- The rest stories of "Project Eva" #38 -

"彼は目覚めへの階段を上り"

1

目を覚ましたのは病院のベッドの上で、周りにいる人々は僕に、六年振りに目覚めたのだと伝えた。

僕は首だけを何とか傾けて、その人々の顔を凝視した。

それは僕にとってただ「人」としか言いようがないものだった。それだけしかわからない。僕はその人たちの顔を見分けることができなかったし、声も聞き分けられなかった。

そのことを白衣の内の一人に伝えると、彼(または彼女)は困惑気味に言った。

「まあ、ありえることだから」

「でも本当にわからないんです」

大きく息をつく音が聞こえた。その顔を確認することはできなかったけれど。

「君は六年間も昏睡していたんだ、無理もない。自分の名前が思い出せるかい?」

「碇シンジ」

僕は即答した。そのことは覚えていた。僕は碇シンジのはずだった。どうしてそのことがわからないのだろう?

「正解だ。それじゃあ、君は何歳だい?」

それこそ言うまでもないことだった。

「馬鹿にしているんですか、十四歳に決まっているじゃないですか」

彼は表情を変えて、僕にそっと言った。

「残念だが……外れだ。君は今、二十一歳だ。今は2022年で、ここは東京都にある国立病院だ。封地措置が解除されて再開発された東京都のね」

その途端、突然世界がぐるりと回転したような気分になった。

自分が誰なのかを思い出そうとした。大事なことを思い出さなければならないような気がした。

僕は何なのか、碇シンジとは、いったい何なのか? 碇シンジという人間。人間?

息が荒くなっているのがわかる。しかし拳を力いっぱい握り締めようにも、腕から先が消え失せてしまったように力が入らなかった。代わりに目を力いっぱいに開こうとしたが、それすらも難しかった。

それでも、どうにか泣くことはできた。

しかしそれも、できたと言えるほど能動的な行動ではないと思う。嗚咽を止めることができなかった、と言った方が正しい。僕は自分が誰なのかも思い出すことができず、情けなく鼻水を垂れ流すしかなかった。

僕には何もなかった。僕の中にあったものはどこかへ流れ去ってしまったのだ。時間が経って洞の空いた木になったような気分だった。

僕に残されたのは、碇シンジという名前と、この力の入らない衰えた身体、そして誰だかもわからないこのあいまいな自分だけだった。

かなり長いこと僕は泣き続けたが、泣き終えてしまうと妙に冷静な気分になった。自分がどうなるのか、ということが気になった。

「僕は、ずっとこのままなんですか?」

目の前で静かに僕を待っていた人物は、先ほどとは違った表情をした。目を細めて口腔の端を吊り上げるその表情は、確か、笑みだった。そんな表情もしっかりと読み取れないほどに、僕の頭は衰えている。

僕は自分が笑っているのかと思って、確かめようとした。けれども自分の顔はどこにも見えなかった。

彼女(か彼)は僕に向かって、変化が抑えられた静かな声で語りかけた。

「大丈夫、きっと、よくなります……そうして貰わなければ、収まらない」

その言葉から細かい表情を読み解くことは、今の僕には不可能だった。

2

それからというもの、僕は相変わらず寝たままで各種の機械の中に放り込まれ、また各種の機械を身体の中に注入されることになった。

酷く不快に思えるものもあったけれど、それでこの不安感から――自分が何者なのかがわからないというどうしようもない不安感から抜け出すことができるなら、構わないと思えた。

