陽炎の街の話をしよう。
「『トーキョー』のお話?」
そうだよ、でも、君たちの知っている話とは、少し違う。
知っていることだろう。今となってはもはや伝説としてしか語られない、巨人たちのいたその街の話を。天を目指して地面から吐き出される摩天楼と、それを突き崩し大地を荒々しく犯した火のことも、最後の巨人を封じた地の底へと続く大穴のことも、小さな頃から聞いているはずだ。それこそ、そらんじれるくらいに。
けれども、このことは知っているかい?
今では想像もできないような知を誇ったあの街が、何故呪われた地として封じられたのか。
何故世界を焼き尽くした後で死した人々を生き返らせる程の技を持っていた彼らが、二度と地上に姿を現さなかったのかを。
「知ってるよ。あいつらが悪い事をしたから、封じ込めたんだって」
そう、それもひとつの理由だ。君たちのお父さんやお母さんの、そのまたお父さんやお母さん、何代も前の人々がしたことだ。
けれど、それだけが理由ではないんだ。
陽炎の街には、語られなかったもうひとつの物語がある。
だから今日はその話をしよう。もはや歴史から永遠に消え去った都、第3新東京市の話を、君たちに聞かせてあげよう。
シンジがまぶたを開いて最初に見たのは、窓の向こうの空から差す一条の光線だった。
細く長い光。それは天井都市から通じるグラスファイバーをくぐってジオフロントの中へと届く光だった。その光はシンジに、この地下空間が地上と隔てられていることを教えていた。
まず考えたことは、ここはどこだ、ということだった。
失われたはずの街がよみがえっていることよりも、その疑問の方が先に立つ。
ついさっきまで碇シンジがいたのは、この世の何もかもが失われた場所だった。そこから考えれば、ジオフロントの有無などという小さな異同はほんの些細なことだった。
「ここは……」
「やっと気がついた?」
はっとして身体を起こすと、視界の端から冷たい視線が刺さった。背中の真ん中辺りがそわそわするような、冷え冷えとした視線。シンジは軽く身震いしてから、声のする方に首を回す。
そこには、見覚えのある、ひとりの女の子がいた。
目をしばたたいても消えはしない。
そこにいたのは紛れも無くアスカだった。
けれども、その視線は彼の最後に見た姿と違って、二つだった。包帯は巻かれていない。
シンジは思わず訊いた。
「アスカ?」
アスカであるらしい女の子はその言葉には反応せず、育ちの悪い鉢植えでも見るような視線で彼を見つめるままだった。
シンジの顔をしばらくしげしげと眺めた後に、彼女は呟いた。
「お目覚めみたいね」
ようやく、か。嫌味にそう続けてから、手元のカルテらしきものへさらさらと筆を走らせた後、枕もとのボタンを押す。
「もしもあんたがシンジなら、そうなるわね」
それが先程の質問への答えだと理解するまでには、しばらく時間がかかった。
そして、答えが返ってきたのだと気付くと、シンジはさらに疑問をぶつける。
「でも……身体が」
「あたしが五体満足だと、何か問題が?」
肩もすくめず冷たく突き放す言葉が、喉まで出かかったシンジの言葉を押し留める。アスカは相変わらず無感動なようすで、彼の質問など想定内だと言いたげな身振りだった。
シンジは最後まで言えなかった言葉の代わりに別の質問をすることにした。
「僕はどれくらい寝てたの」
「さぁ? あんたが何時から眠ってたかなんて、想像もつかないわ。一年……下手したら、百年かも」
そう言って、少し思案する。
「ただ、この場所が発生してからなら、わからないではない」
「この場所?」
「そう、誰かさんのおかげであれが起こって、それが終了した後……この煉獄ができてから、今までに経った時間よ。アンタは三ヶ月ほど寝てたわ。残念ね。いいところを見逃して」
「三ヶ、月」
アスカの謎めいた言葉以上に、突きつけられた時間に実感がわかなかった。
赤い海の畔で、嫌気が差して、眠気に身を任せ、気がついたらここにいた。
それは意識の内では本当に一瞬のことだったのに。以前に初号機に取り込まれたあの一ヶ月のこと、その後に感じた取り残されたような気持ちを思い出して、シンジは身震いした。
そこで、やっと思い至った。
初号機。
そうだ。あのひとはどうなったのだ、とシンジは思った。
母さん。
彼女は彼から離れて、どこかへ行ってしまった。
ここではない、どこかへ。
どこか? ならば、こことは、どこだ?
その疑問をきっかけに、麻痺していた自分を囲む世界への疑問がかさぶたをはがしたように再び染み出してくる。
これはどういうことだ。ここは、何だ。
自分はあの赤い海にいたはずなのに、今はこうして建物の中にいる。崩れていない、病室の中に。
この世界は、どうなっている?
「世の中がどうなったかって?」
まるでメモを読んでいるようにアスカは話した。話し始めた後に、ちらりと腕時計を見る。
「五分、か。ふん、まあまあね。あんたのことだから、ひょっとしたら、他の人間のことなんか気にもしないんじゃないかと思ってたけど」一呼吸おいて視線を上げ、続ける。「ひとまず、あたしのバイタルチェックはここまでよ。とりあえずは精密検査に回ることになるわ。リツコがあんたの体を調べたがってるから、事情はたっぷり可愛がられながらそこでゆっくり聞けばいいわ」
何かを耐えるように事務的な口調で、アスカは早口で言い捨てた。
言い終わるかどうかという内に立ち上がる。
「あの」
「もう何も言うな」
既にドアの前にいたアスカは背を向けたまま、静かに言った。肩の線も背中の線も、弓にはられたの弦のようにこわばっているのがわかる。今にも鋭い矢を飛ばして打ち抜こうというような鋭さだった。
「それ以上あんたの声聞いてると、何するか、わかんないから」
言い切った声に返す言葉もなく、シンジはただ黙って、ドアがきっぱりとした音を立てて閉まるまでその背中を見つめ続けた。
アスカが行ってしまうと、ぼす、と頭を枕に預けて、シンジは天井を見上げた。
「よく知ってる」
ひとり呟く。しかし、それこそが奇妙だった。
投げ捨てられたままの疑問。彼の記憶との相違。
シンジの記憶によれば、ジオフロントも、この病棟も、もはや存在しないはずだった。
あの時よりも前に、全ては崩れ去ったはずだった。他ならぬ彼の手によって。周囲は全て光に変えて吹き飛ばしたはずだ。
だがそれにも拘わらず、アスカはああして見る限り健康で、崩れたはずのジオフロントの天井も残っている。
どうして?
