- The rest stories of "Project Eva" #32 -

"塔のある街"

1

第3新東京市はリニアの停車駅になっていた。どことなく調子が外れたようなメロディの後に流れた車内アナウンスに当惑したのは、久しぶりに聞く日本語以上にそのせいだ。

本日はリニアライン東海道をご利用くださいましてありがとうございます。この電車は、ジェットアローン245号、第3新東京市行きです。次は終点、第3新東京市に止まります。長時間の乗車お疲れ様でした。どちらさまもお忘れ物のないようお確かめの上、順にご降車ください。

合成音にも拘らず彼の思い出した通りの鼻声のアナウンスを聞いてから、窓の外で滑るように流れる記憶にはない風景がその第3新東京市なのだと理解するまでにはしばらく時間がかかった。しかし街の周辺にそびえるビルの向こうに見える、広大な穴を見て、すぐ納得した。記憶の中にある最後の姿を思い出したからだ。あれは最後には人の住むことができる場所ではなくなっていた。彼の知っていた第3新東京市は、あの街を去ったときにはもう既にどこにも存在しない街だった。

建物の中に吸い込まれるのとほぼ同時にリニアは音もなくなめらかに減速し、止まった。サスペンションがすっかりへたってしまっている車輪つき電車に慣れている彼からすれば、あまりにも静かなこの空中移動は少々落ち着かなかった。窓の外を眺めていなければ移動にも気づかなかったかもしれない。まるでどこか空間の裂け目でも通って移動したように現実感がなかった。この国の人々は何を考えてここまで電車の音に気を使うのだろう? 彼にはよくわからなくなった。

周りの乗客が立ち去るようすをそろそろとうかがった後、野球坊を深く被りなおしてリニアから降りると、プラットフォームの番号表示が見えた。10番フォーム。10番? 彼は自分の目を疑い周りを見渡したが、周りは少しもおかしなことではないという風に、自走するスーツ・ケースを隣に走らせて、一目散にどこか目的地へと歩いていた。

彼は肩にかけているスポーツバッグを一瞥し、自分の場違いさにため息をついてから、追ってくるものがいないか警戒しつつそそくさと歩き始めた。

2

案内板はすぐに見つかった。どういう技術かはわからないが、昔地下施設で見たような立体映像で駅の構造と第3新東京市の立体地図が示されていた。

「目的の場所を発音するか、指先で5秒間示してください」

ぽん、という電子音を皮切りに音声が突然流れ出した。少しどきりとしたが、それが行きの駅で聞いたのと同じ合成音だとわかるとすぐに落ち着きを取り戻した。大丈夫だ、知らない場所を歩くのには慣れている。

しばらく考え、声や指紋の照合システムがある可能性を考えて、指で指すことにした。運転手のするような白く薄い手袋をはめ、第3新東京市の地図を確認する。立体映像にはかつて第3新東京市があった場所に穿たれた穴を囲んでぐるりと出来た、すり鉢上の街が写っていて、彼はその規模に少しくらくらした。

彼はポケットに突っ込んであったくしゃくしゃのメモを見ながら、声を出して確認しないように注意しつつ、目的地を探しあて、立体映像の中に指を突っ込むのを一分ほどためらった後で、指差した。

答えの方は数秒もしない内に返ってきた。

「目的地へは、第3新東京環状線をお使いいただくか地下鉄南北線をお使いいただくのが便利です。観光でしたら第3新東京市空中ケーブルラインもお勧めです。ここでの発券をご希望の場合は1のボタンを押して、ご希望の経路をお選びください」

手元の画面に「1、発券」と「2、終了」のボタンが表示される。1を押すと、さっき合成音が言った三つの経路が詳細と共に表示された。第3新東京環状線、130円、地下鉄南北線、200円、第3新東京空中ケーブルライン、600円。

彼は迷わず環状線を選んだ。新しい第3新東京市の景色を見ておきたかったし、金もふんだんにあるわけではない。そしてなにより、空中や地下では何かが起こったときに逃げ道がない。逃げ道のことを思って、彼は腰の部分にある硬い鉄の塊を確かめた。最悪の場合でも、地上ならなんとかなる。拳銃に触ってそのことを確かめておきたかった。

拳銃を初めて持ったのはいつだっただろう? この街を出た頃は、まだ銃は狙いを付けられそして撃たれる物で、自分が狙いを付けて撃つ物ではなかった。しかし、もちろん今も銃などひとつも好きではないが、こうして腰に持つようになった。この国に入るときに十年使った鞄をひとつ手放し、それと引き換えにこの数万円もしないだろう安物の銃を買ったのだ。この国はあの最悪からまたも豊かになったのに、と彼は思った。それでもこんなものが必要なのか。しかしこうも思った。あの最悪からこの国が豊かになるときにこそ、こんなものが必要になったのだ。

彼は自分がこの国にある、ある組の手引きでこの国に入ったことを思い出していた。あの大災害の後にできた団体だった。そこで彼のコーディネーターを務めた男は、戦略自衛隊上がりの初老の男だった。

