事守れるような生活をおくれるなら苦労はないなどと愚痴をこぼしつつ、つまみを流し込む。

そして独り言。

「痴呆ねー。そいやぁ親父大丈夫かね?」

ああ、そういえば電話をしていない。まあ、構いやしないか。どうせあの姉が今頃入り浸っているのだ。

なら俺は、心置きなく仕事だ。

俺は鞄からモバイルタイプのノートパソコンを引っ張り出し、つまみの欠片が転がるちゃぶ台に置いた。

布巾で手を軽く拭いてから電源を入れる。

面倒だが、折角集めた情報を記録媒体に残さず寝てしまえば苦労が水の泡になるのだ。

……そうして気がつけば。

俺はモニターの前で一晩を明かし、力尽きて眠った所を一本の電話に叩き起こされていた。


人気のない町外れの黄色いテーピングの中には蒼いビニールシートに囲われた一角があった。

いつもは目をかいくぐっているのに、今日はあっさりと中にいる。

「えー、それで最後に見たのが一昨日の……昼過ぎと」

「はい、それ以降のことは、ちょっと……」

「そうですか」

そういって雑音交じりのトランシーバーの声に答え始めた警官から視線を逸らす。

職業柄、そういうことには比較的近しい。けれどもさすがに、こうも立て続け自分のに身近な人間が殺されたというのは、衝撃が大きい。

この後親に連絡を回して葬儀、あぁ、合わせて義兄にも電話をしなければならない。合宿中だというが、どうやって連絡を取ろう? そんな算段を頭の中で描く自分はどこか空虚だ。それを必死にこぼれもしない涙の言い訳にしようとする自分を、どこからか冷静に見ている自分がいた。


事情聴取をされた取調べ室を出た俺は、すぐさまあの親父のところへ向かった。

「あ、毎度どうもー、あの、先ほど事情聴取を受けていた」

「あぁ……はい、その節はどうも、ご愁傷様でした。どうぞ。先ほどからお待ちです」

すっかり顔パスの受付(まあ今日は特別だろうが)を通り、いざ目的地に向かおう、としたところでふと違和感に気付いた。

振り返って訊く。

「あれ? 新人さんですか?」

「いえ? ……あぁ、勤務サイクルの関係でそんなに顔を合わせてはいませんからね。でも、あんまり頻繁に警察に来るのも問題だと思いますよ。……まあ、しばらくは来ていただかないといけないかもしれませんが」

彼はそう言っていかにも生真面目そうに、少し困った顔で苦笑した。


「はぁ、で今回も何時も通り、と」

「んむ。特に変わった事はないな。近い事件もいくつかあるが、ホシの目星もついとらん」

ご愁傷様、と最初に一言加えた以外は特に何も言わない老人の気遣いに感謝した。

「くそ、何か新しい証拠があれば。……そういえば篠原の件は、何か進展ありましたかね?」

「ん? 誰の事だ?」

「いやいや、俺の同僚の、ほら」

「馬鹿もん、自分の肉親に不幸があったってときに同僚まで勝手に仏さんにするってのはどういう了見だ。俺はんなガイシャは知らんぞ」

「え、いや、冗談でしょう? つい先月……」

あまりにも真剣な俺の様子に、彼は怪訝な顔をした後、階上を指差し、言った。

「そんなに言うなら上で訊きゃあいい。俺ぁ知らん」


結果は、該当する被害者は存在せず。

まさか天下の警察でドッキリもなかろうと三度確認を取った。しかし、何れも該当者、なし。

そして俺は結局、どこかはっきりしない意識のまま自宅に帰りつくことになった。

「……三文小説じゃあるまいし」

死人が消えるなんて。そう呟いてみたところで現実は変わらない。

同僚は初めからいない。姉は死んだ。なら俺は何故この件を調べている?

