- The rest stories of "Project Eva"

#01.5(a) -"再会する人々"

1

月日が流れても変わらない友情や愛情があるなら、それはとても美しい。

伊吹はそう信じている。

けれども、そんな珠のように美しい気持ちはこの世界に幾らも存在しない。そして、そうでないたいていの友情や愛情は――それが、友人だ、家族だ、恋人だ、と本気で思っていた人に対するものであったとしても――時の流れの前にあっさりと消え去るものだ。そして、もしもしぶとい気持ちが辛うじて消え去っていないとしても、その気持ちは何らかの形で変わらざるを得ない。

変化は少しずつしかし確実に訪れ、いずれは、かつてあんなにも輝いていたはずの気持ちを見るも無残な姿にしてしまう。九年と言う月日はそんな位相を生み出すには十分な時間だ。そうやって変わり果て歪んでしまった気持ちの残り香は、時としてきれいさっぱり消え去った気持ちよりもずっとややこしい事態を作り出す。

それは、ただ消え去ってしまう気持ちより、ずっと怖ろしい。

今は「六分儀シンジ」と名乗っているかつての碇シンジと、かつて惣流・アスカ・ラングレーを名乗っていた「鈴谷・アリス・ラハナー」との間にある、一見親密で、しかし気まずさの気配が色濃く残る空気には、恐らくそういう類の変化が関連しているのではないか、と伊吹は静かに考えていた。

2

全ての出来事はこの時点からちょうど十日前、サード・インパクトから九年と二日後から始まる。

「ときにシンジ君?」

碇は、その上司である伊吹に声を掛けられた。彼女が仕事中に碇にただ声を掛けるのは珍しいことだったので(どちらかと言えば、彼も伊吹も、仕事と休憩にはメリハリをつけるのを好むタイプだ)、彼は少し驚いて答えた。

「なんですか? 主任……じゃなかった、副所長?」

言いなれぬ響きに、少し滑舌が悪くなる。

旧ネルフ技術部の形骸たる進化研究所の設立から約八年を迎え、伊吹はついに副所長という地位にまで上り詰めていた。つい昨日からのことだ。サードインパクトがあった日の次の日に昇進なんてね、と伊吹はこの皮肉なタイミングを笑ったが、それはともかく、これで名実ともに彼女がこの研究所のナンバー2となった。彼女の上には、現在の所長である旧ドイツ支部技術開発部所長しかいない。そしてその所長も、あと一年もしない内に退職することが決まっていた。

何のことはない、旧ネルフ本部の事情が特殊だっただけで、本来エヴァに関係する研究はそれまで多様な経験を積んだ年輩の研究者にしてその力に限界を感じさせるほどの研究だったのだ。

碇が祝いの言葉を述べると、伊吹はため息混じりに、本当は私なんかがなっちゃいけないんだけどねぇ、と自嘲した。らしくないと碇は思ったが、同時に仕方が無いとも思えた。その日はサードインパクト前後の戦没者の墓参りに行った次の日で、感傷的にならざるを得ない日だったし、そうでなくても彼女はあれからずっと走り続けてきたのだ。

そんな伊吹が発した一言だったので、碇はすぐに答えを返した。しかし、碇の心配をよそに伊吹の口調は昨日の感傷的な感じを残してはいなかった。

「その言い方、止めない? 何かカユくなるから。マヤさん、とかに戻してくれていいよ」

「はい、じゃあ……マヤさん。それで、どうしたんですか?」

「いや、ね……ちょっと、相談なんだけど」

「なんですか?」

さっきから碇はこの言葉しか発していない。気の利いたことを言おうにも、伊吹の話がなかなか核心に触れないので、先を促すことしかできない。

「明日から二日間、有給取る気ない?」

本来なら願ってもない知らせだが、諸手を挙げて賛成するのはためらわれた。現在は研究発表の追い込みの時期だ。恐らく来週は休日出勤になるだろう。そんな時期に上司からもたらされる有給の誘いなど裏があるに決まっていた。それに、実を言えば彼は以前にも同様の手口を使われたことがあった。

それをかんがみて碇は注意深げに尋ねた。

「どういうことですか?」

碇の言葉を聞いて、彼女は、

「ばれたか」

と小さく呟き上目遣いで碇を見つめた。三十代も半ばにしてまだそのような可愛らしさを強調するポーズを取るのも凄いが、それが似合わなくもないところも凄かった。さらに凄いのは、これで二児の母である、というところだ。彼女も旧ネルフ本部歴代の「凄絶な女たち」の末席にいる女性なのだ、と碇は改めて思い知らされた。L.C.Lには美肌作用でもあるのではなかろうか、と思ったりもする。

