- The rest stories of "Project Eva" #39 -

 "非在戦線"

1

第3新東京市での最後の日を、僕は挨拶回りから始めることにした。

こっそりと出て行こうとも思ったけれど、結局はそうしなかった。

僕は別に何かを嫌になったからここを出て行くんじゃない。だから、僕には何も後ろめたいことはないし、誰かが僕について負い目を感じる必要なんてない。

そのことを、誰かにちゃんと伝えてからこの街を出て行きたかった。

迷わず葛城さんと赤木さんの部屋を訪ねることにしたのは、そんな動機で始めた挨拶回りだったからだ。

二人には本当にお世話になった。葛城さんには僕がこの街で起きていた間の一切の面倒を見てもらったし、赤木さんには逆に、僕が眠っていた間の一切の面倒を見てもらった。

後に僕の保護者まで買って出てくれた二人は僕にとても優しかった。

けれど、それはきっと、僕の身に起こったことについて二人が一番負い目を感じているからじゃないかと僕は思っている。

もし僕が何も言わずに姿を消したら二人はどう思うだろう?

僕がこの街を出て行けば、すぐにその情報は二人に伝えられるだろう。そのとき、二人はどんな気持ちになるだろう?

そのことを考えると、こっそり出発するという選択肢は自然と消えた。

ちゃんと会って話をしなくちゃいけない。何を置いても、この二人だけには。

自分がここまでやってきた理由を確認し終えたところで、ちょうどエレベータは止まった。

チン、という古めかしい音と少し軋んだような音を立てて扉が開く。

リュックサックを背負いなおして、僕はもう随分長いこと着ていなかったネルフ本部へと歩き出した。

2

本当の所を言うと、この街に来たころのことについては、断片的な記憶しか僕の頭には残っていない。

これはあの怪我の後遺症で、治るかどうかはまだ何とも言えないらしい。

だけど、あのころずっと考えていたことだけは、何となく、ほんの少しだけど頭に残っている。

あのころ――僕から見ればすぐ近くで、周りの人から見ればもう随分前になる、あのころ。僕はなんのために自分がこの街へ来たのかよくわからなくなっていた。


そもそも、僕がこの街へ呼ばれてきたこと自体何かの間違いだったのではないか、という気が今となってはしている。

そんな風に思ってしまうくらい、綾波さんはとにかく凄かった。

初めてこの街へ来た時からそうだった。父さんに呼ばれてこの街へやってきた僕と葛城さん(葛城さんは僕を迎えに来たせいで巻き込まれてしまったのだ)が使徒に襲われたとき、綾波さんはエヴァンゲリオン初号機を駆って、僕と葛城さんを救ってくれた。

奈落の底のような射出口から敢然と現れた初号機は、僕と葛城さんが見ている前で思い切りのいい蹴りを放って使徒をぶっ飛ばした。

そして僕と葛城さんがネルフに到着してからほんの数分で、あの化け物を倒してしまったのだ。

その戦いは圧倒的だった。

切り裂き、蹴り、殴る。

使徒が張ったバリア――それがA.T.フィールドという名前だと知ったのは少し後だった――も消し飛ばして、ぐさりとその中心を手にしたナイフで貫いた。

「レイが?」

「ええ。パーソナルを書き換えて……土壇場の判断だったわ」

「そして今回は上手く起動した、か……パイロットが不在でどうなることかと思ったけど、レイがこちらに搭乗してくれるならひとまずは安心ね」

「この調子ならね……もうすぐ帰ってくるわ。ケイジへ行きましょう」

そんな言葉に連れられて向かったケイジで、僕は初めて綾波さんに出会ったのだ。

今でもよく覚えている。エントリープラグから歩き出た綾波さんは、その戦い振りからは想像できないくらい可憐な女の子で、僕の方なんか見てなかった。

その視線はまっすぐに父さんに注がれていた。

僕は目を合わせることもできなかった父さんに。

その顔は達成感に溢れていた。

僕にはきっとできない、父さんを本当に信頼して、父さんに本当に信頼されたいと思っている、そんな表情だった。

僕がもしずっと父さんの息子でいたとして、そんな表情をすることができたのか、と考えると、多分そうはできなかったんじゃないだろうかと今になっては思う。

もし僕が彼女の立場だったとすれば、結局は上手くいかなくなったんじゃないだろうか。

後で都合のいいことを考えているだけかもしれないけれど、そんな風に、僕は思うのだ。

3

少し迷いながらも何とか赤木さんの執務室に辿りついた僕は、呼び鈴に指を添えて、一息、深呼吸した。

この呼び鈴を押してしまえば、もう後には引けない。

頭に今さらのようにこの一年と数ヶ月の――僕にとってはとても短く、でも本当は長かったはずの一年と数ヶ月の出来事が廻った。

思い出せることはあっけないほど少ししかなかった。

けれども。僕にとってはたった数ヶ月でも、赤木さんにとってはそうではない。赤木さんにとっては、長い、とても長い一年と少しだったはずだ。

僕はそのことを考えながら目を閉じ、もう一度深呼吸した。

そして決心を固めた。

決めたのだ。僕はこの街を出て行く。自分で決めたことなのだ。誰に言われたのでもなく、自分で。

ならこれも、受け入れなきゃならない。

「逃げちゃ駄目、か」

呟きながら、僕は呼び鈴を押した。

返事の声もないままに、静かに扉は開く。

すると、ネルフで一番見慣れた風景が僕の目の前に現れた。赤木さんの執務室。僕がこの街を訪れてから、一番長く時を過ごした場所だ。

急ごしらえで据え付けられた医療用のポッドも、少し雑然とした机も、その上で煙草の吸殻をじっと溜め続ける灰皿も僕の記憶そのままだった。

その机に向かってひたすらに仕事をする赤木さんも。

「行くのね」

振り向かずに赤木さんは言った。手元からは相変わらずのキーボードを叩く音が何かの音楽みたいにリズム良く響いていた。

「……はい。知ってたんですね」

「まだあなたはチルドレンなんだから、あなたが何をしようとしても私達の所に報告が上がってくるわ。苦労したわよ、あなたの資格失効をでっち上げるのは」

「ははは……ありがとうございます」

淡々とした言葉にちょっと気が抜けて、笑ってしまった。何のことはない、端からこの人に黙ってこっそりと出て行くなんて事は不可能だったんだ。やっぱり、大人には勝てない。

