もうカヲル君はこの世にいない。
そんなことは当たり前で、そのことを思い出して泣くほどもう僕は子供じゃない。だからって、そのことを考えて罪悪感を感じたり、感傷的になったりしないほど大人というわけでもない。いや、もしそういうことができるようになったとして、それを「大人になった」と胸を張って言えないような気がするから、この気持ちは、ずっと引きずっていくものなのかもしれない。そうに違いない。
だって、僕が彼を殺したのだから。
それを忘れようなんていうのは、虫が良すぎるというものだ。
「どないした? シンジ」
「うわっ!?」
自分の出した大声で僕は我に返った。
僕の向かいには、リスみたいに口におかずとごはんを溜め込んでいるトウジがいた。
器用だ。そして汚い。
隣にいる洞木は(聞いて驚くなかれ、彼女、今では委員長どころか生徒会長だ)顔を引きつらせ――というよりはうんざりしたような顔をして、僕の考えた通り「汚いなあ……」とか呟いている。
「何やねん」
トウジはそれを聞きとがめて、何やら戦乱の気配。
「何よ」
しかし僕と同じように彼らの向かいに座るケンスケは、そちらのやりとりには我関せずと言った感じで僕に訊いた。
「どうかしたのか?」
気だるげな声が聞こえる。季節はもう晩秋、薄物の重ね着くらいでは肌寒く、かといって少し厚着をすると今度は暖まって眠くなる、というちょっと難しい季節だった。ケンスケはどうやら後者のようだ。
「何よて何やねん、汚いて、別にもの飛ばしとるわけやないやないか」
僕は何と言っていいかわからず曖昧にうなづいて、向かいで勃発した戦闘を邪魔しないように小声で答えた。
「綾波のこと――かな」
嘘じゃない。ひとり死んだ人のことを考え出すと、自分に関わって死んだ人のことが、次から次へと浮かんでくる。さっきだって、僕は最初綾波のことを考えていたのだ。
軽く目を閉じて、綾波の顔を思い出そうとした。
けれど、頭の中で綾波がはっきり像を結ぶことはなかった。まるで急に近眼になったみたいにその姿はぼやけていた。思い出せないまま目を開くと、こちらは正真正銘の近眼であるケンスケは微妙な笑い顔を浮かべていた。この顔が、心配の表情だってことは知っている。ちょっと斜に構えたキャラで通してるから、そういうことは表には出さないようにしていることも、一応は。
「ものを飛ばしてたとかじゃなくて、ものを食べながらしゃべるのが汚いって言ってるの」
「そんなんかまへんやん」
「綾波か。そうか、確か……」
少しずつ大きくなってくる声を避けながら、僕とケンスケは窓の外を眺めた。
「かまへんくないの。まったくもう」
もう見慣れた秋の高空に、うろこ雲。
「うん。命日がもうすぐだから、参ってくるんだ」
立派なことをしているわけじゃない。もう僕くらいしか、彼女の墓に参る人間はいない。きっと、それだけのことなのだろう。
そして、僕が殺したカヲル君に至っては、墓もない。
どうしたのだろう。今日に限って、妙に二人の顔が重なって頭にちらついた。
「そうか……まあ、よろしく頼むよ」
すべて察したような顔で一息ついて笑いながら僕の肩越しに二人を一瞥し――また少し、距離を取った。
「……グチグチグチグチやかましなあ……」
「ッッ! グチグチとは何よ!」
「グチグチ言うとるからグチグチて言うただけやんけ!」
一足遅かった。僕も慌てて椅子を引きずり、ケンスケの近くに寄った。
「うん、わかった」
「それにしても、なんだなあ。もう、三年経つのか。うん。なんて言うか……」
後ろの喧騒とは全く別のゆったりしたリズムでケンスケは視線を動かした。
「あーそうですか! もう、知らない!」
「ワシかて知らんわ!」
「うん」という声は掻き消されたけど、ケンスケはやれやれという表情で笑うばかり。
洞木が席を立ち、つかつかと足音を響かせながらどこかへと歩き去った。どうやら、冷戦の勃発らしい。続いてトウジが席を立ち、教室の外へ出て行ったのを見届けてから、ケンスケは感慨深げに呟いた。
「……んとに、平和だねぇ」
「全くだね」
言って、僕とケンスケは顔を見合わせる。ケンスケはわざとらしくぷっと吹き出すとしばらく笑った。僕も釣られて笑う。でも、芯から笑えているのかは、あんまりよくわからない。こんなときたまに、この平和に何となく付いて行けていないような気がする。
それは、僕だけなんだろうか?
