じっと黙り込んでから、もう数分が経っていた。散りだした枯れ葉が地面に転がる音が聞こえるほどに、縁側は静かだ。
熊手は、どこに押し込んだだろう?
倉庫の中にある道具の配置を思い出しながら盤面の向こう側に視線を戻すと、まだ考え込んでいる。すっかり詰んでいるというのに、この男もつくづく諦めが悪い。
ま、自分が紹介しておいて私が勝ち続けているから、悔しい気持ちはわからないでもない。それまで老人臭いと言って私がそれを避けていたものだから、余計だ。
小さく、木枯らしが吹く。
仕方がないと心を決めて、風に背中を押されるように私は言った。できれば待ってやりたいが、なにしろ寒い。
「私の勝ちね」
むう、と声を出してうなづく向かいの渋い顔。
「私の負け……だな」
そのしかめっ面が妙に哀愁を誘うので、この歳になってなおあざとく先を続けてしまうのだ、いつも。
「ええと、これで? いち、に、さん……」
「数えるまでもないだろう。君も変わらないな、そういうところは」
いらついたように言って、そそくさと駒を仕舞い始める。まるで子供だ。寒いから、中に入ることは大歓迎なんだけれど。
しかし、そういうわけで言っているということではないでしょう?
「あなたにだけは言われたくないわ。変わってないわね、そういうところ」
「どういうところだ?」
気色ばむ。これもすっかり怒りっぽくなった。こういうとき、この男は顔の皺まであの父親にそっくりだ。碇ゲンドウの息子碇シンジ、ここにあり、か。
私は呆れて笑い飛ばす。そして解説する。
「そうやってどうでもいいことに、いちいちムキになるところよ。寿命、縮むわよ」
「何を今更」
「それもそうか」
白いものが混じる髭を撫でつけながら、昔、女みたいだった顔をしていた男が言う。今は男そのもののふてぶてしい顔をして。神もなかなか酷なことをする。
いつものことだ。
また、木枯らしが吹く。今度は本格的だった。まだ秋口だというのに。
さすがに、こたえる。
「寒い。中に入りましょう」
「そうだな。茶でも入れよう」
「うんと濃いのをね」
何度繰り返したかわからない会話。私は早々に中に入り、彼も遅れて中に入った。例年より早めに暖房を入れた室内は暖かい。今年は、特に寒気団が頑張っている。暑い中育ったせいだろうか、寒いのは今でも苦手だ。
そう、寒い。しかしその分空は澄んでいた。
彼が入りざま、私は肩越しに空を見た。強い風で雲もない、色の薄い、高い青空。
季節はずれの寒さを除けば悪くない、或る秋の日だった。
茶はあいかわらず美味しかった。料理だけはどうやっても勝てない。後から努力して勝ったものは数あるが、これだけは無理だった。
大仰な料理を作るというわけではないのに、細々としたところがうまい。天性の才能なのかもしれない。あまり考えたくないけれど、性格の差か。
と、そう考えて、それを継ぐ者のことをふと思い出した。
「そう言えば」
「え?」
呆けた顔をする。これを継がなくてよかった。神もなかなか粋なことをする。
それは稀な望みだが、皆無というわけでもない。
「もうずいぶん見てない気がするけど、元気なの? あなたに似ずに済んだ幸運な娘さんは」
私の軽口をどう扱ってよいものか、という顔をする。
「まさかとは思うが、喧嘩を売ってるのか?」
そんなわけないだろうに。
だからすぐさま言い返してやる。
「あら、どうして事実の叙述が喧嘩を売ってることになるの?」
「酷いな」
「そうかしら? 幸運だったんじゃない? 本当に。だって、あれだけのいい子はなかなかどうして授かれないわよ」
軽口の後にこういうフォローをするだけ、私も歳をとったというわけね。
「それはどうも」
「きっと母親が良かったのね。最近ちゃんと参りに行っている? あんな綺麗な悪魔みたいなひとの墓、ちゃんと参っておかないと罰が当たるわ」
そう、こうして上げて下げる。歳をとった分、性格も悪くなった。
悪魔のようなひと。天使は我々の敵だから、悪魔と言う。しかし、これと平気で結婚するのだから悪魔のようなという形容も間違ってはいるまい。彼の母親にしろ、彼の妻にしろ。彼の家の血には相当に面白い遺伝子が乗り込んでいるらしい。
遺伝子の壮大な旅に思いをはせ、反論を待つ。
けれど期待した反論はやってこなかった。見上げると、ついぞ見ない陰鬱な顔をしている。三つ子の精神百まで、というものなのか? こういう顔をすると中学の時の彼が長大な年月を越えて顔を出す。
しょんぼりと肩を下げて彼はため息をついた。
「罰か……そうだな、罰が当たったのかも知れないな」
どうも罰という言葉に妙にご執心のようだ。話がうす曇をかけたように見えなくなる。
どういうこと?