「はい、これ」

相変わらず端末に向かったままで、赤木さんはひょいと小さなファイルを取り上げた。

そっと近づいて、受け取る。

ファイルを失った赤木さんの手は灰皿の近くに転がっている紙箱に伸びて、一日何回繰り返されているかわからない滑らかな動作で手に取られた煙草に火が点いた。

カチン、というライターのふたが閉まる音と立ち上る煙を合図に、赤木さんは説明を始めた。

「そのカードと通帳は、あなたの新しい口座のよ。今日までの給料、各種特別手当て、見舞金、治療費、そしてこれからの年金その他のお金は、この口座に入金されるように手続きしておいたから」

ふい、とまた煙が上がる。指先の蛍火が灰皿に溜まった吸殻に押し付けられ、また新しい煙草に火が点く。

「それから」新しい煙が上る。「さしあたって住める場所も手続きしておいたわ。『先生』のところに戻るつもりはないんでしょう? そこに住所が書いてあるから、また移動があったり、学校に通う必要があったら連絡してきなさい。さすがに子供一人で入学手続きをするというわけにはいかないから」

「ありがとう……ございます」

何時の間にこんな完璧に、と舌を巻きながら返事を返す。

大人には、というのは訂正しなければいけない。何歳になっても、こんな人には一生勝てないだろう。

少しめげたような気持ちになった僕の耳に、赤木さんの微かな笑い声が入り込んでくる。

くすくす楽しげに笑いながら僕の方を振り向いた赤木さんは、クールな笑みを崩さずに脚を組みかえた。

「考えが甘いわ。突然消えるくらいのことをしないと、私の目は欺けないわよ」

「……ごもっともです」

答えを返すと、赤木さんの笑みが少しだけ曇った。

ああ、これは。後に来る言葉は予想がついた。赤木さんがクールになりきれないことはそれほど多くない。研究のこと、父さんのこと、そして、葛城さんのこと。

やはり赤木さんは僕の予想通りの質問をした。

「ミサトには、もう会った?」

「いえ、これから……です」

「苦労するわよ」

「……本当は、会う決心が、つかないんです」

先に赤木さんの執務室に来た理由はそれだった。葛城さんは……葛城さんは、きっと僕を引きとめようとするだろうから。

「無理に行く必要はないわ。必要なら私からミサトに伝えておいてあげる。私には何となく、あなたの気持ちはわかるような気がするけれど……ミサトはきっと納得しないでしょうからね」

「やっぱり、そう思いますか?」

「それはね」

さっきまでの微笑とは打って変わって、辛うじて浮かべたという感じの笑みだった。困ったような笑い顔を見せた赤木さんはまるで葛城さんのお母さんにでもなったみたいに深々とため息を吐いた。

「あの子は……ミサトは、家族になりたかったのよ、あなたとも。そんなことできるわけがないのにね」

そう、できるわけがない。だって僕は――

「そうですね。でも……そう思ってくれてるの、嬉しかったです、本当に。……それだけ、伝えておいてもらえますか?」

僕が答えると赤木さんは、煙草をもみ消しながらふいと天井を見上げ、立ち上がった。

そして、深く深く、頭を下げた。

「確かに、伝えます。……ありがとう。ごめんなさいね、今まで」

「……はい」

僕はその声がちょっとだけ鼻声になっていることには気付かない振りをして、部屋を後にした。

4

赤木さんが言ったように、僕もかつてエヴァのパイロットだったことがある。

スカウトされたのは綾波さんに出会ったそのすぐ後で、あんな勇敢なひとを見た後だったから、余計に現実感が湧かなかったのかもしれない。

「……碇シンジ君。君には彼女と同じエヴァのパイロットになってもらいます。まだ、あなた専用になる機体は凍結中だけど……」

葛城さんからそう切り出されたときも、自分が綾波さんと同じようにあのロボットのパイロットになる、ということを僕は上手く飲み込めなかった。

自分に彼女ほどの動きができるとはとても思えなかったし、そうなりたいとも、実は思わなかった。

だから二週間後にまた使徒がやってきて、綾波さんが出撃した時だって、自分が出撃できなくて悔しいなんて、ちっとも思わなかったのだ。

「ケーブル断線」

「まだ行ける? レイ」

「はい」

はっきりとそう答えて、突撃して行く初号機の後姿を見たときも。

僕はただ、光の鞭を右へ左へと捌きながら無心に使徒を倒すその勇姿を見て、ネルフの人たちと同じように声援を上げていた。

そしてその一方で、首を傾げていた。

どうしてそんなに戦えるんだろうか。綾波さんは敵が怖くないんだろうか。戦うことが、怖くないんだろうか、嫌じゃないのだろうか――そんなことを。


今はもう首を傾げたりはしない。当たり前だけど、結局僕は綾波さんとは違う人間だ。それが良いとか、悪いとかじゃなくて、ただ、僕は綾波さんではないし、綾波さんも僕のようには生きない。