彼より十歳と少し上だという男は口癖のように「今も悪くないが、昔の方がおれは好きだったよ。公務員だった」と言った。その昔を決定的に壊したのが自分だと言い出せば、きっと男は自分を殺すだろう、そう思い、一瞬それもそれで悪くない、と思った。いい加減逃げるのにも飽きた。だがあれだけ逃げたのだから、きっと負う必要のある罪のいくらかは消化できているだろう。ここでこの男に殺されるくらいで、ちょうどトントンだ。ほんの一瞬だが、本気でそう思った。

しかし結局彼は死なずにここまでやって来た。その男から安物の拳銃を買って、代わりに、どこだったか、アジアのどこかの国で店の仕出しをやっているときに手に入れた鞄を渡して。鞄の方には未練はなかった。どこにも未練などはない。あるとすればただ、この街にだけだ。かつて彼が何度も逃げ出し、また帰ってきた街、そしてあのときから今日まで帰らなかった街、第3新東京市。

「大丈夫ですか」

不意に声を掛けられ、彼は声を失った。ひいっ、と息を吸ったまま吐き出せなくなり、すると声を掛けてきた男は彼の顔を覗きこみかけた。

「だ、だい」

慌てて言い出そうとして、自分の日本語がちゃんと通用するかどうか気になった。日本語を話す機会はあったとはいえ、彼にとってはもう、日本で過ごした時期が人生において占める割合は半分を切っていた。しかしこのままやり過ごすこともできそうにない。このままでは、男は顔を覗きこみ、あるいは野球帽の下にある彼の顔に気づくかもしれない。もはや気づかれるはずもなさそうなものなのに、彼は少し怯えていた。

彼はもう一度こんな場所では撃てない拳銃に軽く触れると、覚悟を決めて言葉を発した。

「――だ! 大丈夫です。……ちょっと、ぼうっとしていただけだから」

俯きながら言うと、声を掛けたスーツの男は気恥ずかしそうに、いやあ、と間の抜けた返事を返した。

「すいません。運動をした後のような恰好をしていらっしゃったんで、それで。すいません、失礼しまして」

歯切れの悪い、答えになっているのかなっていないのかよくわからない答えを返して、男はちょうどさっきの彼のようにそそくさと歩き去った。

運動をした後のような恰好をしていらっしゃったんで。男の言葉が耳に残った。歩き去っていく後ろ姿を見ると、男が着ていたのはやはりスーツだった。なるほど、これでは妙に見えるわけだ。彼は納得して、同時に、この場違いさが出会いたくないものに自分の場所を知らせるのではないかと危惧し、そのことに気づかなかったことをおそれて、スポーツバッグの中にある一揃いをもう一度確認した。迂闊だった。油断は命取りになる。

今必要なのは銃なんかじゃない。彼はさっきの思考を繰り返し、さらにその先へと思考を進めた。今必要なのは、服だ。この場所に溶け込むための服。郷に入れば郷に従え、豊かな国では豊かな服を、貧しい国では貧しい服を。場違いさは、不都合と軋轢と危険を生む。

彼はもうほとんど消えかかっている顔の古傷を撫でた。ポケットに手を突っ込むと、鎖が指に絡む。薄く白い筋になっているその傷は、そのペンダントを奪われそうになった時につけられた傷だった。

あの時の恐怖はまだ覚えている。九州の、中国や台湾の人間も日本人もまぜこぜに住んでいる貧民街からなんとか国外へ逃げ、たどり着いた東南アジアの街で、彼は学生服のまま歩いていた。彼は日本語と片言の広東語しか話せず、虚ろな目をして歩いていていかにも襲いやすそうに見えた。

その結果が大振りのククリをぶら下げた夜盗の襲来だった。今ならば迷わずそんなアクセサリーなど放り投げて逃げるだろう。首にかけた物を後生大事にしているせいで、首から上まで失ってはかなわない。しかし、その時はまだ彼はただの子供だった。幸い首のペンダントも首も失わなかったものの、耳と頬に深い傷を負った。命からがら逃げ、止血もせずに呆然と膝を抱えて、朝が訪れるのをひたすら待った。

それから一度も、彼はこのペンダントを首に提げたことはない。それをしないことが、とりあえずこの世界で生きていくということを決めた印だった。

なまじ知っている国だという感覚があったので油断したが、と彼はさっきのできごとを総括した。何かあった時に執拗に反芻するのはもう癖になっている。ここは僕の知らない街、知らない国なのだ。彼はもうこの場所の人間ではなかった。

もっとも、果たして彼にそもそもの「自分の場所」があったかどうかは、全く定かではなかった。

3

彼は洗面所に他に誰もいないことを確認してから念入りに頭を洗い、個室に入って買ってきたウェットティッシュで身体を拭いて、この国に入ってからずっと着続けだった服を脱いでナイロン袋に放り込んだ。そして虎の子の金で買った一揃いを着れば、それなりにこの場所に馴染んで見えるような気がした。野暮ったく見えるが、着古した服ならば当然だし、元々彼はそれほど着こなしの上手い男ではなかった。脱いだ服の方は捨てていこう、と彼は決めた。持って歩くには臭いすぎた。