「何かあった?」
「少しね」
突っぱねる。こういうときはたいてい、腹に一物据えかねている。こういう子供っぽいところは昔から変わらない。
「少しって何?」
「だから少しは少しだよ。すまない、忘れてくれ」
私はふむ、と茶を啜ってから、彼に見せるように嗤う。
「もう半世紀以上の付き合いになるっていうのに」
――いまだに私のことを解ってないのね? というのは、言わずにおく。なんだかんだ言って、伝わらなければならないことは伝わるものだ。特に、こういう間柄なら。
腐れ縁だから。
「わかった、わかったよ」
手をかざし、やれやれと言った顔でまたため息をつく。ここいらが落としどころだということは相互の了解の下にある。夫婦でもないっていうのに、長年の勘が働くのが困ったところだ。
「……娘が、フィールドキャンセラーの抽選に当たったんだ」
一泊おいて、今度は私がため息を吐いた。
ほう。
あれにあたったとはね。
それはそのまま、ここから私の旧知の知り合いがひとり――つまりは彼のことだが――が、去るということを意味する。
「そうか。寂しくなるな、私も」
ゆっくりと茶を啜り終えてからしみじみと言う。嘘ではない。最も古い知り合いが目の前から、恐らくは永久に去るというのは、これからの冬などとは比べ物にならないくらい、こたえる。
きっとどれだけか辛いだろう。
その痛みを共に思ってくれると思って、心づくしで言った……のに。
その私の心づくしの言葉を、彼は鼻で嗤った。私がつい今しがたしたように。
冗談だと思っているの? 嘘の吐き場くらいは心得ているつもりだ。馬鹿にしないで欲しい。
と、思ったちょうどその時に、ついに声を出して嗤う。
「君こそ、もう干支もひと廻りしたっていうのに、いまだに私のことを解ってないんだな」
なんだと? ――もしや。
「まさか」
私は口に出して言って、彼は無言でそれにうなづいた。
今度こそ呆れかえる。
その意味も、意思も理解できるが、しかしだからと言って、それは、いやはや。
思わずこぼれる。
「あんた、馬鹿?」
「懐かしい響きだな。何年振りだ」
あら、本当に? まあいい。そんなことはどうでも。
「それがどういう意味だか、わかっているのよね?」
「わかっているつもりだが、ね。ム……そうだな、君の言う通りかもしれない」
「ん?」
「ムキになるのは癖かもしれないな」
ほう。
「凄いな」
「何が?」
「私は生き物が進化する瞬間をこの目で見た」
「いい加減私でも殴るぞ」
それこそ馬鹿だ。
「この私に勝てると?」
「……それをわかっていて言うから余計たちが悪いんだ、君は」
いつもの調子、馬鹿に馬鹿を重ねる。私は安心して言い返した。
「馬鹿ねえ。わかっているからこそ言うのよ」
自らの体を捨ててしまおうという考え方でない分、救いはあるのかもしれない。いや、そういう形の違和感でもって拒絶できない分、これはかえって厄介なのか。
何はともあれ、その計画は始まった。軌道に乗って、後はことのなりゆきを見るうちに気づいたら完成していた。
後で調べてみて、始めたのが昔の知り合いだとわかったというのは今ではもう笑い話。
調べたのもかれこれ数十年も前で、その頃には本人は雲の上の人になっていた。
時間が流れるのが、本当に速くなった。
