僕らに、ちゃんと両親が揃っていれば、
あたしたちの知らないあの日、世界が変わっていなければ、
きっと、幸せになれると、思っていたのに。
外はやたらと寒くって、あたしは肩をすくめながら歩いた。
数分もしないうちに首の後ろや肩の筋に痛みが走り始める。
けれど少しでも力を抜いて肩を落とすと、マフラーをしていない首筋に冷気が入り込んでくるし泣きそうになってくるので、あたしは誤魔化し誤魔化し、痛みと寒さの合間を綱渡りしながら冬の街をずんずんと歩いていく。
赤信号に捕まって、そっと少しだけ肩の力を抜いて首を回すと、空が見えた。
小さい雲も浮かんでない青空は寒々と青白くて、最近下ばっかり向いて歩いている身には少し辛い。空っぽな青と、その放射冷却で刺し込むような冷たさになった風とが協力して、あたしを攻撃してくる。
「そんなに頑張って攻撃しなくても、今のあたしになんて簡単に勝てるよ」
……あ?
ワンテンポ遅れて、びっくりする。
つい、口をついて出た。自嘲してみたかったのでもなんでもなく、無意識に考えていることを口に出していた。
こんな、街中で。
何やってんだ、あたしは。
もう口を押さえたりするのも恥ずかしくて、普通のすました顔を装いながら早口でしゃべりだす。
「ったくなー、こっちが引退して何ヶ月経ってると思ってるんだ、あいつら。ほんっと先輩に対して手加減のない……」
アドリブの「引退したクラブに遊びに行き、後輩に負かされた先輩」の台詞。その語尾を徐々に小さくしながら、あたしは周りをちらちらと見計らった。
幸いにも、誰も気にしてなかった。
信号が変わって、信号待ちの人々はそれぞれに歩き出していた。慌ててゼブラ模様の上を小走りして、逃げるように人込みに混ざった。
自意識過剰だ。
自分で自分に駄目出しして納得してしまう。
そうとも。みんな、綺麗に飾り付けられたディスプレイを見ている。車の騒音に紛れて聞こえる、アップテンポの音楽を聴いている。流れる自分の隣にいる、彼氏を、彼女に触れている。
そうやって、街全体が浮き足立っている。周りに気を向ける余裕なんてない。
だって、今日はクリスマスなのだ。
今日はあたしにとっては十四回目の、そしてひょっとすると初めてかもしれない、真冬の、2015年のクリスマスなのだ。
ほどけてきたマフラーを締めなおして、ダッフルコートのポケットに手を突っ込む。そして、少しずつ雲が増えてどんよりと曇ってきた空の下を歩いていく。
風が吹いた。頬が凍るみたいに、じんじんと冷える。
うう。
声にならない声で呻いて、肩を揺すって息を吐いて寒さに耐えた。妙な動きをしたせいで、鞄の紐が肩のでっぱりを越えて、腕の方へずるずる落ちていく。
肘を曲げて、鞄の重みを支えた。
塾の用意が入っている鞄はずしりと重たくて、半端な姿勢で支える腕や、わき腹の裏に引きつるような痛みが走った。
「うっ」
攣りそうになって、また呻く。
誰もいない昼下がりの坂道を下りながら、僕はひとり、自分の世界に入る。周りのことが気にならなくなれば、上辺だけ人に合わせていれば、楽なものだ。
身に着けたそんな処世術は、ここでこそ役に立った。
それに気づいたのは、本当につい最近のことで、自分自身の変わり身の早さに本当に驚いてしまった。
これは適応力なのか。
それとも、人の血が通ってないのか。
正直に言って、めちゃくちゃ混乱した。
だって、こんな風に自分が何もかもをやり過ごせる人間だなんて、今までずっと気づかなかったのだ。
でも、できてしまったのだ。
