よく晴れた日曜のリビングには午後の陽が差していて、あたしは一年以上も住んでいたはずなのに初めてそれを目にするように、陽ざしを照りかえす床と、そこにくっきりと影を作るシンジの背中とを交互に見た。
あたしとそれほど変わらない細い背中はもぞもぞと動いていて、仕上げに入っているのがわかった。
この国には夏しかないのに、丸めた背中は妙に寒そうに見える。
「終わった?」
ころあいを見計らって声をかけると、答えを返すように、ぱちんとリュックの留具を閉める音が聞こえた。
「終わったよ、アスカは?」
「とっくによ。ったく」
トロいんだから、という言葉は飲み込んでそう答えてから、あたしは眉を寄せる。視線の先にいる男の子がその中に収まっている視界に妙な違和感があった。
目を閉じて、また開いてみる。
そして改めて気づく。そこにはあるべきものがない。部屋の真ん中に鎮座していたソファ、窓際で枯れかけていた観葉植物、部屋のサイズには見合わないやや小さなテレビ台と、その上で少し申し訳無さそうだったテレビ、それら全部をその上に乗せていた、あたしが汚してしまったカーペット。どれひとつない。
そこまで思い返してみてやっと、あたしはシンジの背がなぜ寒そうに見えたのかを理解した。あの雑然としていたリビングが、モデルルームのようにすっきりと空っぽになってしまったからだ。そこで、そういえばこの部屋がこんなに片付いているのを見るのはそれこそ今日が初めてなんだ、といまさら気づいた。
そうだ。あたしが来たときにはもう、この部屋では二人と一匹の生活が始まっていた。二人と一匹の生活、そこにあたしが転がり込んで、三人と一匹になった。それがやがて二人と一匹に戻り、二人になり、また三人に戻り、そうしていま、この部屋にはついに誰もいなくなる。
準備を終えるまでにそれほどの時間はかからなかった。
あたしの持ち物は、あんまり飾り気のない生成りのバッグひとつきり。机やベッドみたいにもう要らないもの、持っていけないものは粗大ゴミに出しているし、必要な荷物でもかさばるものはもう先に発送してある。
そしてシンジはといえば、それこそリュックサックひとつしか持っていくつもりはないようだった。
「来た時と同じだよ」
シンジはしみじみとする気もあまりないようで、リュックサックを眺めて淡々とそう言った。声には孤独であることを当然として、そのさみしさを受け入れて生きていた人間だけが持っている妙な軽やかさがある。
それは多分どこか演技なのだろうけれど、にしてもこいつにしては器用だ、とあたしは感心し、その自分ではどうしようもないことについての諦め方が少しだけ羨ましくなる。
けれどそれはどうあってもあたしの生き方ではなく、ここにいる二人の生き方がきっと交わらないであろうことをもうあたしは知っている。どこまで延長したって決して交差できない二本の平行線。
「忘れ物ない?」
シンジが立ち上がりながら答える。
「そのはず。アスカは?」
「ないわよ。元々、あたしのものなんかほとんどなかったんだから」
実際、引越しの準備のあいだじゅう、そこにあったかもしれない自分のものを思い出そうとしてみて、あれだけ大量にあった家具の中に自分のものだと言い切れるものをひとつも思い出せなかった。それだけで、自分がどれだけこの家に根付いていなかったのかがよくわかる。
だからこそ、どうしてあれだけミサトが家具を買い込んだのか、あたしには今となってもよくわからないのだった。家具は、その家に根付いた居住者にとってこそ必要なものだっていうのに。
あたしが決して馴染もうとしなかった家に、何故あの女はあんなに大量の家具を買い入れたのか?