わからない。今俺の手にあるのは、姉が死んだという事実だけ。――そう、姉貴は死んだ。

そこまで考えて、まだ自分が姉の件について実家に電話をしていない事に気付いた。

放っておいても警察から連絡は行くのだろうが、肉親の俺から離すほうがショックは少ないだろう。それに、葬式の段取りなどについても色々と話をせねばならない。

そして俺は、携帯電話のめったに使わない短縮ダイヤルを使った。

「はい、もしもし」

「あー俺」

ガチャン。音を立てて電話が切れる。

……?

気を取り直してもう一度。姉貴を含め、この家族はどうしてこう悪乗りをするのか。

今度は先ほどより早く出た。

「何だ」

「切るなよ親父!」

わかっていてやったのが丸わかりである。これから話す話題が話題だけに、気が滅入る。

「いや、最近詐欺多いらしいじゃないか、オレ詐欺ていうやつ」

「そもそも騙し取られるような金もないだろう」

「む、家庭内の事情に通じるとは。おぉ我が不肖の倅ではないか」

「……もういいや、お袋に代わってくれる?」

「はいはい、何、どうしたの?お父さん泣いてるけど」

「あーいや、ソレは放っといていい。で、真面目な話なんだけども、いいかな?」

「なに? 改まって。残念だけど仕送りは無理。いい歳なんだから自分の食い扶持くらい自分でなんとかしなさい」

「何時の話だよ。いや、言いにくいんだが、その……姉貴が、殺……死んじゃってさ。そっちにも警察から連絡が行くと思うんだけども、義兄さんの番号もわからないし、ひとまず連絡だけでも、って思ってさ」

「死んだ!? ……って、誰のこと?」

「姉貴だよ?」

「だから誰?」

「いや、だから姉貴だって」

「誰のこと?」

「だから姉貴だよ。数ヶ月前に教え子騙して結婚したばっかりの。我が家の恥部。そう言って親父が泣いてた、あの姉貴」

多少声のトーンを上げて、お袋は早口で言った。

「冗談言うんじゃないよこの子は、あんたに姉ちゃんがいたことがあった?」

「……え」

「……もしかして本気? ようし、いいでしょう。それじゃ、そのお姉ちゃんとやらの名前をこの母さんに教えてみなさい」

俺は言いようのない焦燥感に襲われながら、姉貴の名前を言おうとした。

――だが、その名前はいつまで経っても俺の口から出なかった。

陸に上げた魚のように、ぱくぱく口が空を食む。

「……あ……れ? なん、だっけ?」

今度こそ、空気がさっと変わる。

「……あんた誰だい?」

「え? おふくろ……?」

「ちょっとお父さん! これあの子じゃない! 例のあれ! オレ詐欺!」

んぁぁ? なんて親父の寝惚け声が聞こえたところで、ぴっ、という電子音と共に電話は切れた。

いや、切った。

思わず電話を切ったのは、他ならぬ俺の手だった。

鳥肌が立つ。過呼吸で目の前が暗くなる。冷や汗が止まらない。なんだ、なんだ。何の話だ? 間違い電話? そりゃある程度電話口なら他人と声が似通って聞こえる事もある、が。

あれはアドレス帳からかけたんだぞ?

いや、そうじゃない。おかしいのはそのことじゃない。

――何故、俺は姉貴の名前を言えなかった?

そうだ、おかしかったのは俺だ

なんだったか、そう、名前名前。姉貴と、義兄さんと……あれ、義兄の名前は?

「なん……だ……? これじゃあ俺も……あの鑑識の爺さんと……いっ……しょ?」

落ち着け、と自分に言い聞かせ、登録された実家の番号をもう一度呼び出す。二度も間違いが起こるはずは無い。今度こそ、今度こそ。

確認するんだ。俺に姉はいるか? 俺は大丈夫だよな?

プルルルル。

呼び出し音が鳴る。

プルルルル。

まただ。早く!

プルルルル。

さあ!

ガチャ。

出た!