と、それくらいに長い時間をかけたプロジェクトだったから、その考え方に違和感を抱く者はいても、時を追うごとに、ひとり、またひとり、時間の流れと共に消えていった。それに、あんまり長く続いたものだから、完成する頃には、その考え方はすっかり当たり前のことになっていた。
人類が来たるべき冬の時代を生き延びるため。
そう言えば聞こえはいいけれど、このうさんくさい調子には何か聞き覚えがある。そう、あの人類補完計画と大して変わりはしない。この形式で生きることを止め、機械の中で生きる。そういうことだ。
そういうことが、常識になった。
常識というのも変わっていくもの。
さて、どうだろう。彼らの考えが時代に対して早すぎただけなのか。それとも人類があの暖かな夢を見たことが、この時代を呼んだということなのか。
どちらなのかは今となってはわかるまいが、かつて私たちの後ろに控えていた見知らぬ老人たちの夢は、私たちが老人になるこの期に及んでついに叶ってしまったのだ。なんともはや。
つまりはこういうことだ。
彼は敗北した。
もしも建前通り、この長い長い誰そ彼の時代と、その先に待つ、あの夏の裏返しのような冬を呼び寄せたことがその理由だとすれば、ことの始めから負けていた。
もしもあの夢を見てしまったことが理由なら、あの時にもう負けは決まっていた。
彼らの言ったとおり、あの時にはもう、人類の種としての寿命が本当になくなっていたのだとしたら……
しかし、そうでなければ……そうでなくても、結局、彼は、私たちは、こうしてゆるやかに敗北したのだ。
いい加減使い古された表現だけれど、ゆっくりと、しかし、確実に――
目の前までそれはやってきた。
知らせてくれなくてもよいものを。
生きているというのもいいことばかりではない。まったく、見なくていいものまで見るはめになる。
そう、見なくていいものを――
黒き月。
それは失われてしまった。
しかし、それと同じものが、いや、それよりずっと、ぞっとするほど巨大な黒い繭が、今私たちの、彼の前にある。
遠く、傾き始めた陽を反射する海の向こうに、その施設はある。残る人類の持つ資源のほとんど全てを使って、栽培したそれ。
ジオフロント03。その内に、この事業のために異常に大きく培養したリリスのコピーを擁する、まさに繭だ。黒と白を分ける必要が無くなった今、新しく造られたそれは単に「月」と呼ばれている。人をL.C.L.化して取り込むその機能から、それ全体でフィールドキャンセラーと呼ばれることもある。
海のゆりかごと呼ぶ者もいるが、私はその呼び名は嫌いだ。
そのやさしい呼び名が本質を隠してしまうようで。
目を開いて目の前にあるものを見ればいい。
あんなに歪なゆりかごがあるものか。
まるで、地球という星に巣くう黒い腫瘍のように見える。これを造りはじめた彼女は、違和感を覚えなかったのだろうか? 巨大ロボットとは桁が数十、違うだろうに。
「大きいな」
バスの中、私の隣で、彼もまたそれを睨んでいた。
「それはね。あのジオフロントよりもずっと大きいんだから」
「何だか気持ちが悪い。そうは思わないんだろうか?」
なんだって?
それはつい今しがた自分が考えたことだったので、私はぎくりとした。もしかして、私たちはいつの間にかあの繭の中にいるのではないのか?