とにかく、と碇はふと感じた疑問を置いて畳み掛けた。

「『また』ベビーシッターですか?」

「……正解。あのねー、今週末旦那が出張なんだけどー、母さんもなんか旅行に行っちゃうらしくって。でも私は今休むわけにはいかないじゃない? だからー……」

苦しげに(そう、実に苦しげに)言い訳を並べる。

「他の職員とか、いるでしょう?」

と、そんなことに一切心を動かされない様子で碇は言った。しかし、その言葉は逆に伊吹に説得のチャンスを与えた。

チェックメイトである。

「……この研究所に、碇シンジ以上にベビーシッターがうまい職員がいると?」

「……いませんねぇ」

確かに、ここはそういう場所だった。この研究所は開設された後も、新しい人間を入所させることがほとんどなかった。本来、知識は万人に開かれねばならないのかもしれない。それは正論だ。しかしこの研究所が混乱を生む知識の番人の役目を果たさなければならないこともまた事実だった。そのような思想のせめぎあいの結果、この研究所はネルフに関係する人間を優先的に受け入れつつ、その応用的な結果は万人に示す、という目標を持った団体として動いていた。結果としてこの研究所には、ネルフ関係の人間と、研究に命を掛けているような人間(つまりは、生活力が破綻した人間)が優先的に収容、もとい入所することになった。

そんな研究所で、碇シンジはちゃんと家事ができる数少ない職員のひとりだった。そして彼の仕事は伊吹の補助が主なので、彼女としっかり連絡が取れれば、在宅で仕事をこなすことも可能ではある。伊吹の家には個人で持つにはかなりハイエンドな筐体もある。

「でしょ? だから、お願い。バイト代、出すからさ」

「仕事はどうするんですか」

「私が持って帰ったのをやってくれればいいから」

「滅茶苦茶ですね。この前とおんなじで」

決まりきった会話。本当に、以前依頼を受けたときとまるっきり同じ会話だった。

「う゛……そうね……うーん、お願いッ」

そう言って、伊吹は両手をあわせ、また上目遣いにシンジを見た。見え透いているのに、まあいっか、という気にさせられる。腐れ縁の怖いところだった。碇はコンソールに向いなおして言った。

「はいはい。それじゃあ、俺、早めに明けますよ? 今日から……明後日まででいいんですね? その間、臨時の有給扱いで、その間と土日、作業は所長ん家ですればいいと」

「そうそう。……ありがと、シンジ君。任せた。また、何かオゴるよ」

その目に小さい嘘が混じっていることに、碇はついに気付かなかった。

3

抱きしめられた瞬間、彼女の中に起こったのは、再会の感動よりも「自分は憑かれているのかも知れない」という思いだった。


かつて惣流・アスカ・ラングレーを名乗っていた鈴谷・アリス・ラハナーは、久しぶりの日本を満喫していた。

やはり自分はここにいるべき人間だ、と思う。それは、自分の名を失っても、失われない彼女の心が、日本に来て取り戻した心が感じた素直な気持ちだった。

やはり自分は、惣流・アスカ・ラングレーなのだ。

問題は山積みだった。とりあえず数日は久しぶりの日本を満喫するにしても、その後どうするか、という問題は先延ばしにしたままだったからだ。

例えば、客観的に見て自分が帰るべき土地は? と問われれば、それはやはりドイツなのだろう。もっと具体的には、こじんまりとしたセーフ・ハウス、大学、友人、そんなものだ。サードインパクトから十年近くが過ぎ、既に自分さえ意識していなければ「アリス」と呼ばれても違和感を感じないくらいに、アスカは「アリス」としての生活になじんでいた。今ではドイツにも友人と呼べる人間はいるし、両親も住んでいる(彼らには彼らの生活があるので、ほとんど連絡は取らないが)。

あの場所はとても居心地が良い。それは事実だ。だが、どれほどよくできていても、あの場所はアスカにとって、やはり籠でしかない。それもまた事実だった。

では抜け出すか? と考えても、それはとても難しいように思えた。彼女は今までずっとそんな籠に守られて生きてきて、一度たりともその庇護の下から抜け出たことなどない。サードインパクトまではネルフの庇護下に、それからはドイツ当局の庇護下にあった。そんな人間が、それらの庇護を抜け出して一人生きていけるかは全く疑わしかった。