その問いにはいまさら答えなど出しようがないけれど、ただ、あたしが覚えている限り、すべてが終わってからミサトが初めにしたのが鍋を買うことだったのは確かだ。
ユーロドイツ製の鍋は高価に見えたけど、しかしミサトの少なくなかった収入を考えると買えない金額ではないようにも思えた。
でも、どうして鍋が必要だと思ったのかはあたしには全然わからなかったし、もちろんシンジにも見当なんかまるでつかなかっただろう。結局あの時から、もしかするとそのもっと前から最後の最後まで、ミサトはあたしたちにとって謎の人物だった。何ひとつわからなかったし、わかろうともしなかった。もちろんわかったと思えた時もあったけれど、それもきっと錯覚で、ひどく彼女を侮っていたのだろうと、今は思う。
あたしがそこから還ってきたあの夢と同じに、それはどうしようもない勘違いだ。
海の向こうに女神が見える最後の夢から覚めたとき、そこには何もなかった、わけではなかった。
その夢で見た光景ほどひどくはなかったけれど、そこには大量の瓦礫と陥没して海になった土地があった。けれど幸か不幸か、その沈んだ土地の中にあたしたちの住んでいたあのマンションは含まれていなかった。
失われた街の傍では何もかもが混乱していたし、何より今のあたしには身よりと言えるような人物も思い当たりもなかった。
それゆえに、海のちょうど際に位置することになったそのマンションに、またあたしは住まざるをえなかった。シンジだって事情は似たようなもので、つまりあたしたちにとってあのずたぼろのマンションは当座のシェルターほどの意味しかもっていなかった。
あれば便利だが、なければ別のものを探すだけだ。
あたしたちはまた同じ家に三人で住み、けれどまるで街ですれ違う他人のように暮らした。
同じ家に住んではいるけれど、互いを気にも留めず、眠いときに寝て起きたときに起き、出て行きたいときに出て行ってそのまま帰らないこともざらにあった。というより、あたしやシンジにとっては、そこは既にもう帰る場所ではなかったのだ。
たとえそこに病み上がりでまだ回復しきらないミサトが倒れ伏していても。
ミサトがあたしを買い物に連れ出したのはちょうどそんな生活が始まってからしばらくしたころだった。
いつの間にか知らないうちに抜糸も何も済んでいたらしいミサトは、久々にあの血の色をしたジャケットに袖を通し、あたしに買い物に付き合うように命令した。
「どういう風の吹き回しよ?」
あたしは訪ねたが、ミサトは無言のまま車を飛ばして郊外のホームセンターのまん前に停めた。そしてあたしに来いとも言わずひとり店の中へと歩き出した。
慌てて車の外に出たものの、付いて行こうか一瞬迷った。
だがそうする内にもミサトは店の奥へと歩き進んでいく。
結局、あたしは呆然とその後姿を見送ることになった。
行くかどうか迷っていたはずなのに、置き去りにされてみるとまるで捨てられたみたいに情けなくて、助手席に戻ることもなく、あのいらつく黒のロングヘアが、キーまでつけっぱなしの車に帰ってくるのをただ待つしかなかった。
いい加減勝手に車を運転して帰ってやろうと思ったころに、ミサトは一抱えの袋を持って帰ってきた。中には何か肉か野菜と、それを料理するためだろう、小ぶりな鍋が入っていた。ああいう店にしては高級そうな鍋。
しかし、ミサトがそんなものを抱えているなんていうのは何かの冗談にしか見えなかった。
「なによ、それ」
思わずあたしは半笑いで訊いたが、その答えはすぐわかった。
ミサトはその夜、あたしとシンジがちょうど家にいて、しかもその日は何も食べていなかったのを見越していたように、買ってきた食材で作ったアイントプフを出した。簡単なベースを作り、野菜や肉を鍋に入れて煮込んだだけの、ほとんど失敗しようのない簡単な家庭料理。