すぐにある可能性に思い当たる。あの悪夢のような出来事は、形容そのままに、夢なのか。
しかし。「誰かさんのおかげであれが起こって」アスカは確かにそう言った。その後の彼女の態度を見る限り、あれが夢であるとは考えにくい。
それなら考えられることはひとつ。あの事件は、確かに起こったのだ。
まったくわけがわからない、いったいどうなっているんだ。そんな風に、事態の中心にいたにしては月並みなことを考えながらシンジは横になり――そのまま固まった。
窓の外にそれはいた。
窓の外、ジオフロントの中心部には、食い殺されたはずの弐号機と、それを囲んで、あの白いエヴァンゲリオンが立ちすくんでいた。それらはジオフロントを何かから守るように、外を向いて円く並び、世界を支える塔のように屹立していた。
「白い……やつ」
呟きは、開いたドアの音に掻き消された。
「シンジ君、久しぶりね」
「おはよう、シンちゃん。気分はいかが?」
聞き覚えのある、艶のある声と、それよりもっと懐かしい明るい声が、そこにいた。
「リツコさん……ミサトさん!」
「あら? どうしたの? 嫌な夢でも見た?」
「え……」
そう言って駆け寄り、自分の頬から目元を拭うミサトの仕草で、シンジは自分が泣いていることに気付かされた。
ミサトは困ったような笑い顔をして首をかしげる。長い黒髪が小さく揺れる。
「もう! 泣かないでよ。男の子でしょう! そんなんだと私まで、湿っぽく、なっち、ゃ……」
くぐもったようなその声を聞き、健康状態を再度チェックしていたリツコが苦笑した。
「そんな顔で言っても説得力がないわよ、ミサト。……シンジ君」
「あ、は、はい」
「検査の準備ができたら迎えに来るわ、それまでミサトのこと、お願いね」
大泣きするミサトと抱きつかれるがままのシンジに、リツコは苦笑し続けたままだ。
そして、かすかに笑いながら出て行くリツコを見送った後は、永遠に顔を上げそうにないようにも見える美しい黒髪を、どうしたものかと思案する事になった。
しかしシンジは、涙を止める一言を持っていた。
記憶。
彼の頭に残っている彼女は、今彼の腹に頭を埋めている彼女とは全く違っていた。
頬に触れる手。血がべったりと張り付く感触。手渡されるペンダント。血の味のするキス。
そして突き飛ばされる。
最後に見たのは、脇腹を押さえて微笑む、柔らかい表情。
感慨を込めて呟く。
「……無事、だったんですね」
劇的だった。
その言葉を放った途端にミサトは泣き止んで、それから、泣き笑いのような顔を作って答えた。
あのケイジとは異なった、能面のような作り笑顔。
「ええ。残念ながらね」
どうして彼女がそう言ったかって?
いやいや、理由はあるんだ。
けれども君たちがそれを理解するには、もう少し前の物語を聞かなければいけない。
聞きたいかな?
「んー? よくわかんない」
そうかい。君は?
「なに言ってんのよ! 聞きたい! なんで、なんで?」
よろしい。なら、彼が目覚める前、彼女が目覚めた時の話をしてあげよう。
すべてが始まりそして終わったあの一月の、あの街の始まりと終わりの話を。
死んだはずだった。
少なくとも意識が途切れる直前、リツコは自分自身についてそう思っていた。だから正確には「死ぬはず」だった。目を閉じて思い出せるのは最後に感じたもの、彼の口の動き、銃声、そして、胸を熱くする銃弾だった。
それをもう一度思い出すために、目を閉じた。
目を閉じることができた。
死人に目を閉じることができるはずはなかった。死人の目は開いたままか閉じたまま、どちらにしろ、独力ではぴくりとも動かないはずだ。
ならばつまり、彼女は、赤木リツコは確かに生きていた。
それに気付くと、どこか遠くへ逃げていた感覚が戻ってきた。身体を支える浮力、髪を洗うL.C.L.の感触、その温み。感覚はみるみる内に細部まで甦り、リツコはついに自分がL.C.L.の中に沈んでいるのだと気付いた。
力を抜くと、すう、と身体は浮かび上がり、顔が水面に出た。肺の中に満ちていた生臭い水を吐き出すと、その場所は最後に自分がいたドグマの中だった。
「どうして」
思わず口をついて言葉が出た。どうして助かったのか?
答えを与えてくれる者は誰もいなかった。
リツコは泳いで岸へと辿り着き、床へと這い上がった。水浸しの床には、彼の姿はなかった。
「どうして……」
もう一度、呟いた。
しかし、今度は言葉が返ってきた。
「リツコ!」
聞き覚えのある声を聞き振り返ると、そこには、息せき切らせて走ってくる葛城ミサトがいた。破れた上着から腹を覗かせて、そんなことは気にせず走ってくる。
「ミサト?」
リツコのすぐ近くまで走りきって、やっとミサトは走るのを止めた。肩を上下させて歩いてくる姿は、訓練されたアスリートのようだった。いや、現実に彼女はアスリートなのだ。数ヶ月に渡る不健康な生活から生じた内臓の異常がなければ、ミサトが恐ろしいパフォーマンスを発揮しうる体力を持っていることをリツコはよく知っていた。
「やっと、見つけた」
ようやく辿り着いてそれだけ言うと、ミサトは首を上げ、ふう、と大きく深呼吸をした。腹部の破れ目がますます目立つ。
しかしそこでリツコは、おや、と首を傾げた。
破れ目から覗いたミサトの腹には、彼女が知っている傷跡がなかった。確かにあったはずの傷跡は、まるでそもそもそんなものは存在しなかったかのようにすっかり消え失せていた。
その時リツコの頭の中にひとつの可能性が浮かんだ。
ひょっとしてこれは、夢ではないのか。
これは銃で撃たれたその瞬間に、頭に巡った走馬灯なのではないか。死に瀕してクロックアップされている脳が、死の一瞬を引延ばしつづけているのではないのか――
そう思って、リツコは静かに問いかけた。
「ねえ、ミサト、どうして……」
その後を続けたのは、ミサトだった。
「どうして、私は生きてるの? 死んだはずだったのに、何? これは……夢なの?」
内容から何から、リツコが言わんとしていたこととまったく同じだった。
少々面食らいながらもリツコは言い返す。
「私こそ訊きたいわ。それに、ミサト。あなた、どうしてここに?」