「な、シンジ」
秋だからかなんだか物憂い気持ちになった僕に、ケンスケは僕とは違って手馴れたようすで声をかけてきた。
「え?」
「俺の勝ち」
あ。
「そうだね……」
生徒手帳を開いてため息をつき、五百円玉を手渡す。一月と二日、休戦期間の記録達成はならず。レコード更新に掛けた僕の負けだった。
ここに来ると、一番辛かった時期のことを思い出す。
あの頃、トウジを潰し、アスカが壊れ、綾波が僕のために死に、カヲル君を殺した。そして、戦略自衛隊が来て、ミサトさんも、リツコさんもいなくなった。恰好つけてるわけでもなんでもなく、僕の周りには死が満ちていた。
なぜ僕が助かったのかわからないほどに、死でいっぱいだった。
こうしていると、それがよくわかる。
こうして見渡す限りの墓の中にいると、わからないではいられない。
「どうした? シンジ君」
青葉さんが、僕の方を振り向いて声をかける。気付くと、前を歩く三人から僕は大分遅れていた。
制服を着た僕の前を、スーツを着た三人が歩いていた。青葉さん、マヤさん、日向さんの三人は、あの出来事から辛うじて生還した数少ない人間だった。
あれからしばらくして、僕らはやっとのことで再会し(この人たちが助けてくれなかったら、僕も、今はドイツに帰ったアスカも、もう二度と生きて空の下に出ることはできなかったかもしれない)、それから三年、欠かさずにここに来ている。
サード・インパクトの日を外して、わざわざ綾波の命日に来ているのは、僕らがいると心穏やかじゃない人が、かなりの数いるからで……それは、仕方のないことだ。僕がやったことを考えれば、仕方のないことなのだ。
だから僕らは、今日もこうして四人、共同墓地へ足を運んでいた。
「大丈夫かい?」
答えない僕に日向さんが声をかけてくれた。僕は慌てて「はい!」と答えて、小走りで三つの背中に追いすがった。
ちょうど追いついた頃、僕らは目的の一角に近づいていた。リツコさんや綾波や、ミサトさんが眠る一角だ。
いつも最初に見えるのは、苗字が一番若い、リツコさんの墓だった。今度もそうだったし、これからも、ずっとそのはずだった。
「お久しぶりです、先輩」
マヤさんは墓石が見えるか見えないかの場所で静かに言って、軽く手を合わせる。
いつも、それが合図だった。
とはいえ、墓参りと言ったって、バケツに水を汲んで墓石を洗ったり、そういうことをするわけじゃない。大雑把に作られた、ただ延々と細長い墓標が突っ立っているだけの墓地には水場や排水溝なんかなくって、洗えば地面に溜まるばかりだし、洗っても後から後から砂が舞い上がって、それどころではなかった。みんなただ、自分の持ち場に行って挨拶を交わすだけだ。
マヤさんは手に提げたナイロン袋からタバコの缶を取り出して、墓石の足元に供えた。
少し離れた一角で、日向さんも同じように、ビールの缶を供えている。僕もその背について、そっと手を合わせる。
そして、僕が手を合わせ終わって振り向くと、今年も青葉さんは困ったような笑い顔で僕に言った。
「さて、じゃ俺も、副指令の墓にでも、参ってくるよ」
青葉さんは、想い人がいないってのも辛いね、と去年と同じことを言って、てくてくと歩き出す。僕らに猶予をくれるように、ゆっくりと。きっと今年も去年と同じに、六分儀姓に戻っている父さんの墓にも、一緒に参ってくれるのだろう。
僕はと言えば、父さんの墓にも、母さんの墓にも、参る気はしなかった。父さんは、きっと母さんと同じところに行ったのだし、母さんは母さんで、遠いところに行っただけで、きっと、死んだのとは少し違う。だから、参りはしない。
これは僕なりのけじめみたいなものだった。
そうして今年も、僕は誰以外にはきっと誰も参らない、綾波の墓にだけ参ることになった。
もしかすると他にも僕が参らなければいけない墓は沢山あるのかも知れないけれど、でも、それでも、僕だけしか来ない墓は、僕に来て欲しいと思ったのだと、うぬぼれられる人は、彼女だけだから。
簡単だった。
綾波の墓は、ちょうどリツコさんの墓の真隣にあった。赤木、綾波、苗字が近いせいで、生きている時と同じに、近い場所に……そうすることが、リツコさんにとっていいことなのかどうかは、もう誰にもわからない。
そんな疑問があることも、誰も知らない。
あの秘密の場所のことや、二人の間にあったことを知っている人間はきっと僕以外にはない。そして僕は、もうこのことを誰にも言うつもりはないのだ。
「シンジ君?」
「僕は、綾波に」
「そっか、そうだったね」
マヤさんは小さく笑って、少し身体を避ける。僕はその後ろを通って、少しだけ離れた綾波の前に立った。
「……久しぶり」
それだけ言って、手を合わせる。いつも、長めに祈る。僕のために死んでしまった綾波のことを、そして、あの三人目、と自分のことを言った綾波のことを、それから、あの培養槽の中で壊れていった、綾波になるはずだったもののことを。そうして、沢山の綾波たちのために少しだけ長く祈って、そのついでに、また、ここに墓のない、僕が殺した男の子のことを、想う。
ああ。そうか。
そのせいかもしれない。
今、やっと気付いた。
こうして、いつも綾波を想うと一緒にカヲル君のことを考えているから、頭の中で、二人のイメージが混ざってしまうのだ。
白っぽい髪に、真っ赤な瞳、そして、抜けるような肌の色。
今思うと、二人はよく似ていた。
どうして気付かなかったんだろう。
『それは、君があいつに縋っていたかったからさ』
「え?」
「っと、驚かせたか? どうする? 俺たちは次の予定があるから、もう行くけど」
そう言ったのは青葉さんだ。いつの間にか日向さんもマヤさんも、自分達の祈りを済ませていた。
「ああ……ええと、いえ、僕は、もう少し残ります」
やっとのことで、それだけ口にした。
「そうかい? じゃあ、ここで。……気をつけてな。ここって外灯も何にもないから、暗くなったら歩けなくなるからさ」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃあ、シンジ君、またね」
「また今度、飯でも食べに行こうな」
自分達だって切なげな顔をしているのに、マヤさんも日向さんも、僕を気遣ってそんなことを言ってくれた。
そして彼らが去ると、僕は奇妙な声と一緒にその場に立ちすくむことになった。
シンジが学校に来なくなって、もう何日経ったっけ?
先週は来なかったから、八日じゃきかない。九日、十日、いや、もっとか。
ともかく、シンジは綾波の命日の少し前、学校を休んだその日以来、一度も学校には来ていない。原因は知らない。連絡も着かないらしい。一週間も空きっぱなしの席に、どっかの馬鹿が花を生けようとしたくらいだ。
そいつはトウジに勢いつけて殴られてトウジ共々仲良く停学になったが、それはさておいて。
俺はトウジとは違って誰も様子を見に来ちゃくれないシンジのために、あいつの家の前まで来ていた。
ぴんぽん、と一回鳴らす。反応はない。
ぴんぽん、ぴんぽんぴんぽんぴちかちかちかちかち。
勢いづいてインターホンを押したが、反応はなし。
駄目か。
「シンジぃ、いないのか?」
開閉ボタンを押してみるけど、当然まるで反応は……あ。
「……開いた? は?」
ドアは確かに開いていた。鍵もかかっていないなんて、どういうことだ。
「シンジ? おーい。生きてるかー?」
叫んでみるが、相変わらず返事はなかった。元々このマンションにはシンジしか住んでいない。そのせいかどうか知らないが、このマンションは廊下までなんだかひっそりと静まりかえっているみたいで居心地が悪い。
シンジに家に泊り込みで集まるときだっていつも、エレベーターを降りて、一目散に碇の家に入ることにしている。
だから俺は、一歩、ドアの先に足を踏み入れた。
「入るぞ、シンジ。シンジ? 入るからなー!」
恐る恐る入ってみると、夕日の入らない玄関は真っ暗だった。
ひやりと、寒気がする。でも、ここで引き下がるわけにも行かない。何しに来たんだかわからない。
廊下のカーペットの上を歩きながら、俺はもう一度呼びかけた。
「おい、俺だよ、相田。いるんなら返事してくれよ……なあ!」
「……れよ」
声だ。か細い。
「シンジか?」
「……消えろよ!」
ドア越しだったが、悲鳴交じりの声に肩が竦んだ。
「は? おい、シンジ……」
「あああ!」
「でえっ!?」
顔に思いっきり何かぶつかり、俺はその場にしゃがみこんではいずり逃げた。なんだ? 強盗か何かか?