「なあ、おふく」

「この電話番号は現在使われておりません――」

……は?

俺は静かに電源ボタンを押す。そしてもう一度、リダイヤル。

「……んざいつかわれておりません。ばんごうをおたしかめのうえ、もういちどおかけなおしください。このでんわばんごうは、げ……」

それはまるで、B級ホラー映画のワンシーンだった。

5

それから俺は三日ほど寝込んだ。

自分がこれほど弱い人間だったことを、いつのまにか忘れていた。

たちの悪い悪夢に取り付かれたかのように神経が参ってしまっているのを自覚したが、どうにもできない。

いや、そうではなく、本当に怖いのは。

ここがその悪夢ではないかということだ。現実と夢、俺の生活にその違いを保証してくれるものはもう何もない。

寝てはうなされ、起きては現実を確認しては寝込み。

そうして四日目の朝。

俺は真っ赤な目で朝日を出迎え、決めた。

「こうなりゃヤケだ。徹底的に踊らされてやろうじゃないか」

人間、開き直れば大抵強がれるもんだ、というのを自覚しながら迎えた朝日を拝み、コーヒーをすすった後、これからの計画を立てた。

もう本当はいつなのかわからない、この悪夢の2015年の、これからの計画を。恐らくは病院行きの俺の、狂った計画を。


俺は久しぶりに感じる町並みを歩き回り情報を集めた。

念のため、警察にもう一度行ってみたが結果は変わらず、篠原ナツコ、何ていう人間はいないことになっていた。姉貴の方は名前がわからないので調べられないが、きっともういないのだろう。

市役所に行ってみても、戸籍もなくなり存在自体がなかった事になっていた。

「さてさて、コイツは国家の陰謀に挑むハードボイルドにでもなるのかね」

愚痴って馬鹿でかい市庁舎を後にし、ひたすら情報を集めに歩き回った。

自分の戸籍がまだあるのかにはひたすらに目を瞑りながら。


「ただいま」

今日も同じだった。様々な情報屋を名乗る怪しい人間と数回接触を持ったが、特にこれといってめぼしいものはなかった。

そして成果の上がらない慣れきった達成感のない疲れを体に詰め込んで帰宅。

それはある意味で当たり前だった。全てはなくなってしまうのだから。少なくとも、俺の頭の中からは、そして、人々の記憶と、記録からも。

しかし、こうする以外にどうすればいいというのか。この頭がおかしくなりそうなくらいクソったれな2015年の第三新東京市で。

できることなど何もない。そう思えた。


ひさしぶりに晩酌でもしようかとテレビをつけてビールを呷る。最近は酔うのが怖くて酒は止めていたが、もう限界だった。酔いたい。

俺はひたすらに飲み、ぼうっとした頭でテレビを見続けた。

つけたチャンネルでは、ニュース番組だったようで、合間の天気予報を流していた。

市内の地図が出され、地区毎に天気マークが点滅している。

「市東部では、明日は朝から夜にかけて一日大雨になるでしょう。市西部では、朝のうち雨、昼過ぎからは曇りでしょう。北部では雷にも注意してください。それでは次のニュースです……」

そうして数分もないうちに、天気予報は第三新東京市全域の天気を示し、次のニュースへ。

しかしそのとき、頭に何かが引っかかった。


恐らくはそれが、俺をこの悪夢から解放するトリガーだった。


……あれ?

そういえば、どうして第三新東京市の天気しか見せないんだ?

何気なく見ている数分のニュースは、いつも市内だけの天気を流している。

日本全国の天気は?

いつかの茫洋としたような妙な感覚が体を支配しかけたところで、俺はテレビを消しビールを一気に飲みきって、つまみの袋を蹴っ飛ばしながら部屋に飛び込んだ。

そしてそのままパソコンを立ち上げるなり猛烈な勢いでキーを叩く。

おいおいちょっと待て。

おかしいおかしいおかしい。

なんだこれは、なんだこれは。

気がつけば異常な事だらけだ。

そういう目で見れば全て怪しくなってきた。

……いや、違う。どうしてここに至っても俺はそういう目でものを見なかった?