そして、ふと、どこで身に着けたのだろう? と疑問に思い、その時に気づいた。
それが身に着いたのが何時なのかは正確にはわかりようもないけれど、どこで身に着いたのかは思い出すことができた。いや、思い出したのか、考え出したのかにも、僕はまだ結論を出していない。
僕が感じたのは、自分が元いたのはここじゃない、という直観だった。自分が不幸な生い立ちを持つ中学生でもあった、なんて、本当に傍から聞くと馬鹿みたいなことに、あろうことか「気づいて」しまったのだ。思い出してしまった。
考え出した、という可能性も頭に浮かんで、まだ結論は保留にしている(だってそうでもしないと、本格的にのっぴきならない、状況になる)けれど、これは、どうも違うらしい。
何故って、そう気づいた途端に頭の中で、まるで紙にこっそり描かれた透かしが日光を浴びて浮かび上がるように、二つの記憶が重なったのだ。端々の曖昧さも、何もかも、この街での記憶と同じに。
本当に僕が、その人生を――ロボットのパイロットとしての人生も生きていたみたいに。
ちょうど、あの人生の渚先輩が言ったように、あの時から僕にとって、僕のこの街での十四年間と、あの十四年間、二つの記憶は等価になってしまった。同じように、頭の中に渦を巻く、二つの記憶。
もう、どちらがより嫌なのかなんて、わからなくなっている自分がいる。
だからせめて、記憶が全部暗いところに絡めとられるのを少しでも遅らせるために、僕は街を歩く。
予定なんかないのに、ただ家にいたくないから、ジングルベルの鳴る街を歩き続ける。
どんよりとした雲の向こうで、日本で一番夜の長い日から数日も経ってないクリスマスの太陽はしっかり傾いているらしく、でもあたしの方はまだ、どこにも行くことができずにいた。
だけどよく考えたらそれは当たり前で、要するにあたしには行く当てなんかないのだった。
あたしは歩きを速める。どこまで行っても、クリスマスは後を着いてくる。
芯まで冷えそうな寒さと一緒に、少しずつ少しずつ、無責任に明るいメロディがどこかを蝕んでいくのがわかる。
感覚のなくなったみたいな耳を、鼻水が出そうな鼻を、カサカサの唇を、ポケットの中で何度も握ったり開いたりしている手を、ブーツの中ですっかり冷え切った足の先を、ゆっくりとあたしの端から端から、侵していくのだ。
あの記憶にあった、光の羽根を持った鳥みたいに。あたしの心を、容赦なく。
赤い鼻の病気なトナカイや、赤い服を着たサイコな爺さんなんかが、笑った顔で、罪悪感の欠片もなく。
――ええい!!
あたしはだから走り始めた。下手するとぎょっと驚く顔をされるぐらい、されてもその顔も確認できないくらい、速く。
頭の中で色々がぐるぐる回って、もう限界だ。
ブーツの踵がすっ飛んでいったっていい。
ぶつかったせいで馬鹿丸出しのカップルがこけたって、知るもんか。
周りから見られていても気にしない。もうこんなとこ、あたしは耐えられない。
なんであたしはこんな処にいるの? なんで家でママといないの? どうしてこの人生のあたしは、こんなに弱いんだろう? ああ、本当に、あの人生のあたしが本物のあたしであればいいのに。
そんな、後悔なのか、羨望なのか、区別がつかないような気持ちで前のめりで走った。
真っ直ぐ、どこまでも遠いところまで行ってしまいたくて。
――行く当てなんてないくせに。どうやって逃げるつもりなの?
どこかでそんな自分を(もうひとりのあたしが?)冷静に見つめる。
――行く当てなんかなくたって、しょうがないじゃないか!