でもあたしたちは貪るようにそれを食い、それをミサトはにこにこしながら見ていた。
「餌付けされたわけ? あたしは」
あたしははたと気づいて食ってかかり、ハムスターみたいに野菜を頬張っていたシンジもそれを他人事のように見ていた。でもミサトは答えず、静かににこにこし続けたまま空になった鍋を片付けにかかった。
その姿には、どこか、というよりどこまでも違和感があったが、食欲には敵わなかった。
その日から料理はミサトの担当になった。
後から考えると、少しだけ家が回りだしたのは間違いなくその日からだった。ミサトはその日から欠かさず料理を作り、あたしたちは毎日それを食い散らかした。だからそのために、あたしもシンジも、昼間にはあてどなく災害復旧が済まない街をほっつき歩き、けれど夜には必ず帰ってくるようになった。
他人だった三人が、その食卓でだけ家族のように過ごす。そんな空気を助長するみたいに、料理と食卓を彩るための食器は少しずつ増えていった。鍋、包丁、フライパン、まな板、それから皿と椀と、その他の細々としたもの。少しずつ手狭になっていくキッチンで、それでもミサトは嬉々として料理を作っていた。その笑顔が、嘘だった家族を今度こそ本当の家族にするんじゃないかと、あたしまで思わず思ってしまうほどの笑顔がほころんでいた。
そうして笑っていられるだけの余裕もなぜかあった。
あの事件から半年を経過しても、なかなかこの場所には手が伸びてこなかった。例の殺し合いやその後釜争いを受けて当事者がほとんどいなくなったネルフはもとより、政府もこの件については腫れ物に触るようで、そこは半ば棚上げにされて捨て置かれた場所になっていた。あたしたちがそうして家族のように暮らすことができたのはそのせいだ。
まるであつらえたような、箱庭のような家。瓦礫の中の小さな家とそこでの生活。
それに満足しておけば、もしかするとあたしたちはそのまま、家族のようなままでいられたのかもしれない。
けれどそうはならなかった。
きっかけは何だったのか。
シンジが相変わらず一言も喋らないまま死んだ魚のような目をしつづけていたからか、あたしが家具を粗雑に扱うのをついに止めなかったからか、それともあたしたちが、目の前に投げ出された家族ゲームへのあてつけに、戯れで一線を超えてしまったからか。
推測ならいくらだってできるけれど、本当のところは今でもわからない。だから、事実だけを記そう。
ある日、本当に唐突に、何かの臨界点を越えたミサトはあろうことか新しいキッチンを部屋に運び入れた。
「ちょっと今のだと手狭だから」
ミサトは唖然とするシンジとあたしにそう言ってのけた。
あたしもシンジも、もちろん狼狽した。そんなことなかったかのように暮らしていたけれど、ここはサードインパクトがもしかすると起こった後の、あの第3新東京市で、ミサトはあのネルフの作戦部長なのだ。どこの誰に狙われているか知れたもんじゃない。
身を潜めるように暮らして当然なのに、それでもミサトは平然とあたらしいキッチンをどうやって手に入れたのかもわからないカードの一括払いで買い込み、運び入れられたステンレスの高性能システムキッチンを満足そうに眺め、いそいそと食器を並べ始めた。
だがしばらくすると、ミサトはリビングにいるあたしにも聞こえるくらいの声をあげた。
「……あら? 足りないわ、スペース」
なんだって? とあたしが振り向くと、確かに足りていなかった。
棚は皿で埋まり、その隣にはこれ見よがしに調味料の瓶が立ち並んでいる。
しかし考えてみるとその光景は明らかにおかしかった。家族で住んでもおかしくないくらいのマンションのキッチンが、わずか三人暮らしのミサトにとって手狭になるのと同じくらいに変だった。どうしてそんなに、食器がある?
