緑青の珊瑚礁の上に彼らは立っていた。歪んだレンズを通して見たように丸みを帯びた水平線の向こうまでが彼らの姿で埋まり、まるで世界には彼らのみしかいないかのようだった。彼らは皆、それぞれの視線、それぞれの力で自らの周りを見渡し、自らが放り込まれた囲む状況を理解しようとしていた。
彼らを囲む世界から彼らへ情報がダウンロードされ始め、そして終わった。
「お前たちは……誰だ」
やがて彼らの内の一人が落ち着き払って言った。白いシャツに黒いズボン、そして黒い髪とまだ成長しきっていない肩は、彼が紛れもなく学生であることを示していた。
ただその超然とした表情だけが、歪に浮き上がっていた。
ある者が軽く地を蹴り、多少の苛立ちのこもる声で答えた。
「貴様こそ何者だ」
恰好や顔の作りこそ先の少年と変わらなかったが、その瞳は日光に当たって紅玉がはまったように紅く輝き、その髪は白銀に光っていた。
「違うね。それを言うなら、『君達』だ」
またある者が冗談めかしたように声をかけた。彼もまた顔の作りは他の少年達とそっくりだったが、彼は黒いコートを着込んでいた。その隣には、白い詰襟を着た少年の姿も見える。そのコントラストに、声をかけられた銀髪の少年は頭を抱えてため息をついた。
そしてまた、誰かが彼らにまとめて声をかける。
お前は誰だ、誰だ、誰だ。
ひとりずつ、ひとりずつ、声の輪は確実に広がっていく。
ささやくような声が怒号に変わってから甲高い叫び声が聞こえ始めるまでには、そう時間はかからなかった。
理由は考えるまでもない。
何しろ今日は青空には水平線近くに夏の入道雲がある以外は、厳しい日差しを遮る雲もなく、同じ顔をした人々同士の争いを止める者ひとりいない、宝くじで引き当てたように良く晴れた夏の日なのだ。
それが真っ先に生命活動を停止した一人が、目を閉じる寸前に推測した己の死ぬ理由である。最後に彼の視神経が伝えた空の視覚情報はどこまでも青く、息が止まりそうだった。
何も遮るものないはずの空は、その高さだけが、世界の端から端まで覆う嘘のように低く感じられた。
――それきり二度と外れないくらいにきつくシューレースを締め、ゆっくりと進行方向に体重をかけると、ごろごろと小さな音をたてながら傷だらけの身体が前に進んだ。その勢いを殺さぬように注意しながら、ごつごつした珊瑚の大地の上を怒号に紛れてひっそりとその場所に向かって滑走する。
収集が着くはずもなかった。
そこでは血みどろの冗談が大真面目に繰り広げられていた。
「俺は碇流古武術免許宗家 碇シンジだ!」
使い古した道着を着たひとりが声を荒げた。筋骨隆々とは言わないまでも鍛えられた細身の身体に緊張が走る。
目の前の敵は若い殺気を難なく受け流し、しわがれた声を発する。
「甘いな。若造」
「誰だ貴様!?」
「何……ただの武道好きの爺じゃよ……」
老人となっても今だ戦意は衰えない顔。そんな彼に、余裕を持って話しかける者がいる。
「ほう、歳を取っている、って? なら僕と戦えるかい? もう数百万年もあの夏を繰り返しているこの僕と。ねえ、若造?」
老人よりもずっと老成した笑みで彼は言う。老人は眉を顰め、次にその目を覗き込んでその深さに飲まれて愕然とする。
しかし、さらに遠くから、そんな人々の争いなど歯牙にもかけぬという声がかかる。
「黙ることだね、人間達」
「なんだと?」
老成した笑みの問いに、使徒の力を得たヒトの証、ルビーのように紅い目と闇夜のように黒い目のオッドアイを持った少年が落ち着き払って答える。
「所詮ヒトはヒト、どれだけ経験を積もうと使徒の力を得た僕には勝てない」
「そうかい?」
からかうような声が会話に割り込む。
振り向くと、そこには何もかもを面白がるような酷薄な笑みを浮かべた、背の高い長髪の男が屹立している。