しばらく時間を置き、そっと外の様子をうかがう。誰も彼のことを監視していないことを十分確認してから、彼は外に出た。チャコールグレイのスーツに小さな革の鞄。彼はどこかに妙な印象を与える部分が残っていないかとびくびくしながらそっと足を前に進めた。しかしもう誰も、彼に一瞥を投げることもない。

そして彼はやっと顔を前に向けて歩き出した。やはり誰も気にしない。この存在感のなさはひとつの才能だと言えた。彼はこの国を出るまではそれを欠点だと思ってばかりいたし、現に倒れても誰も声を掛けてはくれないときなどにその不利を自覚するのだが――この国を出てから、利点もあることに気づかされていた。

自分から襲ってと言わんばかりの身振りをしていた最初の頃はさておいて、彼はほとんどどの国をも無傷で通り抜けていた。努力はしようとしているが、特段環境に馴染んでいるというわけではなかった。そして彼は特に身体が強いというわけではなく、特殊な戦闘技術や交渉技術を持っているわけでもない。むしろそのような面では彼ほど特筆すべき技術を持っていない者も珍しかった。料理の腕はそれなりにあったし、頭も悪くはなかったが、しかしそれも職を得る足しになる程度だった。そしてそもそも、彼は普通の旅行者よりはよっぽど襲われやすい立場にいた。何しろ、彼ほど世界中で名前を知られ、その存在が憎まれている者も珍しいのだ。

彼、碇シンジの名は、世界中の人々の脳裏にあの三十年前の大規模テロ――国連の先鋭的な一組織によって引き起こされた未曾有のテロ行為――の主犯格として記憶されている。やはり彼は人類のかなりの数を液状化させた紛うことなき大犯罪者だった。

碇シンジ、という名は間違いなく彼を表す記号のはずだった。しかし一人歩きしたその名前から彼は逃げおおせ続け、今この国を歩いていた。彼を表すはずの碇シンジという記号は何故か彼自身とは決して結びつかず、彼はどんなところにいてもまるで昼間の幽霊のように存在を消し、ただそこにいた。

名無し。

三十年ぶりの日本、そして第3新東京市を歩いていて、しかも以前にこの街にいた時と違って誰にも気を向けられない自分のありさまを想うと、不意にそんな言葉が頭に浮かんだ。

地上階、そして環状線の乗り場がある二階部分へのエスカレータに運ばれながら、彼は頭に浮かんだ言葉を反芻した。

名無し、と彼は今度は口に出して言った。

確かに今の彼は名無しだった。碇シンジの名を名乗ることはできない。警察署の前には今でも碇シンジの年齢を経た顔を予想した似顔絵が貼られているだろうが、それも傷を負って少し引きつった彼の顔とは似ても似つかない。しかし彼が碇シンジを名乗らない以上、今、碇シンジの顔に相応しいのはその似顔絵に描かれている顔の方だった。誰も彼を碇シンジと気づくことはない。誰かにとって碇シンジという名前が彼を表したとき、それは彼が死ぬときだ。ならば、碇シンジという記号はもう生きている彼のことを決して表さない。

なら僕はいったい誰なのだろう? なかば必然的に湧いたその疑問は、ちょうどやってきて音もなく開いた電車のドアに彼と共に吸い込まれた。

4

街に入るときリニアから一瞬だけ見えた穴は、改めて見ると彼が知っている第3新東京市の規模よりはるかに広く、ほぼ真円に近い形をしていた。芦ノ湖は小さな川と湖の集まりになり、水をその穴の中に流し込んでいた。

すり鉢状になった街の中心には、以前の第3新東京市と同じく天を突くような高層ビルが立っていた。しかし昔見たビル群とは違って、本当に中心部の一部の建物以外はそれほどの高さではなく、逆にすり鉢の淵に近づくにかけて高くなっていき、一番端にあるビルの屋上がちょうど地上に建つ数回建てのビルと等しい高さになっている、全体として見れば屋上の集まりがすり鉢を形づくるような構造の街になっていた。

「あれ、真ん中のビルはからっぽなんだよ」

彼はハッとして後ろを振り向いた。そこには、きょとんとした顔をしている女の子がいた。

妙な恰好をしている、と一目見て思った。ばさばさして妙な柄のスカートと、ふるふるとしている妙な髪型。細かい部分や雰囲気を表す言葉を知らないので具体的には言い表せなかったが、とにかく女の子の恰好は周りから浮いていたし、特に古い恰好をしている彼とは全く合っていなかった。しかし、そもそも彼にとって女の子はみんな妙な恰好をしているものだった。彼が驚いたのは、話しかけられたという事実の方だ。

「……どしたの?」

口を開け、下あごを少しだけせり出させてそう言ってから、口をへの字に結んで腕を組んだ。自信に満ちた、怖いものなしの動作だった。決して愛らしくはなかったが、彼を攻撃する意思も感じられなかった。