「決まってるじゃない」
ミサトは言い切った。
「あなたを探しに来たのよ。この意味不明な状況に、説明をつけてもらうためにね」
「リッちゃん……なのね?」
「リッちゃん」リツコのことをそう呼ぶ人間は数限られ、今となってはすべて死に絶えたはずだった。旧知の知り合いであるあの男も、そしてそれよりずっと前に、母であるあのひとも。
けれども、その認識が今、目の前で覆され続けている。戻ってきた発令所、メインコンソールの、まさにその前で。
「かあ、さん……なの?」
それは、記憶の中にあるそのままの母親の姿だった。金髪に染めなければ自分にも受け継がれていることがわかるはずの赤みがかったくせっ毛も、少し濃いルージュも、すべてあの日のままだ。
「どうして……」
これでもう三回目だった。
「ご説明、します」
そこに横から口を挟んだのは、日向だった。振り向くと、黒縁の眼鏡の下に困惑と恐怖の表情があるのが見てとれた。
「僕たちが意識を取り戻した時に、カスパーの上に人が倒れていることに気付いたんです。最初はネルフ職員を装った戦自のゲリラ兵かとも思ったんですが、赤木博士だと、名乗られたもので」
「いったいどうなっているの?」
それに答えたのは、日向よりもさらに遠くでモニターを眺める青葉である。
「不明です。現在のところ、本部への侵攻が開始されてから戦死したはずの人員と、ゲヒルン創設以降に本部内で、事故その他によって死亡したはずの人員の一部について、……その、『復活』としか言いようがない現象が発生しています」
「復活? そんな馬鹿なことが!」
リツコは半ば呆れながら答えたが、隣にいたミサトの声は真剣そのものだった。
「事実よ、受け入れて」
そのまま前に歩き進み、母親の、赤木ナオコの手を取って、リツコに触れさせた。
「ほら、ね」
その手は確かに温かかった。くすぐったそうにする母親の顔も、決して作り物ではなかった。
「夢じゃない。これは事実よ。死んだはずの私たちは五体満足で生き返り、セカンドインパクト以降に死んだ人間も復活している。傷まで、なくなってる。それも、私たちだけじゃない――マヤちゃん、モニターに出して」
「はい」
つい先程、発令所に現れたリツコに一番にすがりつき皆の力でようやく引き剥がされたマヤが、椅子に固定されたままで答えた。
モニターの表示が切り替わる。
そこに映し出されたのは、無数の戦車と数体のエヴァンゲリオンだった。戦車の周りには、武装した人影もちらほらと見える。
「これは」
「私たちだけじゃないっていうのは、こういうこと。進攻してきた戦略自衛隊の人員も、生き返ってる」
「どうやらジオフロントの中心に近いほど『復活』は早かったみたいで、今度はベークライトによるシールドが間に合いました……が、『前回』を考えると突破は時間の問題です。一回やられた人間もいますから、おっかないどころの騒ぎじゃないですよ、本当」
「あいつら、相手が非戦闘員でも容赦なく発砲してきますから」
ようやく、リツコは自分の置かれた状況を理解し始めていた。ミサトに目配せをする。どうやら、母親との突然の再会を喜ぶのも、いぶかしむのも、もう少し後になりそうだった。
「――よし、動くわよ。碇司令、冬月副司令共に不在のため、一時的に私が指揮を執ります。状況を、赤木博士」
ミサトの掛け声に答え、リツコは端末にログインした。
「アスカとシンジ君は?」
きびきびとした声に、水を打ったようにマヤが反応する。
「はい! アスカは弐号機エントリープラグ内。無事です」
日向が本部全体の状況確認を行いつつ、これに続く。
「しかしアンビリカルケーブルは断線、生命維持モードに入っています。L.C.L.内エネルギー状態も異常、単独での起動は不可能です」
一呼吸遅れて、ジオフロント全体の状況を確認していた青葉が叫ぶ。
「初号機はロスト! ジオフロント内外含めて反応が見当たりません。シンジ君の行方は不明です!」
そして状況は動き出した。本来は使徒からの攻撃に対しての防衛用であった機構を作動させる操作を繰り返し、ベークライトから何からを駆使して通路を外界から絶縁しながら、リツコは少し離れた所に立っているはずの母親を見た。
しかしそこに人影はなかった。
「ここよ」
気付けば、ナオコは既にリツコの隣の席に腰掛け、ログインを始めようとしていた。
「母さん」
「私のIDは残してある?」
「ええ、だけど」
「私がいた時と基本構造は変わっていないんでしょう? なら、ドグマ周辺部に、エヴァを製造する時に設計した拘束用の機構が残ってるはずよ。あの場所はエヴァ用の間取りだから、通路になる。塞いでおくわ」
自らがミサトに見せた、エヴァの墓場のことを思い出す。そうだ。その場所は長大な通路になっていた。
「え、ええ……ねえ、母さん」
「何?」
ナオコは眼前の状況に怯えるさまなど微塵も見せず、何でもないように笑った。それもそのはずだ。彼女こそが、全ての設計者、赤木リツコの母にして、ネルフ本部の、いや、ゲヒルンの母だった。
「いえ。よろしくね。少なくとも、これがどういうことなのかわかるまで」
言うと、ナオコは声を上げて笑った。
「少し見ない間に、一端のマッド・サイエンティストになっちゃったわね、リッちゃんも」
「……急逝した母親のおかげよ」
そう言うと、一瞬、ナオコは真顔になり、そして、また笑う。
「違いないわね」
そして二人の科学者は、実存の問題もそこそこに、生存の問題に没頭することになった。
彼女らは追い詰められていた。それも、完膚なきまでに。
葛城ミサトが総司令碇ゲンドウ、副指令冬月コウゾウが行方不明の状況の中指揮を執り始めてから、既に四日余りが経過していた。
当初の妨害が効を奏し本部の即時陥落だけは辛うじて防げたものの、エヴァが使用できない以上圧倒的である彼我の実力差を考えればこちらから打って出るわけにもいかず、防戦一方だった。しかも、篭城に欠かせない物資の予備もほとんどなかった。
そうであれば、いつかは物資が底をつき、彼女らは負けるはずだった。
そのはずだったのだが。
「今日で、四日……どうなってるの、この状況」