しかし、そんな覚悟とは裏腹に特に大きな発見はなかった。

機械は僕の身体をくまなく調べたがしかし特段の異常も発見できず、結局僕は自分のことを見失ったまま、まずは身体の回復に勤めることになった。

とはいえ、僕に与えられた任務は規則正しく睡眠を取るという、それだけのことだった。昏睡し続けていた脳は睡眠のリズムを忘れていて、僕は眠れずに苦労した。

僕は薬の助けを借りながら、いち早く生きている人間のリズムに身体を慣らそうとした。

やがて身体が回復し、一日に一回から二回の短い睡眠を繰り返すサイクルに順応しはじめた後、僕は夢を見るようになった。

そこは悪夢の世界だった。

赤黒い海の中で、僕は誰かと話をしていた。相手は一人だったような気もするし、二人だったような気もする。

そこで僕は楽園への道の途中にいて、しかし同時に地獄への道もまだ見える。

何度繰り返しても、僕は必ず苦しみへの道を選び、再び地獄へと追い落とされることになる。

地獄への道を選び取ったところで、いつも僕は起き上がる。

その場所がどこなのかも、選択肢を目の前に掲げたのは誰なのかも、起きてみると雨の水煙にけぶったようにわからないのだった。

「フムン」

ベッドの隣に腰掛けた、カメに似た顔をした生真面目そうな医師はやたら規則正しく息をついた。

僕はいまだ病院のベッドの上にいる。睡眠が取れるようになったことで多少は回復してきたものの、立ち上がるのには程遠かった。

永久に不可能なのかもしれない、とも思えて、また僕は悲しくなった。

医師はこつん、とペン・タブレットを電子カルテに当てる。

「その夢は昔から見ていたものですか? ああ、昏睡に入る前からという意味ですが」

「わかりません。……今もまだ、記憶があやふやなんです」

何でそんなことがわからないのだろう、と思った。

「うむ……」

医師は唸りながらカルテに何か書き込んだ。

「少し、大掛かりな治療をもう一度やらなければいけないかもしれませんな」

「大掛かりな治療?」

問い返したが、しかし、僕にとってはもうひとつの言葉の方がより気になった。

「もう一度?」

医師は僕の考えた疑問を正確に理解して答えを返してくれた。

「ああ、まだそのことは知らされていなかったんですね。よろしい。では私から説明しておきましょう」

そう言うと、医師はカルテに何かしら打ち込み、僕の方にかざした。

カルテにはどこか見覚えのあるように思える、言ったとおり「大掛かり」な機械が映し出されていた。それは巨大な円筒の形をしていて、中心部に人が乗り込むためと思しき出入り口が開いていた。

「これは?」

「L.C.L.プラント・システムといいます」

L.C.L. 聞き覚えのある言葉のような感じがするが、よく思い出せない。頭の中にある記憶はまだばらばらでおよそ秩序がない。恐らくL.C.L.という言葉もその無秩序な記憶のどこかに、他の何にも結び付けられないまま放り出されているのだろう。

医師は僕が何も思い出せないと考えたのを読みとったのか、さらに説明を続けた。

「覚えていないかも知れませんが、これはあなたが以前搭乗していた戦闘機械の技術を応用したものです。L.C.L.という特殊な液体を酸素飽和状態にして、患者をその中に沈め、その上で脳の状態をモニターして精神や記憶、神経系や筋肉に対して働きかける装置です」

「以前もこれを使って、僕を?」

「ええ、あなたの機能を回復させるために使用しました。……ああ、もちろん、この装置は完全にコントロールされていますから、装置側からあなたの記憶に対してのなんらかの逆流が起こったということはありえません。これはあくまでも、あなたの失われてしまった身体機能を回復させ、断片化され乖離した記憶や精神を統合するのを助ける装置なんですから」

「はあ」

装置の細かいことよりも、断片化されている記憶と精神の統合という機能の方に興味を引かれた。

僕は断片化され、統合されていない精神と記憶を持っている。それは正しい。僕は精神に混乱をきたし、記憶もあやふやだ。

――けれど。

それは人間の普遍的な性質ではないだろうか?

もともと人間は、精神も記憶も散り散りになっているものなのではないか?

どうしてかそんな考えが鮮明に頭をよぎったが、黙っていた。

黙り込むうち、さらに頭が回転を始めるのがわかった。久しぶりに水を与えられた植木のように頭の中で思考の蔓が伸びた。

精神に混乱を来たし、記憶もあやふやである僕。途切れた精神と散り散りの記憶。まとまらない「僕」。

「僕」は分散している。ならば、それを統合しきった時にはいったい何が起こるのだろう。

そこには、何が待っているのだろう?

同じ考えがぐるぐると渦巻いて、頭から離れなかった。

黙り込む僕を見かねて、医師が僕の顔を覗き込んだ。

「どうされます? 不安なら、もう少し経過を見ても構わないんですよ」

「いえ……是非、お願いします」

はっきりとそう答えたのはむしろ、頭を巡る疑問への興味からだった。

3

治療自体は、大した時間もかけずに終わった。生ぬるい液体の中で過ごす時間は誰かにあたたかく抱かれているように不思議と気分がよかった。

「小規模な治療を何度か繰り返し行うことでリスクを減らすことができます」と以前とは別人であるらしい医師は言って、「次回は来週行いましょう。なに、これを三回も行えば、すっかり回復してしまいますよ。心も、身体も」

「ありがとうございます」

僕はようやく動くようになった上半身を動かして、その声に答えた。確かにこの治療を行えば身体の機能は確実に向上するらしい。その姿を見た看護婦が目を丸くした。

だが、精神の方はそう上手くはいかなかった。治療が終わるとしばらくは妙な気分が続いた。頭の中に何かが形になろうともやもやしている。形になっていない思考の影。だが、にもかかわらず全体を見るとやけにクリアーだ。水蒸気から雲ができるように、それまで世界を覆うように薄く広がっていた思考のもやが集まって、濃い霧の部分とそうでない部分にすっぱりと分かれたようだ。

この霧が水滴となって境界を持ち、ついに固体となって凍りつくころには、僕はどうなっているのだろうか。

そんなことを考えながら、僕は意識を取り戻したときにも行われたテストをもう一度受けていた。

「はい、じゃあ私が言う数字を復唱してくださいね。2、4、6、8、1、2、8」

僕はほとんど上の空で答えた。

「2、4、6、8、1、2、8」

「それでは、次。9、8、5、6、1、4、5」

「9、8、5、6、1、4、5」

看護師が軽く表情を崩した。

「こっちは余裕ですね。じゃあ……」

同じような、記憶力を試すテストが数問続き、僕はほとんど答えることができた。正常に脳が働いているならば、答えられるテストだという。それを考えると、僕の頭もある程度は回復しているのかもしれないと思えた。