それは簡単なことだけれど、もし僕が彼女と一緒に戦っていたら――戦うことができてしまっていたら、僕はもしかするとそのことに最後まで気づかなかったかもしれない。

綾波さんは(そして、綾波さん以外の、まともなエヴァのパイロット達も)父さんや葛城さんの命令を受けてちゃんと戦えるひとだった。

だけど僕はそうじゃなかった。今ならちゃんと言葉にできる。僕は戦うことが怖くて――いや、それ以上に、単純に戦うことが嫌だった。父さんの造ったロボットに乗って戦うことが本当に本当に嫌だったのだ。

だから、あの怪我はそんな僕への罰か、教訓だったのかもしれないと、ちょっとだけそんな風に思っている。

教訓というには、少し重大すぎる怪我だったけど。

それくらい、あの怪我は僕の人生を大きく変えてしまった。そして今も、僕はその流れに乗って自分の人生を変えようとしている。

あの怪我のちょうど数時間前に、零号機の起動実験は成功した。

大した感慨はなくて、むしろこれからは自分も綾波さんと同じように戦場に出なければならないのだということが怖ろしかった。

それでも、出番はやってくる。ここでの仕事というのはそういうもので、ああなってしまったのは理解できていなかった僕が悪かったのだろうと、後になってみると思う。

警報ブザーが鳴ったとき、ちょうど僕は起動後の連動実験をするために零号機に乗り込んでいた。ブザーに合わせて、まだ数回しか着ていないプラグスーツがまた締まったように思えた。

何が悪かったかと言えば、タイミングが悪かったというしかない。ちょうど綾波さんは学校にいて、彼女を待っていては使徒が街に侵入するのをただ見ているしかなかった。

選択肢はひとつだった。

「いけるわね? シンジ君」

「う、あ……は、はいっ!」

今思い出しても、笑えてしまう。葛城さんも不安になったんじゃないかと思うと、ちょっと申し訳なくなる。 でも僕の覚悟なんてそれくらいだったのだ。

いざとなったら綾波さんが何とかしてくれる。

そう思っていたし、これまでそれで問題はなかった。だからこれからも問題なんてあるはずがないと、そう思っていた。僕だけじゃない。そのころにはもう、僕がパイロット候補なんだということを忘れている人までいたくらいだったのだ。

だから不安に思いながらも、僕はうなづいてしまった。

ほんの少しの間だ、ほんの少しの間逃げ回って攻撃していれば、綾波さんが使徒をやっつけてくれる。

「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ……」

「大丈夫? シンジ君」

「だ、だいじょうぶです」

綾波さんとは比べ物にならないくらい情けない答えだった。でも、どもってしまった僕を葛城さんは笑ったりしなかった。

それどころか、こう言って、励ましてくれた。

「大丈夫。すぐにレイと初号機が助けに行くから。だからそれまで少しの間だけ、少しの間だけでいいの。お願い」

きっと、その後ずっと葛城さんはこの言葉に苦しんだんじゃないだろうか。

それはそういう類の言葉で、簡単に答えてしまっていい言葉じゃなかった。それなのに、僕はその場の雰囲気に流されて、よく考えもせずに答えてしまった。

「はい」

結局それが覚醒前に交わした最後の会話になった。

「エヴァ零号機、発進!」

そして身体が押し付けられるような感覚が押し寄せた。


僕が覚えているのはそこまでだ。

次に目覚めたときには、もう全てが終わった後だった。

5

結局葛城さんには会わないまま、僕はネルフ本部を出てきてしまった。

我ながら意気地がないと思う。

「……ごめんなさい、葛城さん」

「葛城がどうしたんだい? シンジ君」

「ひっ!?」

僕は思わず身を竦めた。でも落ち着いてみると、かけられた声と肩に回された腕には覚えがあった。

「加持さん。驚いた……」

「俺こそ驚いた。あんまりびっくりするもんだから」

「こんなところで、どうして?」

「俺かい? これさ」

気さくな笑顔で言うと、加持さんは手に持ったじょうろを僕に掲げて見せた。

園芸?