「ベークライトの処理に予想以上の時間がかかっているのかしら……外部のモニターができなくなっている今となっては、予想ができないけど」
外部からの強力なジャミングによって、既にモニターは死んでいた。
「でも、それにしてももう四日よ?」
「向こうも、戸惑っているのかもしれない」
「何に?」
「……ねえ、ミサト、最後に食事を取ったのはいつ?」
返された質問の意味をミサトは量りかねたが、しばらくして、目の前にいるリツコが自分と同じ疑問を持っていることに気付いた。それはミサトが「復活」を果たしてから――自分の身体に深く刻まれていた傷が嘘のように消えてからずっと感じ続けていた違和感だった。
「場所を変えましょうか」
「ええ。あなたと、私と。後は母さんも」
「ナオコ博士も?」
ミサトが振り返り、リツコはうなづく。
「そうよ。多分あなたも私と同じことに気付いてると思うんだけど、案外、全部つながってるような気がするのよ。今のこの状態も、『復活』も」
そう言って席を立ち、リツコは既に歩き始めていたミサトの後に続いて歩き出した。
ブリーフィングルームには三人。赤木リツコ、赤木ナオコ、葛城ミサト。現在のネルフの指揮を執る三人だ。
「あなたが席を外してしまって、発令所の方は、大丈夫なの?」
ナオコの質問を受け、ミサトは諦め混じりに首を振った。
「構いません。どうせこの状況で、新たに出せる命令なんかない。対人邀撃用の武器はほとんどないので抵抗はするだけ無駄ではありますが、以前の戦闘の経過を聞く限り、抵抗せずに投降したとしても向こうさんが私達を素直に捕虜にしてくれるとも思えない。……だからって自決の命令を出すってわけにもいきませんから。各自の判断に任せるしかないんです。指揮官、失格ですけど」
肩をすくめ、自嘲的に笑う。しかしそうは言うものの、ミサトはそれほど感傷的ではなかった。あれほど子供を戦いの駒として使うことに心を痛めていた彼女が、である。
リツコにはその理由の見当がついていた。彼女がずっと漏らしていた違和感が、その理由だろう。
ミサトはリツコを促した。
「それより。何か、わかったんでしょう?」
「ただの推測だけどね。さっきも訊いたけど、ミサト、最後に食事を取ったのはいつ?」
「二日前ね」
正確には、現時点で最後に食事を取ってから三十八時間が経過していた。硬化ベークライトの充填を優先したせいで、開封できるレーションはほんの少ししかなかったから、既に食料は尽きていた。
「空腹?」
しばらく考えるように腹をさすってから、ミサトは答えた。
「いいえ。緊張のせい……にしては、おかしな感じがするわね、さすがに」
「母さんは?」
水を向けられて、ナオコもまた、腹の具合を探りながら答えた。
「そうね、私も空腹感は感じないわ。まあ、私の場合、生きているか死んでいるかも確定できないけどね」
そう答えると、腕組みをして考え込んだ。
「リッちゃん。何か、わかったの?」
リツコは直接は、その質問に答えなかった。ただ、一言、こう返した。
「実は、ベークライトによる絶縁のすぐ後から、空調も動かしていないの。未知のBC兵器を使われる可能性もあったから、この場所を隔離する必要があった、だから」
「ちょっと待って」と、泡を食ったような顔で遮ったのはナオコだった。「空調ラインは生かしておいたんじゃ?」
「え?」
「ほら、プリブノーボックス部分から地底湖経由で通ってる、あの」
「ああ」
リツコはうなづき、素早くコンソールを操作して、該当部分を示した。
「母さんは知らなかったわね。使徒の浸入があったせいで、あの部分の機構は一部、仕様が変更されているのよ。同種の使徒の再発生を恐れて、空調機構はオミット済み」
リツコが解説すると、ナオコは今度こそ怪訝な表情になった。
「そんな。これだけの人間がガス交換をして、有機コンピュータも起動させているのに」
「そうね。酸欠状態になってもおかしくないはず」
その言葉の裏には、省略された条件があった。
私達が、正常な生命活動を行っていれば。
省略された言葉を頭の中で正確に補い、ナオコはさらに問いかけた。
「どういうこと? やっぱり、私達はもう死んでいるということ?」
うなづけなくはない言葉だった。現に三人ともが、自らが一度死んだという認識を持っていた。特にナオコなどは、どういう言い逃れもできないくらい完璧に、数年に渡って死に続けていた。
彼女の骨を拾ったリツコには、そのことはよくわかっていた。
けれども、リツコの頭にはもうひとつの仮説があった。
それは、ミサトが感じ、幾度かリツコに漏らした違和感のせいだった。
ミサトはここ数日、こう言い続けていた。
私の身体が、私のものでないような気がする、と。
最初はこの不可思議な現象によるショックで起こった症状ではないかと疑った。けれども状況は、別の可能性につながる道をも示唆していた。
「いいえ。これは、きっと――」
大音響が響いた。ドアがひしゃげる音、そして、連続する短い音。
ミサトは舌打ちして小さく叫んだ。
「畜生、突破されたわ! 伏せて!」
リツコは素直に従った。もはやここまでくれば、逃げ惑っても仕方がない。
それに、彼女が考えた可能性が正しければ、きっと、別の叫び声が聞こえるはずだった。
案の上だった。
最初数秒間、耳に入ってくるのは、連続する短い発射音と、それに合わせた二度目の断末魔の叫び声だけだった。
しかし……それも数秒経つと止み、奇妙な沈黙が辺りを包んだ。
そして――
「うわああああああああぁ!!」
「ひいい!」
痛みと衝撃による断末魔の声とは異なった、ただ純粋な恐怖によって生じた叫び声が、辺りに響き始めた。
「……それで?」
どうなったと思う? 扉の向こうには、鉄火を携えた戦士がたくさんいた。対する彼らにはほとんど何もない。数日何も食べていない上に、ろくに寝てもいなかった。
「そんなの……勝てっこないじゃないか」
そうだね。もちろん、彼らは勝てなかった。
ん? どうしたね?
「じゃあ、みんな、死んじゃったの?」
そう、それが問題だ。彼らは勝てなかった。なら、どうなったのか?
聞きたいかな?
「え……」
気が乗らないかい?
