物理法則の視点からは、特異点の存在は、因果律を破壊する原因になるので避けたいものである。ブラックホールなどの特異点は、事象の地平面で覆われることで問題にならないが、事象の地平面で覆われない「裸の特異点」が出現すれば物理的に厄介である。ペンローズ はこの立場から、宇宙検閲官仮説 (cosmic censorship conjecture)を提唱した。自然界には裸の特異点は存在しないだろう、という予想である。しかし、この仮説の真偽については、明らかではなく、特殊な状況の数値シミュレーションでは裸の特異点が出現する、という報告もある。
――Wikipedia日本語版「特異点定理」より引用
長い長い説明の後、ようやく僕は、その人の言わんとしている事が理解できるようになった。
長かったのは説明だけではなくて、その説明を理解する為の、下地となる知識に関する講義からがそもそもとんでもない長さだった。
けれど、それを聞かなくては、そもそも何故その人が僕の前に現れたのかも解らないし、今僕がおかれている状況さえも解らないのだから、それは文句を言うような事ではなく、むしろ物分りが決して良いとは言いがたい僕に対して根気よく説明してくれたその人に対して感謝さえすべきなんだろうと、僕は思っていた。
実際、僕は決して良い生徒だとは言えなかっただろう。何度もつまずき、何度も繰り返した。
それでも、ようやくの事、理解する事が出来た。一体どれだけの時間がかかったのかは、考えるのも面倒だった。
「つまり、空間的特異点に限らず、物理的要素に影響を及ぼしうる界での特異点は、全てその影響を及ぼしうる対象から隔離されていなければならない訳だ」
「ええ。それは解りました」
「うむ。では次へ進もう。今度は、宇宙の構造と時間の概念についてだ」
「ある系の運動速度が光速に近づけば、その系での主観時間は静止系の主観時間に対し短くなる。ここまでは良いね?」
「はい。光速に近い速度で飛んでいる宇宙船が行って帰って来る間に、宇宙船の乗組員と、地球で待っている人たちの間で、時間差が生じる、でしたよね」
「そう。いわゆるリップバンウィンクル現象……ウラシマ効果だ。では仮に、その系の速度が光速に達した時はどうなる?」
「……主観時間は停止する」
「そう。停止、言い換えれば、時間値tは0となる。ならばだ。更に進んで、その速度が光速を越えた場合は?」
「光速以上の運動速度はあり得ないんじゃあ?」
「そう。それは通常許されない。しかし、仮に、考えてみてくれたまえ。その場合どうなるだろう?」
「…………時間値tが、マイナスになる?」
「そう! その通り。そして、時間値tが負の値を取る事自体は、ニュートン力学も相対性理論も決して禁じてはいないんだ。忘れたかね、時間対称性だ」
「ああ、そうか。だからこそシュバルツシルト半径の向こう側は」
「そう。保護されねばならない。そこにたどり着く」
「結局、ばらばらに見えてリンクしているんですね」
「リンクの辿り方、全体をつなぎとめる明確な楔は、結局発見されずじまいだったがね。まあ、それは今は論じる対象ではない。肝心なのは、時間値tの自由度についてだ」
「時間値tがマイナスを取りうる……だったら、時間は一次元的ではあるけれど、順逆どちらにも流れうるって事ですよね」
「そうだ。無論、通常過去に向かって流れる時間は、実3次元の住人にとっては想像が難しいわけだが」
「でも、だとしたらですよ。時間をさかのぼる事自体は、まったく自然に保証された事なんですよね?」
「まあね。理論上可能であるならば、それを行う事自体は問題がない。人倫どうこうと言うのとは全く別問題として」
「そうすると、ほら、何でしたっけ。過去に戻る事で起こるパラドックス。あれはどうなるんですか?」
「パラドックス? ああ、『母殺しのパラドックス』か。それもまた問題ない」
「え? で、でも。過去に戻って母親を殺したら、やっぱり」
「問題はないんだよ。問題になりようがない、と言った方が良いかも知れない」
「どういう事でしょう?」
「量子力学に関する説明はおぼえているかね? 量子の状態を言い表すには、我々は『その辺りにある』と言う確率論的言及しか出来ない」
「ああ、ええと……波動関数、でしたっけ」
「そう。位置と運動量、どちらかを確定すればどちらかが不確定となる。電子レベルにまで存在単位を小さくした場合、その運動を完全に予測する事は不可能とされる。と言うよりも、取りうる範囲内での全ての状態が等価となる」
「でした、よね。でも、それが?」
「聞きたまえ。ある時点での、ある量子の状態は、それが取りうる範囲内で全て可能性として等価だ。では、その次の時点では? あるいは、それより一瞬前の時点ではどうだろう? 同じだ。どの時点であれ、その量子が在り得る位置と取り得る運動量は、常に等価となる」
「……もしかして」
「そう。ある時点での量子の位置が全て等価であるならば、そこから予測しうる未来と過去、双方の全ての状態もまた同様に等価となる。と言うよりも、全ての量子はその発生と崩壊の間に置いて、全てが確率的に等しくなる。つまり」