どこかでそんな自分を(まさに走ってるあたしが)激怒して睨む。
頭の中で反発する二人、無意味な勝負。
でも、その結果は出ないまま、行きずりの試合は終わった。
まずは頭、それから、上半身。最後に、下半身まで、全身全霊、全速力で――あたしはちょうどタックルするような形で誰かとぶつかった。
鈍い音と一緒に、その不幸な誰かはあたしの体を受け止めて、そのまま倒れた。
途端。車の甲高いブレーキとスリップするタイヤの音が耳に刺さった。車体がひしゃげてガラスが割れる、がしゃんという音も。
……なんてこと。
あたしは顔を上げて周りを見渡し、やっと自分の置かれている状況を理解した。
道を逸れて、交差点の脇に立つ電信柱に擦った車。交差点。あたしがいるところは、その傍、足元に見える、やっぱり、ゼブラ模様の、横断歩道。スリップ痕、その真横、きっと髪ぐらいは轢かれたかもしれない位置にある、あたしに巻き込まれた不幸な誰かの肩、頭。
呆然として、もう一度、見渡す。
車の回り。叫び声は聞こえない。どうやら、擦っただけで済んだらしい。
足元。大丈夫、轢かれては、いない。
そこで、あたしは気づいた。
うめき声を上げる誰かの頭、聞き覚えのある、男子にしては高めの声、見覚えのある、素直な髪。
知っている。知らないはずがない。
「シンジ」
うめき声が、薄目を開けて答えた。
「……アスカ?」
お互いの吐く荒い息だけが聞こえる。自分のばくばく鳴る心臓の音だけを感じる。もう薄暗い冬の道を逃げて逃げて、僕らは町の外れにいた。
そこにあるのは空が広くて風を遮るものが何もない、開発中の空き地ばかりだった。
空き地を囲うように張り巡らせてある金網にもたれて、二人並んでしゃがみこむ。じゃり、と靴底が砂粒を擦って音を出す。
互いに何も訊かない。何か口に出せる状態じゃなかった。何か口に出そうとすると、ひゅうひゅう鳴る喉から容赦なく咳が出る。
「ねえ、大丈夫?」
隣から声がする。アスカは僕より一足早く、呼吸を整え終えていた。
そう、アスカだ。
どうしてアスカが僕の隣に座り込んでいるんだ。スカートが捲れるのも気にせず、しゃがみこんでいるんだ。
「ちょっと、シンジ……シンジってば!」
本気で焦ってきたような声のアスカを安心させるために、僕は軽く手を振った。
そして、何とか深呼吸してから、言った。
「平気……だよ」
全然平気なんかじゃなかったけど、そう言った。この人生の僕は、そんな風にアスカと対等に話していたはずだ。
夫婦漫才、とか揶揄されるくらいに。
「……ったく、軟弱なんだから」
一瞬、考えた。どう返すべきか。
でも、僕の経験の片方は、そんな迷いはなしに、こういう場合に返すべき憎まれ口を正確に導き出した。
「はいはい、鉄腕アスカ様に比べれば僕は軟弱ですよ」
「ぬわんですって!?」
予定調和の返事が返ってくる。自分達を確認するみたいなやり取り。
でも、僕はもう、額面通りにそのやり取りを楽しむことはできない。
だから僕はもう言い返したりせずに曖昧に笑って、訊いた。
「どうして、あんなとこ走ってたの?」
アスカの横顔に影が走る。日が落ちたせいじゃない。こっちの、本当に天真爛漫なアスカにあるまじき、暗い笑顔が見える。
「あそこに居たくなかったから」
言うと同時にアスカは立ち上がった。そして、歩道から車道へ、一歩踏み出す。車もめったに通らないような、郊外のだだっ広い直線道路だ。
その広い道を無造作に横切って、反対側にある自販機に向かってアスカは歩いた。
いつも自信満々なはずのその背中が、黄色がかった薄明るいライトが照らす中で妙に小さく見える。
やがてアスカは、白色灯の下で海に浮かぶ無人島みたいに浮かび上がっている自販機にたどり着いた。
小ぶりの鞄から財布らしき袋を取り出し、少し考えて、ボタンを押す。
缶が取り出し口に落ちる、ごとん、という音が、遠くで小さく二回響く。
アスカは取り出し口に手を差し入れて、缶をひとつずつ手に取り、どちらも右手と左手の間を軽く往復させてから、黒っぽいショート丈のコートの右と左のポケットにそれぞれ押し込んだ。
僕のダッフルよりはちょっと薄手のコートのポケットが、缶の形に膨らむ。