そういえば、確かに加持さんの足元には丸々したスイカが転がっていた。

「ほら、見てごらん。けっこう腕によりがかかってるんだ」

「ほんとだ……」

しゃがんで見てみると、確かに大きなスイカだった。大玉のスイカはじょうろからの水を弾いてきらきらと光っていた。

こんな場所でも作物が育つ。それも、彼らがこの街を守ったからこそだった。

「シンジ君こそ、どうしたんだ? 荷物なんか持って、どこかへ旅行かな?」

「えっ」

僕が今度こそ心の底からびっくりして見上げると、さっきまでの気さくなお兄さんの笑顔が、底の知れない悪代官の顔に変わっていた。

「バレバレですか……」

加持さんはうなづいた。

「シンジ君。君は自分を過小評価しているフシがあるな。エヴァンゲリオンのパイロットになりうる人材は得がたい。君はそのひとりなんだから」

「でも、もう乗れる機体もありませんし――そうでなくても、僕は乗りませんから」

「そうか、そりゃ……英断だな。もう出るのかい?」

「はい」

「ちょうど俺も暇ができたとこだ。新天地までとはいかないが、駅くらいまでなら俺の車で送ってあげられる」

「! ――ありがとうございます!」


あれからもう随分経つっていうのに、街にはまだパレードの余韻が残っていた。

「世界規模の出来事だったからな、関連商品やらなにやら、まだしばらく余韻は収まらないさ。戦役も終わった。次の食い扶持は、観光かな」

冗談めかした声を聞くと、ケイジや本部が見学路になる日もそう遠くないのかもしれないと思えてきた。

「かもしれませんね」

「ああ、良く見ておくといい。要塞都市でいられるのは、後少しの間だけ……それに、もうこの街に戻ってくるつもりはないんだろう?」

妙に自信に満ちた声だった。まるで僕の考えていることを何もかも知っているような。

「どうして、わかるんですか?」

「わかるよ。実はねシンジ君。俺も、そうしようと思ってるんだ」

「第3新東京を、出るんですか?」

「ああ。戦闘配置に居場所がなくなった人間がこの街にいていい理由はないからな」

「でも、いて悪い理由も、ないですよね」

クーラーの効いた車内が、ほんの一瞬だけ静かになった。

そしてブレーキ音が小さく響いて、加持さんの腕を表すようにスムーズに車が止まった。

前を見る。赤。

止まれ、の合図。

「それもまた真なり、だな。誰にも止まれとも行けとも、命令はされてない。でも君は、出て行くんだろう?」

僕は無言のままうなづいた。

「そういうことさ。留まるには、ちょっと背負うものが多すぎるんだ。この街はね」

そしてまた加持さんは信号が変わると同時にアクセルを踏み込み、パレードの何十倍のスピードで僕たちは通りを走り抜けた。

6

笑える話かどうかはわからないけど、僕はちょうど使徒やエヴァに関する全ての情報が公開されて、有名になったパイロットたちが凱旋パレードをしているときに目を覚ました。

真上でやっているパーティに自分も参加したかった……わけではなくてただの偶然だけど、そのお陰か僕の目覚めはとても静かだった。

意識を取り戻したとき最初に感じたのは、耳を打つ音だった。水が流れる小さな音。

しばらく音を感じてから、僕は次にコンクリートの天井に光る蛍光灯の光を感じた。

まどろんで、微かな光と音を感じながら、僕はじっと誰かが来るのを待っていた。

誰かを待つともなく待ちながら、僕はぼんやりと考えた。

どうして僕はこんなところにいるんだろう?

幸いパレードとその後のパーティが終わるまでにはたっぷり時間があったので、僕はじっくり自分がどうしてそこにいるのかを思い出すことができた。

頭はさび付いたみたいに動きが悪くて、まるで馬鹿になってしまったみたいな気分だった。でも、ゆっくりと、ゆっくりと、断片的な記憶を思い出していくと、最後の記憶を、思い出すことができた。

ああ、僕はやられてしまったんだ。

そのことはショックではなかった。

ただ、励ましてくれた葛城さんに悪いことをしたなと申し訳なく思い、その後に、綾波さんは上手くあの使徒を倒すことができたのだろうか、ということが気になった。

「ごめんなさい」

口の中で粘ついている液体のせいでうまく言葉にできなかったけど、僕はそう呟いていた。


僕を見つけたのは、コンピュータの様子を見に来させられた、不幸なオペレーターさんだった。

伊吹さん、というその人は僕が覚醒しているのを偶然見つけ、すぐさま赤木さんや、葛城さんに連絡を取ってくれたのだ。

二人はパーティを抜け出して、ドレスのまま僕の眠っている部屋にまで急いで降りてきてくれた。

あのときのやりとりは今思い出してもやっぱり笑ってしまう。少なくとも、僕はそうだ。

綾波さんに比べてあんまりにも情けない戦いをしてしまったことを怒られると思った僕は扉の開く音を聞くと、目を閉じたままで一息で謝った。

「やられちゃってすいませんでした!」

たったそれだけ言うだけのことで息が続かず、妙に息苦しかった。

でも、怖がっていた声は返ってこなかった。

馬鹿みたいな考えだけど、僕はひょっとして二人は呆れているのかもしれないと思った。戦闘で腰でも抜けてしまったのか、身体がぐにゃぐにゃして力が入らず、僕は寝転んだままで二人を迎えることになったからだ。

ならこの間は、爆発の前の猶予時間かもしれない。

どんな言葉をかけられるだろう。あなたはクビ? 罰としてトレーニング? それとも……

どれもありそうな気がした。けれど、それにしても無言の時間が長すぎた。

「あ、あの……」

そう呟きながら薄目を開いて見えたものに、僕は今度は目を丸くしてこう続けることになった。

「……なんでドレスなんか着てるんですか? なんで――」

泣いているんですか?

目を開いたとき、葛城さんは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていて、赤木さんまでが目を赤くしていた。高そうなドレスは型崩れして、所どころ破れてしまっていた。

そんな風体の葛城さんに抱きつかれて、ただ僕はわけがわからないまま、謝るしかなかった。


普通、自分が何ヶ月も寝ていたなんてことをいきなり言われても、なかなか信じられないと思う。

僕もそうだった。リハビリが少し進んで、身体の調子が持ち直したぐらいでそのことを告げられて、僕はまず笑った。

「そんなあ。いくら気失ってたって、そんなことあるわけないじゃないですか。悪い冗談言うの止めてくださいよ、葛城さん」

僕は軽口で返したけど、葛城さんの目は笑っていなかった。それどころか、また涙が溢れそうになっていた。

そしてついに泣きながら、葛城さんは僕に今まで隠されていたものを見せた。

覚えている日付からははるか遠い日付の新聞、戦役の終了を知らせるテレビ、戦闘に関する映像資料。

それを見れば、自分が一年以上も昏睡状態に陥っていてその間に全ては終わってしまっていた、ということを信じるしかなかった。

僕は数日寝込んで、それから、ドラマに出てくる不良みたいにわかりやすくやさぐれた。

情けないけど、自分が一年近く「ただ寝ていただけ」だというのは、さすがにかなりショックだった。

そりゃあ、あのエヴァンゲリオンに乗るのは好きではなかったし、きっと上手くもなかったと思う。役に立つ自信なんてまるでなかった。

だけど、一回目の出撃で瞬殺されてそのままドロップアウト、なんて、情けなさすぎる。

自分がまるで役立たずな人間だった、ということに立ち向かうのにはしらばく時間がかかった。たとえ、薄々は覚悟していたことだったとしても、やっぱり、それを鼻先に突きつけられるとけっこう堪えた。