うんざりするほどの量のテストを終えた後、最後に看護師はさらりと付け加えた。

「――じゃあ、2122年の十一回目の金曜日は?」

僕は一瞬壁にかかっているカレンダーを見て今日の日付を確認してから、さっきとほぼ同じペースで答えた。

「三月十三日」

「はい。ご苦労様。これでテストは終了です」

「あれ、さっきの……」

「ああ、あれは冗談よ」

冗談だったらしい。看護師は片眉を上げながら首を傾げた僕をしばらく眺め、ため息をついた。そして、一応確かめてみるわ、とつぶやいて、端末で検索をかけ始めた。

「これが当たってたら、あなたは天才ね」

ふふん、と息を漏らして彼女(恐らく)は言った。

そして、すぐに青ざめた顔になり、僕に目もくれず部屋の外へと駆けていった。

どうやら、僕は何かをしでかしたらしかった。

そして、泡を食って僕の前に現れた医師の命令でさらに数十通りの複雑なテストを受けさせられた後、目を回した看護師を伴わず僕の前に現われた医師は少しだけ震えた声で言った。

「まだテストしてみなければわかりませんが」

やれやれまたテストか、とは口に出さなかった。

「これは凄い。テストの結果は、満点でした」

「採点の機械が壊れていたとか……」

「手作業でも確認しました。三回もね」

「いや、でも、そんな……」

いくらなんでもそんなことはないだろう。天才であった覚えはない。

「僕は昔からそんなふうだったんですか?」

医師は電子カルテを確認して、息をつく。

「その可能性はありますね。あなたのお母さんはネルフの科学者だったようだし、お父さんも、元科学者だ。あれだけのものを作った組織の中心人物です。さぞ頭のよい方々だったんでしょう。であれば、その素質が息子のあなたに伝わったためだという可能性は充分にある。ですが……」

「何か?」

「十四歳――つまり、中学生の時の所見を確認したのですが、その時はこれほどまでの結果は出ていないんですよ」

医師は肩をすくめながら僕に電子カルテをよこした。

そこにはこうあった。

碇シンジ。十四歳、男性。幼少時より養育者(氏名は明かされていない)の元で庇護を受ける。成績は優秀だが、運動その他の能力は平均的。性格には内向的な面が目立つが、幼少時より一貫してチェロの習練を行うなど、一定の向上心・問題解決能力はもあると見てよいだろう。

そのような文章から始まる所見は、かなり事細かに碇シンジという人間を描写していた。

僕の知らない碇シンジという人間が、そこにはいた。

数ページにも渡る、ちょっとした伝記くらいはある長い所見の最後には「赤木リツコ」という電子署名があった。

聞き覚えのある名前だった。

「赤木リツコさん、か。知っている」

「でしょうね」と医師は鷹揚に頷いた。「彼女はあなたが昏睡する前、あなたを戦闘機械に搭乗させていたチームのスタッフだった科学者ですから」

「戦闘機械、か。さっきの治療で使われてた機械の説明でも話に出ましたが、それって、どういう物なんですか?」

医師は妙な表情を作って、黙った。

「ああ……それは、私からは言わない方がいいでしょう。今のあなたはさらに加療を受ける段階にいます。ここで妙なインプットを脳に与えることは、正常な回復を阻害しかねない。脳はデリケートな器官ですから」

どうも釈然としない。それなら、さっき見せた電子カルテはどうなるのだろう?

だが、僕はそれ以上を質問するのは止め、話を変えた。

「あの……次の治療は、いつ?」

医師は両頬に大きく肉を寄せ、口の端を大きく吊り上げる。

「ご安心下さい。あなたの治療は最優先で進めています。あなたの状態さえ整えば、そうですね、二、三日中に二回目の加療が行えるでしょう。そのためにも! しっかり栄養を取って休んでくださいね」

それでは! と大きな声で言い、医師は病室を出て行った。

4

二回目の治療を受けて、僕は歩くことができるようになった。と言っても、まだ手すりを伝って歩くのも難しいが、ベッドの上で身体を動かすのも難しかった数日前に比べれば格段の進歩だった。

しかし、順調に回復して行く身体に比べて、記憶の回復は進んでいかなかった。

語彙が回復しているという感覚はあった。治療を受けた後、頭の中にそれまでは沈み込んでいた語彙が浮かび上がってきたのだ。強羅絶対防衛線。緊急時用マニュアル。オーバー・ザ・レインボゥ。BWV1007-1012。

しかし、それらの語彙はばらばらになって散らばるだけで、片付いていない部屋に荷物を運び込んだように混乱が余計深刻になっただけだった。そしてそれに呼応するように、僕は上手く感情を表に出すことができなくなった。チェロを弾きながら会話をした時に、何をしゃべっているのかわからなくなってしまうように、頭に浮かんでくる言葉(例えばどうして出てきたのかわからないチェロという言葉)を処理するので手一杯で、感情にエネルギーが回らない。