「何をしたとしても、保証されてしまう?」
「過去へ戻って母を殺そうが、あるいはもっと昔の祖先を殺そうが、存在する実存を消し去る事は不可能だ。なぜなら既に存在しているのならばそれはその誕生から消滅までの間において保証されてしまうからだ。そして同様に、その存在が辿って来た過去もまた、保証される」
「過去へ戻って自分を生む前の母親を殺したとしても……」
「そう。殺した人物がそこに存在する以上、彼を生んだ母親の存在もまた保証される。過去へ戻ってやり直し、などとした所で意味はない。何故なら、やり直そうと考えたその時点の『現在』はすでに存在してしまっているのだから。たとえその後過去へ戻ってやり直そうが」
「戻ろうとしたその時の『現在』は、相変わらず存在している」
「そういう事だ。結局、気分の問題でしかなくなってしまうんだよ」
「気分の……」
「だって、そうだろう? 確かに、過去に戻ってやり直し、多少はマシな『現在』を得られたとしてだ。しかし、だからと言ってろくでもなかった『現在』が消滅する訳ではないんだ。如何にその人物の意識がその『現在』にはなかったとしてもだ。少なくとも、その『現在』までを辿ってしまった記憶は残る」
「時間認識は、連続し続けているから」
「そう。『過去へ戻ってやり直そう』と考えたからこそ、彼はやり直した。そうであるならば、やり直そうと考えた時点での彼は保証されてしまう。そして、ある人物の時間認識は発生から消滅まで常に一次元的にしかある事が出来ない」
「過去へ戻ろうがどうしようが、過ぎた経験は無かった事には決してならない……だから、気分の問題。そういう事か」
「そういう事さ。だがね。そんな世界ではあるが、それでも保護されねばならない時間と言うのも、確かに存在するんだ」
「保護、ですか?」
「ああ。たとえば、空間の特異点が、シュバルツシルト界面によって保護されるように。宇宙そのものの特異点が存在する。それも、二つ」
「二つ? 一つではなくて?」
「そう。二つだ。一つは、その宇宙が誕生した瞬間。その後に続く全ての『状態』を保証する原初の瞬間。これが宇宙の第一特異点だ。これが保護されねばならない理由は解るね?」
「その瞬間が侵されてしまったら、その宇宙がなかった事になるから」
「うむ。そして、第二の特異点。これはアルファに対するオメガ。つまり、その宇宙に属する全ての認識が実存から切り離された瞬間がそれにあたる」
「認識が、切り離された瞬間……それって?」
「そう。全ての人の意識が外面から切り離された瞬間。全ての魂が内を向いた瞬間。その時、宇宙の全ての量子は不確定状態と化す。それこそが、宇宙の終焉。『終わりの瞬間』――オメガポイントだ。君は、それを知っている筈だ」
「僕が?」
「ああ。思い出したまえ。ここは何処かね? 君は、私は誰だ?」
「ここは――」
その時、初めて、いや、多分本当は違うんだろうけれど、初めてとしか表現のしようがないのでそう言う。初めて僕は、自分が置かれている状況に気づいた。
周囲には、赤い海と黒く爛れた地面しかない。空には見た事もないぐらいの量の星がまたたいている。いや、どの星もまたたきは一定せず、現れては消え、消えては現れと、まったく不安定な有様だった。
見回せば、視界の端には一着のプラグスーツが転がっている。黒いプラグスーツ。いや、赤いプラグスーツ? 解らない。どちらにも見えるし、どちらでもないようにも見える。
あれを着ていた彼女。彼女の姿は、もう何処にもない。他の皆と同じ所へ、彼女は去ってしまった。
あの時、他者の存在を望んだ僕の前には、彼女の姿だけがあった。他の皆がどうなったのかは、解らない。もしかしたら、あの彼女もまた、僕が作り出した幻影だったのかも知れない。
彼女が僕に示してくれた感情の中で最も強かったものは、敵意だった。敵意、悪意、軽蔑、嫌悪。そうしたものが、彼女から僕への贈り物だった。だから、僕はそれに応えた。かつてないぐらいに。真剣に。
でも、彼女が望んでいたのは、別のものだったのかも知れない。本当の所は、まるで解らないけれど。
結果的に、彼女は世界を、または僕を、あるいはその両方を、拒絶した。それだけが、彼女に関して僕に解る全てだった。
そうして彼女が消え去った後、僕はここに佇んでいた筈だった。それがどれ程の時間であったのか、僕にも解らない。
その、長いか短いかはおろか、果たしてあったのかなかったのかも判別出来ない時間の果てに、僕はふと、過去へ戻りたいと思った。そんなおぼえがあった。
その次の瞬間だった。この、目の前の人が現れたのは。その人は、まるで最初からずっとそこにいたかのように、自然にそこにいた。
ここは、終わりの世界。終わった世界。終わりの風景。その只中。
僕は碇シンジ。そしてこの人は。
「時空検閲官……でしたよね」
「御名答」
そう、確かにこの人は、僕がその存在に気づいたその瞬間にそう名乗った。「こんにちは、碇シンジ君。私は時空検閲官。君を迎えに来た」と。
待て。僕を迎えに?