凹んで、凹んで、葛城さんや父さん、赤木さんたちを逆恨みしたりもした。

けれど、それでもやがては受け入れざるを得なかった。

受け入れなかったところで、自分が何もできない人間だったことに変わりはない。

それに僕が何を思ったところで、もう全ては終わってしまっていたのだから。

7

ホームに上ってみると、厚木行きの電車が来るまでにはまだ二十分も間があった。

「まずった……こんなだったら、加持さんに昼ご飯奢ってもらうんだった……」

ずうずうしい台詞を吐きながら、僕は電車が来るはずの方向をじっと見つめた。でも気配もあるわけはなく、仕方ないのでそのまま後ずさり、どかっと椅子に腰を下ろした。昔ながらのプラスチックの背もたれが背中に当たって痛い。

でもその痛みより、空腹の方が今は勝っていた。

考えてみれば、朝から何も食べていなかった。しかし、ホームに入ってしまえばコンビニもない。

「はあ……」

できるのは、そうしてため息を吐くことだけだった。この街を出る最後にしては、あまりにも恰好悪い。

「お腹、空いたなあ」

「お腹空いたの?」

「うん」

「じゃあ……仕方ないからこれでも食べる?」

「え?」

そこで僕は気づいた。当たり前のように話しかけられたからつい返してしまったけど、この声は――

「惣流、さん?」

振り返るとそこには、惣流さんと渚さんがいた。

惣流さんはお出かけ仕様のワンピースと麦藁帽、渚さんも、山登りでもするようなジーンズとシャツといういでたちだった。

そして膝の上には、サンドイッチが詰まった小さなバスケットがあった。

「やっと気づいたの? ほらカヲル、こいつやっぱり馬鹿じゃないの。本質的にはあんたと同じくらい馬鹿よ」

「ごめんねシンジ君。悪気はないんだ」

苦笑しながらそう言って頭を下げる渚さんは、あの病室で頭を下げた姿そのままだった。

むくれた顔の惣流さんもあの日のままだ。

「はい」

むくれっつらのまま、惣流さんは僕にサンドイッチを手渡した。

「あ、ありがとう、いただきます……でも、何してるの? こんなところで」

「ピクニックよ。悪い?」

喧嘩を売っているような調子で惣流さんは言って、僕に押し付けるようにもうひとつサンドイッチを渡した。

「いや、そんなことは……」

受け取りながら、僕は慌てて首を振る。こんなたまたまはない。薄々惣流さんの言うことは嘘だとわかっていたけれど、でも、その好意を無にするわけにはいかない気がした。

だから僕は何でもないように普通の困った顔をしてサンドイッチを食べた。

「おいしいよ」

返ってきたのは見当外れに思える、だが事情を知っている者からすればすぐその意味はわかる言葉だった。

「……ねえ、あたしのせい?」

「違うよ。惣流さんのせいじゃない。そうじゃないんだ」

惣流さんは無言のまま、また僕にサンドイッチを押し付けた。僕は渡されるがまま、それを食べ続けた。

8

僕はリハビリを再開したが、葛城さんは気を利かせて僕の存在を秘密にしていてくれたようだった。お陰で僕はリハビリに専念できた。

僕は大抵ひとりだったけれど、たまに葛城さんや赤木さんがお見舞いに来てくれた。

「元気? シンジ君」

「リハビリは順調?」

そんな声は励みになった。何より、僕みたいな奴の――結局何の役にも立たなかった奴のところに見舞いに来てくれるというのが、嬉しかった。

特に嬉しいのはその二人の来客だったけど、時には、凄さで言えばもっととんでもない来客もあった。

惣流さんと渚さんだ。

使徒戦役の英雄である二人は世界的な英雄で、僕の見舞いになんか来る余裕はないはずなのに、たまに様子を見に来てくれたのだ。

そのころにはもう僕は資料を見始めていたし、病院にはそれくらいしか娯楽がなかったので、使徒戦役のことならもう何でも知っていた。

僕が役に立たなかったばかりに使徒のせいで第3新東京市がめちゃめちゃになってしまったこと。

にもかかわらず、その後に綾波さんが怒涛の攻撃をかけて辛うじてこの街を守りきったこと。

ドイツから来る途中に海の上で使徒を退治してしまった惣流さんのこと。

惣流さんと綾波さんがタッグを組んで、二体のエヴァで凌ぎきった中盤戦のこと、

同じくドイツからやってきた渚さんが駆る最強の四号機が加わって、形を変化させてくる使徒を倒しきった終盤戦のこと。

数々の凄まじい戦闘を見ながら、僕は自分がどれだけ場違いな人間だったかを自覚し、そして、純粋に彼らのファンになった。

だから、僕を励ますためのお世辞とは解っていたけれど、惣流さんに声をかけてもらうのは、とても嬉しかった。

「調子はどう? サード」

サード・チルドレン。戦ったことのない僕に対しても、惣流さんは同僚として接してくれた。

「そんな言い方は感心しないな、アスカ。……ごめんね碇君、彼女も悪気があるわけじゃないんだ」

そうやって先輩らしく諌める渚さんは、男の僕でも惚れてしまいそうな笑みを僕に向ける。

「いえ。嬉しいんです、渚さん」

「カヲルでいいよ、シンジ君」

そう言って、また優しく笑う。

惣流さんはちょっと面白くない顔で、渚さんの腕に自分の腕を絡ませる。

二人は僕から見てもとびきりのカップルだった。

「だーめ。あんたをカヲルって呼んでいいのは、あたしだけなんだから」

「だ、そうです。惣流さんを怒らせると、怖いですから」

「独占欲が強いのが困りものだね、君という女性は。そんなに僕をシンジ君に盗られるのが怖い?」

「なにをー!」

困ったような顔できつい冗談をかます渚さんに、ムキになった惣流さんが飛びかかる。二人はいつもそんな風に仲が良くて、そんなときは少しだけ、同じ戦いを戦った彼らのことが羨ましくなった。