幸いにも、そうでないことは次の言葉でわかった。
「どうかしたか? 気分でも」
彼の顔を見て、諦めがついた。妙なものだ。
諦めよう。時代は変わる。時代はもう、あの子たちのものだ。
「いえ、大丈夫……価値観が違うのよ、諦めましょう。彼らには彼らの考え方がある。私たちの考え方はもう変わらないけれど、彼らを押さえつけることも出来ない」
彼はまぶたを閉じて、しばらく何も話さなかった。
まぶたを閉じたままで言った。
「あの中で、人はどうなってしまうんだろうか」
「さあてね。人類補完計画とは違って、個々人は自分の自我を保ち続けていられている――というのが理論上の結論ではあるけれど、そううまく行くものかしら」
まぶたを開いて、また地上の月を見る。まぶしそうに西日を背負った「月」を見て、目をしょぼしょぼとすぼめながら口を開いた。
「そうはならないと?」
「知っているでしょう。あの心地よさ」
「ム……そうだな」
彼は妙な顔をしてしかめ面を作った。あの夢の中で見たものを思い出しているのか。
「いい夢でも思い出していたの?」
破顔。照れ隠しのような笑い顔。大方、いつか聞いた夢のことでも思い出していたのだろう。大いに笑ってやったものだ。
「さあてね。でも、だからと言って今から趣旨変えをする気はないよ」
「限らないわよ。娘に会った途端、考えが変わるかも」
「それはないよ」
そこは強く言って、彼は腕を組んでまた目を閉じた。
ええ、恐らくそうはならないでしょうね。そうしようと思っても、きっとできない。
小さく笑いながら思う。
つまりは、自分と他人に、私と世界との違いに執着しすぎるものは、そもそもあの同化作用の強い夢には混ざれない。きっと彼なら、あの中に入ってもなお、自分のままいつづけるだろう。
そういうわけで、私たちにはそんな心配はない。
けれど、彼らは違う。彼らと私たちは異なっている。
人の心の形も文化と共に変わるという。
あの繭の中に入れば、可能や不可能ということで悩むことにも、時間と距離の制約にも、他人との理解の難しさにも、無縁になる。
自分と他人ということにも。
そのことにもう、順応を始めている。
ひさしぶりに街に出てみて驚いたことを例にとればいいかしら。
ここにこうして来る前に、街を通った。ちょっとした街なのに、そこでは個人が所有するものは見つけるのが難しいくらい極端に少なくなり、変わりに公共物や賃借物がどんどん増えていた。
自分のものというレッテルよりも、全体としての快適さを優先させる。
あの「月」への違和感も、すっかり理解できるくらいにわかりやすい状況だ。
私たちが根強く持っている、自分へのこだわり――自分というもの、欠けた部分を含んだ自己への執着、それを含めてひとつの個だと思うこと――そのこだわりが、彼らにはない。私たちとは別の常識を、感覚を彼らは持っている。
だからこそ、あの繭の中に入ろうともするのだろう。
私は言わなかった続きの言葉を口に出した。
「そう、それならきっと……他の人間と自分を共有して、不完全な部分を補うことにも、抵抗はない」
「え?」
寝ぼけた声がする。なんでもないわ、と返事をして、その言葉が彼に伝わらなかったことを、少しだけ残念に思う。
しかし、それはそれでいい。
そういう部分への思い入れと、彼らは無縁なのだろう。それは少しだけ悲しい。その悲しみとも、無縁なのだろう。
その場所にたどりついたのはもう夕方に差し掛かろうという頃だった。
その場所、言うまでもなく、港だ。伊吹博記念港。「月」周辺部――ジオフロント・サンクチュアリは飛行禁止区域なので、そこへと向かう手段はこの港から出る大型のフェリーしかない。
こんなところに名前を刻んで、まったくもう。あのひとも底意地が悪い。
彼女の名前が刻まれたプレートを見るにつけ、元気かな、とふと考えてしまう。
自らをL.C.L.化実験の被験体にした彼女は、今はちゃんと、あの繭の中に生きているのだろうか。
L.C.L.の海からついに帰ってこなかった罪作りの女、赤木リツコと、再会できているのだろうか。
そんな思いに浸ったのもつかの間だった。
「おばさま! ご無沙汰しています」
懐かしい声。砂っぽい石畳を小走りで駆けてくる顔は、もう中年へと差し掛かっていることを除けば、あのファースト・チルドレンの顔とそっくりだった。もちろん、表情はちゃんとあるし、髪も目も黒いけれど。
彼が娘を溺愛していたのもわかる気がする。
とはいえ、世の娘を持つ父親と言ったら、多かれ少なかれ、みんなそんなものかもしれない。