そしてゆっくりと踊るように、暗くなり続ける空の下、黄色いライトの海を泳いで、僕が難破している場所に帰ってくる。
その一連の動作を、僕は膝に載せた腕越しにぼんやり見ていた。
僕の右斜め前でくるりと半回転、アスカは立ったまま、金網にもたれた。
「はい」
アスカの左手がポケットに沈み込み、引き上げられた缶が目の前に現われた。他のコーヒーより縦長の、UCCの缶コーヒー。ちょっと甘ったるいけど、へとへとに疲れている僕にはちょうど良さそうだった。
見上げると、見下ろすアスカと目が合った。
「……ありがと」
「へへ。もっと感謝しろ……って、言いたいとこだけど、あんな目に遭わせた後じゃ言えないわね。……ごめんね」
軽く、頭を下げる。イメージが崩れるような、殊勝な動作だった。
「いいよ、もう」
どうせ、予定もなかったことだし、と、声に出さずに考えた。あと数時間すれば塾だって始まるだろうけど、元々行く気なんかさらさらなかったのだ。
それに。
「それって僕より、あの車の人に言うべきだったんじゃない?」
「あ……だ、大丈夫かな?」
こもった声を聞いて、僕は思い出す。車から降りて追いかけてくるドライバー。青い顔になったアスカは唖然として見ている周囲の人たちの視線を振り切って、僕の手を思いっきり引っ張って逃げたのだ。
「怪我人は……いなかったんじゃない?」
考えるのが面倒になったので、僕は極めて無責任に答えてプルトップを開け、一口、甘ったるいコーヒーを啜った。温かいコーヒーが舌の上に広がる。
隣でも、プルトップが開く音がした。見上げると、アスカが小さめの両手で、僕の持っているのよりは太目の缶を挟みこみ、ミルクティーを飲んでいた。一口飲んで、缶を口から離し、温かい缶で暖を取る。
ほう、と、吐息が漏れる。
「アスカ?」
「ん?」
「いいの?」
「何が?」
「予定とか行くとことか……あったから、走ってたんじゃないの?」
予定、行くとこ、そんな言葉が出るたびに、ライトに照らされたアスカの表情は、少しずつ歪んでいった。
まあ、そうかもしれない。あんなことがあった後に、予定とか言っている場合ではないだろう。
アスカは何も答えず、今度は缶を額にくっつけながら、何か考えるような顔で足元を睨んだ。
「……あんたこそ、どうなのよ」
やっとアスカが言った言葉は、スマッシュヒットで僕の胸に刺さった。僕は、僕には、予定なんかない。予定なんかないまま街を歩いていて、アスカにぶつかったのだ。
ぶつからなかったら、きっと今でもあの辺をうろうろ歩いていただろう。
「ないよ」
「え?」
「予定なんか、なかったんだ」
返ってくる罵倒の言葉を予想して、僕は身構えた。「うわ、暗」「何やってんだか」「何それ、キモ」――どちらかと言えば、ここではない記憶の中にある、アスカの言葉だったが、そんな言葉が返ってくるような気がしていた。
しかし返ってきた言葉は、全然違った。
「あたしも、そうだったよ」
それから、冷たくなりかけたそれぞれの缶の中身をちびちび飲み下し終わるまで、二人とも何も話さなかった。
たっぷり時間をかけて飲み終えたころには、もう空は真っ暗だった。星が見えないのは雲が出ているからだ。空の黒の濃淡で、それがわかった。
「そういえば、久しぶりだね」
どう切り出せばいいのかわからなかったので、僕はとりあえず、そう切り出した。
アスカは、うん、と小さく言ったっきり、また黙り込んだ。
確かに、最後にアスカと話したのはかなり前だった。ここ何ヶ月か――僕の家が壊れてしまっていることに気づいてから、僕はアスカを何となく、避けていた。
少し前に、僕の家は壊れた。もうちょっと正確に言えば、自分の家がもう直しようのないくらい壊れてしまっているのだということに、僕は気がついてしまった。いつから壊れ始めていたのかは、わからない。ひび割れはずっと前から入り始めていたはずで、僕がその気配を感じたころにはもう、どうしようもなかった。
壊れる気配を必死になって感じようとしても、ただ自分が無力であることを実感するだけだった。
父さんには、母さんの他に付き合っている人がいて、母さんには、父さんよりも大事なものがある。
僕の家はそんな状態だった。