だが、もう一度覗き込んでも、そこにはうずくまったままきょとんとするシンジの顔しかなかった。
「け、ケンスケ?」
そうだ、俺だよ、悪かったな。って、おい。それは俺のせりふだ。
「ケンスケ?」
だからそれは俺のせりふだ。
「そうだけど……どうしたんだ? その顔」
言ったが、まるで聞いていないみたいだった。
げっそりこけた頬はまるであの頃のシンジみたいだった。いや、もっとひどいかもしれない。目の下にも隈ができていて、何日も寝ていないみたいに見える。
シンジはぼさぼさの髪に手をつっ込み、頭を抱えた。わしわしとかきむしったところから、フケが飛ぶ。
「いや、違う……駄目だ……ケンスケまで……僕は……」
シンジは意味のわからないことをつぶやきながら部屋の隅で膝の間に頭を埋め、シャツの裾を掴んで震えた。
俺はそろそろと歩きよって、肩を揺さぶる。
しかしその焦点は俺に合っていなかった。
「おい……ちょっと」
「離せ……離せ……離せよ!」
「落ち着け!」
ぱん。トウジばりに頭をはたいてやる。そしたら、シンジはまたきょとんとして――その目にやっと、生気が戻ってきた。俺が知ってる、今のシンジの顔だった。
「僕を……殴った?」
「え、あ、ごめん、でも」
「ケンスケ、本物のケンスケなんだ!?」
さっきの顔から一転、狂喜乱舞の顔になる。この変化も正直怖かったけど、俺はぐっと我慢して、抱きついてこんばかりの勢いのシンジに、ゆっくりと言った。
「どうしたんだよ、いったい」
「あのさ……」
途端、シンジの勢いが一気に失われ、また機嫌をうかがうような表情になった。まったく、こういういざとなると面倒くさいところは全然変わってない。
「いいから、言ってみろって」
俺がうんざりしてそう言ってやっと、何回も目をしばたたいてから、シンジはすうっと手を上げた。
え? その方向って、まさか……
「いるんだ、そこに」
「じょう、だんだよな?」
「ほら、そこに……」
恐る恐る、後ろを振り向く。
『やあ、始めまして。ご愁傷様』
そこには声ならぬ声で話しかける白い靄がいて、俺はそれを確認するかどうかというところで気を失った。
ごくごく簡潔に、わかったことだけを記すことにする。そうするしかない。何しろそれは、見てわかったこと以外を推測するのが極端に難しい事態だった。
言い回しがおかしいような気がするのは、どうやら俺がまだ混乱しているかららしい。
まあいい、とにかく話を進めよう。どこに進んでくれるのかはさっぱりだが、それでもここでむなしく足踏みしているよりはいいだろう。
俺はシンジの部屋で幽霊を見た。
見知らぬ男は、そのくせ見知った赤い目をしていた。いなくなってしまった綾波と同じに。そしてその幽霊は、やけにさわやかな、今にもそれだけ残して消えうせそうな笑顔を浮かべて俺の前に半透明で漂っている。
これが今見て、わかっていること。ただ情景を描写しただけかもしれないけど、それ以上わかることなんか、何もない。仕方なく俺は、震えを抑えるために何度か深呼吸をしてから口を開いた。また気絶するわけにもいかない。
「で、お前は……いったい何者なんだよ?」
『おや、君は随分と物分りがいいみたいだね。こっちの男の子とはだいぶ違っている』
幽霊の視線の先には、相変わらず膝を抱えるシンジの姿があった。
「そりゃあ俺だって、自分が取り憑かれたらビビるさ。しかも、知り合い? なんだろ」
いまいちわからないがそういうことらしい。シンジはこの幽霊を指して「カヲル君」と呼んでいた。こんなに顔色が悪くなるほど滅入っているのに自分で名前を付けたとも思いにくいから、恐らくは知り合いなんだろう。そんな風に俺は推測していた。だが、せいぜい、わかるのはこの辺までだ。その知り合いがどうして幽霊みたいな非常識なものになって出てくるのか、それが俺にも見えるのはどうしてなのか――そんな疑問は、まったくもって未解決のまま。
ええい、考えるだけでまたおかしくなりそうだ。
俺は無理やりオカルトマニアのノリで言い立てた。
「なあ、カヲル君、さあ。お前、いったい何? 幽霊? 宇宙意思? エクトプラズム?」
『おやおや、これはまた直接的だね。でも、どれでもないよ。そもそも僕は「カヲル」じゃあないし』
あ、そうなの?