単純な頭の良し悪しで言えば彼女は超がつくほどの人材である。しかし、世間を知っているかどうか、という観点から見れば、彼女はただの箱入り娘に違いなかった。

「これからどうしよう……」

カーステレオから流れる音楽を聞きながら、アスカは呟いた。レンタカーの古びた形式のステレオからは、一昔前のポップスが流れていた。

この国以外では流れることはないだろう日本語の流行歌。

それは昔、彼女が一緒に住んでいた男の子のヘッドホンステレオを借りた時に聞いたことのある歌だった。リズムに合わせて、指でステアリングを叩く。サイドウィンドウを見れば、市街ビルは途切れ、住宅地の中に昔ながらの田畑がちらほらと姿を現し始めていた。


アスカはきっかり一時間車を走らせると、車を止めて外に出た。

その中心街こそ都会である「旧第3新東京市周辺都市群」も、少し外に出てみれば、山の広がる景勝地である。崖際の駐車場(恐らくは、行き違いのための回避地なのだろう)に車を止めると、ガードレールに手を掛け、山を眺める。吹きすさぶ風も心地よい。

彼女の周りには誰もいなかった。たったひとりを除いて。

アスカのいる場所より少し下った場所に独りの女性が立っていた。後ろでゆるく束ねた長い髪に、白いシャツとジーンズという恰好だった。少し距離があったので良く見えなかったが、歳はそれほどとっていないように見える。どこかしら物憂げな感じのその女性は、アスカと同じようにガードレールに手を掛けていた。初めは山を眺めているのだろう、と思ったが、その内に、その視線が谷に向かっているように思えてきた。

彼女は、死ぬ気なのかもしれない。

ふと、そんな気がした。

それもいいわけかも知れない、とアスカは思う。否定する気も起きない。何のことはない、自分も不安で、誰かと話をしたかったのだ。自分と同じところで同じ風景を眺めている彼女なら、自分の不安を共有できるような気がした。

アスカは、ゆっくりと坂を下り、彼女の横に並んで、話しかけた。

「……あの」

女性は山を眺めたまま、なに、と答えた。女の子のような少し甘い声。その声には、少し硬めの響きがあった。近づくものを拒否する鋭い棘にも思えたし、閉じたドアの鍵穴に深く差し込んでくる鍵にも思えた。感じることに矛盾はあったが、話すのを止める気にはならなかった。

「いや……何してるのかなぁ、と思って」

とりあえず、話を進めてみる。まずい、警戒しているのかもしれない。その可能性に思い当たる。確かにいきなり見知らぬ外国人に(もっとも、彼女はこちらを見ていないのだから、分かっていない可能性も大きかったが)声を掛けられれば警戒するのも当然ではある。

しかし、帰って来た答えはあっさりとしたものだった。そして、不可解だった。

「うーん……そうねえ……簡単に言うと、昇進しちゃったのね」

その声は、幼げに聞こえる声の質とは逆に、良く聞けば重ねた歳の重みを感じさせるものだった。思ったよりも歳上の女性だったらしい。その声の印象で分かったことと反対に、その内容は良く分からないものであった。核心を突きすぎていて、逆に何ひとつ分からない、と言った感じの答え。昇進した、それがここにいることとどう繋がるのか。何故、そんな物憂げなたたずまいをする必要があるのか、分からなかった。

「じゃあ、なんでそんなに、悲しそうなんですか?」

「悲しそうに見える?」

「……ええ」

本当はもっと他に当てはまる、気の利いた言葉があるような気がした。しかし他の言葉を当てはめようにも、こういう感情をカテゴライズするには悲しいくらいにボキャブラリーがない自分に気付く。

こういう瞬間、彼女は自分を、マシーンだ、と感じる。人間として大事なものが自分からはすっぽりと抜け落ちていると思う。

「悲しいの、かもね。ちょっとした管理職なんだけど、本当は、私なんかじゃなくて、私の先輩が貰うべき役職だと思うからね。……その人、亡くなっちゃったから、仕方ないんだけど。そうね。だから悲しいのかも、知れないわね」

彼女から語られた言葉は、その軽い語り口とは反対に十分に重かった。

アスカは、ふと自分がとても失礼なことをしているような気持ちになった。そしてそれは確かに失礼だった。これは少なくとも初対面でする会話ではない。しかしこの声はまるで、自分は恐らく一度もそういう時期を過ごしたことが無いであろう無邪気な子供になったみたいに、何でも話してしまえそうな気がする声だったし、何でも訊いてしまえるような声だった。