そんなことを願ってはいけないと思いながらも。

「どうしたんだい?」

「へ?」

渚さんの声に我に帰ってみると、惣流さんまでが僕の顔を不思議そうに眺めていた。

「どうしたの? 元気ないじゃない?」

「いや……その、仲良いんだな、って思って。ちょっと羨ましくって」

二人の表情が曇って、自分がまるで二人を責めているようなことを言っていることに気づいた。

「……無神経だったね。悪かった。許して欲しい」

渚さんは真顔でそう言って、頭を下げた。特徴的な銀髪が目に飛び込んでくる。

思わず、息が止まった。

人類を救った英雄に向かって、僕はなんてことを。

「ちょっとちょっと! ンなことしたら余計に遠慮しちゃうじゃないの、この馬鹿カヲル!」

慌てて惣流さんが止めに入ってくれたお陰で、僕はやっと息をすることができた。

「ふう……に、しても。あんたもあんたよ、サード。いくら入院生活だからって溜まりすぎよ、あんた。仲良いんだなあ、って言っても、そこまで仲が良いわけでもないし」

「そうなの?」

「そーよ。そりゃあたしはこのバーカと付き合ってやってるから? 多少仲良く見えるかもしれないけどさ。レイなんかは、最近は家族で過ごす方が忙しいみたいで付き合っちゃくんな……」

「アスカ!」

渚さんが叫んでいるところを、僕は始めて見た。

その叫び声は小さかったけれど、惣流さんは充分驚いたらしく、ハッとした顔で口をつぐんだ。

そして、まずいことをした、という顔で僕と渚さんを交互に見て、俯いてしまった。

渚さんも同じように口をつぐんでしまって、僕だけが所在無くもじもじする羽目になってしまった。

「あの……僕、何か変なこと言いました?」

「いや。そうじゃないんだ、シンジ君。そうじゃない」

「?」

そう言われて、僕はもう一度、惣流さんの言ったことを思い出した。

『レイなんかは、最近は家族で過ごす方が忙しいみたいで』

綾波さんに、家族?

僕は思い出しにくい昔の記憶を、何とか思い出そうとした。そうだ、確かにおかしい。葛城さんに教えてもらったときには、綾波さんの経歴は白紙で、全て抹消済みになっていた。

それなのに、家族がいる、ということは……

僕はやっと、二人が何に気を使ってくれているのかわかった。

「あの、顔上げてください、渚さん、惣流さん。僕、別に平気ですから」

「え……」

「僕、なんだか綾波さんって親も家族もいないって勝手に思っちゃってたんですけど、考えてみればそんなわけないですよね。大丈夫ですよ、僕には母はもういませんけど、父はちゃんと生きてますから」

本当のご両親が見つかったのか、誰かが里親になったのかはわからないけれど、でも、親がいないよりは、いる方がいいのは当たり前の話だった。僕自身、苦手だとは言え、父さんがいるから生活できた面はある。

だから、綾波さんに、あの颯爽と戦っていた女の子に家族ができたのは、きっといいことなのだろう。

二人が妙なところに気を回してくれたことがわかって、僕は少し苦笑してしまった。

「まったく二人とも大げさですよ。仲が悪いって言っても、忘れてるわけじゃないんだから……えっ」

言葉の最後がそんな風になってしまったのは、惣流さんが急に泣き始めたからだった。

「……ごめん」

ぽろぽろ大粒の涙をこぼしながら、惣流さんは立ち上がって、部屋を出て行ってしまった。

今度こそ、僕は途方に暮れることになった。

葛城さんにしろ、赤木さんにしろ、惣流さんにしろ――僕は女の人を泣かせてばかりだ。

「……すいません」

「謝ることはないよ、シンジ君。彼女は自分の言葉の罰を受けた。それだけだよ」

罰? 罰が下るようなこと、惣流さんは何も言っていないのに。

「何の……話ですか?」

僕は間抜けな顔で訊き返した。すると渚さんは辛そうに表情を歪め、それからぽつりと、呟いた。

「僕も、罰を受けねばね。……シンジ君、これは君にとってはきっと辛い話になる。身体が治るまでは、聞かないほうがいい。時が満ちれば僕が責任を持って君にそのことを伝えよう。だから、今だけは、身体を治すことに専念してくれないか」