「こんな外の世界には何の興味も持てないけれど、事実の間違いは指摘しておくよ」
「何を」
そう言い返した瞬間に頭が爆ぜ、深紅と漆黒の目は嵌るべき眼窩を永久に失う。
そしてその次の瞬間には、今度は長髪の男の上半身の方が根こそぎ消える。
無残に転がる二つの死体の頭越しに、声が響く。
「エヴァ無しで何をする気? 使徒の力だろうが使徒だろうが、シンクロ率が1000パーセン」
言い終える前に、別の初号機が放ったAT-フィールドがその機体をぱっくりと二つに割る。泥人形のように均一な断面が露出し、大量の血が荒れた地面を赤く染める。
「……トあろうと、直接シンクロに勝てるはずがない、か」
途切れた言葉の後を続けたのは、瞳に英知の光をたたえた、数人の少年達である。それぞれに、自負のこもった目で全てを観察する。
ややあって、少年達のひとりが相槌を打つ。
「リリスに貰った知識から考えても、そうなるね」
その声に少年達の別のひとりが反駁する。
「いや……赤い海で全人類の知識を得た僕から言わせて貰えば、どんなシンクロ方法をとっても……」
その瞬間に、答えは目の前に無造作に転がり落ちる。紫の兜、初号機の首が轟音と共に地面に穴を穿つ。
「初号機と融合し、S2機関を得る。それ以上の方法など、ないよ」
スピーカーを通した、少年達と同じ声。
満足そうに反駁した少年はうなづく。
が、それも束の間、うなづいた首は金属の擦れる音と共に空へ舞い上がり、上がった噴水と共に青い空に映える。
「戦況報告より自分の身を案じればいいと思うよ。僕のピアノ線の切れ味はどうだい? インテリさん」
しかしそれに、返り血を免れたやや年かさの少年が焦りながらも言い返す。
「まだ僕がいる。彼ほどではないが僕もMITの博士号を持っているんだ! ……あれ?」
自分の携帯端末に表示される「接続失敗」の文字に彼は目を剥く。隣には、さらに小さな携帯端末を手にした少年の姿があった。
「申し訳ないね。MAGIはもう僕の手の中にあるんだ」
年かさの少年の顔が蒼白になる。
が、崩れ落ちる彼を、ひとりの少年が支えて言う。
「ふん、MAGIの再建など我が碇財閥の財力を使えば造作もないことさ。君さえいればね?」
財のあるもの特有の余裕を持って述べた彼の首根っこを、軍服を着た同じ顔の少年が捕まえる。
「その力はもちろん、ネルフをもしのぐ我が特務機関の精鋭部隊の助けになるんだろうね?」
こちらの少年の顔までが凍り、背後に控える精鋭部隊を呆然と見つめる。彼らはそれぞれの手に武器を持ちながら、何も特別な武器を持たず逃げ惑う雇い主のバリエーションたちを虐殺していた。
呆然としていた少年は我に返ったように早口で答える。
「も、もちろんだ。君は僕なんだから……」
「そうか、ならいいんだ」
満足そうに軍服の少年は笑う。
そんなやりとりの間にもなお、青い空の下では紫の巨人同士がぶつかり、ある所では切断され、ある所では殴り殺され、ある所では首を手折られ、ある所では腹に大きな孔を空けられ、そして巨人が倒れればその下敷きになって、あるいは逃げる間に将棋倒しになり、そんな風にしながら、何通りもの碇シンジの生命が刻々と失われ続けていた。
――手ごろな一団が見える。いいだろう。まずはあれから始めよう。気が狂ったように強い日差しを背にして、スピードを緩めぬように注意しながら、得物を構える。
そこだ。
「僕は……最低だ……アスカ……アスカ……」
ごす。ごす、ごす。振り向きざまに後ろから殴る。抵抗する暇も与えてはやらない。女みたいになよなよした身体は最初の一撃を受けても細かく痙攣を繰り返していたが、数回殴ればそれもなくなった。脳漿を少し引っ掛けて、服が汚れた。