「……ごめんなさい。変なことを訊いてしまって」

彼女は落ち込みもせず明るくもならず、ただそのまま、ごく自然に言葉を返した。

「いいの。ありがとう。私こそごめんなさいね。初対面の人に、こんなこと」

「いいんです。私が聞いたんですから」


少しはにかんだような声とともに、その若い女性は黙った。

伊吹は、自分の隣にいるこの女性に少し親近感を抱いていた。きっと、自分が自殺志願者か何かに見えて、話しかけてきてくれたのだろう。もちろん死ぬ気はなかった。しかし、こんな風に高い崖に来たときにはふと、このまま飛んでしまっても構わないか、という思いに囚われることがある。この女性はそんな気持ちを察してくれたのだろう、と伊吹は思っていた。それに、隣に並んでみれば、彼女も同じような雰囲気をまとっていることが分かる。この若い女の子も、何かしら言いようのない不安を抱えている。そう思うと、何でも話してしまえそうな気がした。

「……あなたは?」

「え?」

ふいに自分に話を振られた彼女は、少し混乱しているようだった。

「あなたは、何をしてるの? こんなとこで」

伊吹は言葉を補った。彼女は混乱を露にしながらも何とかその言葉に答えた。

「……身の振り方を考えていた、かな。……私、外国人なんです」

「え?……あ、ホントだ。日本語うまいから、全然気付かなかった」

伊吹がその言葉に驚いて顔を上げてみれば、そこにいたのは明るい茶色の髪と、白い肌を持った女性だった。風に煽られて舞った髪のせいで、顔までは見えなかった。

あまり見つめるのも悪いと思い、伊吹は視線をまた遠くへと戻した。不思議なものだ。横に並んで、お互いの顔も見ずにこんな話をするなんて。でも、こうやって話をしていても、どこか懐かしいような感じを受ける。

「あー、昔住んでたことがあるんです、日本。で、久しぶりに帰って来たんですけど、来ちゃったら、今度は自分の国に帰るのが何だかイヤになっちゃって」

「あはは。それで、身の振り方、ってわけね?」

「そうなんです、可笑しいでしょ?」

「うーん……どうかなあ。それは、日本の思い出が良かったってことなんじゃない?」

一瞬、間が開き、少しだけ空気が淀んだ。

「でも、日本にいい思い出って、実はそんなにないんですよ。でも、何か、久しぶりに来ると、あー、いいなあ、って」

「複雑ねえ。……でも、あるかもなあ、私も。いい思い出ないのに、離れられない、っていうこと」

「……似たもの同士、ですね」

「かもね」

お互い、具体的なことは何一つ話していない。しかし、何か通じ合うものを感じることができた。だが、その中には少しずつ不穏な空気が侵入し始めていた。

不穏な空気の侵入を防ぐかのように話に幕が下りると、数分、二人の女性は遥かな山を眺めた。そして、ほぼ、同時に顔を上げた。

「ねえ」

「なんですか?」

「ありがとう、話を聞いてくれて」

「私こそ、ありがとうございます」

伊吹は横を向き、初めて今まで話をしていた女性の顔をちゃんと見た。その顔は、彼女が知る、ある女の子の顔にとても似ていた。

彼女も横を見た。そこに居た女性は、彼女が知っているある女性に、よく似た人だった。

「……ねえ」

伊吹は数秒の沈黙を破った。酷く喉が渇いた。自分は見当違いのことをしているのかも知れない。そう思えたが、確かめずにはいられなかった。唇が、震えた。かさかさ、と音がする。何とかつばを飲み込み、伊吹はゆっくりと言葉を押し出した。