外面を見れば、精神の安定を得たように見えるかもしれない。しかしそれが正常なものかと問われれば自信はない。異常なら、多少頭の回転が良くなったところで僕はまだ記憶や感情の正常な起伏を失ったただの病人に過ぎない。

だが医師の興味は、既に僕の記憶や感情よりその能力へと移っているようだった。

「非常に珍しい症例です」

医師はううむ、と唸り声を上げながら僕を見た。真正面から見つめられても、目覚めたベッドで初めて顔を覗き込まれた時のような感情の波は起こらなかった。

「というと?」

別のことを考えながら僕は聞き返した。

「同種の治療は既に何例か報告されていますが、このように知能が特異に上昇したケースは皆無です。身体機能の回復がこれほど素早いケースも」

正常か異常か。

もう一度、断片化されている記憶と精神のことを考えていた。この機械による治療を通じて、僕の脳や神経は回復し、精神は統合されるという。

だが、その作業は果たして僕が正常になっていくということを示しているのか?

「では、僕は異常なのですか?」

それが気になっているのだ。

医師は腕組みをする。

「そうとは言いにくい。記憶、感情の障害は確かに重要な問題ですが、これだけの……そう、これだけの記憶力と思考力、判断能力を持ち合わせているなら、それらの機能に障害があるとも考えにくい、それに、君は……いや」

医師は独り言のようにそう言うと、しばらくカルテを見て黙り込んだ。そして決心したように顔を上げると言った。

「少し様子を見ましょう。今後の方針を決めるのは、今の状態に少し慣れてからにするしかないでしょう。さまざまな刺激を与えてみて、今の状態を確かめるのです」

言葉を濁して医師は席を立ち、僕も自分の足で席を立とうとして、よろけて支えられた。


この後しばらくして、僕は本格的に自分のことを考えるようになった。

それは物理的には治療の予定が白紙になったにもかかわらずリハビリの方は順調すぎるほど順調に進んだので必然的に余暇ができたためだったが、別の理由もあった。

それ以前から行っていたリハビリの中で、大きな発見をしたのだ。

僕にとってリハビリテーションは、身体にそこから失われた行動の型をもう一度定着させる訓練だった。目覚めた僕は歩くことが困難になっていて、それは治療を受けた後も変わらなかったが、そのは筋力の問題ではなかった。もちろん筋力や身体の柔軟性は必要だが、例の治療によってそれらの機能はある程度回復しているのだという。加えて麻痺もないければ脳の損傷も認められない。

歩くための機構は全て正常に機能しているのに、歩くという機能だけがぽっかりと欠け落ちていた。

それは重大な問題であるような気がしたが、治療に当たっている人々は寛容だった。そして、そんな彼ら(彼女ら)に勧められるまま僕は歩行訓練を受けていた。平行棒を伝って歩くオーソドックスな歩行訓練だ。

僕は自分が歩いていることを意識していた。

歩くことが困難である、というのはそういう意味だ。歩くこと自体は可能だった。ただ、それを無意識に行おうとすると、できなくはないが、非常な違和感が生じてしまう。

記憶の底に沈んでいて見えないが、恐らく正常に歩ける状態では、歩くということにそれほど自覚的にはならないのだろう。それが正しい歩き方だ。感覚から情報を集め神経に命令を出し、その結果をまた感覚から受け取る一連の流れ、それを散り散りになった行動の集合としてではなく、ひとつの行為として自然に意識せず行うのが「歩く」ということだ。

けれども、僕はそのようには歩けなかった。それゆえに、常に歩くということに含まれる様々な行為を意識していなければならない。平衡感覚を感じ、脚を上げようと考え、脚の上がった感覚を感じる。重心を前に傾け、脚を前に出し、接地する。そして床の感触を感じる。

僕はその時もその一連の流れを意識して、また意識の外へ置こうとしていた。そして、何とかそこで生じる違和感を意識せずにいよう、忘れられるようになろうとしていた。

そしてその時、僕は自分の中にだけ注意を向けていて、前を見ていなかった。

「危ない!」

「え?」

言われた時には、既に足の裏がその感触を捉えていた。足の下でひしゃげる物。粘り気のある感触。

何なのかはわからなかったが、しかしそれが僕の自由を奪い転ばせるのに充分であることはわかった。

だからその時、僕は今まで試みていたアプローチを諦め、全く別の方法を取った。

全てを制御しようとした。

自分が起こすばらばらの行為の全てを。

そして、それを行ってから、今までの認識が間違いであったことに気付いた。僕は自らが起こすばらばらの行為を制御できなくなったのではない。ただ、自分を制御する時に、自分の中で以前機能していたようなやり方を使う必要がなくなっただけだったのだ。

たたらを踏んで体勢を建て直し、足元に転がるゴムボールを慌てて駆け寄ってくる髪の長い人に手渡しながら、僕はその行動に必要な身体の制御について、そこで生起している全ての働きを意識して行っていることに思い当たった。腕の神経の働き、脚の筋肉の動き、内臓の動きまで。全てにおいて、無意識の内に身体を制御する必要が実はないことに気付いた。いまや僕は自らの身体の中で起こること全てを意識しながら、それを行うことができる。