「そんな!」
この言葉に反応したのはシンジだった。俺が唾を飛ばしてまくし立ててるのを見て元気を取り戻したらしい。だが、それでもやはり膝は抱えたままで叫んだ。
「だって……だって君の、その顔は――」
『ああ、この姿は、渚カヲルのそれだね』
「だったら!」
『でもね、碇シンジ君。この姿は君が望んだ僕の形であって、僕本来の形ではない。……相田ケンスケ君、だったね?』
話を振られて、俺は身構えた。
「あ、ああ」
俺にまたにっこり笑いかけて、幽霊はどこからか声を出した。もしかしたら、声なんか出していなかったのかもしれないが、便宜上、声を出したということにしておこう。幽霊は非常識にふわふわと浮きながら、まるで理科の教師のような口調で言った。
『質問に答えよう。僕は、宇宙意思やエクトプラズムではない。幽霊は少し近いかも知れないけど……でも、君達みたいな人間の幽霊じゃない』
人間の、幽霊じゃない? ――それって。
「お前……」
俺は思わず口に出していた。視線の先のシンジは、口をあんぐりあけて硬直していたから、その代わりのように。すると幽霊はますます笑いを強くした。口の端が避けたように開いて歯の見える、意地汚そうな笑い方だった。
『分かったかい? やっぱり君はこちらの彼より勘がいいみたいだ……そうだ、僕は幽霊は幽霊でも、君達が使徒と呼んでいた生き物の幽霊なんだ。置き去りにされた使徒、第17使徒の魂だよ』
身体を奪われたのさ。
カヲル君の顔をした幽霊は、そう言って笑った。
その笑い顔を見て、やっと、こちこちに凝り固まっていた身体がほぐれて――僕はそのまま、深い闇に落ちた。
そして気がついた時には、あたりは薄明るくなっていた。
「う……ん?」
鈍い頭の痛みと身体を覆う汗で、自分が寝ていたのだとわかった。深く眠ることができたのは、あの幽霊が出てからは初めてだった。朝、なのか?
「よく眠れたみたいだな、シンジ」
「え?」
腫れて重くなっているまぶたを無理やり開いて見ると、そこにはバンダナ姿のケンスケがいた。
「ケンスケ……あの」
僕が言いかけると、ケンスケはチッチッ、と人差し指を立てて押し止めた。そして普段僕にプラモデルや戦艦の薀蓄を解説するときと同じように淡々とした口調で説明を始めた。しかしその言葉の端々から、嬉々として話しているのが伝わってくる。
「説明しよう。お前は十六時間ほど寝てた。今は朝の十時。朝飯はすぐ用意する。レトルトだけど、いいよな?」
「いい……けど、ケンスケ、ずっといてくれたの? 学校は?」
「ずっとじゃないさ。着替えやらパソコンやらを取りに帰った。学校の方は、今日は土曜日だよ」
言いながら、ケンスケは机の上にあった携帯電話を僕に向かって投げた。見てみると、確かに時間は午前十時、曜日は土曜日だった。
それにしても、なんだってケンスケはここにいるんだ。それに……
「あの、さ、ケンスケ」
「ああ、あれは夢じゃないよ」
また先回りして、ケンスケは言った。そして、振り返る。
「なあ?」
『ああ、僕は確かにここにいるよ。おはよう、碇シンジ君』
その声は、やっぱりカヲル君と同じ声に聞こえて、だけどその距離は、やっぱりあの墓地で聞いた声と同じに、ずっとずっと遠かった。それは、彼が部屋の外にいるとか、そういう理由じゃなくて――
「カヲル、君」
僕の声にかぶさるようにケンスケが口を開いた。僕の方には目をやらず、パソコンに向かったままだった。
「違うよ。こいつは、お前の知ってる奴じゃない」
ケンスケはパソコンから顔を上げて、うん、と唸りながら首を回した。立ち上がりざまに、ごりごり、と、ちょっと怖い音がした。
「ま、いいや。その話はおいおい説明する、ってことで、とりあえずメシにしよう」
小走りでキッチンに向かって走っていったケンスケは、すぐにお盆を抱えて戻ってきた。盆の上には、山盛りのご飯と、適当に盛り付けられた肉、魚? があった。
「これ……缶詰?」
「そうだよ。あ、炊飯器だけ借りた」
さも当然、といった顔でケンスケは飯ごうの蓋らしきものにご飯をよそい、パソコンを脇に置いて食べ始めた。僕も仕方なく、自分の茶碗にご飯をよそう。でも、それでも、数日ぶりにちゃんと食べたご飯はおいしくて、僕は少し泣きそうになった。
「ありがとう」
ケンスケは頭をかきながら視線を逸らした。
「こんなもんでよかったら、いつでも。で、さ」
と、照れくさそうな表情から一転、真面目な表情になって、ケンスケは僕をじっと見つめた。
「何?」
「こいつのことなんだけど」
箸が止まる。僕はケンスケから視線を外して、その後ろに超然と控えているカヲル君――第17使徒の魂と名乗る幽霊を見た。
「……うん」
「シンジ。こいつの顔、知ってるんだってな」
「うん。第17使徒、渚カヲル……僕が殺した最後の使徒だよ」
「どうやら、それは間違いだったらしい」
「え?」
「お前が倒した奴は……えっと、なんだっけ」
『アダムだ。碇シンジ君、君が屠ったその使徒は、第17使徒たる僕の身体に第1使徒アダムの魂を宿らせたものだった』
「それって」
『君も知っているだろう。サルベージさ』
「サルベージ……まさか。そんな、使徒のサルベージなんて」
開いた口が塞がらない。綾波やエヴァを作るのに飽き足らず、そんなことまでしていたなんて。
『ああ、信じがたい。でも君らはそれをやった。僕らが還るはずだったアダムを引き裂き、その魂を使徒に宿らせる……残酷なことだ。下手をするとアダム自身、自らが第17使徒だと疑っていなかったのかもしれない。自らが潰えるその時まで』
何も答えられない僕をおいて、さらにその後を続ける。
『第17使徒の身体は君が屠り、その後に、肉体を与えられないひとつの魂が残った。それが僕だ』
「じゃあ君は、使徒の幽霊」僕はやっとのことで喉の奥から言葉を押し出した。
『そういうことになるね。僕は幽閉されていた場所から抜け出し、自らの同胞たちのにおいを辿って君の処へ辿り着いた』
「それでシンジにとり憑いたってわけだ。さっきも聞いたけど、やっぱり迷惑だな」
『そのくらいの権利はあるさ。それに……君が僕の同胞たちにこうまで心を引かれていなければ、僕は君の元へ辿りつくまでに上手く消えることができていたかもしれない。アダムが消えてしまった今、もう僕が生きていることには理由などないんだからね。でも、君がいたから……僕は消えなかった。消えることができなかった』