そんなに沈痛な顔をしている渚さんの顔も、僕は見たことがなかった。


「本当に、行くのね?」

「はい」

僕は同じ答えを繰り返した。葛城さんが僕を気遣ってそう言ってくれているのは痛いほどよくわかったけれど、僕としても止めるわけにはいかなかった。

「すいません、お忙しいのにこんなことにつき合わせちゃって」

「……いいのよ。でも、本当に――」

「はい」

僕がもう一度念を押すようにその答えを繰り返した後で、葛城さんはやっと車を出してくれた。

渚さんは約束通り、リハビリを終えて退院した僕に黙っていたことを教えてくれた。

「綾波さんには家族がいる」

「はい……それが、何か……」

渚さんは少しためらったような表情で目を伏せ、床を見つめた。

そしてそのまま、僕の目を見ずに言った。

「その家族というのは、君のお父さんと、お母さんなんだよ」

「父さんと……かあ、さん?」

僕は渚さんが諦めて立ち去るまで、ぽかんとした顔でその言葉を反芻していた。

使徒戦役の後に母さんはサルベージされたのだという。死んだと思われていた母さんは本当はあのエヴァンゲリオンの――初号機の中にいた。

「そしてあなたのお母さん、碇ユイは帰ってきた……あなたを産んだ記憶を忘れ、レイを産んだ記憶を持って」

そう僕に教えてくれたのは赤木さんだった。赤木さんは綾波さんや父さんと一緒にその実験に参加していたのだという。

「恐らくは、サルベージの際にレイの願望が取り込まれてしまったのね。彼女、本当に碇司令のことを慕っていたから」

そう言われると、僕は言葉に詰まった。それほどまでに綾波さんは、父さんを、母さんを欲していたのだ。

僕はもう母さんの顔はもちろん、父さんの顔さえ上手く思い出せないのに。

それなのに、綾波さんは知らないはずの母さんの手を取って、この世界に連れ戻した。

とても勝てない、と思った。それはきっと、もう本物の家族だから。

だからこそ、誰もが口をつぐんで母さんを偽物の真実から守っているのだ。

「だから――別に何かを言おうとか、そういうわけじゃないんです」

「でも……あなたは、あの人たちの本当の子供なのよ?」

「はい。だけど……たぶん、本当の家族では、もうないんです」

「そんなこと――」

言い返そうとする葛城さんの声を遮って僕は話を続けた。

「だから、見るだけです。ただ、僕の母さんだったひとがどんな人なのか、どんな場所に住んでいるのか、一度だけでいいから、僕はそれを見ておきたいんです」


その家は、第3新東京市の郊外にあるこじゃれた一戸建てだった。「碇」という表札が掛かった玄関には小さな鉢がいくつもあって、鉢に合うように小ぶりな、ちょっと見かけない不思議な植物が植えられていた。

僕は中のようすをうかがった。けれど、壁が透けて見えるわけもなかった。

「仕方ない、か」

そう呟いたけど、それほど残念ではなかった。たぶん、僕は口ではあんなことを言いつつも、本当は母さんに会うのが怖かったのだと思う。自分のものでない母さんに会うのが怖かった。僕のことなんか忘れてしまって、別の人生を歩いている母さんに会うのが。

そこに僕を産んだひとと同じ人が生きている。それだけを確認したかった。

僕は踵を返して葛城さんの待つ車に戻ろうとした。

後数秒遅ければ、僕はもう振り返らなかっただろう。

でも神様は恐らくそのとき僕に「逃げるな」と言っていた。

歩き始めようとした僕は、ドアが開く音を――そして、その後に続いた、ろくに覚えてもいないくせに泣きそうなほど懐かしいひとの声を聞いた。

「どちらさま?」

そして僕は振り返り、そのひとを見た。

つっかけを履いた姿は若かった。ミサトさんと同じくらいの歳に見えるそのひとは、意志の強そうな涼しげな目も少し内に入るようなショートカットもとてもとても綺麗で……

綾波さんに本当によく似ていた。

「おかあ……さ」

「……どちらさま?」

小首をかしげて繰り返してから、そのひとの顔が不安に曇るのがわかった。

でもそれは一瞬のことだった。

「もしかして、娘のお友だち?」

ぽんっ、と手を叩いたその顔は、雲のない高空のようなはじける笑顔だった。

お母さん。

おかあさん。

僕はその笑みを少しでも長く見ていたかった。

「あ……ごめんなさい。間違いでしたか?」

そして僕は嘘を吐いた。

「い、いえ……そうです」

「まぁ! ごめんなさいね。まったく誰に似たんだか、あの子ったらちっとも家にお友だちなんか連れてこなくって。だから、少しびっくりしてしまったの。本当にごめんなさい。ねえ、上がっていきません? 不審者扱いしちゃったお詫びにお茶でもご馳走するわ。もう少ししたらあの子も帰ってくるから」