その事実に思い当たった途端、半端に掛かりかけていた鍵がかちゃりと掛かったように、全てが噛みあい、動き出した。

そこには今まで自分がしてきただろうものとは全く異なった方法論が既に組み上げられていた。

それから二週間後の現在では、僕は秘密裏にではあるがほとんど完璧に自らの身体を意識下で制御できるようになっている。暇つぶしにと偽って借りた医学書に目を通し、ざっと身体機能について学びながら、心臓の拍動を、筋肉の収縮と弛緩を、神経の興奮と沈静を、僕は完璧に制御下に置いた。これから後、化学物質の相互関係を把握し終えれば、内臓からの化学物質の分泌も完全に制御下に編入することが可能になるだろう。

久しぶりにいい気分だった。今の僕には何でもできると思えた。事実、僕の身体機能は先に聞いた所見から推測できる限界を遥かに越えた領域に達していた。筋肉の収縮と弛緩を自由に操れる今となっては特別な筋力トレーニングをする必要はなかったが、しかしその一方で、正しく把握すればどんな動きでも完璧に真似をすることができた。

例えばチェロの運弓動作。僕はそれまでに修得していたと言われるチェロの演奏方法を失っていたが、チェリストの映像を幾つか確認し、実際の運弓を試して何回かの調整を行うことでほぼ完璧な演奏を実現した(大っぴらに披露することはできなかったが)。

しかし、それですべて良しとするわけには行かなかった。

精神と記憶の問題が僕の前に大きく横たわっていた。

僕の記憶の歪み方は確かにいびつだと言えた。何しろ、こと学習という面で言えば問題は全くないと言っていい。僕は本来習得しているべき高校程度の学習内容を数日の内に修得し、その知識を踏み台にしながら大学生向けの情報、さらには研究者向けの情報を吸収していた。

しかし、もっと主観的な記憶。わが身に起きたことやそこで感じた感情という段になると、僕の記憶は子供部屋でひっくり返されたおもちゃ箱のままだった。ケイジ。プログレッシブ・ナイフ。浅間山。記憶の広場には語彙がてんでばらばらに存在していた。

だが、解決方法を僕は思いついていた。

散り散りになった身体を新たな方法論で組み上げたように、散り散りになった記憶と精神を新たな方法論で組み上げることがでいれば、僕の身に起こっているそれらの障害はある程度解決されるのではないのか。

それを、試すことにしよう。

医師から聞いた手がかりのことを思い出した。赤木リツコによる所見を思い出し、それを手がかりに記憶を探る。自然にイメージが浮かぶのを待つのではなく、自ら語彙を汲み上げ、イメージを組み上げる。

やがて、頭の中に変わらずぼんやりと煙っていた霧、拡散していた語彙が振動を始めた。いや、振動させているのだ。

僕が。

僕はその語彙を全て把握していた。語彙を構成する要素、それぞれの要素に関係した感覚とそこで生起した感情、興奮する神経の束、そして網。

膨大なネットワーク。

その中に織り上げられている全ての要素を僕は把握し、制御し、新しい方法で組み上げた。

そして、僕はそれまでとは別の方法論で全てを思い出した。

ただ一箇所、要素が絡まってロックされている記憶を除いて。それは恐らくはトラウマに関することだろうと僕は予測をつけた。例えば母親が消えた瞬間、父親が僕を捨てた瞬間、僕は大きなショックを受ける。その記憶は、それをきっかけにネットワーク全体に重大な傷が生じないように瞬時に複雑に織り込まれてだまになる。

僕は新たな記憶を組み上げる過程でそれらの記憶にぶつかり、解析を行うやいなやまた厳重に織り込み、そのまま新しい記憶構造に繰り入れていた。

そのような来歴のため、僕はその要素に関しても無理に解こうとせず、そのまま組み入れることにした。

現状ではそのような課題を残しつつも、大方完全に僕は記憶を取り戻し、またそれに付随した今までに生起した感情の差分と型を意識としてある程度管理しなおすことに成功した。

非常にすっきりとした気分だった。一気に見通しが良くなった。記憶が完全に近づき価値判断に必要な感情が正常に近い働きを取り戻すことで、初めて正確な現状の把握が可能になる。

ところで、そこで可能になった現状把握によれば、現状は恐らく危険であると言えた。昏睡直前の記憶を勘案するに、ネルフは権限を破棄されたと考えるのが自然だ。であれば、恐らく僕は証言者、場合によっては主犯として正式に吊るし上げられるために保存されていたと推測できる。

これは悲観的に過ぎるだろうか。実際のところ推測の域を出ない論ではあるが、その傍証として、数週間前に初めて僕を診察した医師が漏らした「そうして貰わなければ、収まらない」という言葉、そして、僕がエヴァンゲリオン初号機のパイロットであるという事実が現在に至るもまだ伏せられているという事実が挙げられる。