幽霊が恨みがましく言ったことに、ケンスケが噛み付いた。
「それこそ責任転嫁じゃないか。だいたい――」
「ケンスケ」
僕が声をかけるとケンスケは我に返ったようにびくりとして、それから目を閉じた。そして気を落ち着けるように深く息を吸って、短く吐き、そのまま黙った。
「ごめん」とわびてから、僕も黙って、しばし考えに沈んだ。
正直なところ、幽霊がした話が本当かどうか、僕にはわからなかった。ただその話を信じる以外に、その存在を説明する理由がないのも確かだった。僕の知る中で、こんな風にわけのわからない自体を引き起こすものは、使徒以外にはなかったのだから。なら、信じるしかない。
そしてまた、これはどうやら僕の問題らしかった。権利はどうあれ、確かにカヲル君を殺したのは僕で、あのアダムという使徒が消えただろう、最後の争いに立ち会ったのも僕だった。自分の意志で動いていたか定かでないとはいえ、それは責任を免れる理由にはならない。僕は、あの墓たちからは逃れられない。
そして、あの墓の群れと同じように、あのできごとのせいで生まれてしまった彼をここに呼び寄せてしまったのは、他ならぬ僕なのだ。
僕は顔を上げた。
「カヲル君……いや、第、17使徒さん」
幽霊の顔が、また笑ったように見えた。それは確かに、カヲル君の笑みとは少し異なって見えた。
こんな場所が、まだ残っていたなんて。
そう思わずにいられなかった。
町の片隅にあるとあるマンホールを開き、複雑に入り組んだルートを進んだその先には、あの地下空間への道があった。ケンスケはネルフには入ったこともないくせに、まるで熟練の職員みたいに正確に道を把握していた。
「何でこんなルートを知ってるのさ、ケンスケ。またどこか、ハッキングでもしたわけ?」
暗闇の中をケンスケの後ろについてはいずりながら、僕はたまらずそんなことを訊いた。日中はパソコン、週末はキャンプのケンスケにこんなことを調べてる余裕があるとは思えなかったからだ。僕のイメージでは、高校からのケンスケはあれほどあったエヴァやネルフへの興味をそのままコンピュータやアウトドアに振り分けた、普通のマニア少年だった。
僕が訊くと、ケンスケは器用に振り返って答えた。
「ばーか」
まるでアスカみたいな口調だった。ケンスケのにんまりとした笑いが、僕のヘルメットにくっ付いたライトに照らされる。
「馬鹿とはなんだよ」
「お前、俺が毎週毎週飽きずにキャンプ行ってるとでも思ってたのか?」
呆れたような口調。
「え? ってことは」
「あそこにも、ネルフの昔作ったルートがある。表立ってマンホール外して回るわけにもいかないし」
ネルフのこと、興味がなくなったってわけじゃなかったんだ。僕は何となく納得してしまって、そのまま後に続いた。
はいずる道は長かった。長い穴をモグラのように進む道のりの間に、ケンスケはこのルートについて語った。この街に張り巡らされた道、それをどうして調べるようになったのかを。
きっかけは中学生の時だった。ケンスケは第5使徒戦の出撃を目撃した一人で、それ以来、この街の中に縦横無尽に張り巡らされているルートのことは気になっていたのだという。第3新東京市にはシェルターをつなぐレベルのルート以外にも、兵装運搬用経路、物資運搬用車両路、人員運搬用車両路、建築用特殊車両路、果ては空調用空洞など、ネルフ職員しか知らず、またネルフ職員でも自らの管轄するルート以外は知ることのない穴が無数に存在していた。
ケンスケが直接知ることができたのは父親のパソコンから入手した一番重要性が低く知るものも少ない経路だった。だが、だからこそ彼はそこを足がかりに、閉鎖された街を巡る道について少しずつ自分の知識を広げることができた。
「ダンジョン攻略みたいで面白かったよ。あの後は問答無用で閉鎖されたからな、旧区画は」
ゆっくりと斜め穴を下りながら、ケンスケは楽しげにそう言った。
あの後とは、当然サード・インパクトの後のことだ。サード・インパクトの後、気づけばそこには、あの湖になった第3新東京市があった。まるであの戦いは嘘だと言われているように思えて、少し釈然としない部分はあった。とはいえ、悪いことばかりではない。あの戦いの後がないことで、僕たちが立ち直るのは幾分楽になったと今なら思える。
僕が少しだけ痛い記憶を思い出している間にも、ケンスケは話を続けていた。
「まあ、最初はどんなぐずぐずの地下街が広がってるかって思ったんだけどな。水没で浸水した場所以外は、綺麗なもんだよ……ほら」
ケンスケが僕の目の前から消える。しかしすぐに、長い道が終わったのだと気づいた。
いや、違う。ここからが、本当の道なのだ。僕の力で進まなければならない道だった。
「僕に……何か、できることはありますか?」
考えた果てに、僕が言ったのはその言葉だった。彼は肉体を失って困っている、それは僕の責任だ、ならば、こうするしかなかった。
幽霊はからかうように言った。
『それは罪滅ぼしかな? 碇シンジ君。君が屠ったアダムと、君を守って死んだリリスへの』
「わからない。でも……何か、できることがあるなら、手伝わせて欲しいんだ」
嘘ではなかった。幽霊もそれがわかったように、ため息をつく。そんな風に見えた。
『いいだろう』しばらく黙って『僕はどうやら元々、そのつもりで着たらしい。君が怯えきっているせいで、お話にならなかったけれどね』と、せせら笑うように言った。
これは彼の言葉をきっかけにして始まった、彼のための旅だった。幽霊の目的――L.C.L.を探すための。
使徒の肉体は、そして僕らの肉体もまた、L.C.L.に還元することができる。
L.C.L.はA.T.フィールドの力で使徒や人間の肉体を形作る。普段、僕らは常にA.T.フィールドをまとい、死んでも魂の残滓が残るためにL.C.L.にまで還元されることはなく、死体になるだけだ。けれども、例えばあのサード・インパクトや、僕が体験した異常なシンクロ率のように、何らかの方法でその力がを完全に失われてしまえばL.C.L.に戻る。それが幽霊が僕らに語ったことだった。