さらにその向こうへと進む。
「こんな世界、認めない。僕はみんなを助けたいんだ。綾波、アスカ、君達は……」
「シンジ……」
「碇君」
ざん、どっ、どっ。のんきに説教を垂れている奴も、聞いている奴らも、ワン・ツー・スリーで瞬殺だ。手ごわそうな一人も、他人に心を奪われていれば造作も無い。多少コツが掴めてきたのか、どれも一発ずつで仕留めることができた。
ひと通り済ましてから、服を見返す。よし、今度は上手く行った。
少し遠くに、また、何人か。
「俺をシンジと呼ぶな! 俺はシン! いや、シだ! 俺は死を呼ぶ純白の羽、碇シだ!」
さくっ。獲物が見得を切っている間に、尖った部分で後ろから刺し通し、そのまま突き飛ばす。いい所に決まった。このクソ暑いのに真っ白い服を着込んだ得物は、小さなうめき声を上げてそのまま動かなくなった。
そのままスピードを上げて、前にいる黒い男と擦れ違う。
「この漆黒の服は僕の罪の証だよ……そう、僕は『堕天使』碇シン……」
ひゅうっ。今度は先端の釘を首筋に引っ掛けた。どうやら格段に調子は良くなっていた。素振りがさっきより格段に速くなっていて、それだけの動きで獲物は行動不能に陥った。
だが、誤算もあった。血が出る出る出る。避けてきたのに、あたし、もう真っ赤じゃないか。
まったく、折角のよく磨かれた床までが真っ赤に染まっているじゃない。
床? そうか、速さが増したのはそのせいでもある。
走りやすくなっているのだ。
どうしてだろう?
疑問に思ったのも一瞬。すぐに考えるのを止めた。まあいい。言葉では上手く言い表せないけど――
なんだかわかる気がする。
そんなことより、あたしの服が汚らしい血で染まったことの方が、ずっとずっと重要だ。
――仕方が無い。次は気をつけるとしよう。
状況はさらに混乱の度合いを増していた。
「戦略自衛隊所属碇シンジ一尉。唯今よりN2作戦を……」
床板を踏み抜いて飛び立つ戦闘機。生身の少年が手を上げ、その手のひらから発生したAT-フィールドが精密な機体を簡単に切り裂く。
「そんなことはさせないのよ」
「さすがマスター!」
殺し合いをする少年達とよく似た顔をした少女の声に、周りを囲んだ少女達が嬌声を上げる。そこに、コンクリートの壁にもたれかかっていたひとりの男が話しかける。
「なあ、俺は……俺の『中身』は、もう十年は傭兵をやっていた。戦場のことはよくわきまえているつもりだ。そこで、だ……やはり戦場では数が重要なんだ。それで……」
「それで、私の配下の彼女達を使おうってわけ?」
「嫌だとは言わせない」
「い、行ってくれるかな、レリエル?」
レリエルと呼ばれたひとりの少女は、女主人の危機に際してふるふるとうなづく。
「わかりましたご主人様! ――いでよ! ディラックの海!」
黒い沼が遠くの床に広がる。数百人が、一瞬でその沼が支える並行宇宙の腹の中に飲み込まれる。と、そこに、とん、とん、と上履を揺らして器用にその淵を歩く者が、またひとり。
「ふっ、たとえ神だろうと使徒だろうと。女である限り僕のテクにかかれば性の虜だ! 後ろの穴はいただいた!」
およそその歳の子供が言いそうにない卑猥な台詞と共に、彼はいつの間にか少女を丸裸にしている。
「――って、あ、だめ、らめ、ふにゃ、あ、あああああ!!」
「擬人化したのが運のつきさ。さあ、体育倉庫に行こう。女ならば僕の性技……」
そこまでだった。調子よくわきわきと指を動かしていた少年の姿は突如その場所から掻き消える。
遠くで一言、呟く、声。
「僕も第18使徒リリンとして覚醒した身、ならば君たちは兄妹のようなものだからね」
どんどん混沌としてくる状況を、遠くから見つめる男は頭を抱えて、隣の少年に話しかける。