僕は既に室内及び廊下にほぼ満遍なく監視カメラ及び録音装置が設置されていることに気付いているが、それは恐らくは僕をいずれ吊るし上げる法廷やそれに類するものにおける手続きに際して僕が洗脳を受けた疑いを払拭するために設置されている可能性が高い。後者、記録が伏せられあくまでも自力による記憶の再生が期待されるのは恐らくそのためだろう。その点では記憶にあるネルフよりも良心的であるという推測も可能だが、一方でこの病院の外を一歩出れば僕を吊るし上げるためのシュプレヒコールが上がっている可能性も否定できない。

とはいえ、僕の昏睡からの回復が正式に公表されている可能性は低くはあるし、現状で僕の能力の研究に意識が注がれている現状を見れば即刻そのような処理が行われる可能性はごく低い。

しかし総合的に判断すると、この病院に留まるのは得策ではないと判断できた。

5

私は準備を行い病院を脱出した。

同時に幾つかの処理を施した。まず、自らに関する管理記録の奪取と改竄、病院の帳簿操作による金銭の確保、そしてL.C.L.プラント治療器の再使用である。

時系列的に言えば前二つと後ろ一つがだいたい同時に推移していたことになる。即ち、私は知力がさらに発達している様子を程々に提示し、また記憶の回復が始まったと証言し、再度の治療器使用を認めさせた。と同時に、そのための各種検査の際に端末に進入し、記録の改竄他の処理を行った。

そして治療を終えた後、私はプラントそれ自体からメインコンピュータにクラックを仕掛け、関係するコンピュータを落とした。これは「L.C.L.プラントはネルフから接収した施設をそのまま流用したものではないか」という推測を基にした自らも半信半疑の方法であり、別の方法も用意していたが、思いがけずうまくいった。

L.C.L.プラントが実態としてエントリープラグそのものである以上、パイロット側から神経接続を介してアクセスすることも理論上は可能である。ただ実用上コンピュータの用法に則した高速な処理が通常の人間に可能ではないので試みられないだけだ。そして第三回目の治療を終えた私はその時点で既に通常の人間の領域を外れており、不可能ではなかった。

こうして私は病院を脱出したが、そこからあまり離れはしなかった。取得した記録の中に注目すべき記述があったためである。

取得した記録の中に惣流・アスカ・ラングレーの名前があった。私と同様に昏睡状態に陥っていたが、私よりも早く回復し、私よりも先にエントリープラグを介した治療を受けていた。

私は恐怖した。

現状でも私は通常の人類を遥かに超越している。身体面では器質的な限界が存在するが、こと知能面では比類するものは存在し得ないと思われる。

けれども、同様の治療を受けた者がいて、しかもそれが惣流・アスカ・ラングレーであるなら話は別である。彼女は治療前からが既に飛び級で大学を卒業する程の才媛であり、かつ身体的能力は私、碇シンジを遥かに凌駕していた。エヴァンゲリオンにおけるシンクロ率は例外であったがこちらは才能と言えるほどのものでもなく、しかも現状エヴァンゲリオンを使用した戦闘など行われえないことを考えれば、私は彼女に圧倒的に劣っている可能性がある。医師は私の状態について非常に珍しい症例であると述べた。その意味はいかようにも解釈できるが、彼女もまた私と同様にパーソナリティの再構成等の処理を行っていても全く不自然ではない。

そして彼女は私を恐らくは憎んでいる、と推測できる。かつての私と彼女の関係は記憶している最後の時点で決定的に破綻していた。知能の発達段階にも拠るが、私がこのように恐怖を感じる以上彼女も同様の感情を覚える可能性は高い。つまり彼女は私と敵となりうる。とすれば、私は彼女を研究しまた自らの能力を高め、彼女が起こしうるあらゆる種類の襲撃に備える必要がある。

私は病院のすぐ近く、人の出入りが激しい歓楽街に居を構えた。そして情報を集めながら、三度目の治療(治療と呼ぶのは間違いかもしれないが便宜上そう呼称する)を終えた後に自らに現れている変化を観察し、能力を再度高める方法が存在するかを考察した。

私は先に構築した意識管理及び身体管理の方法論について再検討を行うことにした。ブラックボックスとなっていた部分を再度洗い直した際に、人類とは別種の方法論が圧縮されて存在することを発見したためである。

発見が遅れたのは、この部分だけ脳がやや異常発達しているという変化の、私の中での位置付けのためである。異常発達、肥大していたのは快感中枢にあたる部位であり、再考すると昏睡から復帰してしばらく引きずっていた感情の失調も大方その影響下にあった。

医師たちの認識としては、恐らくこれはエヴァンゲリオンのパイロットに共通する後遺症として受け取られていたことがカルテを読んでわかった。それは無理からぬことであり、医師たちを責めるには当たらない。

何しろ私にしてからがその判断を援用したため、当初それを後遺症による感情の障害として認識していたのだ。

けれども、私は脳の各部位の機能を再検討し、また処理を打ち切ってそのまま取り込んだ部位を再検討した結果、別の結論へと辿り着いた。

このような感情を司る部位の肥大は、別種の身体管理、意識管理の方法論への適応の結果である、というのがその結論である。別種の方法論、というのはエヴァンゲリオンひいては使徒のそれに当たる。エヴァ及び使徒はその巨体を維持し、また自我境界をA.T.フィールドとして現出させていた点で、人類とは異なった独特の意識と身体の管理の方法論を適用していたと考えられる。