サルベージというのは、L.C.L.から無理やりに魂や肉体だけを取り出したり、あるいは、魂の宿った肉体をそこから取り出すということだ。幽霊の場合、魂が宿った肉体をL.C.L.へ還元され、魂と肉体へと分離された。
『僕は元は使徒だから、魂のない肉体に宿ることも人間よりは容易だ。ただ、魂のない肉体が単純な方法で手に入るということはない。それは世界の法則には反した存在だからね。それを取り出しまた定着させるには、L.C.L.が必要なんだよ。そしてそこへの道を知っているのは――今は君だけだ』
要するに、彼は肉体を取り戻したかったのだ。
だから今、僕らは歩いている。ケンスケも足を踏み入れたことのないジオフロントの奥地へ、僕の不確かな記憶だけを頼りにして。
「まだか? もうどれだけ下ったんだよ、これ」
歩みを進める僕に、ケンスケが不安げに問いかけた。それもそのはずだ。ここはもう、あの横道からはるか下、本部の残骸があった空洞部を抜けて、さらにその地下だった。
「エヴァで入った時は、ひと思いに降りてきたんだけど」
円く開いた空洞の壁に沿って下る螺旋階段をひたすら下りながら僕は言い訳した。
「ひと思いって……この高さを?」
「さあ……あの時は、多分浮いてたから……ターミナル・ドグマなんて、普段降りなかったし」
僕が本当にわからないことが伝わったんだろう、ケンスケもそれっきり訊くのを諦めて、また黙々と階段を下った。
階段の終わりには、大きく穴を開けた大空洞の出口を一周する道と、奥に入る小さな横道一本だけがあった。僕らは迷わず横道に入り、暗い道をまた延々と進んだ。それからの道は、もう一本だ。僕らは狭い通り道を進み、その突き当たりになっている場所にエレベーターを発見した。
「これ」
ケンスケが振り向く。ヘルメットのライトは消えているのに、その顔が見えた。
「ああ。ここだけ……電源が生きてる。非常時にここだけ維持されるようになってるみたいだ」
オレンジ色に小さく光ったボタンを押すと、プー、という警戒音の後で、懐かしい圧搾音と共に小型のエレベーターが開いた。それはあの時、ミサトさんが僕を押し込めたのと同じ型のエレベーターだった。
けれども。
もう、無理やり僕をエレベーターに放り込んでくれるミサトさんはいない。でも、僕は行かなければならない。ケリをつけるために。そう自分で決めて、ここまで来たのだ。
「いいんだよな」
そう訊くケンスケを肩越しに振り返って、僕は答えた。今度は一人じゃないんだな、と思いながら。
「うん……行こう」
言いながら、僕は金網の勢いに任せ、エレベーターに乗り込んだ。
入った時と同じビープ音を発して、エレベーターの金網が開いた。
そこには巨大な十字架があった。
警戒色で縁取られた打ちっぱなしの床を少し進むと、その全景が視界に入る。ちょうど、あのエヴァンゲリオンをつないでおくのにちょうどいい位の、馬鹿でかくて赤々とした十字架が、壁に引っかかっていた。ところどころ六角形に薄く光っているだけで、全体としてはぼやっと薄暗い空間の中、それだけが赤くライトアップされている。
「ここが……」
呆然と呟く俺の疑問を、シンジが肯定した。
「うん。ヘブンズ・ドア……巨人がいたところだよ。ねえ、17使徒さん! いるんだろう!」
シンジは俺たちが来たはずの道と平行に続いていたはずの空洞に向かって叫んだ。ぽっかりと開いた空洞がその声を飲み込み、その中から、明瞭な答えが返ってきた。
『ああ。ご苦労様だったね』
大して申し訳なさそうでもない声で形だけ謝りながら、水面を滑るように幽霊は現れた。闇の中に浮かび上がった身体は周りのぼやけた風景から切り取られたみたいに際立っていた。
俺はその時ようやくその水面が赤い色をしているのに気づいた。
赤?
俺はヘルメットのライトをつけ、もう一度その水面を照らした。白い光に照らされた水面は、記憶の中にあるオレンジ色を反射していた。俺たちは、もうL.C.L.に囲まれていたのだ。
そうしている間に幽霊はやってきた。するりと足場へ上り、俺たちの前でぴたりと止まる。感慨深げに周りを見渡して、何か呟いていた。
「ここで、いいのか?」
何も言わないシンジの代わりに、俺は訊いた。
すると幽霊は俺たちがいることについさっき気がついたかのように振り向き、表情を崩した。
隣にいるシンジが息を呑むのがわかった。俺もまた、息を呑んでいた。振り向いた幽霊が浮かべた笑顔があの部屋で俺たちに見せたいやらしい笑顔とは全く違うさっぱりとした微笑だったからだ。
やっと出てきた現実感をまた失わせるような微笑をたたえたままで、そいつは言った。
『ありがとう。これで……僕は、やっと死ねる』
言葉を失ってしまった俺とは対照的に、シンジは何か知っているみたいに確信のこもった声で話した。
「言うと、思ったよ」
一瞬だけまだどこにもない目を見開き、幽霊は問いかける。
『どうして?』
「カヲル君も、僕に同じことを言った。同じ顔でね」
そうだったのか、と俺は納得する。シンジが息を呑んだのは、俺とは別の理由からだったのだ。シンジはあいつの笑みの中に、殺したっていう第17使徒の笑顔を見ていたのだ。
そして納得したのは幽霊も同じらしかった。
『そう、か。そういうことか』言うなり、ふっ、と吹き出して笑い始めた。『くっ、は、はははははは。たいしたものだ。これは傑作だ。どうしたって僕は君の中にあるイメージに引きずられずにはいられなかったらしい』
「僕の中にある……イメージ?」
シンジが顔をしかめた後も相変わらず幽霊は笑っていた。だが、静かに息が抜けるその笑い声はまるでため息のようで、どこか落胆したような響きがあった。
『そうだ。僕は魂だけの、実在しているかどうかもあやふやなものにすぎない。それこそ君のA.T.フィールドに間借りすることで何とか存在としての体裁を保っていると言っても過言ではない。だから――僕はどうやっても宿主とも言える君の精神から影響を受けずにはいられなかったのさ。そうだ、簡単なことだ。忘れていたんだろうか、僕は。いや、知っていてそれでもなお――』
「お、おい、ちょっと」
焦ったように早口で語り始めたのに驚いた俺が声をかけても、幽霊は止まらなかった。