父さんには家に帰らない日がある。母さんは「あら、残業かしらね、大変ねえ」と、自分だって同じ職場に勤めているのだからわかりそうなことを言って、大して気にもしてない顔で皿を洗う。
そして、さっさと明日の分のご飯を仕掛けて、風呂に入って寝入ってしまう。
たまに朝早く起きると、仕事を始めている母さんの気配を感じる。
「こっちの方が集中できるから」
一度早起きの理由を訊いたとき、母さんはそう答えた。何かを耐えているとか、そんなのじゃない。父さんのことなんか、本当に気にしていないというようすだった。
父さんは、帰ってくる日も夜遅くに、これ見よがしに知らない女の匂いをさせて帰ってくる。
母さんはそんなことに眉ひとつひそめず、明るい声で、お帰りなさい、お疲れ様、と言う。
残業かしら、と言っているときと、全く同じ声で。本当は気が弱い父さんの肩がびくりと震えるくらい、感情のこもらない声で。
そして父さんは諦めたように、「ああ、先方がしつこくてな」とか言葉を返す。
そこからは、父さんと母さんは普通の夫婦になる。
次に父さんが帰らない日まで、何の変哲もない、普通のよくいる夫婦になる。
僕が朝起きると、父さんは朝刊を読み、母さんは聞いてるの、と苦笑しながら世間話をする。
でもその顔は、父さんがいない時に、朝のニュースを見ながら独り言を言っている表情と、そんなに変わらない。
きっと母さんはもう父さんを見放している。
そして父さんももう母さんを諦めている。
どっちが先かは知らない。知りたくもない。
僕にはどうしようもない。
きっと今日も、父さんは帰ってこない。そして母さんも、それを気にも留めずに過ごすだろう。そしていかにも楽しそうに、ケーキを切ったり、普段は作らないような料理を作ったりするのだろう。
そう、だから――僕は、今日、家にいたくなかった。
シンジは久しぶりだね、と言ったっきり、後を続けなかった。
あたしも相槌を打っただけで、それ以上は何も言わなかった。
何を話せばいいか、わからなかった。
最後にシンジと話をしたのは、何時だったっけ? 大昔のような気がする。冬の始まりごろ? それとも、秋の終わるころからずっと? わからないけど、もうずっと、シンジと話をしていなかった。
あれはちょうど、ママが壊れだしたころ、あの記憶を、思い出してしまったころだ。
ママはお酒を飲むのが好きだった。本当に好きだったのかは今になっては疑問だけど、口では、お酒が好きだと言って、飲んでいた。
パパのせいなのか、それとも、仕事のせいなのか、あたしのせいなのか。
わからないけど、ママが飲むお酒の量は日々、確実に増えていった。
最初は、朝起きれないくらいの量。
そして、二日酔いでしばらく動けなくなるくらいの量。
いつしか、記憶の中に、酔って変なことを言ってふらつくママの記憶しかなくなって。
そして今は、肝臓が腫れ上がったので運ばれた病院のベッドの上で、やっぱり酒を欲しがっている。きっとママはあたしに逢うよりも先に、お酒に逢いたいのだろう。
あの記憶で、ママがあたしではなくて、あの人形を選んだみたいに。
でも、そんなことを言う資格はあたしにはない。
何にもできなかったのだから。
家でひとりで怒っているパパを見ると、ぶっ飛ばしてやりたいって、思う。
あんただって、冷たい声で説教するばっかりで、何にもできなかったじゃないか。
クリスマスになっても、家を飾りつける人はいない。パパとあたしの二人きり。
息が詰まって、窒息死しそう。
あのとろんとした、死んだようなママの目、それを思い出すだけで、もう……
「元気?」
足元からぽつりと聞こえた声。シンジの声だ。あたしはその声が救いの声みたいに聞こえた。
「元気じゃない。寒いし」
わざと憮然として答えたら、平坦な声で、答えが返って来た。
「僕も、寒い」
「心が?」
くすっと、笑ってみせる。
「そっちも?」
あ、乗ってきた。
「まあね」
でも、そこまでだった。
膨らんでいかない単発の会話。どちらも、どうしたの、とは訊かない。だから、訊きたいことの周辺を言葉がくるくる回って、つまんない会話になる。
どうしたの? って、訊かないけど、訊きたいだろうということは、わかる。だって、あたしもどうしてシンジが、あんな小母さまと小父さま囲まれて育っているこいつが、こんな日に外をうろうろしてなきゃなんないのか凄く気になったから。