「オレが報告する相手も、スパイすべき相手もここにはいない。この様は……どういうことなんだ? 内務省だってネルフだってゼーレだって、こんなことが起きるなんてデータは……」
隣の少年は落ち着き払った声で答えた。
「そのわけは僕が教えよう……ようやく、<ユグドラシル>をイメージできてきたところだ」
――行く手に、のんきな顔をした三人組みが見える。まだこんな普通の奴らが残っているのか? あたしはスピードを緩めない。緩める必要が無い。
「この赤毛猿が全くうっとうしくって」
「こっちもだよ、まったくあの狂牛が……」
「僕のところの髭だってそうさ」
ざん。三人を一薙ぎで斬り払えば、よく見えるようになった視界にどこかの漫画かゲームで見たような光景のパッチワークが広がっていた。
その意味もあたしはすぐに理解した。本格的に箍が外れ始めている。
いよいよこの茶番劇も終盤ということらしかった。
「ふっ! 俺の天鎖斬月に斬れぬものは無い……卍解!」
ぼん。あたしが間に入り、黒い刀を受けざまに頭をぶん殴ると、黒い衣装の男は天井まで吹っ飛んだ。鉄骨に頭を失った胴が寂しく挟まっている。
おっと、やりすぎた。
しかしそんなのは些細なことだ。気を取り直して先へ、もっと先へ、世界の中心へ進もう。
少し先には、エヴァよりは少し小柄なロボットやら何やらがせせこましく鎮座ましましていた。
「ライダー! 後は任せた! 宝具は好きなだけつかってくれ!」
「黙れぇ、このストライクの餌食に」
「ふん、そんなもんではバンパイアの血族になった私は殺せないわ」
「でもこれならどうかな? 聖剣エスカリボルグ!」
「エスカリボルグ? それではあの機械人形は倒せても僕は倒せない、さあ! ショータイムだ」
どうん。少し強く得物を振れば、起こった衝撃波に飲み込まれて床と共に吹き飛んだ。あたしはもう、溜まっている力を制限するのもうっとうしくなってきていた。
衝撃波が霧散して消えた跡地に、走って逃げる者がいる。二組。
「レイ、僕にしっかりついてるんだ。どこかに出口が……」
「お兄ちゃん……」
「ねえシンジ!? あたしたち登校してたはずなのにいったいぜんたいどーなってんのよ? ここ、どこの学校の中!?」
「僕だって知らないよ!」
どん。同時に二組に攻撃をかける。分身攻撃など、今のあたしにははもう造作もない。
あたしはまだちらほら残っている普通人の集まりを目指して、さらに加速する。
案の定普通じゃない碇シンジに殺されまくっている彼らの姿がはっきり見えはじめる頃、頭に声が響く。
「ねえみんな、止めてください。僕の、僕の声が聞こえますか? こんな――」
あたしが殴るより前に切なげな顔が真っ二つになる。標本のようにきれいな断面を見せて、間に入った男は倒れる。
「何を馬鹿なことを、ATフィールドはこう使うんだ! ほうらっ!」
「神の力を得た僕にはそれでは」
「しかし俺の宇宙魔術なら別だ」
ええい面倒だ。フィールドを張っていようがいまいが、構うまい。
そうだ、関係ない。
何歳だろうが、普通だろうが、異常だろうが、どんな容姿だろうが、何を知ってようが、どんな性格だろうが、どんな職業だろうが、どんな意図を持っていようが、純粋だろうが誰かが混じっていようが、男だろうが女だろうがどっちでもなかろうが、どこから来ようがどこへ行こうが、どんな人間と好きあっていようが憎みあっていようが、誰に守られてようが誰を守ってようが、人であろうが使徒だろうが神だろうが魔だろうが――そんな些細なことはあたしにとっては羽の重さほどの意味もない。
大事なことはただひとつ。
そう、たったのひとつ。
碇シンジは鏖だ。