「……わたしは、聞きたい」
ようし、では話してあげよう。いいかな、もう、後戻りはできない。ここにいる者はみな秘密の道連れだ。なりたくない者は、今ならまだ遅くない、ここから離れて、話の声の届かないところに行くがいい。
……よろしい。
ならば、聞かせよう。ここからはしばらく長い道になるが、覚悟して欲しい。だが、聞く価値は充分にある。彼らがどうなったのか。それを知ったとき――君達はあの街が封じられた、いや、彼らが自らあの街を永遠に封じた、その理由を知るだろう。
「これ……は……」
発令所の隅から顔を出したミサトの目の前に現れた状況は、常軌を逸していた。
頭と胴体が生き別れた死体があった。
胸を撃ち抜かれた死体があった。
だが葛城ミサトは人が死んでいることに驚いたわけではなかった。彼女が驚いたのは、全く逆のことにだ。
死体であるはずの同僚や、部下達は、それでも死んでいなかった。
ずるり。
腕が吹き飛んでいた日向の肩から腕が生えた。
にゅる。
胴体と生き別れになったマヤの首が浮かび、胴体と再会してつながった。
ぬぬぐ。
大きく抉れた青葉の腹も、すぐさま肉が盛り上がって傷をふさいだ。
そのときミサトは、人間の頭が壊れる音を聞いた気がした。
「ひいっ!?」
自分の目の前にいる化け物たちの姿にへなへなとへたり込む戦自隊員の傍らで、彼らは一様に叫びを上げ自らの身体の変化に驚愕していた。
「……当たって欲しくは、なかったんだけど」
リツコは呆然とした顔でつぶやいていた。
「リツコ?」
阿鼻叫喚のさまをただ眺めているだけしかできないミサトから離れ、リツコはゆっくりと発令所に向かって歩き出した。もはや大方の兵士は戦意を喪失し、錯乱した何人かだけが、復活し続ける職員を何度も何度も撃ち続けていた。
数発の流れ弾を身体に受けながらも、リツコはそんなものはなんでもないかのように歩いた。ずぶずぶと肉が盛り上がり傷が塞がったが、それに驚くこともなかった。
そして彼女は流れ弾の中をメインコンソールに辿り着いた。泣き叫ぶマヤを座席から抱き下ろし、隣でがたがた震えながら自らの肩を見つめ続ける日向と、頭を抱えてうずくまっている青葉に言う。
「パターンは?」
「……え?」
「……ああ?」
二人は顔を上げてぽかんと口を開けていたが、やがてリツコの発言の意味するところを悟り――震える指先で、キーボードを叩き始めた。
リツコの発言の意図を、二人は理解してしまっていた。
観測範囲は、この発令所。対象は、その中にいる、無数の群体――即ち、彼ら。
二人はほぼ同時に答えを出した。そして指と同じに震える声で、二人がかりでやっと、その言葉を口にした。
「パターン――」
「――青」
予想通りといった風に、リツコは小さく微笑んだ。
「そう、やっぱりね」
リツコは立ち上がり、ジオフロント内部の放送に使うチャンネルを選択してマイクを持った。
小さな呻りの後に、スピーカーから平静な調子の声が響いた。
「現状を説明します。ネルフ職員、そして戦略自衛隊員の皆さん、聞いて下さい」
発令所内で呆然としている職員が顔を上げ、戦意を失った戦略自衛隊の隊員もまた、立ち上がったその白衣姿の女性に注目した。
それを確認すると、リツコは目下に広がる血の海に向かって言った。
「ネルフ本部にて特殊な感染症が発生している可能性があります。速やかに対処しなければ、人類はその存亡に関わる重大な危機に陥る虞れがあります。これは訓練等ではありません。これは後ほど司令代行より正式に要請しますが、戦略自衛隊員の皆さんに、戦闘行為の即時中止と、本部三百メートル圏内に待機している隊員の本部内への移動を要請します。ネルフ職員は彼らの移動が確認された後、直ちに本施設を再度外部から隔離する措置に入って下さい。マニュアルは『本部内での疫病発生時の操作手順』に従い、第四安全基準にできるだけ近づけること。汚染想定範囲は最小でネルフ本部全施設、最大でジオフロント全施設です。本部をジオフロントより隔離した後、随時ジオフロント自体の隔離措置に入ること。以上」
「どういうこと!?」
リツコの演説の間に駆け上ってきたミサトが問い質した。淡々と話し続ける言葉には恐るべき内容が含まれていたからだ。感染症? 人類の存亡? 違和感を感じてはいたが、そこまで飛躍されるともはや意味がわからなかった。
この空間に満ち溢れる、死と再生。
これが、感染症だというのか?
リツコは振り返った。すとんとマイクを手渡す。
「後はよろしくお願いね、司令代行。謎解きは……彼らの司令官も合わせてやりましょう。まずは、彼らと話をつけて」
そう言ってリツコはミサトの肩を叩き、ふらふらとおぼつかない足取りでその場を後にした。
残されたミサトは、マイクを一瞥し、それから、ひたすら銃を撃ち続け、決して死なない職員をそれでも殺そうとし続けている何人かの兵士の顔を見た。もはや止める者もなく、ただ空しく兆弾の音が響いていた。
「まだ仕事が残ってるだけ、ありがたいか」
小さく笑って気力を振り絞り、ミサトは大声を上げた。
「戦略自衛隊の司令官へ! 私は現在の司令代行、葛城ミサト三佐です! 先程の放送は嘘ではない! 説明を兼ね会談したいので、至急、本部内へご足労願いたい。失礼ながら先程述べた理由により、こちらは外部へは出られない! そちらが必要と判断されるなら、防疫服を着用しても構わない。繰り返す。先程の放送は嘘ではない! 貴官が……貴官の仕事が、日本国民を守ることなら、是非、会談に応じていただきたい!」
ミサトは確信を込めて、そう言った。
疑念はなかった。これまで脳に硬質な論理を詰めたあの女が断定したことの中に間違いなど、一度だってなかったのだから。
一時間後、ネルフ内部ブリーフィングルームに両軍の将官が集められた。
片側にはネルフの職員が、そしてもう片側には戦略自衛隊の隊員が腰を下ろしていた。ネルフ側にはもちろん、戦略自衛隊側にも、防護服をつけている者はなかった。
睨みあいはなかった。その代わり、参加している人々の顔には一様に疲れと恐怖の色があった。
一人一人の顔を確認した後、リツコはおもむろにモニタの電源を入れた。
本部施設よりは幾分旧式のモニタが、やや時間をかけて像を結ぶ。
モニタには、ネルフ職員、特にオペレーターにとっては見慣れたパターンが姿を現していた。
パターン青。
それは、ネルフにおける生体の識別パターンの一つである。イエロー、セピア等の色として識別され、その内で「青」が示すのは――
「このパターンは、対象が『使徒』……私達ネルフが対象としてきた敵性体の仲間であるということを示しています」
「それが……どうしたんだ? 君らは、全て殲滅したんじゃなかったのか」
戦略自衛隊側の司令官が訊く。彼らは、そのパターンの出所がどこかを知らなかった。
「ええ、そのはずでした」
「でした?」