僕は一瞬、ふらふらと入りかけて……すんでのところで、思いとどまった。

『もう少ししたらあの子も帰ってくるから』

あの子が……綾波さんが、帰ってくる。

駄目だ。僕が、こんなところにいるのを見たら、綾波さんは――

その思いを頼りに、僕はなんとか踏みとどまった。

「あら? どうしたの?」

「あ、いや、あの……」

僕は、こんなところにいてはいけないんだ。

そう、僕は、いなくならなければいけないんだ。

「あ、その、あー……僕は転校することになって、すぐ行かなきゃ駄目なんです。だから、その前に、あ、綾波、さんに」

お母さんの前から、消えないといけないんだ。

一刻も、早く、そうしないと。

「綾波さんって?」

あ……そうか。

もう綾波さんは「碇さん」なんだ。

そのことに気づくと、途端に気持ちが落ち着いた。

そうだ、何を焦ることがある。決めたじゃないか。ここに来る前にもう。

この街を、出ようと。

ここはもう碇さんの家族が住む家で、僕の家族はもう、どこにもいないのだ。

それを、僕は選んだのだ。

「あのう……もしもし?」

「あ! ああ、すいません。つい、自分の名前を言っちゃって。えっと、出発の時間があるんで、もう行かなきゃいけないんです。すいません。残念ですけど、もう行かないと」

「あら、そうなの。本当に残念。娘にはちゃんと伝えておくわね。ええと、もう一度、名前をお訊きしてもいいかしら?」

そのひとは本当に残念そうな表情を浮かべて、僕はまたその表情に負けそうになった。

だから、僕はゆっくりと目を閉じ、三つ数えてから、その名を口にした。

「はい。僕は……僕は、綾波です。綾波、シンジです」

「あら、シンジ君っていうの? 奇遇だわ。おばさんもね、もし息子が生まれたら『シンジ』って名前をつけようって決めてたの」

「ああ、それは――」

言いよどんで、視線を逸らしたとき。

僕は見た。

遠くから、誰かが走ってくるのを。

お母さんを――やっと、やっと自分のものになった家族を盗られまいと、必死で走ってくる本当の娘の姿を。

「すごいな」

お母さん。僕にこの名前をくれたひと。

「本当に奇遇ですね」

さようなら。

「じゃあ、僕はもう行かなきゃ。いか……碇さんを、よろしくお願いします――ユイさん。お元気で」

「えっ――あの、君?」

その言葉にはもう振り向かず、僕はこの家の本当の娘さんが走ってくるほうとは逆方向に全力で走り出した。

9

長い話をし終えるまでに、電車を一本見送った。もうサンドイッチの入ったバスケットは空になっていて、二人は自分達の予定が嘘であることを隠さなくなっていた。

「あんたは……それで、満足なの? 自分のママを盗られて、そんなので――」

「盗ったんじゃ、ないよ」

線路を覗き込みながら、僕は訂正した。遠い山の向こう、レールが見えるか見えないかというところに、小さいきらめきが見えたような気がした。

「僕は何もしなかった。でも、碇さんはそれをやった」

「違うわ。できなかったのよ、あんたは」

「……違うよ。僕は、何かができたけれど、それをしなかったんだ」

「それこそ違う! だってそうじゃない。あんた、民間人だったんでしょ? 事情も知らずに連れて来られて、断る権利もなく乗せられて、あんな、あんな死んでもおかしくない怪我して、なのに、まだ自分が悪いって言うわけ?」

「そうじゃない。そうじゃないんだ。誰も、誰も悪くない。僕は断ることができた。本当に嫌だったら、エヴァンゲリオンに乗らなくたって良かったんだ。戦うのが嫌いなら、あれに乗るのが怖いなら、僕はいつでも降りられた」

「そんなの後からだったら何とでも言えるわ」

「もし僕が本当にエヴァンゲリオンに乗りたかったのなら、もっともっと訓練したと思う。僕は、エヴァンゲリオンは碇さんが乗るものだと思ってた。碇さんが守りたいと思う街、守りたいと思う絆。僕はそれを守るためにエヴァンゲリオンに乗ってたわけじゃなかった。ただ……ただ、僕には他に何もすることがなかったから」

「暇だったから……だから、エヴァに乗ってたって言うの?」

惣流さんが、古い樹に空いた洞でも見るような目で僕を見た。

「うん。……おかしいでしょう? 自分でも、馬鹿なんじゃないかって思う。でも、僕はそうした。そうやって、戦う気持ちもないままであれに乗って、やっぱり何も、しなかった」

惣流さんは苦しそうに顔を伏せ、言葉を捜しているようだった。

「でも……でも、あんたは……」

ふおん、という警笛の音が響いた。電車はもうちゃんとその形を確認できるくらい近くまで迫っていた。

「でも、でも……」

視界の端で電車がどんどん大きくなっていく。

「それでも、あなたは……私たちの、象徴だったのよ。シンジ君」

その声が僕の耳に届いたのと、電車がホームに滑り込んだのと、どっちが早かったのか。

「葛城さん」

目の前に、自慢のロングの黒髪を汗で濡らして、肩で息をする葛城さんがいた。

「私たちは、ずっと、ずっと、あなたを見て戦ってきた。使徒と戦って、ずっと戦い続けている三人目のチルドレンのために。あなたがいたから――私たちは負けなかった。使徒と戦い抜いて、勝つことができた」

葛城さんの目は真剣で、嘘があるようには見えなかった。

でもそれは、葛城さんや他のみんなの中にいた眠り姫の僕で、僕の知っている今の僕ではなかった。

だから、僕は――ユイさんにそうしたのと同じに、笑った。

「ありがとう。僕がもし……ミサトさんや、リツコさんや、アスカさんや、カヲル君や、レイさんの戦いの助けになったのなら、良かった」

名前を呼んだけれど、誰も文句は言わなかった。

「でも」

乗らない乗客を急かすように、小さく警笛が鳴る。僕は足元のリュックサックを持ち上げ、肩に背負いなおす。

そして車内に入って、みんなを――僕とは違う道を選んだ人たちを、振り向く。

「それは僕がしたことじゃない。僕は何もしなかった。使徒を倒して、人類を救ったのは、ミサトさんや、リツコさんや、アスカさんや、カヲル君や、レイさんです。僕はきっと自分でこの道を選んで、こうしてここにいる。そう思っているから、僕はこの街を出て行くんです」

第3新東京市は、英雄達の街だ。

エヴァを駆って、使徒を倒すことを選んだ人たちの街だ。

でも、僕は――

二番線厚木行き普通列車、発車いたします。

葛城さんが駆け寄る前に、扉は閉まった。

ホームに佇むみんなに手を振る。葛城さんは泣いていて、アスカさんは、こいつはしょうがない奴だなあ、という苦笑いで手を振って――でも、いつの間にか僕を待ち受けるように進行方向に歩き出していたカヲル君だけが微笑んだままだった。

カヲル君は進行方向にゆっくりと列車を追いかけながら、何かを僕に伝えるように口を動かした。

『この結末で満足なのかい? シンジ君』

そう言っているみたいに思えた。

だから僕も窓に顔を寄せて、口を動かした。

『悪くないと思うよ。だって――』

僕はあのエヴァンゲリオンに乗るのが、父さんが造ったあのロボットに乗って、守りたいものもないのに、無理やり決心を奮い立たせて、誰かの代わりに戦いに出るのが――

本当に、本当に、嫌だったのだから。


しばらくすると、新湯元の駅もその近くにある第3新東京市のどちらも僕の目には見えなくなった。

僕は自分がいなかった戦線を脱して新しい場所にいた。

「さて、と。……どこへ行こうかな」

車窓の向こうにで流れていく風景を眺めながら、僕はそんな風に新しい居場所を探し始めた。

- The rest stories of "Project Eva" #39 - "The front of Null-S" end.
first update: 20070102
last update: 20070102

note

About author
作者:north
The referential link(citiations is stealed from...)
「こんなエヴァ小説がどうしても読んでみたい!!16」スレッド(現行スレ)>>163より。
* さすがに「何もかもが嫌になったシンジはドグマに引き篭もる」は無理だったので、別オチに改変。
Get back to index (of the rest stories of "Project Eva")