「ようやく思い出してくれたようだね。そう、私は君を迎えに来たんだよ」
「何故僕を……って、そうか。そのための説明を」
「そう。それが今までの議論だ。理由はそろそろ解ってもらえたんじゃないかな?」
「ええ」
さすがに、僕のような凡人でもいい加減理解出来た。
「僕が、『特異点』なんですね。この宇宙の」
「そう。全ての認識が実存から切り離された一瞬。君らがサードインパクトと呼んだあの一瞬こそが、この宇宙の終わりの瞬間に他ならなかった。だが、その後に君は現れ、世界を見た。世界の最終観測者。世界を終わらせた者。世界の終わりそのもの。それが君。この宇宙のオメガポイントだ」
「第二特異点」
「オメガポイントが特異点として保護されねばならない理由は解るかね?」
「それは、いいえ。解りません」
「それはね、宇宙が一つではないからだ。宇宙に存在する電子が一つきりではないように、一つの次元レベルには複数の宇宙が存在するんだ。電子同士がぶつかりあって干渉し合うように、宇宙もまた同様に干渉しあって存在している。オメガポイントを迎えた宇宙は、その瞬間に観測、干渉の対象外となる。何故ならそこでその宇宙は終わりだからだ。終わった筈の宇宙が存在すれば、宇宙同士の干渉の法則は崩れ去ってしまう。空間の特異点がむき出しとなっていたら、物理法則が崩壊するのと同じように」
「複数の……平行宇宙が?」
「そのイメージが、一番近いだろうね。いずれにせよ、君の存在は保護されなくてはならないんだ。空間の特異点がシュバルツシルト界面によって保護されているように」
「あなたが、その役割を?」
「そう。宇宙の特異点は、時空検閲官によって保護される。それは同時に、ある事を示すのだが、解るかい?」
言われて、僕はしばし思考に沈む。特異点は保護されねばならない。何故ならむき出しの特異点は、彼と同じ局面における他の存在に対し悪影響を及ぼし、局面全体の崩壊を招きかねないからだ。
そこで一つ疑問が湧く。特異点がそのようなものであるならば。ならばだ。そんな特異点に接触し、あまつさえ他の存在から保護まで出来ると言うのは、一体どういう存在なのだろうか。答は幾つか浮かぶ。だが、その中で、直感的にこれだと言えそうなのは一つだけだった。
「……あなたも、特異点だった?」
「その通り」
その人は小さくうなずき、星空を仰いだ。まるで、そこにその人がかつて暮らしていた世界が浮かんでいるかのように、目を細めて、星空を、その向こう側を、見透かすように。
「かつて、私もまた君のように、世界の終わりを目撃した。あの世界の事は、今でもはっきりと憶えている。多分、永遠に忘れる事などはあるまい。私だけではない。全ての時空検閲官は、皆同様に、己の宇宙の最後を看取った者なんだ」
「つまり、僕も時空検閲官に……?」
「その通り。特異点と接触し保護する役割である時空検閲官は、特異点にしか行えない。我々の役割はすなわち、特異点の保護と同時に、新しい同僚のスカウトでもあるんだよ」
「でも、宇宙の終わりに特異点が現れるなら、幾らでも新しい特異点が」
「そうは行かないんだ。全ての宇宙において、最終観測者が生まれるとは限らない。中には、最終観測者たるべき者もまとめて同時に滅んでしまう宇宙もある。特異点の特異点たる所以とはすなわち、『宇宙が滅び去った後にも尚その宇宙に存在する』と言う事なんだ」
「僕のように」
「あるいは、私のように」
僕も、その人にならい、星空を見上げてみた。空は相変わらず安定せず、かつてそこにあっただろう月の存在すら今となってははっきりとはせず、まして遠い彼方へと飛び去った筈の初号機の存在など、まるで解る筈もなく、それでもなお、何故だか僕は、今はもういない人たちの事が、妙に近しく思えてならなかった。もうそこにはいない筈なのに。
「あの」だから僕は、ふとその人に聞いてみたくなった。「あの人達は、もう何処にもいないんでしょうか」
「いないと言えばいない。終わった世界の住人は、世界が終わった瞬間にその存在を消去される。だが」