「はい。今までは。これは……私達に既に感染が確認されている病原体……そして、ベクターとして機能したそれによって書き換えられた私達の遺伝子のパターンです。人類の遺伝子を組み替え、使徒に近いものへと変化させる……それがこの感染症の主症状です」
ざわめきが起こる。
リツコは構わずに続けた。
「その副症状は、栄養の自給自足による飲食とガス交換の不要化、細胞の自己修復機能の驚異的増加による寿命の半永久的増加、そして稔性の極端な低下です。不死と不稔――寿命がなくなり、子供ができなくなれば、人類という種は根本的に変化せざるをえなくなるでしょう。ですから、ああして施設の隔離を行った――結果としては、失敗に終わりましたが」
ざわめきが止まる。
「失敗、したの?」
静まりかえる部屋の中で、言葉を失った戦自司令官の代わりに後を続けたのはミサトだった。
「ええ。ついさっき確認したら、ネルフ本部外にパターン青と判別される生物が確認された。放送以前、既に逃げ出していたネルフの職員が数名、それを追っていた戦自隊員が数名、本部外に確認されたわ。全体に蔓延するのは時間の問題ね。現状、辛うじてジオフロントの気密だけは確保しているわ。ここは元々独立したバイオスフィアとして機能するように設計されているから……そうよね? 母さん」
水を向けられたナオコが手元の端末を見つめながらうなづいた。
「このジオフロントは、元々シェルターとして外界から独立しても機能するように設計されています。現在既に本来のキャパシティはオーバーしていますが、この点では汚染されていることがむしろ有利に働いていて、私達の体細胞内で活動しているS2機関によって資源面での心配は無用になっています」
ナオコが手元で操るタッチパネルの動きに合わせて、ジオフロントがバイオスフィアとして機能したときの状態変化のグラフ表示が切り替わっていった。ガス交換の効率と食品の効率は無限大へ、人口は水平へ、増加率はゼロへ、それぞれ近づいていく。
「皆さん」
リツコは机に手を突き、ミサトと、戦自司令官の顔をそれぞれ一瞥した。そして部屋に集まる将官たちの顔をぐるりと見回し、小さく言った。もう誰も何も喋らない部屋の中では、小さい声もよく響いた。
「残念ながら、小型ながらS2機関を持った上で人から人への空気感染までも行う、この病原体に勝つ手段を、現在私達は保持していません。いえ、はっきり言いますと、将来に渡って不可能である公算が高い……」
それ以上、言葉を続けることができなかった。
しばらくして、戦自司令官が再び口を開いた。リツコやミサトより十五は年上の男が、今は小さく震えていた。
「葛城……さん、でしたね」
「はい」
「あなたは、上の状況をご存知ですか」
ミサトは目を見開く。ジャミングがかけられて以来、ジオフロント外部の状況は全くわからなくなっていたからだ。
「いえ。どうなっているんです、上は」
「失礼ながら、あなた方の観測機器を使用させて貰った。こちら側はまだ天井がない内に入ってきたので」
その言葉を末席に座るネルフ職員があげつらった。
「自分達が吹っ飛ばしといてよく言うよ」
「何を」
「本当のことじゃないか、馬鹿の一つ覚えみたいにバカスカ爆弾落としやがって」
「貴ッ……様!」
「まあ、待て」
危うく喧嘩になりそうな状況を、冷静な声が制する。
「そうです。確かに我々が、あの天井を吹き飛ばした。しかし、気がつくと、我々はあの天井の下にいた……あなた方の紫のエヴァンゲリオンに吹き飛ばされた者も一緒に」
彼はそこまで言って目を閉じ、深く息を吸いこんだ。
「外では」ためらいながら、続けた。「我々と同じように『復活』が起こり始めているようです、次々に。赤木さん」
「はい」
「そんな状況で、この細菌が外に漏れたら」
「間違いなく、世界的な大流行――パンデミックが起こるでしょう。前世紀前半のスペイン風邪のパンデミックでは、感染者六億人、死者は多く見積もって五千万人だと言われています。……そして、これは重要なことですが、もし地上で復活している死者が、セカンドインパクト以降のそれなのだとすれば……パンデミック・リスクは比べ物になりません」
ネルフ側の職員は声を上げてナオコを見た。そして視線を向けられたナオコもまた、目を見開いてリツコを見ていた。
その時、遅まきながらナオコの頭に、この状況を説明するひとつの仮説が像を結び始めていた。
多少の奇跡を大目に見たとしても不自然に思える「セカンドインパクト以降」の死者の復活は何を意味しているのか。そのことは、彼女が一番真剣に考えてきた。何しろそれは確かに自分の身に起こっていたことなのだ。
説明された状況から考えれば、こんな状況が発生するのはおかしいように思えた。例えリリスの持つフィールドの力である種の状態回復が行われるとしても、それはあくまでも状態回復――良くてもサードインパクト時の人的状況の回復であるはずだ。
溶けた以上の人間をL.C.L.の海から取り出すことなどできはしない。――S2機関がなければ。
そうだ。南極から持ち帰ったサンプルのS2機関はセカンドインパクトによって既に失われていたし、人類の始祖であったリリスはそもそもS2機関を選ばなかった生命だった。
そして、リリスのコピーでありながら使徒を介してS2機関を獲得していたという初号機は、彼女の同僚、ユイと共に星の海の彼方へと消えた。
にも拘わらず、復活しているのはセカンドインパクト以来の死者……そして、このジオフロントの復活は、この現象全体のなかでも特異なものだという。
そしてさらに特異な、この病原体――いや、違う。使徒だ。これは紛れもなく使徒なのだ。物理法則を曲げるS2機関を持つ、あの失われたジオフロントの一族なのだ。
まさか――
「リッちゃん、まさかこれは……」
「母さん」
呆然としながら言いかけたナオコの言葉を、リツコが制した。そして素早く視線を相手方の司令官に戻し、彼がナオコの言葉に関心を向けない内に言葉を続ける。
「人口密度が違いすぎますから。それに加えて、この感染症は死者が発生しないうえに、精密検査や細かい問診を行わない限り見分けることも難しい。つまり」
「止められない?」
「そうです。止められるわけがない。この病原体を野に放たないためには、私達をこの場所に隔離し続けるしかない……そういうことです」
崩れ落ちる面々を他所に、視線を合わせた科学者達だけは、別の可能性に崩れ落ちていた。
失意のままなし崩し的に結ばれた停戦協定と、司令権の一部移譲の約定書だけが机の上に残った部屋に、いまだ三人、残っていた。
ひとりは、赤木リツコ。
ひとりは、葛城ミサト。
ひとりは、赤木ナオコ。
ネルフで一番真実に近い三人は今、ついに真実へと至ろうとしていた。
「もう、行った?」
「ええ。一部で復活している一般人の確保と……ここから出ようとする人間に対しての無条件発砲を含めた、ゲートの重点警備……それで、いいのよね?」
「ええ」
「外から攻められたらどうしようもないけどね。ここごと消し飛ばしてくれれば、ましなんだけど……白いエヴァンゲリオンの中にあるS2機関は、暴走させられないの? ほら、第二支部みたいに……」