「お久しぶり。元気にしてる?」
「はい……あの、父は」
急いで来たのはそれが理由だろう。出航までの時間を、少しでも多く父親と過ごすため――それか、もしかしたら、まだ説得をする気なのかもしれない。
「お父さんなら、そこに居るわ」
「え? あ」
彼は砂浜にいた。スラックスのポケットに手を突っ込んだまま、海に大きな影を落とす「月」を見ていた。
「父はまだ、私のことを怒ってる……でしょうか」
「いえ、そうではないと思うわ。ただ、あなたに会う踏ん切りがつかないのよ。きっとね」
不器用だからね。それは言わないで、腕時計を見た。四時。出航の六時半まではまだ時間がある。
「ねえ、ただ待っているのもなんだし、おばさんと少し、話をしない? 大丈夫、話し終わる頃には、きっとお父さんも機嫌を直す。たったひとりの娘ですもの」
彼女はもう一度父親の背中を見つめて、肩をすくめた。
「まずは、おめでとう」
言い忘れていた言葉を言った。
「ありがとうございます。父は、喜んではくれなかったですけど」
「あなたはどうなの?」
それを、訊いてみたかった。
一瞬、表情を失ったようなその顔が、またファースト・チルドレンとだぶった。
「わかりません。最初は、嬉しかったんです。だけど……父に断られて、わからなくなっちゃいました」
私は笑って、その肩に手を置く。華奢な肩。
この繊細な造形は、私にはない。
「自分の思ったようにすればいいのよ」
「でも、父のことがわからないんです。おばさまのことも」
「あら、どうして?」
「だって」
「ストップ」
言わなくてもわかる、というわけではない。納得は出来ない。ただ、全てを、とは言わないまでも、この場で言わんとすることを理解することは出来る。
可哀想に、自分にとっては素晴らしいことを否定されれば、悲しくもなる。
それでも。もう一度、私の口からちゃんと否定してやらないと。
「あの人なりの矜持というものがあるのよ。私だってそう。たとえ仮想世界でも、手に触れるものも、見えるものも、何もかも本物と変わらない。この世界とあの世界の区別は、実用上でも理論上でも付けられない。そのことを理解はしている。『彼女』が優秀であることは、私は誰よりも知っているつもりよ。そして、私よりそれを知っているのは、あなたのお父さん。でも、それでも、ここがいいのよ」
『彼女』という表現はわからなかったかもしれない。まあ、構わない。
大事なことはひとつ。
いくら素晴らしくったって、私たちにとっては、その世界は無意味だ。
幸か不幸か、私たちはこのややこしくて面倒くさい、期限付きの世界を受け入れ、今ではもう愛してしまっている。
どれだけ相手をわかったつもりになっても、最後の最後で裏切られるかもしれない、この世界を。
私の、私には理解しきれない世界。
その面倒さにこだわるのが古い考えだと知ってはいても、そこから離れられはしない。
「あなたと私たちは違うのよ。私とあなたのお父さんだって別の考え方を持っている。少なくとも、ここにいる限りはね」
「信じられません。そんな」
「お父さんにもそう言ったの?」
息を呑む。
「なら怒っても無理はないわ。若い人みたいに柔軟じゃあないのよ」
「すいません」
「よろしい、なら……次は、うまくやれるわね?」
私は彼女の肩越しに海を指差した。軽くネクタイを締めなおしながら歩いてくる老人の姿が見えた。
「はい」
彼女は笑って答える。そう、それでいい。お互いのことがわからなくても、お互いを愛しているなら。
「そう、よかった」
私は手を差し出す。もう皺だらけの手を、ほっそりとした指がつかむ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
と、そうだ。これだけは、私の口から言っておかなくては。
「どうしました?」
手を離さない私に、彼女が首をかしげた。
そうだ、これだけは私が言っておかないと。彼は妙に恰好付けだから、きっとこのことは最後まで言わないつもりなのだ。うやむやにして、それで終えようとしているのだから。
「これだけは忘れないでいてね。あなたのお父さんは、あなたも心のどこかで覚えているかも知れないけれど、あの人類補完計画の夢を断ち切って、この世界を選んだの。そのことだけは、決して忘れないでいてちょうだい。あなたは、あの人の娘なんだから」
きょとんとした顔をしている彼女に、一言付け加える。