私の脳はエヴァンゲリオンとのシンクロを通して、その管理の方法論へと適応を果たしたのではないだろうか。例えば人間の顔に対する認識の失調なども、認識が使徒の側に寄っていると考えれば筋が通る。

その方針に基づき、再度私はエヴァンゲリオン及び使徒の方法論、そして、人類と彼らの間での最も大きな差異であるA.T.フィールドについて思索を廻らせることにした。

A.T.フィールドとは何か。

渚カヲルは私に対して「心の光」という用語を用いて説明した。この発言から彼らにとってA.T.フィールドの第一義が攻撃手段ではないこと、またA.T.フィールドが物理的な物であると同時に意識に関係したものであるが理解される。これは私の経験的な推測とも合致する。A.T.フィールドを意識の境界として理解したとき、私の前には新たにそれを利用する可能性が広がる。

それではA.T.フィールドとは何か。ここで思い出されるのは第14使徒を除いた第11使徒以降の使徒の行動パターンである。彼らは一様に我々との接触を試みた。特に第15使徒に至っては、A.T.フィールドに類したそれを光として照射するという行動に出た。

以上のようなパターンから分析するに、A.T.フィールドはコミュニケーション手段、または言語に近いものではないだろうか、と推測できる。私にとっては未知の、新たな言語。

新たな言語の探索と構築というのは魅力的な考えである。私は並列的な思考が可能になったが、その思考に用いる言語は現在もなお一般的な人類の直線的な言語を引きずっている。この言語は諸々の小規模な概念の再構築を要求するが故に、私の意識の管理に大きな不安定さをもたらすことになる。また、身体の管理に至ってはそれを援用することすらできないという不完全さである。

かくして私はA.T.フィールドの使用を前提とした言語の構築を試みることにした。そこで想定されるのは三次元、またそれ以上の折りたたまれた次元で記述される空間言語である。従来の人類の言語では基本的には一次元の直線的思考、一部の天才において図形を介した平面的思考、さらにそれ以上の立体的思考を一時的に内在させることが可能だが、私の使う言語ではそれを標準的な記述方法にすることができる。またこの言語は基本的にA.T.フィールドを介して自らが得た概念を直接やりとりすることが可能であり、その経験を微分化して切り分ける必要がない。また感情などの価値判断、身体の管理に関する非言語的な思考の要素もその俎上に乗せることが可能で、世界をひとつのまとまりのある構造、ゲシュタルトとして統一的に語りうる総合言語となる。

そのようにして仕様を固め、私は新たな言語の創出に没頭した。

6

碇シンジは新たな言語を大方その手にして、今もう一度病院に戻ってきていた。

現状で、碇シンジはA.T.フィールドを物理的に展開させることに成功していた。エヴァンゲリオンと使徒の方法論、また今までの戦闘やサード・インパクトに際して幾らかの変質を遂げていたと思われる碇シンジの身体機能を持ってすれば、それは不可能なことではなかった。

方法論の移行は比較的順調であった。唯一意識の管理に関して、個の概念を持たない使徒の方法論と個の集合体という形式で存在する人類の方法論が合致しない面があったが、それに関しては碇シンジの意識を意識のひとつとしてそれを管理するメタ意識、またはメタ認識を置くことで問題を解決した。

これにより認識的にも<私>(碇シンジの上位にある)は人類よりは使徒に近しい様態を取るようになった。これは必要上の決断だったが、実際この決断はさらに碇シンジという個体全体の認識を総合的なものに押し上げることになるはずだ。

さて、このような状況に至って<私>(碇シンジの上位にある)は惣流・アスカ・ラングレーとの再開を決意した。

それは一つに、彼女が同様の状況に至っているとすれば、<私>(碇シンジの上位にある)と彼女の上位にあるメタ意識はつながりを持ち、互いの自我を相対化することが可能であると推測できるからだ。また、彼女がその段階に至っていとしても、その意識を私が受け取りそれをメタ意識下に配置しなおすことで碇シンジの意識を相対化し、現状では<私>(碇シンジの上位にある)というシステム全体にダメージを与えかねない碇シンジの意識上のウィークポイント(多くは惣流・アスカ・ラングレーに関係している)を解析し、自閉しがちな碇シンジの完成度を高めることが可能である。どちらにしろ、碇シンジにとって得るものは多い。

惣流・アスカ・ラングレー。彼女は<私>(碇シンジの上位にある)という認識をどのような新しい局面へと連れてゆくのだろうか。

碇シンジはあっさりと病院への侵入を果たした。もはや彼を止められるものはない。顔面の筋肉の調整によって彼はその人相では彼と判断されることはない。また、直接的な攻撃も無意味である。<私>(碇シンジの上位にある)はA.T.フィールドを介した空間言語を駆使して、攻撃を徹底的に碇シンジから逸らすことを可能にする。場合によっては直接戦闘もやぶさかではないが、現在の碇シンジの戦闘能力に敵う人間は存在しないだろう。