「どうして」

だから彼はそれだけ言って、口をつぐんだ。妙な女の子はあはは、と声を上げて笑い、だって、と幸いにも人の少ない社内に響く明け透けな声で言った。

「めちゃめちゃ驚いた顔してアホみたいに見てるんだもん。はたで見てりゃ気づくって」

ひひ、と歯を見せて笑うと、妙な女の子は彼の隣の座席に膝をつき、窓の外を指して説明を続けた。

「あれ、でっかい換気扇なのよ。下の街はくぼ地んなってるから、すぐ風邪とか流行ったりして、やたら空気悪かったんだんだって。だから中心広場は車も高いビルも禁止にして、あの真ん中の塔から上に風、逃がしてんの。プロペラで、ぶわーって」

「へえ」

それで全てに納得がいった。確かに中心のビルは、よく見れば丸い形をしている。

彼はどうして、という言葉に続く本当の疑問を――どうして自分に話しかけてきたのかという疑問をおいて言った。

「詳しいんだな」

「そりゃそーよ。だってここ住んでんもん。上の街だけど」

「上の街?」

「ここのこと」

ああ、と彼はうなづいた。聞きなれた表現だったが、意味が違う。彼がここにいたとき、下に街はなく、上の街と言えばあのビル群のことだった。しかし今は。彼はもう一度すり鉢の街の中心からその淵までを眺めた。あのすり鉢の中が下の街と呼ばれ、淵の外側が上の街になっているのだ。

「ここの人じゃないよね?」と座席に膝をついたままの女の子は訊いた。

「いや」少しためらってから、彼は答えた。「昔住んでたことがある。もうずいぶん昔のことだけれど」

「まだあれが建ってないとき?」

「いや……まだ、ここに穴ができていないときに」

「へェー!」

妙な女の子は素っ頓狂な声を上げ、あっと言って自分の口を塞いだ。ますます視線を集めていることに気づき、彼はとっさに手をかざして顔を伏せた。ちょうど駅についた頃だった。ドアがまた音もなく開き、何人かが降りて誰も乗らなかった。それを確認して、彼はようやくかざした手を下ろした。

女の子は顔の前に拝むようにひょいと手を出して言った。

「ごめん、ごめん。でも、それってめちゃめちゃ前じゃない? あたしの母さんが高校生? 中学生かなあ? えーっと」

「三十年」彼は噛み締めるように言った。自分と近い歳の人々には、もうこんな歳の娘がいるのだ。

「三十年前だよ。それにしても君は……何だって僕に?」

妙な女の子は、へへっ、とまた声を出して笑うと、鞄から何か取り出して見せた。そのとき、ちょうどビルの隙間から、昼下がりの光が差し込んだ。逆光の中で目を凝らして見てみれば、それが小さな機械なのだとわかり、次に、そこに何か表示されていることがわかった。Yの字に似た記号と、いくつかの零。

「無一文なのか」

やっと状況を理解した彼は呟いた。

「そーなの」

女の子は悪びれず笑う。その明るい表情が失望に変わるさまを想像すると気が滅入った。

「残念だけど、あげられるほどの金はないよ」

「ああ、やっぱり。んじゃいいよ。ごめんね無理言って」

あっさりそう言うと女の子は彼の予想と違って、ははは、と恰好に似合わぬ快活な調子で笑った。彼はわけがわからなくなった。

「いや、さぁ」髪を軽くかきあげながら女の子は今度はちゃんと座りなおした。「ウスウス気づいてたのよ。ああ、このオッサンもあたしと同じなんだろうなあ、って。それで、えーっと、何? ドーキのサクラって奴? それで話しかけてみたの。暇だし」

「同じって?」彼は女の子の言葉の間違いは指摘せず、訊き返した。

「家出してて、無一文で、行くとこがない」

家出? 彼は改めて彼女の姿を見直した。確かに彼女は、その歳の女の子が持つには大きいだろう鞄を持っていた。ちょうど彼がここにくるときに持っていたのと同じ、肩に掛けるスポーツバッグだ。しかし雰囲気の方は、どう見ても家出と言った風ではなかった。こういう手合いは、と彼は方針を決めた。適当にあしらうに限る。どうせ大したことはすまい。

「残念」彼は答えた。「いくらなんでも無一文ってことはないし、第一僕には行くところはちゃんとある」

「えぇー」

今度こそ女の子の表情は失望に変わった。ぶう、と崩した顔の上を通り過ぎるビルの影に合わせ、ぶらぶらと脚を振った。スカートの裾、ぼろきれのようになった端がひらひら揺れた。

「どこ行くんさ?」

「ここだよ」と言って彼はポケットに入っていた紙切れを見せた。この土地の女の子なら、詳しい住所もわかるかもしれない。

「えっ」

短く、それだけを女の子は言った。そして何回かその住所を目で追って確認すると、突然見知らぬ人に、あなたはどこかの国の皇女です、と告げられたような奇妙な表情をして黙り込んだ。