「だが?」
「消去されるのは、あくまでも『この宇宙における存在』であり、その存在の元となったものまでが失われるわけではない。それらはやがて、この宇宙の残骸から生まれ出る新しい幾つかの宇宙において再度存在として現れる。それは決してかつてあった人々と同一ではないが、そこに連なるものであると言う事は変わらない」
その人は、星空を見上げたままに、そう言った。その顔は、その時の僕と同じく、懐かしい人々を思うそれだった。かつてあり、今はもうなく、しかし新しく生まれた宇宙で、過ごし、生き、生まれる人々。懐かしくて、けれど見知らぬ誰か達。
さようなら。僕と言うものはすでになく、僕は新しく生まれもせず、僕は生きていない。けれど、僕は貴方達を憶えています。昔も、今も、これからも。
「さて。そろそろ行こうか」
その人は立ち上がり、僕に手を差し伸べた。その手を取って、僕は立ち上がった。
「行くって、何処へですか?」
「図書館。そう呼ばれる場所だ。時間的にも、空間的にも無限を約束された場所。ありとあらゆる矛盾を内包し、それでも揺るがぬ永遠の塔。かつてあった、今ある、これからあるだろう、そして全ての時点において存在しない宇宙も含めて、全ての宇宙の記録を収めた巨大な図書館。そこが、我々の居場所だ」
「宇宙の記録を……じゃあそこで、ええと、司書みたいな事をするんでしょうか?」
「まあ、そんな所さ。ごくまれにだが、閲覧者が来ないでもない。盲目の老人だの、皮肉屋の探検家だの、人嫌いで下手糞な詩人とかね」
「楽しそう……って言って、良いんでしょうかね」
ほんの少しだけ苦笑の混じった笑いを浮かべる僕に、その人は、同じような笑みを浮かべて応えてくれた。
「楽しいかつらいか。決めるの君だ。君が楽しめば、それは楽しい事になる。もの皆全て、そのようにある」
ならば、僕は楽しもう。これまでのあり方とは、違うやり方を目指してみよう。母さん。僕は貴女が理解出来なかった。貴女は恋しいけれど、貴女本人は理解出来ない。けれど、母さん。貴女が残した言葉については、実践してみよう。その代わりに、母さん。僕は貴女の事だけは、忘れようと思う。貴女と言う存在を、僕の宇宙から消し去ろう。
さようなら。母さん。永遠に。
そうして、その人と共に旅立ち、図書館へと至った僕は、その人と同じように、数十億周期後、時空検閲官の部屋で、新しい友人に出会った事だろう。
「もう、良いんですか?」
「はい」
「貴女の場合は、特殊なケースで、本当なら元へ戻してあげたい所なんですけど……すいません」
「あっ! そんな謝らないで下さい! 本当に、寂しくないと言ったら嘘ですけれど。でも、それでも寂しくはないのです。なぜならば! この胸には、お姉さまの思い出があるのですから!」
「そうですね。思い出だけは、誰にも奪えない。本人が忘れさえしなければ、それは」
「はい。それは、永遠に残る、星の光。では、まいりましょう! ええと……お兄様?」
あるいは、こんな風に。あるいは、別の形で。あるいは、別の人々と。
特異点。そうであるが故に、彼や彼女が属する全てから、限りなく遠く切り離された存在達。僕がそうであるように、彼女も、あの人もそうであるように。
そして、僕らはお互いが特異点であるが故に出会う。ありえぬ者同士の、ありえる出会い。
であるからこその別れと、であるからこその出会い。二つの狭間を僕らは遷ろう。
そして。そうしてだ。僕はようやく気づけた。解った。理解した。
であるからこその別れを、僕とあなた達は経験したし、しているし、するだろう。しかしだ。思い。それがあるなら、僕らは共にあり続けているのだ。僕があなた達を憶え思うが如く、あなた達が僕を憶え思うが如く。
思い。それだけは、何を持ってしても押しとどめる事は出来ない。光も逃さぬ黒い帳であろうとも、無限と有限の間に横たわる果てなく遠い隔たりであろうと。
だから。僕はここで思い描こう。あなたがそこで思い描くように。
あなたの人生の物語を。
僕の人生の物語を。