今日話した奴は前もいたか? 前からいたか?

例えばそう、あの警察官。

そういえば田舎の両親、田舎? 俺の田舎はどこだ?

俺の家族構成は?

親父にお袋、ポチに太郎にタマに姉貴に……姉貴?

俺、一人っ子じゃなかったか?

芋づる式に爆発的な違和感がこみ上げてくる。

ふと思えばあれほどあると思っていた姉に関する記憶がない。

見覚えのない顔だ。

おかしいおかしいおかしい。

心のどこかで信じていた。

おかしいのは自分だと。

しかし違った? 自分が現実だと信じていたここは、正真正銘荒唐無稽な幻想世界だっていうのか?

俺は無性に何かに苛立ちをぶつけたくなり、二本目の缶ビールを一気に飲み干して缶を窓から放り投げた。

地面に当たる音が聞こえない。ここは何階だ?

「……ふぅ。まずは情報の整理から。落ち着け、落ち着こう」

がたがた震える指で、辛うじて情報を整理する。頭に湧いて出てくることを、無理やりなだめて、一定の流れにまとめる。大丈夫、俺は記者だ。ここだけは譲らない。

箇条書きで項目をまとめ終わったころ、いくつもの同じ意味の言葉が目に付いた。

「街の外はどうなってる?」

「郊外に打ち捨てられた死体」

「街を出入りする際に襲われた人々」

「第三新東京市は日本のどこにある? どこまで続いてる?」

そうだ。

今回の事件の発端となった、事件。

連続して起こる行方不明。

俺の「目覚め」

全ては第三新東京市、その端をめぐって展開していた。

こうなりゃこの方向で進むしかない。

頭に浮かんだ疑問を晴らすべく、思い付きを調べていく。

「……犯行現場が明記されていない。と、な、る、と」

カタカタとキーボードを叩く音が激しくなっていく。

「蛇の道は蛇ってか。さて」

非合法な方法で手に入れたその情報と、一連の不審者の発見場所やらなにやらを画面上の地図に書き込んでいく。

暫くして、その作業を終えると。

「円……だと?」

冗談かといいたくなるような形が出来上がった。事件現場は第三新東京市の境界を円形にぐるっと囲んでいた。その形はここを外界から隔離するような、何かの意思を思わせる。

……いや、そうか? 気づくべきは、驚くべきは、そこか?

「……あッ!」

俺ははっとして地図の端を見た。思った通り、どこにもそれはない。そして発見場所の住所を確認する。こちらも、俺の予想通り。

まただ。

またまんまと騙されるところだった。

俺は隅から隅まで地図を見た。しかしやはりそれはなかった。

――この地図には縮尺がない。

そして、発見場所。

第三新東京市旧箱根町箱根30338999280122988。

第三新東京市旧箱根町芦之湯27767836620457293776。

住所が市からしかないのは問題じゃない。問題は、別にある。

なあ、そうだな、篠原。

――こんな冗談みたいに長い番地があってたまるか!

ああ、そうだ。何にも驚くことではないのだ。発見現場を結んで円になるのは、単に第三新東京市が本当に円状の市だからだ。それが一番簡単だから。そしてその広さは、誰にもわからない。人が何人消えようが大した問題じゃない。そもそも人が何人住んでいるかもわからないし、そんなこと誰も気にしない。端はただ地図上に存在していればいい。端がないと違和感を感じるからだ。しかしそれ以上のことは誰も考えない。何も考えなくても、自分の望んだ場所にはいける。現に俺は被害現場に行ってきた。どうやって?

どこへでも行けるが、どこへも行けない。

第三新東京市の端はどこにもない場所で、ということはつまり、第三新東京市自体、どこにもない街なのだ。

なら、その街で俺は、どこに行けばいい?