「どうしたの?」彼は訊ねたが、次の駅を過ぎるまで、彼女は何も話さなかった。彼は紙を受け取ってポケットにしまいなおすと、ちらちらその横顔を見た。

やがて、女の子は彼に言った。さっきの快活な調子とは程遠い、神妙な口調だった。

「これ……あたしの家の近く」

「へえ、そうなのか。それじゃあ、案内してくれたら、何か奢ろう」彼は機嫌を取るようにそう言ったが、即座に女の子は、いえ、と答えた。やけに丁寧な言葉使いだった。

「あ、いやぁ、違うのよ。この家ね、あたしの家のすぐ近くにあるんだけど、焼けちゃったんだ、この前。火事で」

彼は声を失い、へたっ、と座席からずり落ちそうになった。当てがなくなったな、とまず思い、その後で、「で、その家の人は、無事だったの?」と訊いた。

「ああ、それはね。大丈夫。みんな無事だったみたい。でも焼け出されちゃって、どっか越してったよ」

「そうか……」

気の抜けた声で答えて、彼は行き先表示を見た。あと数駅で目的地の駅に着く。しかしそこに降りる意味は既に無くなってしまった。きっと立て込んでいるだろう、そんなところにさらに迷惑を背負い込ませるわけにはいかない。かつての旧友を想い、彼はそう決めた。

「同じになったな」

「何が?」今度は女の子が訊く番だった。

「家がなくて、金がなくて、行くところがない」

「あ、ホントだ」

大して落ち込んでいないことがわかる彼の言葉を聞いて、彼のようすをうがかっていた女の子はまたけらけらと笑った。

そして、今思いついたように言い出した。

「あ、んじゃさ――付き合ってよ、あたしの家出。無駄骨折るとこだったんだから、ちょっとくらい奢ってくれるでしょ?」

彼は目を丸くしたが、特に断わる理由もなかった。今のところ彼にはどこにも目的地がなかったし――とはいえ、彼に目的地があったことなどほとんどないが――この女の子に礼くらいはしてあげてもよい、とも思えた。油断している、そう頭のどこかが警告したが、何故かこの女の子は信じてもよいような気がした。あるいは、騙されても納得できるような、そんな気がした。

だから彼は軽く答えた。

「ああ、いいよ」

さっきまで目的地だった駅のひとつ前の駅に着き、また滑るようにドアが開いた。

5

街の中心部に向かって、観光用のゴンドラはビルの屋上が点描するすり鉢の中を下っていた。彼は太陽の光を反射して光り、大きな皿のように見えるビル群を見ていた。

「第3新東京市は、西暦2019年に建造が開始され、2030年に第一次整備計画を終えました」合成音が言った。「2016年のサード・インパクトの爆心地であるこの都市は、事故当時その地層が剥がされ、当時進行していた大深度地下都市計画に沿って作られた地下都市部分が現れ、クレーターと化していました。日本政府は、混乱していた世界経済の中心地となるべくこの都市を建造し、頓挫していた第二次遷都計画は完了し日本政府は正式に遷都しました。この際、国連本部もこの街へ移りました」

ゴンドラの中心に、反対方向を指す矢印が二つ浮かび上がった。片方が国会議事堂、片方が国連の本部を示しているらしかった。

まずいことになったな、と彼は思った。亡霊のように、というか今まさに碇シンジの名を失った亡霊そのものである彼も、政治の中心地に行けばさすがに誰かがその亡霊の気配に気づくかもしれない。碇シンジという記号はもう生きている僕のことを決して表さない。もう一度彼はそのことを思い出した。今はいない碇シンジと、今生きている名無し。その隙間を埋めるために、きっと誰かが彼を捕らえ、あるいは殺すだろう。

「どうしたの?」

見慣れた景色に特に心引かれていないらしい女の子は、明らかに焦りの浮かんだ彼の顔を見て、そう訊いた。二人きりの車内で彼らは一見親子のように見えた。

「いや……色々とあるんだね、この街は」

「へ? ……あー。でも、これは中心塔行きだから、官庁街は通らないよ」

女の子は言って、窓の外を指差し、そのまま身体をぐるりと回した。彼もその指先の示す物を追って視線を動かす。女の子の指先はひときわ大きなビルをまず指し、そこから線路に沿って半回転、もうひとつの大きなビルを指した。対になったビルの片方には、小さくいくつもの旗がはためいているのが見えた。

「ほら、ああゆうビルは、みんな内環状線の近くに固まってるの。中心広場には記念碑しかないよ」

記念碑、と言うと同時に、女の子はゴンドラの進行方向を指差した。彼らがそこに向かって下り続けている、中心に開けた広場にはまだ緑しか見えなかった。

「記念碑?」

「あ、知らないんだ。サード・インパクト記念碑。毎年記念日には式典やってるよ、見たことない? テレビとかで」

「テレビのない街にいたからね」

まったくの嘘というわけではないが、本当のことだとも言いがたかった。この街が復興していることを知っていたのと同じく、この街にサード・インパクトを記念した石碑があること自体は知らないではなかった。しかしそれだけだった。彼はこの三十年、務めてそれに関しての情報をなるべく知らないようにしてきたのだ。状況に変化がなければ、彼はそうしてこの街を遠ざけ続けただろう。たまたま、本当にたまたまあの島で旧友に出会わなければ、彼はこの街に来ようとも思わなかったに違いない。