『――なお、僕はそうせざるを得なかった。君も知っているだろう、君たちがA.T.フィールドと呼ぶものは』
「何人にも侵されざる聖なる領域、心の……光」
早口に当てられたのか、シンジは熱に浮かされるようにその言葉を口にした。詩の一節みたいに芝居がかった文句は、この二人の間では大きな意味がある言葉のようだった。
『そこに踏み込んだものはそれなりの代償を払わなければならない。そうだね。心の光。まさに、僕が言ったことだ』
シンジが顔色を変えるが、状況がまるでつかめない俺は口を挟むこともできずただ見ているしかない。
「何、言ってるんだよ。カヲル君じゃないって言ったのは、君じゃないか」
シンジの声は震えている。顔を伏せ、強く握った手も震えていた。最後の使徒戦の時も、こうして言い合ったのだろうか、とふと思う。
そうだ。あの頃と同じだ。シンジに災難が降りかかり、俺には何もできない。……俺は何やってる。どうして今こんなところで間抜けみたいに突っ立ってるんだ。
『そうだった。僕は確かにあの時点では君の知る「渚カヲル」とはほとんどつながりを持たなかった。僕は君という存在によってのみ、彼と結びつけられていたんだ。だが僕は君の意志の影響下にあってここに来ることを望み、君はそれに従って僕をここに僕を連れてきてしまった。この場には生命の水たるL.C.L.がある。この場所は彼が生き、そして死んだ空間で、ここにあるL.C.L.は彼の生命を吸い、その存在を記録したものだ。だから、それらを媒介として本来はなかったはずのつながりが僕と彼の間に生まれ――僕はここにこうして再現されたんだよ。「シンジ君」。君の願いのままに』
「そん、な」
『そして、こうして僕がここに再現された以上、僕はまた同じことを君に言うしかない。さあ、僕を消してくれ。碇シンジ君。滅びの時を免れ、未来を与えられる生命体はたったひとつしか選ばれない。そしてそれは、もう選ばれた』
「そんな……僕に、二回も、君を殺させようって言うの? ……カヲル君」
もうシンジは、そう呼ぶことを躊躇しなかった。
『認めたね。それこそが僕を渚カヲルにした……まあ仕方のないことさ。これもまた運命だ。君が渚カヲルという存在を断ち切るために、僕は生命を与えられるのかもしれない。何、迷うことはないさ。今の僕は渚カヲルという存在の、君の中に残る残滓にしか過ぎないのだから。ありがとう。そして、――さよなら』
物理法則が覆るのは、俺が声を上げるよりずっと早かった。幽霊が口調を変えて、さっきまでよりはずっと優しげな声でそう呼びかけた途端、水面からいくらかの水がぬっと現れ――幽霊がいる位置に集まってはじけた。
俺が声を上げ終わってまぶたを上げた時、そこには幻影に見た優男が笑っていた。
赤い目と、生白い肌、長い手足、華奢な肩と、大きな口。
ただ、髪があの灰みたいな白ではなく、むしろ綾波に似た青味がかったような白である点だけが異なっているように見える。
「いや……?」
それだけではなかった。他にもよく見ると、色々違う点がある。
俺は写真をやっているから、被写体の変化にはそれなりに敏感だ。だから、かなり小さな変化にも気づくことができた。実体になったこいつは、あの幻より背丈がやや小さい。華奢な肩からは、あの幻から感じた大柄なイメージは消えている。そして、惣流みたいな優しげで、その分腹黒い感じもした目は、少しきつめに。よく見ると髪形も、量が減った分やや長くなって、まるで、これは――
「あや、なみ?」
シンジが俺の代わりに答えを出していた。
そう、それはあの「渚カヲル」とか言う幻に、綾波を足して二で割ったような姿をしていた。とはいえ、スカートを履いているなんてことはなかったが。どちらかと言えば、あの渚カヲルの幻をベースにして、どころどころに綾波の特徴が顔を出したような、そんな感じだった。
「これは……」
それは俺の声でも、シンジの声でもなかった。甘い響きのするその声は、俺たちの目の前にいる、渚カヲルでも綾波レイでもない者が出した声だった。
「……そう、か」
青い髪の男は納得したように天井を見上げ、ぽつりとそう言った。
「あの場所には、そうだ、君もいたんだな。リリス、いや……綾波レイ。君はそうして、そこで僕を見下ろしていた。そして君こそは、全てのL.C.L.の生産者であり、大いなる母だ。忘れていたよ、それを」
言っていることがいちいち意味不明だったが、どうやらそれが理由になっているらしかった。
「綾波、なの?」
シンジは確かめるように、ゆっくりと言葉を区切って言った。青い髪の男はもう微笑んでいなかった。
「彼女はもういない」男にしてはやや高めの音が混じったその声はよく響いた。「渚カヲルがここにいないように。ここにいるのは……ただ、その残骸に過ぎない。君の中で交じり合ったイメージが作り出した、できそこないの残骸だ」
がっくりと肩を落として青い髪の男は言った。初めに姿を現したときの馬鹿にするような余裕はもうどこにもなかった。それは足を失った三脚のようで、もう起き上がることはないのではないかと思えた。
うなだれたままで男はさらに言う。
「僕は……どうすればいい?」
こいつが不安げな言葉を口にするのを聞いたのは、これが初めてだった。
涙声を聞くのも。
涙声が俺の中にまた、さっき感じた憤りを湧き上がらせたのがわかった。
幽霊だった男は静かに泣いていた。暗い場所で名前もないままで、自分以外のものに操られっぱなしの自分を哀れむみたいに、声を出さず泣いていた。
その姿を呆然として見つめるシンジの隣で、俺は自分の怒りの理由を探していた。
どうして俺は、こうしてシンジについてきたのか。俺は、どうしたいのか。
俺が考える間もずっと、少しだけ生臭い臭いのする洞穴の中で男は顔を上げずに静かに泣き続けていた。
だから、俺は――
ぶった切りだけど、これで第3新東京市に現れた幽霊の話は終わりだ。というわけで、ここからは後日談だ。ぶつ切りだからといって、語り手が死んでしまうような大きな事態が発生した……というわけでは、幸運にして、ない。
とはいえ、それは僕にとってはけっこう大きな事態だったし、ケンスケにとってもそうだったかもしれない。でもどっちにしろ、それはあくまでも個人的な大事件だ。