フィールドが吹っ飛んで、あらかたの普通人が死に絶えたその跡に、無数の女に守られて生き残ったらしい男がいた。木片が突き刺さってもなお微かに嬉しげな嬌声を発している、青い髪をたたえた女の集合体の上に、碇シンジがひとりいる。
「僕を殺すって言うの?」
――よし、次は、あいつだ。
「僕を殺す? 馬鹿な、僕の――」
誰しもをかしずかせるはずの彼の笑顔も何の効力も無く、その身体の構成要素は塵ほども残らない。
「何?」
そしてその隠された存在を誰もが気づくようになったときには、もう全てが手遅れだ。
「零式 積極重爆蹴!」
甲冑の少年が放つ一撃は、いとも簡単に受け流される。
「“ディスクロージャー”したSS(ダブルエス)が……こんな小娘ひとりに!?」
碇シンジのひとりを取り込んだ光球。そこから展開された膨大な熱量が、それに汚らしく食い尽くされていく。
「リリス! あれは?」
「あたしにもわかんない!」
問いかける少年も、隣で答えた青い髪の少女も吹き飛ばされて消える。
「わあああ!」
手の内にあるJAの上にどんなに強力なAT-フィールドを張り巡らしても、もはやそれには届かない。
「斬撃を……無視した?」
それは初号機が佩く大刀の一撃をも完全に無視して、
「ディラックの海を、越えた?」
紐の華麗に舞う別宇宙の上をも悠々と走り去る。
「だめだ……おい、つか、れ」
どんな速さの乗り物も、もはやそれからは逃れられない。
「初号機が……初号機が……」
運悪く最後の一団にまで残ってしまい、それに出会う羽目になってしまった少年がうわ言のように叫ぶ。見開かれたその目には、ニスで光る床の上、殺しあった紫の巨人の群れと、いつの間にか数人にまで数を減らした、無残な傷口を晒した碇シンジの群れが映る。
それは、まるで崩れた肉でできたふかふかの、絨毯。
絨毯? その少年はそこでやっと、自らの立っている場所が最初にいた場所と異なっていることに気づいた。青空は見えず、珊瑚礁の地面も足には触れない。ずいぶんと低い天井の下、木目がきれいに浮き出た床の上に彼は立っている。水平線の向こうまで床は続き、音を反射しやすい木材で覆われた壁が延々と続く。天井からも割れたライトが点々とぶら下がっている。
いつしかそこは広い広い講堂だった。
――滑り続ける。薄暗い講堂。あたしは誰よりも速く疾る。世界が圧縮されていくような感覚。
目の前の光景が青方遷移しそうなほどの、絶対的な速さ。
あたしの目の前には、二人。あたしと同じように「流れ込んで」いるなら、きっとどれだけか強いのだろう。しかし、負ける気など微塵もしない。それが証拠に、もう、どっちがどっちか確認する気も起きなくなっている。目の前に立つ者が碇シンジのどんなバリエーションでも、もう関係は無い。
二人の男、その向こうに、舞台。その上に、演壇。
あたしには見えている。その下に、最後になるべき碇シンジが潜んでいる。
二人とあたしの間にある肉の塊が根こそぎ消える。
もう、あたしには地面を滑る必要すらない。
二人があたしの通るそばで消滅する。
もう、あたしには得物を振るう必要すらない。
けれど、最後はあたしの脚で滑り、あたしの手で葬ろう。
あたしは空中にフィールドを展開し、それを台にして跳ね、世界の中心の舞台へと飛び上がった。
演壇の下で、それが情けなく膝を抱えているのがわかった。
「もういやだ……戦いたくない……」
あたしの耳に小さな声が聞こえた。
床はいつの間にか白い霧に覆われ、枯れて節くれだった木々がその演壇を守るように覆っている。
あたしは微笑んで木を薙ぎながら、ゆっくりとその声に近づいていった。
めきめきと木が裂ける音がした。
シンジは顔を上げた。その心は全てが虚しさの手に落ちて、もう表情も消えていた。
振り仰ぐ。
白い霧の中からの視界に、誰かの姿が見える。
それは見知った顔だった。