でも現にあたしの前には皿と椀と大皿とスプーンとフォークと何揃いもの箸、それから封を切られていない調味料の瓶が転がっていた。
「新しい食器棚も入れないと」
こちらを一瞥して、でも何も言わず奥に引っ込んでいくシンジは、その言葉を聞かない振りをしているように見えた。ミサトは立ち去るシンジを気にも留めず、できるだけの食器を棚に詰めてから嬉々としてカタログを見て食器棚を選び始めた。あたしは文句も言えないで、ただそのさまをソファに座ってぼんやりと眺めていた。
もしも、この部屋で起こった無数の間違いのうち決定的な瞬間をひとつ、選ぶとするなら、きっとこの時だ。
平然とキッチンを買い込んだミサト、それに聞かない振りをしたシンジ、そして目の前にありながら見てみぬ振りをしたあたし。
翌日、あたしはがたがたいう音で目を覚まされ、薄目を開くとそこにはもう新しい食器棚が運び込まれていた。
ありがとうございましたー。教科書通りに挨拶をして出て行く作業服の男たちを見送りながら、あたしはそこに鎮座する巨大な食器棚と、そこに昨日入りきらなかった食器をまさに押し込むミサトを認めた。
「入れたの? 食器棚」
皺だらけの寝間着のまま、こちらはばっちり外行きを着込んだミサトに聞くと、ミサトはあっさり頷いた。昨日あたしが喘いでいた声なんか、ちっとも聴こえなかったとでも言うような。
それはまるで何もかもが上手くいっているかのような笑顔だった。
「パーペキ。これでちゃんと収納できるようになったわ」
胸元で手を合わせて、にっこりと頷く。その弾んだ声を聴いて、きっとそれでは終わらないだろうな、とあたしはうっすらと思い、その悪い予想はやはり現実のものになった。
立ち上がったあたしたちはリビングの入り口に立って、がらんとした部屋と、それよりさらにもう一段、限度を超えてがらんとしてしまったキッチンを見た。
「よくもまあ、こんだけやったわね」
「仕方ないよ。ミサトさんのものだったんだし」
「そりゃ、そうだけどさ」
キッチンは根こそぎになっていた。
そこに設置されていたはずのシステムキッチンは運び出され、換えもないままに放置されていた。こんな見捨てられた場所でいまさら文句を言う者がいるとも思えなかったが、それでもその光景は単に荒れ果てているだけの外よりもずっと異常に映った。
「でも、だからってここまでする普通?」
言いながら、あたしは立ち入らないようにしていたリビングとダイニングの境界線を、ついに越える。スリッパが破片を踏んでじゃりじゃり音がした。もう少し踏み込むと、がらんとした部屋の奥に、床下の構造物が見えるくらい抉り取られている場所がある。
なのにそれ以外は天井も壁も嘘みたいに平静で、だからこそその穴はやけに目立った。そこを中心にして部屋全体が根こそぎになっているようにさえ見えた。白い壁紙があって、ある場所から急にささくれて、その先には何もない。フローリングの床もある場所から失われて、その先には穴が開いている。
ぽっかりと口を開いた空隙。
まるでこの街みたいだ、と思った。
そこにあったはずのジオフロントは失われて、その他のものも先を争うように出て行った。それを再現するみたいにここからは何かが失われ、それと同じようにあたしたちもこの家を出て行く。
失われたもの。
それが初めには確かにあったのか、それとも最初から失われていたのかは、あたしにはわからないけれど――
逡巡しながらそっと壁を撫ぜる。柔い壁紙がめくれあがって、あたしの手の中で千切れた。
「アスカ?」
千切った壁紙をもてあそんでいるあたしに、シンジが声をかけた。
「ん?」
「ここ、何かない?」
振り向くと、その指が床下、抉れた床の下のスペースを指している。ごつごつした部分がむき出しになった床下構造。――その奥に、きらりと光るものが見えた。
「あ」
契約上、最後の住人であるミサトが出て行ったことで、無人になったマンションへの電力共有は既に止まってしまっていた。どうやらそういうことらしく、エレベーターは動かない。あたしとシンジは上ってきたときと同じに、それぞれの荷物を背負い、長い階段を下った。
やっとのことで下り終え、狭いドアを抜けてから、もう一度訊いた。
「忘れものない?」
「しつこいなあ。大丈夫だよ」