協定の前に得た情報を元にミサトが指摘したが、リツコがただ首を横に振った。
「恐らく、駄目よ。でも、外部の攻撃にはきっと対処してくれる……あれが」
「どういうこと?」
「それは……母さん。もう、わかっているわよね?」
「赤木博士?」
ミサトは背後を振り返る。そこには会議を通して一度しか立ち上がらず、後は同じ体制のまま椅子に座っていたナオコが、変わらず腰かけていた。
「あれが、全ての元凶……そういうことね?」
「ええ」
そして、リツコは語り始めた。
「私にも、さっき今やっと仮説が見えた。全ての状況は、あの白いエヴァンゲリオン……いえ、あのエヴァンゲリオンに用いられているS2機関の主――『第17使徒』が元凶よ。恐らくはね」
「第17使徒? ちょっと待って、あのチルドレンは斃したはずよ。シンジ君が」
「渚カヲルのこと? そう、作戦上の識別名としては、あれが『第17使徒』とされているわ。でも……違うの」
「え?」
「ミサト、第1使徒アダムのことはもう知っているのね?」
質問には答えられないままで話題を変えられ、ミサトは忌々しげに表情をゆがめた。
「ええ。父さん達は、あれに接触して、その被害を食い止めるために、魂を……まさか」
リツコはためらいがちにうなづいた。
「そう。結果セカンドインパクトが発生し、ほとんどの物が塩の柱に変わった後に、強制的にサルベージされた魂と抜け殻の肉体が残された。抜け殻はドイツ支部を経由してあの人の手に渡り、その魂はゼーレに渡った。現場で発見された第17使徒の蛹と共にね」
「じゃあ、私達の所に来たあれは」
「第17使徒から制作した肉体にアダムの魂をインストールして作ったキメラ、そんなところでしょうね。そしてゼーレは、残された第17使徒を利用して量産機を製作した……そうとしか考えられない。新たにS2機関なんて作れるわけがないのよ。あなたがさっき言った通り、現物を元に修復したS2機関でも暴走して第2使徒と共に消滅したし、安定保有していた初号機だって。賭けてもいい。現状のネルフの技術力では、コピー元になるものなしにS2機関を再現するのは絶対に不可能よ」
「でも、あれが最後の使徒だ、って」
「自分達を買いかぶり過ぎたのね。彼らや私達の起こすイレギュラーな行動までが、裏死海文書に記されているわけじゃない……私達はあくまでも、昔からあったものを自分達の都合で解釈していただけなんだもの」
ミサトは白い顔で、椅子に崩れ落ちた。それはさっき一度だけ立ち上がったときに見せたナオコの反応とそっくりだった。
すっかり乾いた唇をかすかに動かし、ミサトは言葉を押し出した。
「続けて、ちょうだい」
「あくまでも仮説だけど」前置きをして、リツコは再開した。「第17使徒は渚カヲルを通じて外界とつながっていながらも、あくまで休眠状態だった。そしてそれがサードインパクトを通じて、目覚めた。誰にも知られずにね。そして後の状況に応じて、あるいは介入しながら、その形態を決めた――その結果が、このジオフロント、そしてセカンドインパクト以来の人間の復活という状況よ。自らと接続された第1使徒が記憶していた、あの日……歴史上人類が一番多かった日への回帰」
「まさか!」
半ば予想通りの答えを返されながらも、ナオコはそう叫ぶしかなかった。
「そのまさかよ。このジオフロントや私達が使徒の延長なのかどうかはわからないけど。いえ、こうして推測という思考が可能になっていることから考えても、違うんでしょうね。例えるなら、『彼』にとってここは、卵の中なのよ。そしてここや外界にいる人間達は、自らをコピーして増加してゆくための、ディスクカートリッジ。卵の黄身のようなもの……」
何も言わなかったミサトが、ゆっくりと口を開く。
「あいつの、食料だっていうの、私達が」
「そうなるわね。現に私達はもう、喰われてしまった。もう数時間もすれば、このジオフロントの中に完全な人間はいなくなる。全て、彼の一部になる。ここを攻撃されても大丈夫だって言うのは、そういう意味よ。大規模な攻撃ならば、ATフィールドが私達を守るでしょう。それに、私達にだって」
リツコは白衣のポケットに放り込んでいたパターン青が記録されたカートリッジをふわりと浮かせて見せた。白い指の上に生まれた赤い光の上で、細長い記録媒体がふらふらと空中をさまよった。
「できそうだって、思えるでしょう、あなたにも」
その質問に、ミサトは答えなかった。
「もしも、そんなことが、真実なら……」
「真実なら?」
ミサトはぐっと手を握る。赤い光が生まれかけるが、その光もすぐに掻き消えた。
「私達は……勝たなきゃいけない。こいつらを、こいつらになった私達を、外に出しゃあしないわ。こいつは永遠に卵の中に閉じ込められて、外の光を見ずに死ぬ――この星の終わりと一緒にね。最後の使徒は、仕方ない。終身刑に変更ね」
ミサトはそこまで小声で言い切ってから、こつん、と額を机につけて下を向くと「あああ!」と一声、吼えた。
「やったろうじゃないの! やって見せたろうじゃないの! あたしに取り付いたのが運の尽き! 見とけよ!」
言いながらミサトは腰の銃を抜き放ち、自らの胸の傷があった辺りに突きつけた。
銃声が何発か、部屋に響いた。血が固まって急速に回復する傷には目もくれず、吐血一回、すっくと立ち上がってミサトは歩き出した。
散々たる世界の状況に、背を向ける道を、彼らは選んだ。
事態がわからず混乱するゼーレを放置し、調査はできないと外部に通告した上で、外部で当然のように起こる食糧難や急増する餓死者にも、見て見ぬふりを通した。
彼らが死んだ後に必ず生き残る次の人類のために、次の次の、そして、そのまた次の世代の人類のために。その可能性を残すために。
そして、餓死者が続出し、しかし沈黙を保ち続けるネルフに反感が募り始めた頃、ミサトは電話を掛けていた。これまでに起きた全てを話し――そして。
「だから、これが、仕上げってわけ……面倒な仕事だけど、頼まれてくれる?」
「本当に、良いんだな、それで」
「もちろん。私がそう決めたのよ。こいつらは終身刑。永久に、出してなんか、やらないわ」
ミサトは外部の協力者にそう言い切った。その最期の瞬間、ジオフロントにはいなかった男――恋人であった男、加持リョウジに。
それは当然の可能性だった。セカンドインパクト以来の、全ての死者が生き返っているなら、ミサトとの父親をはじめとして、全ての人間は復活しているはずだった。
そして案の上、彼は混乱の間を潜り抜けて、ジオフロントの回線に侵入した。
「それで、シンジ君の具合は?」
「大丈夫。言ったでしょ、心配ない……アスカとは、もっと掛かりそうだけど、でも、大丈夫。時間は腐るほどあるし……一緒に弐号機から回収した仲ですもの」