俺は縮尺のない地図の隅を見た。そこには、俺にとってのことの始まりの現場があった。

「来いってか、篠原」

そう言って短くなったタバコを画面の端に押し付けた。液晶が歪む。

構わない。住所は知っている。

6

翌日、俺は街に買い物に出た。

拳銃に大型サバイバルナイフ、防弾チョッキに火炎放射器、果ては日本刀やら九十式戦車やらまで揃えて、俺は長い長いドライブへと繰り出した。

どうやって買ったのかは謎だ。きっとどうでもいいのだろう。

戦争でもしに行くのかというような格好で日中に出歩くのは日常の感覚からは憚られたがどうせ市外に人気は無い。

それは何故か、とは俺は考えなかった。きっとここは、あの第三新東京市と同じ場所なのだろう。ただ、住所が違うだけだ。番地が何万番違うのかは知らない。

そんなこんなで半ばやけっぱちだったが、俺はとにもかくにも数十キロの速さで車を飛ばした。

どうして俺に戦車が運転できるのか? 知ったことか。

そして俺は、人にも、人外の化け物にも出会うことなく延々車を走らせた。

やはり、いつまで経っても、街の外にはたどり着かなかった。


しかし――やがて俺は、街の端へとたどり着いた。どこにもないはずの、街の端へ。

その場所は、はっきり俺に示してくれた。

この世界は嘘だと。

カァ。どこからか烏の声がする。そう言えば最近、聞いていなかった。

「……あー」

そう言ったきり、俺は煙草を取り出して一服をし、落ち着いてから再び見下ろし、そしてまた落ち着くために一服した。

嘘の世界の端には、嘘の世界の端らしく延々と崖が広がっていた。

中世時代に考えられた地球。地球の果ては崖でそこは地獄に通じる断崖絶壁が――

底の見えぬ崖とその境界を出た途端景色の失せる、空も続かず真っ暗ですらない空間を見渡して、俺は煙草を投げ捨てた。

やはり音は、しなかった。

「そりゃ、外に出たら帰って来れないやな、あっはっは」

俺はそう言い、これからのことを何も考えられないまま、車に戻ろうとした。

その時、そいつは現れてくれた。救いの神のように。

口をぽかんとあけて馬鹿みたいにそれを見続けていた。

ゴッ、ガン! バキ! ……ボゥン!

異音を響かせて凹み、原型を留めぬ形になった戦車が爆発炎上する、その向こうには、紫の鬼が立っていた。数十メートルはあろうかという、巨人が。

その背景に、雲よりはるか高い空を突く、異様に高いビル街を背負いながら。

「あー……そういうこと。そりゃあ逃げるのは無理だなあ、篠原?」

こちらにゆっくりとのし歩くそれを見ると、抵抗する気も起きなかった。

妙に達観している自分がおかしい。

あれは違う。俺が持つこんな武器じゃ玩具にもなりはしない。

幽体離脱でもするかのように意識がどんどん斜め後ろ方向にすっ飛んでいく。

カァ。

さっきの烏が、また一声鳴く。まるで死人を呼ぶように。

そしてまた世界は回りだし、鬼が自分を腕の一振りで飛ばすところをどこか外から見たところで、俺の意識は暗転した。

7

俺は目覚め、そこはやはり悪夢の中だった。

もっと悪いのは、この悪夢だけは夢ではないということだ。

ここは太陽系第三惑星地球日本国神奈川県第3新東京市の跡地。あの第三新東京市じゃない。

「――で? その夢物語を信じろって? 無茶言わないでくれよ。この景色の方がよっぽど悪い夢じゃないか」

「そりゃあたしだってこんな最悪な目覚めは断固拒否したいわよ、でも」

そう言って俺の横で膝を抱えて座る篠原の、その視線の先には、赤い海と、瓦礫の山と、その頂きに佇む少年の背中とがあった。


あれはここへの帰り道なのだ、というのが篠原の説明だった。

あの街にいるときよりはずっとクリアになった頭なら、彼女の言うこともはっきり理解できた。

目の前に広がる赤い海。その中に人々が溶けている。そんな人々のイメージの中に、あの街はある。いや、もっと正確に言えば、あの男の子が人々を、自分のイメージの中に呼びつけている。自分を失って溶けた人々はその街の中で己を取り戻し、そしてしかるべきときがくれば、彼がここへと呼び出す。