彼と旧友が思いがけない再会を果たしたのは、日本人観光客がよく来る島でだった。何かに追われるように長期間の定住を拒んできた彼も、この島ではもう二年も働いていて、よく馴染んでいた。ここでは日本語が理解できる者は重宝されたし、それほど情報網は発達しておらず、というよりむしろそれを売りにしているような島だったので、顔が割れて困るということもなかった。

だから、驚きの顔でその名を呼ばれた時には、彼は恵まれた状況に酔っていつしか警戒を解いていた自分の油断を責め、必死になって逃げたのだ。

「待て!」

待つものか。少なくとも彼の知るところ、待てと言われて端から大人しく待って、ことが上手く進んだ試しはなかった。

「待て言うて……うわあッ」

一目散に走る彼の遠く後ろで、悲鳴と共にがしゃんという金属のぶつかる音、そしてうめき声が聞こえた。

倒れたか、と廊下の角を曲がり、一息ついてから彼は聞こえた音を分析した。しかし、今のは――

妙な予感に囚われて、彼は角からそっと身を乗り出し、廊下の向こうに倒れた人影に視線を送り、起きかけている男の顔をもう一度確認した。

そして彼は、その男が自らの旧友であることに気づいた。旧友、親友、そして自分が殺しかけた男。鈴原トウジ。印象がかなり変わってしまっていたが、時間をかけて確認すれば見知った顔と一致する部分があまりにも多かった。

そして彼らは再会を果たした。だからこそ、彼はこの国へとやって来たのだ。

「ちょっと!」

怒ったように言う声で、彼は我に返った。瞬きをする彼の目の前では、腰に手を当てた女の子がむすっとした顔を見せていた。

「まーた飛んでる。もしもーし。もう。何かクスリでもやってんじゃないの?」

「そう見える?」彼は否定も肯定もせず、曖昧に訊き返した。

「やだ……マジでやってるの?」彼の曖昧な言葉を受け、今度こそ本当に驚愕した表情で女の子は少し後ずさった。

「そんなわけないだろう。そんなに金持ちじゃないよ」

「そ、そう。ならいいけど」

ふっ、と彼が笑うと、女の子は眉をひそめた。

「うげ、やな感じ」

彼はさらに声を大きくして笑った。その間にもゴンドラは軽快にケーブルラインを滑り降り、街の中心に鎮座するひときわ大きな塔が徐々に近くなっていった。なんのためにこんな塔を建てたのだろう、と疑問に思いながら、彼は呆けた顔で霧に霞む頂を見つめた。

6

ゴンドラの終着駅は塔から少し離れた場所にあった。終着駅のある五階建てのビルは周りの建物よりは多少高いものの、街の輪郭部にある数十階建てのビルに比べればやはり低かった。ばしゅう、と空気が抜ける音を出してゴンドラのドアは開いた。感じを出すための演出か、それとも単に古いのかははっきりとはわからなかったが、恐らく後者だろうと思った。構成部品の端々にある、小さな錆。そして、少し褪せた壁の色、古ぼけた窓。そのようなものたちが、この場所がそれなりの時間を経ていることを彼に教えた。

窓の向こうには、街の中心を示す塔があった。塔には何本かのワイアがつながっていたが、それはケーブルラインを構成するものではなさそうだった。

「真ん中の塔までつながってるわけじゃないんだな」

「まさか」

女の子は馬鹿にするように言うと、彼より先に改札を通ろうとし、詰まった。

「あ、しまった」

小さな声で呟き舌打ちをする。女の子は駅員のいる改札に回りこみ、券を見せた。彼も同じようにして改札を抜けた。

「自動改札使わないのとか、久しぶりだから」

女の子はそう言い訳して、彼に持たせていたスポーツバッグを引っ手繰って歩みを進める。彼は苦笑いを浮かべながら、その後姿をゆっくりと追いかけた。


風が吹いている。最初に気が付いたのはそのことだった。街の輪郭部から彼の歩く先へ向けて、常に風が一定方向に流れている。スーツの裾がぱたぱたと風に煽られ、お世辞にもさっぱりしているとは言えない髪が、後ろからの風で逆立った。ふと隣を見れば、道沿いの街路樹もその下に伸びる背の高い草も真っ直ぐではなく、どれも少しだけ中心部に傾いていた。

そして、彼はその入り口に立った。

「ここが」思わず声を上げ、しかしその続きは飲み込まれた。

中心広場。壮大な空間の広がりと緑がそこにあった。そして塔も。上の街からも十分高く見え、中に入ってしまえばその意味を疑ってしまうほどに高く屹立する塔は、今ではその意味を彼に明らかにしていた。