ミサトは再会した時にすれ違ったアスカの顔を思い出したのだと思う。アスカのその愛憎入り混じった表情を見て、大丈夫だ、と思えたのだ。きっといつかは、彼らもそれに立ち向かうことができる。アスカしかいなかったはずの弐号機にあの第14使徒戦の再来のようにシンジが現われた、その奇跡の意味に。
ジオフロントの中の世界は充分に狭いし、そのための時間はたっぷりある。
まるで、あの子達が仲直りするためにしつらえられたみたいね。そう言って、ミサトはくすりと笑った。
加持はかすかに笑って、ミサトの言葉に答えた。
「ああ、そうだな」
「何年後か、何百年後か知らないけど、きっと仲直りさせてみせるわよ。そのための時間、稼いでくれるんでしょう?」
それが、ミサトが加持に頼んだ仕事だった。ネルフに所属していたスパイとして、各種の政体に情報を流し、ABC兵器の動因の後にこの土地を封印するという流れを作る。
数ヵ月後には、第3新東京市は、核の毒に囲まれた監獄になるはずだ。彼女の願いのままに。
そして彼らは永遠に離れ離れになる。
「ね?」
「ああ、約束だ。八年前の約束の方は、結局守れなかったからな」
音声にかすかな雑音が混じっていた。第二十次攻撃が始まる時間だった。核が投入されるまで、あともう少し。彼らはきっと、実際には一度も姿を見せなかったエヴァンゲリオンを理由に、その投入を決定するだろう。
丸裸になった、黒い卵の上に。
「葛城」
「なに?」
ミサトはことさら柔らかい声で答えた。
「ごめんな」
「なあに言ってんのよ。もともと、そんな気なかったくせに」
ばあか。涙声が、ののしった。
「……泣くなよ。困る」
「女泣かせて喜ぶ、馬鹿の台詞じゃないわよ」
「なあ、葛城……全部終わったら、俺も、そっちへ行って、いいかな」
「それこそ馬鹿よ」
「おいおい。恋人に会うために遠路はるばるガンマ線の中を歩いていくんだぜ? 感動的じゃないか? ハッピーエンドまっしぐらだろう?」
ことさらに、明るく言ってしまう。違う、こんなことを言いたいんじゃない。
「そうじゃない、そうじゃないわ」
「何が違うんだよ。で、辿り着いた俺が、恋人に薔薇を捧げてゴール・イン。最高にハッピーエンドじゃないか。愛しの恋人と、永遠に仲良く暮らしました、さ」
電話を切らないためだけにべらべらと絶望的な言葉を吐きながら、加持は心底、自分の頭を打ち抜いてやりたかった。
しかし、それはできなかった。電話口の向こうにいる彼女には、いくら願ってもそれは許されないのだから。
「ハッピーエンドなんかないわ」
言葉を短く切る。泣かないように。決して、上ずらないように。
「ねえ、加持君。完璧なハッピーエンドなんか、この道にはもうないの。私、嘘ついた。シンジ君達だって、完璧に幸せには、きっとなれない。そんな道を歩くのは、どちらかひとりで、充分でしょう? わかって」
そう言ったとき、頭の中には彼しかいなかった。その時やっと、もうミサトは自分が最期には彼のことをのみ考えているのだと知った。復活しているはずの父親ももう関係なかった。ただ、彼だけに、未来を残してあげたい。
例え彼が、それを望まなくても。例え自分が、今、彼に一番傍にいて欲しくても。
言わなくても、そのことはわかった。
「葛城、俺は」
「だめ」
それに、あなたはここまでこられやしないのよ。
鼻で笑って芝居がかった口調で続ける。そんな事は分かってるさ。それでもな。
「それに」
口調が変わる。にやりとした顔が浮かんできそうな声だった。
「三年持たなかったあんたとあたしが、未来永劫夫婦のまんまなんて、どこの世界の冗談よ。頭どうかしてるんじゃない」
「おいおい。冗談みたいな人生送ってきた俺らの言葉じゃないだろう?」
必死で、取り付く島を探していた。
「ばーか。冗談は、いつか終わるのよ。私たちがあの夢から醒めたみたいにね」
こともなげに言う。必死で、そう繕っている。
「私はあなたを忘れることにする。だからあなたも、私のことは忘れて。加持リョウジが愛してくれた葛城ミサトは死んだ。葛城ミサトが愛してた加持リョウジが、あの時死んだのと同じにね。……それじゃ。元気で」
窓の外に閃光が走り、声が途絶えた。そしてそれっきり、二度と電話から声がすることはなかった。
「……それで、その男の人はどうなったの?」
さあてね。ただ、俺が知っている物語ではこうだ。彼は数年待ってあの街へ向かったが、辿りつくことは叶わなかった。しかし、彼は巧みに外の世界を操って、遠い先まで眠り続けることができる寝床をこしらえた。そしてどこかにあるその寝床で静かに眠りについて、ずっとその時を待っているんだ。あの土地が許される、その時を。
「そのときって、いつ?」
その時かい? もうすぐだよ。彼に託された最後の仕事も、ようやく終わった。
「そうだったんだ……良かった」
彼のことを心配してくれてありがとう。そうだ、君に……ほら、これをあげよう。
「なぁに? これ」
「あー! いいな、いいなー!」
その板はね、鍵だ。マシロの社を知っているかな? ここから数リーグ離れた場所にある、硬い、陽炎の街と同じ鉄の扉がある場所だ。
「うん。でも、あそこに近寄っちゃいけないって、ママがいってたよ?」
ああ、そうだ。あの場所は危険だからね。あの場所には、陽炎の街の残り香が残っている。けれど、君が、もっと世界のことを知りたくなったときは、その社に訪ねて行ってみるといい。
その鍵を持っている君を、きっとあの――松代の第二支部は受け入れてくれるだろう。
「え?」
いいや、なんでもない。それじゃあ、俺はこれで行くよ。これ以上お邪魔すると、大事な届け物を枯らしてしまうから。ここにあるものは、他の皆にあげよう、なんでも好きなものを持って行ってくれ。
そして俺は立ち上がって、テントの外に踏み出した。
「たくさんお話してくれて、ありがとう!」
「またねー! ばいばい!」
年端も行かない少年たちは手を振る。その内で最も利口で好奇心の強い少年の手に、世界のすべてを知るための鍵が託されていた。
もしかすれば、彼らの子供たちはまた、この大地を汚し、巨人たちを造りだすかもしれない。そしてまた、誰か俺と同じように、ずっと先の世界を見ようと、眠りにつく者もいるかもしれない。
けれども、それはもう、次の時代を託された、彼らの話。
恋人の思いを反故にして、過ぎ去った時代に戻ろうとする馬鹿野郎はただただ歩き続けるだけだ。
「さぁて。俺のこと、忘れてなきゃいいんだがなぁ」
そう言って、目の前の砂丘を眺め、ため息ひとつ。
ま、忘れてたら、その時はもう一度口説きなおすか。ちょっとオッサンになってるけど、許してくれよな、葛城。
口元に笑みが浮かんでくる。
あいつ、怒るだろうな。強か殴られるかもしれない。もしかしたら撃たれるかも。まあいい、死なないんだから。その道を、俺もまた、往くのだから。
砂の大地を踏みしめる革靴と、ぼろぼろのマントの下に着込んだ、真空保存のスーツ。よし、完璧だ。
薔薇の花束だって、ちゃんと持ってる。
「諦めやしないぞ。まだ時間は、いくらでもあるんだからな。待っててくれよ、お姫様」