でも、こいつからあたしを見ても、やっぱり同じように見えているのかもしれない。
何が本当で、何が本当じゃないのか、わからない。
「痛い?」
もう一度、確かめる。
「ん、もう平気」
シンジは今度は、静かに答える。その顔は、あたしが知っているこの街のシンジとは、どこか重ならない。記憶の中にあるシンジの顔と、重なってくる。
だからやっぱり、この質問をぶつけてしまう。
「本当に?」
「どうかな」
やっぱり、何か違う。
シンジが空を振り仰ぐ、金網に後頭部が当たって、ぐわん、と金網がしなる。あたしの背中にも、揺れが伝わって、バランスが崩れたあたしが体勢を立て直した時には、シンジはもう立ち上がっていた。
目の高さが合う。本当はちょっとだけ、シンジの方が高いけど、背を丸めているから、ほぼ同じ。
「アスカの方は、どう?」
「あたしは……」
言い終わる前に、シンジの声が被さった。
「僕は、やっぱり、平気じゃない。こんなの、予想してなかった」
口調が本当に変わった。いつもの馬鹿だけど明るいシンジとは違うねっとりと暗い声。
それを疑問に思うより先に、あたしは言い返していた。幼馴染のはずのシンジに、まるで知り合って少ししか経ってないような、全くの他人に言うような声で。
「あたしだってそうよ。こんな風になるなんて、思ってなかった」
見つめ合う。
「ちゃんと、両親さえ揃っていたら」
その後に続く言葉は、もうわかっていた。もう、ためらわずに言う。
「セカンドインパクトさえ、なければ」
「エヴァのパイロットじゃなかったら」
「普通の中学生だったら」
叶ったはずの、もしも。でも、それが叶っても、一番の望みは叶わなかった。
「きっと、幸せになれると、思ってたのに」
自分の考えていたことは間違っていなかったというすっきりした安堵感と、あれは本当のことだったのかという絶望感が同時に襲ってきて、身動きが取れなかった。
ふと見ると、僕の前に立ちすくむアスカも、氷みたいに冷え切った金網を掴んでいた。かたく目を閉じたアスカの手は痛々しいくらいに真っ赤だった。
「いつから?」
握り締めた手のまま、アスカは訊いた。
「僕の家が、もう駄目になった時から。少し、前かな」
「なぁんだ。あたしと一緒じゃない」
「そうなんだ」
「うん。一緒。あたしのパパとママも、駄目なの」
一言一言、杭を打つように話すアスカの声は、やっぱり痛々しかった。
声は、少しずつ速度を増していく。
「ママがアル中になっちゃってさぁ。もうざまあないわ。あっちでもおかしくなって、こっちでもおかしくなってりゃ世話ないわよね。パパだっててんで駄目だし。幻想も醒めちゃってさあ、あっちのあたしみたいにママを信じて正義の味方やんのも、こっちのあたしのままで馬鹿みたいに中学生するのも、あたし、どっちだって満足にできなくなっちゃったってわけ」
かーなしぃー、と口を尖らせて、あはは、と乾いた声で笑う。
もしかしたら、止めろ、と止めるべきだったのかもしれない。
でもそんなことできるわけなかった。そうやって吐き出してしまいたい気持ちは、わかりすぎるほどわかったから。
だから僕は、一緒に笑って、それから言った。精いっぱい朗らかな声で、笑い飛ばすために。
「こっちは、父さんが浮気してるんだ。むこうでもリツコさんと浮気して、こっちでも浮気してるんだから、救いようが無いよね。母さんも母さんで、全然気にしてないし。全部父さんの独り相撲でさ、これじゃ、むこう側と全然変わらないよね。しかも、気づいたのかなり後だし。――結局、僕はどっちにしろ、中途半端で何にもできないってわけ」
思わずおかしくなってきて、アスカに笑いかける。こちら側の僕の記憶を辿って。
アスカも笑う。この笑顔は、むこう側のアスカの笑顔だろうか、それとも、こっち側のアスカの笑顔だろうか。
どっちでも良かった。
どっちにしても、僕たちは結局は、こうなってしまったのだ。
「ったく、ツイてないわよね」
アスカが言う。くすくすくすくす、笑いながら泣いていた。
「ホントだね」
僕も答える。腹から笑いながら、僕も泣いていた。
「折角こうやってやり直させてくれるんならさあ……もっとさ……」