人はまばらだった。そしてその人々も中心の塔に近づくにつれて少なくなり、最後は彼らだけになった。

「この塔が、そのまま記念碑なのか」

風が吸い込まれる塔の前に呆然と立った彼は、やっとのことで呟いた。どうしようもない高さにまで伸びた塔の下部には、虚ろな孔がいくつも開いていた。死人の目のような孔から空気が吸われ、彼には見えない頂上から吐き出されていた。

「そうだよ。あれ、言ってなかったっけ?」

「ああ。換気扇、だって」

「それも合ってるんだよ。これは換気扇で、記念碑。ほら、そこに書いてある」

女の子が顎で示す先には石でできた腰くらいの高さをした台があった。台の面にはガラスがはめ込まれていて、その下に文字が彫り込まれていた。

このモニュメントは機能と意味を同時に有するようにデザインされています。第3新東京市の環境浄化がこのモニュメントの機能です。「塔」に取り付けられた数万の円形翼とフィルターは、病原菌、有毒なガスなどを強力に取り除き、「塔」の地下に広がる地下水道は排水を通し、浄化して水害を防ぎます。そしてこのモニュメントはそのような機能と同時に、死者への鎮魂の意味を表すモニュメントでもあります。塔に穿たれた孔は死者が占めたこの世界での位置を示しています。街にとって拒むべきもの、有害なものは彼らのいた場所を通過し、そして浄化され、彼らの魂と同じように空へと、また地へと還るのです。

彼は顔を上げた。地面から少し離れたところから、孔は上へと続いている。確かにその孔はひとつひとつが顔の貌を模していた。彼らの位置は永遠に空席とされ、その空洞を通って、死の世界、浄化された世界に空気が流されていく。

彼はその孔のひとつが自分の孔になるさまを想像したが、そんなことがあるはずもなかった。彼はあの塔に、この世界に占めるべき位置を既に失っていた。

「でっかいよねえ」

女の子は呟いて塔の頂上を、それから空を見上げ、そのまま彼の胸の中に背中から倒れこんだ。彼は細い肩を受け止めながら、なお呆然としていた。

「よく来るの?」

彼はそう問いながらゆっくりと膝をついた。彼に体重を預ける女の子の頭は、彼の手でそっと傍らの芝生に置かれた。女の子は両腕を広げ、そのまま目を閉じた。

「うん。記念日以外はあんまり人来ないけど。下の街でもここは特に静かだから」

「そうか」

彼は膝をついたまま、天を仰いだ。背中から傾いた太陽の光が差し、影は塔へと長く伸びた。いっそう強まった風が、首筋を、耳の後ろを吹き抜けていた」

「どう? この場所。なかなかいいっしょ」

「いい場所だね。でも、僕の居場所ではないみたいだ」

「あたしだって、行くとこないよ」

目を閉じたままで彼女は笑った。

「――あんたのお陰で。そうでしょ、碇、シンジさん」

7

女の子はあくまで冷静にその名を呼んだ。彼もまた冷静に、それに答えた。

「なんだ、気づいてたのか」

言いながらさっと腰に手を伸ばす。驚いてそのまま固まるような呑気さはもうない。

だがしかし、すんでで手は止まった。おかしなことに、どうにもやる気が出なかった。もう少しこの女の子の話を聞こう、そう思えてならなかったのだ。

それはあるいはこの塔のせいかもしれなかったし、あるいは女の子が彼を碇シンジの名で呼んで、そこには明確な形を取っていないおぼろげな敵意、そして好奇心はあるものの、彼に対して警戒心は見せていないからかもしれなかった。

彼は迷いながら、さっきの言葉で引っかかった部分を問い返した。

「僕のお陰?」

「そう。あんたのお陰」

答えが繰り返される。しかし彼には、いったい自分がこの女の子に恨まれるような何をしたのかわからなかった。清廉潔白だと言うのではない。むしろ、心当たりならありすぎるほどにある。何しろ彼はこんななりをして当代随一の大テロリストなのだ。

彼から答えが帰ってこないことが解ると、女の子はまた口を開いた。

「あんたの話が出てから、オヤジと母さんはずっと喧嘩してる。オヤジはアホだから、もう何ヶ月も母さんと口もきいてない」

「君は……」

女の子の言葉から浮かび上がってくる事実を飲み込めずに、彼は風に掻き消えるほどの声でそう呟くしかなかった。

「だから……あたしが気分転換に家出しちゃってる間に、まだ母さんに心配かけちゃうのはかわいそうだったから……もう、母さんとオヤジが怒鳴ってんの見たくないから、だから、あんたをあたしん家に近づけるわけにはいかなかったんだ」

女の子は言い終わるやいなや一息で立ち上がると、彼をキッと睨んだ。その顔は太陽の光で紅く染まっていた。そして目に、太陽だけではない、燃えるような光を持っていた。大したものだ、と彼は思った。ここに来るまでこの女の子から溢れる敵意に気づかなかった。