「あの大事件に関わりがあるって言うことは、前に少しだけ話したわね? あれは、冗談じゃないの。詳しくは、お父さんに訊くといい」
話過ぎたかもしれない、でも、悪いおばあさんとして地獄へ堕ちることになっても、このことだけは、持っていって貰いたい。
あの繭の中に眠っている『彼女』の、綾波レイの生き写しの胎内へ。
そうして伝えて欲しいのだ。
彼は、やはりこちらを選んだと。あなたとの約束を果たしたと。
フェリーが出港しようとしていた。
もう陽もほとんど落ちて、西の高い空だけに小さく、一筋だけ雲の筋が見えていた。
薄明が訪れる。
乗り込んで、デッキに立つ彼女と、彼の孫や、彼女の夫に、私は遠くから手を振る。その前にいる彼の顔は、こちらを振り向かない。
泣いているのかもしれない。
ああ、そうか。
彼女が少しだけ困った顔をしているのは、きっとそのせいなのだ。
「笑いなさい。あなたを見る、最後の機会なんだから」
「もう死んだようなものだよ」
少しだけ涙声。
「だからこそ。泣き顔の遺影なんかないわ」
「……そうだな」
押し出すと、やっとのことで彼は笑ったようだった。
そして――
ちょうど彼らの姿が小さくなり、見えなくなった頃。
彼は心棒を失った独楽のように、ゆっくりと倒れた。
「私は、どこにいるんだ」
第一声がそれだった。
私は努めて冷静に、「私の考えていることがわかる?」と訊いた。
「いや」
「よろしい、なら、あなたはあの繭の中にはいないってことよ。お帰りなさい。お久しぶりね」
私の声が少しだけ震えているのに気がついたようだった。
彼は首だけを動かした。痛みからか、む、と言って固まる。
「倒れていたのか。どれくらい?」
「ほんの数日というところよ。助けられたわね、お母さんの技術と、経験に」
治療に使われたL.C.L.プラントとシンクロモニターは、私たちが使っていたエントリープラグの技術をそのまま応用したものだ。機械とのシンクロ率とハーモニクス――回復率につながる――には個人差があるが、彼は信じられない数値を叩き出し、幸いにも快方へ向かった。
若い頃の苦労は金を払ってでもしろ、とはよく言ったものだ。
「あの子らは、どうした」
「知らせちゃいないわよ。どうしようもないもの。まさかあの船に電話でもかけて、本当に遺影になりそうです、なんて、言えやしない」
「そりゃあ、そうだ」
ははは、と力なく彼は笑って言った。
「何か食べたいな」
「私の料理で良ければ」
「心配をかけたね。すまない」
「大丈夫よ」
「なに?」
「お礼は、もう考えてあるから」
ベッドの上で、今度こそ頭を抱えて彼は唸った。
いい気味だ。私がどれだけ心配したことか。
「それで、ここかい?」
「そう」
彼がすっかり良くなった後、私たちは弁当を持って遠出をしていた。
「海が見える場所」
条件はそれだけで充分だった。こんな秋の日に、わざわざ海へ向かうものなどそういない。
彼にたっぷり作らせた弁当を食べ、残りを海鳥に振舞い、海とその向こうの「月」を眺めた。
何故だろう、もう不快な気持ちにはならなかった。
あの子らが中にいるせいかな。
「まだ、気持ちが悪い?」
試しに訊いてみる。この気持ちが、共有されているのか。
「いや……そんなことはない。きっと、あれは前兆だったんだろうな、倒れる」
風流心のない男だ。
まったく彼らしい。
私は笑って、言った。
「帰りましょうか」
「もう、いいのか?」
「ええ、もう充分。ああ、寒い、寒い。早く熱い紅茶が飲みたい」
「当然淹れるのは私なんだろうな?」
なかなかよくわかっているじゃあないか。
ここにきて、認識の修正を迫られるかもしれない、と思った。碇の家の人間は鈍感だという認識の。
『あの……おばさまは、父のことを、今はどう思っていらっしゃるんですか?』
出港直前に彼女が訊いたその言葉に、私はこう返したのだ。
『秘密。ゴシップ好きなあの人に教えたくないから。そうねえ、墓場まで持っていくかもしれないわね』
「どうしたんだ?」
ひっ、と、声を上げてしまった。もう歳なのに、心臓が止まったらどうする、馬鹿。
しかしこんな時こそ、そんな驚きは露も外へ漏らさずに返す。
「え? ああ、いや、少しぼうっとしただけよ」
「そうか、ならいいが」
言いながら彼は、律儀にごみを片して、車に放り込んでいる。やっとのことで運転してきた、半自動車だ。運転の自動具合は増えたのに、名前が伴っていないのは変だけれど。
私が妙なことに気を取られて手伝わない間にも、彼は苦笑しながら文句ひとつ言わず荷物を片していく。
……ん?