それからは、言葉になっていなかった。僕ももう、何も言えなかった。
街の外れの空き地の前で、身も凍るくらいの寒さの中で、失くしものの多い中学生二人、抱き合いながら泣いた。いやらしい気持ちなんかなしに。ただ、そうじゃないとキツいから、そうしないと立ってられないような気がしたから。
二人してひと通り泣いて気分が良くなって、鼻水とかでぐじゅぐじゅになったシンジのコートから顔を上げた時に、初めて雪が降り始めていたことに気づいた。
ホワイト・クリスマス。
――バッカみたい。
「ホワイト・クリスマスだね」
いつの間にかあたしより先に泣き止んでいたシンジが、あたしが思ったけど言わなかったきざな一言を、顔に似合わない掠れ声で言った。
あーあ、やっちゃった。
「……まさか、本当に言うとは思わなかったわ」
「あ……ごめん」
こっちのキャラじゃない、謝り方。
「ばーか、そういう時は言い返しなさいよ、ちゃんと」
そういうキャラだったでしょうが、と、軽くわき腹を小突く。
「あ、そっか」
「そーよ」
あたしが笑って言ってやると、シンジはミョーな表情になって、ごにょごにょ言い出した。
「でもさ、それならアスカも、もうちょっと、なんていうか、ほら……」
「何? 何が言いたいの?」
ちょっと身体を逸らして目を合わせると、赤くなった顔が俯く。
あたしは面白がって、ますます顔を近づける。
実は、ちゃんとわかってる。どうやらこっちのあたしは、シンジのことが、まんざらでもない。転校生が来てから焦ってて、色々あげちゃってもいいかな、とか、思ってた。
それでこの状況だ。さっきまでは何にも考えてなかったけど、今は、ちょっと変な感じ。
でも、いやじゃない。
だから答える代わりに、笑って腕に力を込める。きゅっと、身体を押し付ける。
シンジはビクッとして、訊く。
「いいの?」
「許す」
あたしが断言すると、おずおずと、それからしっかりと、力を込めてあたしを抱きしめる。
耳をシンジの首元にくっ付けた。耳がじんわりあったまる。ひゃ、っと情けない声がして、その声を聞いて、あたしは笑う。
あたしは、大切なことを思い出した。
この世界でだってやっぱりあたしたちはそこまで恵まれてはいないらしいけど、それでも、こうやって笑いあえる。からかいあっていられる。そのことを。
そしてそれは、本当はあの世界でも、きっとできたはずのことだということを。
やっと、やっと思い出せた。あの世界が終わる、最後の最後に気づいたこと。この世界の、自分達が他の誰かでありうるということの、意味。
例えばある時ある場所で、あたしたちは不運かもしれない。どこでだって、不運はどこかであたしたちに牙を剥くかもしれない。いや、きっとどこかで、絶対に、襲い掛かる。どこだって変わりはしない。
でもそれで不幸せになるかどうかなんて、決まりやしなかったんだ。
晴れの日は気分よく、雨の日は憂鬱。でもそんなの、見方ひとつで変わるもの。別の自分達だってありうるんだ。それを知るために、ここはあって――
やっと、それを思い出した。
だってほら、それが証拠に、こんな不運なクリスマスでも、こうやって抱きしめて貰っている今、あたしはけっこういい気分だ。
どこにだって幸せの種は転がってる。
どこにだって。
……ね?
だからあたしは抱き合ったまま、耳元でささやいた。
「ね、あたし、今日家に帰りたくないんだけど」
「僕も……そうだけど?」
胸をきゅっと押し付けて、耳元で小さい声で。
「あのさあ、皆まで言わす気?」
「あ、いや、えーと……あの、なんていうか、早いんじゃないかな、まだ……」
引っかかった。
指差して笑いながら、あたしは走り始めた。灯りに――街に向かって。
「バーカ! カラオケよ! このエロ中学生!」
スピードを上げていく。もう怖くない。二人なら、怖くないから。
振り返ると、きょとんとしたシンジの顔が真っ赤になって追いかけてきていた。
「〜〜〜〜〜!!」
もがもが言ってるけど、何にも聞こえない。
「あはは、バーカ!」
あたしは笑いながら雪の降る道を走った。たまにバランスを崩して、でもなんとか持ちこたえて。幸か不幸か、どう転ぶかまだわからない冬の逃げ道を、シンジが追いつけるくらいのスピードで、呆れるくらい笑いながら。