「だから、ウソついたんですよ。あの家は燃えてない。あたしの家はまだ、ちゃんとあの住所に建ってます、碇さん」

「君は、トウジの娘さんか」

女の子ははあ、とひと息ついて肩を落とし、答えた。

「そ。もしかしたら知らないかもだけど、洞木ヒカリの娘でもあんのよ」

街の輪郭部から影が迫ってきていた。地上より低いこの土地には地上より一足先に夜がやってくる。彼は影が彼を通り越し、女の子の顔を見えなくする前に、その顔をまじまじと眺めた。

確かに言われて見れば、この女の子はあのそばっかすの女の子と、あの大阪弁の男の子の特徴を備えていた。

視線に気づいて、女の子は不満げに顔を歪めた。

「何? そっくりだとでも言いたい?」

「ああ、そっくりだ」

「それってどっちに……ってあぁやっぱ言わなくていいです。オヤジなんて言われたらショックだし」

「いや、どちらかというとお母さんに似てる。そんな気がする」

彼は女の子が傷つかないようにそう答えた。明け透けな口調が父親を連想させるということは伏せておいた。

「で、どうする? 僕を警察に突き出すかい?」

それでも構わないと思った。彼はもう名を呼ばれた。ずっと考えていた。この名を再び呼ばれるときは、即ち死ぬときだ。そしてこの女の子が彼らの娘なら。何をされようが撃てるはずはなかった。

しかし、女の子はそんな彼のようすを見て、ふん、と顔をそむけ、そのまま突き放したように彼に背を向けた。どうにも、やはりあの男の娘なのだと思った。腕組みをして立つ黒い影は、彼のそれにそっくりだった。

腕組みをしたまま、女の子はぼそりと言った。

「突き出したら、どーなるっていうんです」

「捕まって、死刑になるだろうね、きっと」

「何にもしてないのに?」

「……そういうことを言っちゃいけない」

「だって!」

「あの日から戻ってきてない人がいる。それを引き起こしたのはやっぱり、僕だ」言葉を切って、塔を登り詰めようとする影を目で追った。「あれを見なさい。この塔。この塔に刻まれた人は、きっとみな僕を恨んでいる。君は……それを思い知らせたくて、ここに連れてきたんじゃないのか?」

女の子は目を見開いて、かぶりを振った。

「違うよ! ここは、好きだけど。でも、別にここにいる人たちがどうとか思ってないんだ。現にオヤジは、ここ、嫌いだし。あたしは……ただ、さあ」

影は塔を登り、そして太陽と反対側の斜面を駆け上がる。影がふたりを包み、そのくらい中心に置き去りにした。そして闇の中で、女の子はひそやかな声で言った。

「オヤジが言ってた、自分が悪くもないのにあたしが生まれる前から逃げ続けてるヘンな人に、そういう人生ってどんな感じ? って訊きたかったのよ」

そのとき、静かに、中心の塔は光を放ち始めた。塔は空に残る淡い光を受けて、それを地上より一足先に闇に沈んでしまう街へ届けていた。

ほう、と。息をついたのはどちらだったか。

ふたりは並んで、光を放って夜の街を照らす塔と、色を濃くしていく空を見上げた。

「……実は意外と悪くない。こういう生き方も」

「変態じゃん」

呆れた目で少女は彼を見た。

しかし、それは本心だった。彼は名を捨てて逃げることで生き延び、そしていつしか生き延びることは名無しとして逃げることになった。彼にとってはもう、名前も居場所も持たず、自由に逃げ続けることこそが、生きるということだった。

だから彼は笑った。にんまりと。それは女の子が初めて見た彼の笑顔だった。

「違いないね」

「……あたし、家帰ろ」

「ああ、それがいいよ。帰る場所があるんだから」

「残念、確かにそう。碇さんは……これからどうするの?」

ふむ、と彼は首を捻った。この女の子には迷惑をかけた。家が無事でも、彼が行けば彼女の言う通りにまた波風が立つだろう。

「もちろん逃げる」

だから彼はそう答えた。

「どうやって? ここ、第3新東京市のど真ん中だよ?」

「親子の振りをしてここから上手く逃がしてくれたら」彼は答えた。「君は歩いて帰らなくて済む」

「あ、そういえば」

女の子は大げさに鞄の中の機械を確かめた。そこにはいまだ昼と同じ表示があった。無一文。女の子は大げさに笑って、塔に一瞥をくれてから彼に向き直り、隣へとやってきた。

「ったく、仕方ねーなぁ近頃のオッサンは」

女の子は苦笑し、無理やり汚い言葉使いでそう言って、んじゃ行こっかおとーさん、と棒読みしながら彼の腕に自分の腕を絡めた。彼は苦笑しながら、今や自分が再び碇シンジの名を捨てたことを自覚した。振り向くと第3新東京市の灯りがあった。見知らぬ街。しかし焦ることはなかった。大丈夫だ、知らない場所を歩くのには慣れている。

そして名無しの男は、名も知らぬ女の子と共に軽やかに歩き出し――再びの逃走を開始した。

- The rest stories of "Project Eva" #32 - "A Mr. What's-his-name." end.
first update: 20051102
last update: 20051103

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作者:north
The referential book(citiations is stealed from...)
矢作俊彦『ららら科學の子』
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