あの後。ケンスケは膠着した状況を大転回させる演説を打って、僕も彼もすっかりその言葉に感じ入ってしまったりした。あの頃のケンスケは輝いていた。
でも、綾波とリツコさんとの間にあったことと同じに僕はそれを秘密にしようと思う。
彼を自分のところに招いたケンスケは僕に決してその後の彼のことを教えようとしなかったし、あの演説の話もまた、二度としなかったからだ。
というわけで、それは謎のまま。
結局のところは、謎がひとつ減り、その代わりの謎がふたつ増えたというわけだ。
さて、あれから随分時間が経った今からあの中途半端な事件――事件だったのだろう、恐らく――を考えてみるに、それを通して僕が何かしら成長したのか、といえばあんまり自信はない。あの時期全体を通して、何かを悟ったっと思えばそれが実は大間違いだった、ということをくるくるくるくる延々と繰り返していただけのような気もする。それはケンスケにしたってそうで、あの大演説で何かを吹っ切ったように見えたケンスケはその後もしばらく地下道探検を続けていた。
しかし、時は流れる。
中学生の時に前に進み損ねた僕らは高校生の時もやっぱり進み損ねて、同じようにそれ以降もくるくる回って、その内くるくる回っていることに慣れて開き直るくらい図々しくなっただけのような気もするが、しかし、それくらい時間が流れた。
そして僕らはくるくる回りながらでも、それぞれに歳をとり、それぞれの道を進んだ。
僕らは幸いにも、特筆する程に不幸になったりはしていないので、あれからの僕らの成り行きを長々と記してもあまり意味はないだろう。だから、ケンスケや、トウジや洞木やアスカがあれからどうなって、今何をしているのか、なんてことは言わないでおく。
ただ少しだけ補足すると、僕はあれからもトウジと洞木については相変わらずレコード更新に賭け続け、高校の時は僕が負け続けたけれど、最終的には僕が総取りしてゲーム・オーバーということになった。
それはかなり前の話。
ゲーム・オーバーの確定式は僕やアスカも参加して盛大に執り行われた。
そしてその式場で、久しぶりに日本に来たアスカは僕に「すぐそこでファーストの幽霊みたいなのを見た」と言った。
僕はすぐさま「着いたばっかりなのにもう酔ったの?」と返して久々に殴られたのだが、その手の動きは相応に手加減された大人の動きだった。その動きに少しだけどきっとしたことは、置いておいておくとして――
僕の対応は恐らく間違ってはいないだろう。
もう綾波はこの世にいない。
そんなことは当たり前で、そのことを思い出して泣けるほど、もう僕は若くない。今でも何となく後ろめたい気持ちを抱えているというのはその通りで、もう引きずったりどうこうということを考えるまでもなく、自分の一部のようにその気持ちを引き連れて生きている。とはいえ、だからってそれに四六時中縛られて動けなくなっているわけにもいかない。
だから僕はその報告を自分の記憶に照らし合わせた上で冷静に判断して、その上でアスカに軽口を返すことができたのだ。
綾波はもういなくて、であればアスカの言った「綾波みたいなの」というのはきっと彼のことだと思ったからだ。
僕が殺さなかった、あの幽霊だった男の子。
僕が知っていた人とは違う人として生きることになった、あの男の子。
それは別のある時の話。
梅雨時の地下鉄は出るのも入るのもそれぞれに嫌なもので、僕はもうスーツの足元を捲くるのも面倒臭く、濡れるままにして出口を出た。雨はやっぱり強く、僕は風に追い立てられるみたいに強く降ったり、かと思えばへばったように弱く降ったりを繰り返す大粒の雨の中を鞄を抱えて歩いた。
地下にどれだけ穴が開いていたって、雨が流れなきゃ意味がない。
心の中で理不尽にそんな悪態を吐きながら、僕は早足で歩いていた。
が、信号につかまった。縦横斜め、スクランブル交差点に掛かる横断歩道の信号は全て赤。
「勘弁してよ……」
舌打ちしてからお約束のセリフを言っても、別に信号が感じ入って変わってくれるわけじゃない。仕方なく、雨をよくはじく忌々しい縁石からなるべく離れて立って、僕は信号が変わるのを待っていた。
その時のことだ。
横断歩道を挟んだ向こう側に、中学生らしき制服を着た青い髪の男の子が立っているのが見えた。
……ような気がした。
実際のところ、誰も彼も傘を差していたわ、そもそも雨でけぶって視界は悪いわで、よく見えなかったのだ。
でも、僕はそこに彼の姿を見つけたような気がした。
ぼんやりとしか見えない歩道橋の向こうで、彼が僕にふいに笑いかけたような気がした。
そしてまた別の、ある時の話。
僕はその日営業先から直帰ということになり、夕方の郊外を久しぶりにゆったりと歩いていた。
地元の人間くらいしか通らない、首都には似つかわしくない細い横道を通り、ちょうど学校からの帰り道にもなっている坂へ合流して、長い坂を疲れないようにゆっくりと上った。
その時のことだ。
「あ、待って、渚君!」
そんな歳若い声を、僕は確かに坂の下に聞いた。
「急いでくれよ? 塾に行ってないとはいえ、僕だってそれなりに忙しいんだからさ」
そんなふうに答える、ちょっと高めの声も。
あの男の子とそっくりな、少し高めのよく響く甘い声。
僕はその時振り向けなかったから、果たしてそれが、そういうことだったのか、それともただの勘違いなのかはわからない。
でも今でも、心のどこかで、そうであればいいな、と思っている。
ずいぶん残酷だと思われるかもしれないし、確かに自分自身そう思う。もし彼がずっと中学生か何かとしてこの街をうろうろしているなら、それはもしかすると想像を絶する地獄になるのかもしれない。彼をそんな中途半端な存在にしてしまったのは僕のせいでもあるのだ。
しかし、少なくとも僕は、あの幽霊がまだ生きていてくれればいいと思う。
記憶の中にある彼の顔はもううすぼんやりとしていて、上手く思い出せないけれど。
それでも、できればそれなりに楽しく、生きていて欲しいと願う。
もし彼が僕とまだどこかでつながっているなら――
僕が願うことで、もしかしたら彼が幸せになれるかもしれないと信じているから。
だから僕はたまに街を歩くときにはいつでも、街並みの中に今日も第3新東京市にいるかもしれないぼんやりとしたその記憶の影を探すともなく探しているのだ。