白く煙った霧の中、かたくレースを締めたローラーブレードを履き。
肉や布がこびりつく、釘の植わったバット一本だけを持ち。
真っ赤な返り血で染め上がったワンピースを着て。
凄惨に立つその晴れやかな笑顔は、確かに。
「……アスカ?」
ざんっ。
それが、アスカが完全なけものに「堕ちた」瞬間だった。
「――あたしは、ここにいてもいいんだ!」
世界の中心で己の存在を叫ぶけものの声が聞こえ、瓦礫を集めて積み上げたように見えるグロテスクな形をした巨大な建造物ががらがらと崩れた。
大歓声と繰り返されるおめでとうの声が、世界の中心から周辺へと広がっていった。
様々な声。
その中に混じる自分の声と頭に走るイメージに吐き気を催しながら、日向がぽつりと言った。
「『
「みたいね」
そこは世界の果てだった。珊瑚礁の上に小さく積みあがる瓦礫にもたれかかって座り込み、双眼鏡を覗き込む葛城ミサトの姿がそこにはあった。
崩れ去ろうとしている『講堂』の壁の向こうには、何体も連なり、殺しあう赤い巨人の姿が既に見え隠れしていた。
尻に付いた目の荒い砂を手で払いながらミサトは立ち上がった。
「誰よ、トラウマにはトラウマで対抗って言ったのは」
「――そこに立ったヒトの欲望を全肯定して、その人間に含まれるあらゆる可能世界を引用して接続する――あの『世界の中心』の狂気から逃れることは、誰もできないわ――構造を理解できる私以外にはね。だから――ねえ、お願いミサト。私に――」
何度も繰り返された分析を冷静そうな声がつむぐ。しかし、冷静なのは声音だけだ。内容はおぼつかず、その目は完全に魅入られていた。それもまた堕ちた目だった。
「だーめ。分析係のあんたが行ったら元も子もないでしょうが。マヤちゃん、青葉君。それからペンペン。しっかり見張ってて、この人たち。……もし私が駄目だったら、次、青葉君よろしく」
「了解です」
「は、はい……」
「ウウッ!」
三者三様の答え。二人と一匹の足元には、数人の手錠をかけられた人々がいた。赤木リツコ、碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、碇ユイ、加持リョウジ。オペレータの三人とペンギン一匹、そして三人の子供達以外は、ほとんどがそれぞれの幻想に魅入られていた。
「……んじゃ、行ってくるわ」
ルージュを引きなおし、血の赤のジャケットを羽織ったミサトにリツコが言い捨てた。
「きっとあなたも、あの『世界の中心』が放つ狂気には勝てないわ」
ミサトは笑ってその言葉に答えた。
「さあて、どうかしらね……私は抜け出すのよ。この悪い冗談の中からね」
ジャケットのさらに上に心ばかりの防弾チョッキを着込み、銃に弾を込めながらミサトは答えた。弾数は心配いらない。さっき確認したのだ。『世界の中心』と名付けられたあの場所は近づけば近づくほど欲望と狂気と世界を変える力とを供給してくれる。そして人が少なくなればなるほど、それらは残りの者に流れ込む。
アスカは釘バットで空を裂いた。ならば彼女は素手で地も割れるだろう。
その時の地面が、彼女の感覚の隙間を縫って『講堂』の床にすりかわってさえいなければ。
ドアを閉めると、遠くに爆音が響いた。空を横切る何人かの惣流・アスカ・ラングレーと、真っ赤なエヴァンゲリオン。
フロントガラスのはるか向こうでは、『青空』の下に、既に『講堂』の壁が、基礎が再構成され始めていた。
もう時間はあまりない。
世界の中心は、次にアイを叫ぶけものを待っている。だが、叫んでやるつもりなど毛頭なかった。
私で、終わらせるのだ。
決心と共に世界の中心へ向けて彼女は進路を取る。
彼女が無言でアクセルを踏み込むと、青い車は似合いの色をした空の下へと滑るように走り出した。