苦笑して答えるシンジは、それでも確かめ直すようにリュックサックを背負いなおした。必要なものは全てこの中に入っている、とばかりにあたしに肩紐を示してみせる。
そして付け加える。
「あれは持ってこれなかったし、ね」
「ま、そりゃそうでしょ。……あれは、あのひとのだもん」
言いながら、あたしはあの場所で見たものを思い出す。
根こそぎになったキッチン。抉り取られた床の下。そこに、彼女の忘れものはあった。
念のため。とんでもないものが転がっていたわけではない。そんなわけがない。ファーストの生首とか、リツコの銃殺死体とか、S2機関の起動スイッチとか、N2地雷とか、おめでとうの歌声とか。そんなものであるはずがない。この期に及んで、そんな取ってつけたようなドラマは要らない。
そこにあったのはただ、見慣れていた、でも何時の間にか見なくなっていたもの。
ミサトがいつも胸に下げていたはずの、正十字のロザリオだった。
これは、と、シンジはたぶん、こぼしたはずだ。
あたしも呆然と、これは、と、呟いていた気がする。
そうやって、二人して主語だけを口に出し、それきり何も言えなかった。後に続けるべき言葉を見失ったまま、あたしたちは長いこと二人で、物言わぬ空隙を見つめ続けた。
随分と長いこと、そうしていた。
そしてやっとのことで部屋を後にして、今に至る。
南の空高くにあったはずの太陽は、すっかり傾いてしまっていた。
「うん。……あれは、ミサトさんのものだよ」
後ろを振り向くと、遅れて歩いていたシンジが、今やっと飲み込めたというように頷いていた。あたしも無言のままそれに倣う。
その通り。あれは、あの場所は、あそこにあったあのロザリオは、ミサトのものだ。ならば、あたしたちが勝手に何か持って出てこれるわけがなかった。
あたしたちは何も託されてなんかない。
ミサトは何も託さなかったし、あたしたちは何も受け取ろうとはしなかった。
最後まで。
「ねえ、アスカ」
「ん?」
「あれ、忘れて行ったんだと、思う? それとも」
「わかんないよ、あたしには。あんたにだって。そうでしょ?」
「……そうだね」
また何かを、諦めるような笑顔。それから振り返ったままのあたしをゆっくりと追い越して、シンジはエントランスホールを出る。そしてジオフロントがあった場所を背に、北へ向かって歩き出す。
本当のことを言うと、ひとつだけ、あたしはシンジに嘘をついた。
嘘、ということになるのだろう。それが単なる想像の域を出ないものであるとしても。
ミサトがどうしてあのロザリオを、父親から譲り受けたのだというあのロザリオを置き去りにしたのか、あたしには見当がつく。あの場所に、何も言わず行ってしまったミサトが何を残していったのか。そして今もなお残され、恐らく永遠に、ただ取り残されたままになってしまうのか。
きっとそれは――
「アスカ」
「え? あ、何ごめん、聞いてなかった」
「何にも?」
「うん。全く全然完全完璧に」
シンジははあ、と大げさにため息を吐いてから、一瞬、笑顔を見せた。それはここまで一度だってしなかった表情だ。謙る卑屈な笑顔でも、得意げな笑顔でも、困ったような笑顔でもない、それはきっと、懐かしいものを見る笑顔だった。
不覚にも、胸を衝かれた。
「なァによあんた、変な顔して」
その言葉を、あたしはちゃんと言えただろうか?
判らないけれど、シンジはちゃんと不機嫌そうな表情を浮かべた。この表情までもが演技だと言うなら、こいつは大した奴だと本当に思う。
けれどたぶん、そうじゃない。この朴念仁は本当に、自分が浮かべた笑顔の意味がわかっていないのだ。それがあたしに伝えたことを。
「変な顔とは何だよ、変な顔とは」
それを指摘は、してやらないことにした。
「だって変なもんは変なんだからしょーがないじゃないのよー。で、何?」
「ああ、うん。どっちに行くの? って訊いたんだよ。僕はあっちだけど」
あっち、と言いながらシンジは右手を指差す。坂道を登りきったところにある交差点は、今朝待ち合わせた場所だった。交差点の右手は東、左手は西。
「んー。あたしとは逆ね。しっかしあんたも、太陽に背を向けての出発とは根暗丸出しよねぇ」
「たまたまじゃないか。太陽は東から昇って西に沈むんだからさ」
「ご明察。じゃ、沈みきらないうちに」
「そうだね。帰ろっか」