どうも、奇妙だった。
何かを思い出しそうな予感がする。昔の、まだ、ここまで速くは時間が流れていなかった頃のことを。
そして、その記憶は不意に訪れた。
ああ、そうか。
これはあの時に似ている。
まだ本格的に嫌い合う前の子供の頃、家族のように過ごしていた時分に。家事なんかやらないと、全部彼に押し付けていた、子供っぽい時代に。
そうだ、ああなったきっかけは、確か……
「ねえ」
「え?」
「踊らない?」
「はあ?」
突然のことに、何が何だかわからないという感じで、彼は軽く車のドアに頭をぶっつけた。
「覚えてない? 踊ったじゃない、昔。あの、使徒を倒すために」
「覚えてはいるが……踊れやしないよ。第一、恥ずかしい」
「恥ずかしい? 見てる人もいないっていうのに」
「それでも」
「何、お礼をしてくれるっていうのは、あれは嘘だったのね」
ぴたり、動きが止まる。
「私の勝ちね」
むう、と声を出してうなづく向かいの渋い顔。
「私の負け……だな」
今回は、先を続けはしなかった。もう夕暮れが終わるまでいくらもないし。
それに、負け続けの男にたまには優しくしたって、罰は当たらないだろう。何しろ、彼は私の大事な家族なのだ。
「さあ、こっちよ」
おずおずと彼は手を差し出す。リードする気があるのか? いや、言うまい。無理やり誘ったのだ。
遠くの海に静かに浮かぶ、大きな棺を背にして。
差し出された手を取って、赤く萌える夕焼け中を、ゆるやかに踊る。
難しい、噛み合わない。
彼が私の足を踏む、私も彼の足を踏む。
それでも止めない。
するとその内に段々と楽しくなってくる。
彼に合わせて私が引いて、私に合わせて彼が回る。
気付けば、私は笑い出していた。ははは、と声が聞こえる。下ばかり見ていたので気付かなかったが、彼もまた、笑っていた。
そうして踊り終わった頃には、すっかり汗だく。
急いで帰らないと、これが元に肺炎にでもなって死んだとなったら、死んでも死にきれ……いや、それはそれで、楽しい人生の幕引きかもしれない。
ま、それはともかく。
へろへろになっている彼に、私は一息ついて、それから優しく声をかけた。
「ね? なかなか楽しいでしょう?」
私はそんな風に、思いつきを、さも以前から考えていたかのように繕った。
まあね、という小さな声が返ってきて、辛うじて彼も、にやりと笑う。
そうこなくては、楽しくない。そう思いながら、薄明るい紫に染まった空にもう一度、息を吐いた。
せっかく棺に入るのを先延ばしにしたのだから、楽しまなければ。
私たちは負けたし、日はもう暮れ終わりそうだけれど、それでも真夜中にはまだまだ遠い。
何しろ季節は秋。
秋の夜長はまだ、始まったばかりだ。