あの紫の鬼の正体は、あんな小さな子供だったのだ。

あの背中を丸めて、海をただ見つめる子供だった。

「……そりゃ、電話番号より長い番地が必要になるわけだな」

今あの街には、全人類の何パーセントが住んでいるのだろう?

「そういうこと。それにしても、驚いてたわよ、あの子」

「何で?」

「自分であんなところまで、って」

「そうか。まあそりゃ、実際記者だったからな、俺……」

「あたしは本当はお天気リポーターのままだったけど」

そうだ。彼女は篠原ナツコ。俺は毎日その声をラジオから聞いていた。

「あのさ」

「ん?」

「俺たちって、知り合いだったっけ?」

「さあ?」

「さあってお前」

「……あー!」

「な、なんだ? どうした?」

「止めっ。悩むのは止めっ!」

篠原は俺の肩を持ってわしわしと揺さぶった。俺はただ揺さぶられるしかない。

「お、おおぉ?」

そしてその顔を見て、頷くしかなかった。

こんなところでも、その目はあの悪夢の中と同じ、馬鹿の一つ覚えみたいに光っていた。

「あたしに出来るのは! ここが悪夢だろうと、悪夢のような現実だろうと! そこにある謎とスクープを調査してお茶の間に届ける事しかないのよ!」

「……お茶の間があればいいがなぁ」

どうみてものほほんとした居間や団欒とは縁もなさそうな瓦礫の山を見て溜息をついた。

「いいのよ! ヤケよ! だってあたしはまだ記者ですらないんだもん! でももう決めた! なってやるわ! こーなったらいつか目が覚めて精神病院にいたって構わないのよ!」

滅茶苦茶なことを大真面目で言って、素足でずんずんと瓦礫の中心に向かって歩きだした篠原に、俺も仕方なくその後を追った。

そして追いついて、言った。

「ヤケはいいけどな。ひとまずどこかで靴を探そうじゃないか。さすがにこんな中裸足で出歩くのは夢でだって勘弁だ。さっきから足の裏が痛くてたまらん、だろう? ナッちゃん?」

篠原は少し面白く無さそうな顔をしたあと、しぶしぶ同意した。

「……確かにそうね。……えっと、ねえ」

「何?」

訊きかえすとそのときには、もう篠原は呆れたような顔をして笑っていた。

「あ、あはははは! あ、あたし、そう言えばあんたの名前知らないわ」

「……かもな」

確かに、よく考えたらこいつに名前で呼ばれた記憶はない。そりゃそうだ。俺はこいつを知ってて、こいつは俺を知らなかった。

篠原は訊いた。

「ねえ、教えてくれる?」

俺は苦笑しながら口を開いた。やれやれ、やっと自己紹介か。

「ああ、俺の名前は……」


そうして帰ってきた二人はわいわいと騒ぎながらその足をどこかへと進めた。またどこかへと帰るために。

赤黒い空の下、白い白い瓦礫の山の上に佇む少年は背をむけたまま、戻ってきた二人に感謝と謝罪を心の中で呟いた。そしてまたひとりで赤い海を見つめ、また誰かに帰り道を知らせる烏を赤い海の中、第三新東京市へと放った。

- The rest stories of "Project Eva" #31 - "because a crow caws. (ordinary people 2)" end.
first update: 20050918
last update: 20060103

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原案・原作:"寝太郎"
構成・編集:north
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