碇シンジは廊下を進む。ナースステーションの前を素通りし、角を曲がり、保護されている一角へとたどり着く。そして<私>(碇シンジの上位にある)はA.T.フィールドを利用してその内部への侵入を果たした。

そして、碇シンジは彼女に再会した。

<私>(碇シンジの上位にある)はいささか失望した。何故なら彼女は依然として普通人の段階にあったためである。彼女の自我は依然として個別のそれを維持していた。

彼女は数週間前の碇シンジと同様に、リハビリテーションを行っていた。

碇シンジが歩み寄ると、その足音に気付いて彼女はこちらに顔を向けた。額に汗が流れていた。心拍が高い、また、脚腰に相当無理が来ていることが伺える。オーバーワークだ。

「無理しちゃ駄目だよ、アスカ」

碇シンジは顔を彼女が認識できるそれに戻し、自然にそう話しかけている。彼の意識は<私>(碇シンジの上位にある)の管理下にあり、現在は治療以前の段階に近い状態で比較的安定している。

話しかけられた相手を見て、彼女の表情が一変する。体勢を崩した彼女は保護バンドの上にずるずると倒れこみ、しかしその目は刺すように鋭く碇シンジを睨みつける。

「あ、あ、あんた、生きて、い、生きて……!」

かすれ声の呂律が回っていない。爆発的に生じる感情を上手く制御できていないのは、碇シンジと同等の障害に陥っていると見えた。<私>(碇シンジの上位にある)は再び彼女に興味を覚えた。

「焦らないで、アスカ、僕は……」

<私>(碇シンジの上位にある)は身体への危険を感じたが、敢えてそのまま彼に行動を取らせた。すると、やはり彼女は噛み付き行動に出た。

リノリウムの床に血が流れ落ちる。

噛み付かれながら当惑する碇シンジを他所に、<私>(碇シンジの上位にある)は彼女の意識にアクセスを試みていた。彼女の意識と感情の流れはおよそ常人のそれを凌駕していた。そこで<私>(碇シンジの上位にある)は事情を理解した。彼女は<私>(碇シンジの上位にある)が取った道を既に却下してまさにそのために彼女は崩壊していた。

何故だろう?

アスカ、君は何故、それを否定するのか。

彼女は泣いていた。碇シンジの手に噛みつきながら泣きじゃくり、力の入らない拳でその胸を叩いた。悔しくて悔しくて仕方がないというようすだった。

そして<私>(碇シンジの上位にある)は惣流・アスカ・ラングレーの意識と接続された。

<私>(碇シンジの上位にある)の認識は碇シンジという制限を解除された。

そして碇シンジの中で演算されている<私>はさらに彼女の意識を碇シンジの意識と同階層に位置づけてその意識上の問題点の再検討を開始した。すると、碇シンジによってこれまでもっとも厳重に織り込まれて封印されていた記憶を、彼女の記憶と対照させてより開封することが可能になった。また、<私>は既に碇シンジを管理するための付属物であることを止め、今度こそ名実共にその上位に位置づけられるべき認識となった。

故に、<私>は碇シンジの折り畳まれていた記憶を開封し、


識った。


封印された記憶には碇シンジを離れ個々の人類の意識を下位組織として位置付けその集合をひとつのまとまりある構造として統一的に管理する<私>=人類の集合的無意識または人類そのものに芽生えた集合意識と呼ばれるべき存在、の最終段階が予め語られていた。

人類が個別の形態を失い、原初形態に戻るというその記憶。

赤い海。

そのほとりに碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーがいた。

彼らは既に結論を出していた。同化の否定と個としての存在の選択。彼女はその結論を覚えていたが、<私>は彼の折り畳まれて意識に上らないその結論を確認できなかった。

<私>は赤い海を意識し、赤い海を構成していた全ての人々の存在を意識した。碇シンジの付属物を止めた<私>は碇シンジの中で演算されていながら今では全ての人類にとって公平な存在だった。

意外にも、彼女、惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジの生存を認めた。けれども、圧倒的な数の人類が彼の死を願っていた。

そしてまた、惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジの生存を認める一方で<私>に対しては消滅を求めていた。

<私>と共に全てを識った碇シンジもまた。

<私>は碇シンジの付属物であることを止めたが依然として彼の中で演算されており、また既に自らを管理する方法論を転換し<私>に依拠した生存を選択している彼にとってそれは死と同義だった。

碇シンジ、それでいいのか?

碇シンジは<私>に答えた。

――構わない。

その回答ゆえに碇シンジの中で演算される<私>は存続した場合その未来に待ち受ける全ての段階を諦めて永久に不可逆的に崩壊し、


<私>を失いやがて死に至る僕はアスカの柔らかな腕の中に崩れ落ちる。

- The rest stories of "Project Eva" #38 - "The Wake" end.
first update: 20061112
last update: 20061113

note

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作者:north
The referential book(citiations is stealed from...)
Ted Chiang's "Understand"
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