そうだ。この太陽が、地平線の向こうへ姿を消す前に、お別れをしよう。きっとミサトが残したものに。あたしたちもこの場所に取り残して行くものに。
「それじゃ」
「うん。じゃあ、また」
「うん。またね。……ああ、そうだ。シンジ?」
「ん?」
「忘れもの、ない?」
シンジがじっと、考え込むようにあたしを見た。答えは知っている。けれども、もう一度だけ。
ややあって、あたしはその答えを聞いた。
「いいや、ないよ。大丈夫」
それがきっと、あのひとが置き去っていったものへの、あたしたちなりの別れの言葉だ。そしてそれをさらに取り残して行くあたしたちから送る、ちょっとした哀切をこめた、最後の挨拶だ。
失われてしまった家族への。
「そっか」
お別れは済ませた。だからあたしはもう、忘れものの話はしない。何も訊くことはない。何も答えることはない。
「うん」
「じゃ、行くわ」
「うん」
「またね」
「うん……またね」
その言葉を聞き終わらないうちに、あたしはもう歩き出している。
きっともう、あたしはシンジと会うことはないだろう。
あたしたちは嘘つきだ。次などないと知っていて、それでもまたねと言い合って、お互いがどこへ行くのかも知らないまま、それでも笑顔で再会を誓うことができる。そうして沈黙だけをそのあとに残す。あのひとと同じように。
何時の間にか、そんな引き算があたしたちにもできるようになった。
足音が遠くなる。太陽が眩しい。交差点の、あちらとこちら。あたしは太陽へ近づき、シンジは太陽から遠ざかり、距離が離れていく。永遠に、近づくことはない。
まるで地面に大きなマイナスを描くみたいに、一直線に離れていく。
でもそれを、一瞬だけ、止めた。
あたしは立ち止まる。振り返る。
シンジは歩いている。あたしの知らない時と同じように、たったひとつのリュックサックだけを持って、あたしの知らない場所へ向かって歩いている。
その歩みを、あたしはもう止められないから。
だから、さよならの言葉は、くちびるにだけ。
そうしよう。そう、思って――
滲みかけた視界の向こうで、シンジがこちらを振り返っていることに気づいた。
「アスカ!」
遠い呼び声に、あたしは答えられなかった。答える前にそれは来た。
夕陽を受けて光る、何か。
投げて寄越されたそれをあたしは反射的に受け止めてしまった。ちょっとした重みと、手の温みが残った金属の感触。
これは。
「あんた――」
「――ごめん! 嘘、ついてた。それ、忘れもの!」
握った手を開くまでもなくわかった。
それはあの場所に、取り残されるはずだったもの。
ミサトの、ロザリオだ。
手を開く。肉厚の正十字、そこへ連なるチェーンに何かが結わえてあった。シンジのリュックと同じ色合いの、プラスチックの薄っぺらいタグ。ひっくり返すと、そこには見知らぬ住所と電話番号が記されていた。
「ねえ、これ!」
あたしは手を高く挙げる。手の中にそれがあると、あいつに示す。
「こんなもん勝手に持ってきちゃってどうすんのよ馬鹿!」
勢いづいて、精一杯、キレてみせる。あの朴念仁にこちらのかすれ声を気取られないように。
「持ってて! 返しに行く時まで!」
――あたしたちは、嘘つきだ。
平行線が決して交わらないことを知っているくせに、それでもいつかは交差できるかもしれないと、そんなどうしようもない嘘を信じることさえできてしまう。きっと交わらない二つの生き方が交わる無限遠点を、そこに仮定した消失点を、どうしても夢見てしまう。
それはどうしようもない勘違いだと、わかっているのに。
だから、
「――ああもういいわよわかったわよ! ったく、しょーがないわねえ!」
それはもしかして、あのひとが残していったものへの、あたしたちなりのこんにちはの言葉だ。それをついに置き去りにできなかったあたしたちから送る、ちょっとした後悔をこめた、再会の挨拶だ。
そしてもう会えないあのひとへの、ありがとうと、ごめんなさいの言葉だ。
笑顔は遠ざかっていく。でも、その向かう先を、あたしはもう知っている。
後ろ向きに歩きながら、遠い笑顔にあたしは手を振る。黙ったまま、大きく。
ごめんなさいもありがとうも、こんにちはも短いさよならも全部くちびるにだけ浮かべて、子供みたいにいつまでも、いつまでも手を振り続ける。
あたしと同じようにこちらを向いたまま遠ざかる笑顔が、あたりに下りる夜の帳の中に完全に溶けてしまうまで。