「……私は、研究者をしてるの。昔、第3新東京市で働いてたんだけど、サード・インパクトがあって、こっちに移ってきたのよ。あなたは?」

いきなりの説明。彼女は、その意味を理解するのに数秒を要した。そして意味を理解すると、夢を見ているような顔で、ゆっくりと言葉を発した。

「……私は、昔、第3新東京市で、アルバイトみたいなのをしてたんですけど、サード・インパクトがあって、自分の国に帰ってたんです」

「奇遇ね」

「奇遇……ですね」

そのまま、数分、二人は見つめあった。気まずい空気。

だが伊吹は今一度その沈黙を破った。

今度は、確信を持って。

「……アスカ?」

アスカが目を見開くのと伊吹が彼女を抱きしめたのは、ほぼ同時だった。

4

「それじゃあ、明日、このホテルで」

「分かった。昼以降は、携帯に連絡してくれればすぐ戻れるから」

「それじゃあ。何かあったら連絡、頂戴ね」

「うん。……よろしくお願いします」

「そんな硬くなんなくてもいいのよ、じゃあね」

そう言うと、伊吹は自らの車に乗り込み、彼女の前から走り去った。

全て始めから仕組まれているかのように話は進んだ。あまりにも出来すぎた展開に、アスカは何度か伊吹を問いただそうかとしたくらいだ。それでも、アスカに他のやり方が思いつくかと言えばそんなことはなく、しかも伊吹のやっている研究は自分がここ数年、形ばかりの大学生活とは別に研究していたことだったから、なし崩し的にアスカは伊吹の申し出を受けることになった。

久しぶりに会う伊吹は、髪型以外はあまり変わっていない見た目とは逆に、昔よりずっと「こなれた」大人の女になっていた。酸いも甘いも一応経験した大人の余裕が見えて、その雰囲気にアスカは軽い幻滅を覚えつつも(何しろ、アスカが知っているのは今の自分と同じ年齢で、潔癖症とも言えるほどオクテな女の子だった伊吹である)こんなのも悪くないな、とも感じていた。

結局のところ、アスカは伊吹を単純に気に入ったのだ。

一方、伊吹は必死だった。今日のうちに、ドイツ当局に何とか顔を立てるのにも細かいデータを偽造するのにも細心の注意を払い、またアスカにその緊張感を悟られぬようにしなければならなかった。こんな時に、先輩がいてくれたらなあ、と師匠にして最愛の先輩であったひとを思い出す。

赤信号で足止めを食わされる。伊吹は苛立って舌打ちをした。

何故そんなに必死になるのか、自分でもよく分からなかった。ただ、これは運命だ、という思いが彼女を動かしていた。サードインパクトが起きた日の翌日、そこで死んだと思っていたかつてのパイロットにかつてのオペレーターである自分がたまたま出会った。それも、誰も立ち止まらないような郊外の土地で。絶対、偶然では済まされない、と伊吹は確信していた。

9年ぶりに会うアスカはきれいな女性に成長していた。ただ、その中にはかつてと同じような脆さをやはり抱えているように思えた。薄手の服から垣間見える白人にしても白すぎる肌を、細い腰や首筋のラインが外界から切り取っていた。それは女の伊吹から見てもちょっとため息が出てしまうようなきれいな曲線だったが、同時に酷く壊れやすい印象を与えるものでもあった。

完璧すぎる。伊吹は嫉妬などではなくそう思った。もしこのままドイツに帰ってしまったら、あるいは、たった1人で日本に留まってしまったら彼女はどうなるだろう。例えばつるつるに磨いたクリスタルが小さい罅から粉々になってしまうみたいに、どこかの時点でこの華奢な女性は決定的に壊れてしまうかも知れない。がしゃんと、何かの拍子に、一瞬で。彼女を見ていると伊吹はそんな思いにとらわれた。

だからこそ、碇シンジという問題があってもアスカを手放すわけには行かなかったのだ。

「シンジ君……どーすっかな……」

まるで女らしくない調子で伊吹は呟いた。

碇シンジと惣流・アスカ・ラングレー、この2人はかつて一緒に住んでいた家族だった。いや、より正確な言い方をすれば、家族のような集まりだった。実際のところ、あれは家族のように見えて、実際にはバラバラな個人の集まりだった。彼らの家を数度しか訪れていない伊吹ではあったが、何となくその雰囲気は感じ取っていた。そのくらい、彼らの纏う雰囲気は痛々しかった。

あのころ、アスカはどこまでも刺々しく、碇はかなり軟弱で、保護者役を買って出ていたはずだった女性に至っては割と早い段階から家に帰ってさえいなかった。アスカやシンジだって、自分が詳しく知らないだけで、使徒戦の終わりごろには家に寄り付いていなかったような記憶がある。アスカは家出を図ったし、シンジはシンジでネルフ本部内を夜中にうろうろしていたのを見た記憶がある。

結局は、使徒戦を戦いながら家族をやるのは過酷過ぎたということなのだが、その生活の記憶が、いずれは会うだろう2人にどんな影響をもたらすのか。かなり不安ではあった。

だが、伊吹は少しの期待もまた抱いていた。彼女を何かしら変えることができるとすれば、それは碇しかいない、と伊吹はおぼろげながら感じていた。

かつての少年は少しだけ強くなった。今なら、彼女を抱きしめることができるかも知れない。そうでなくとも、今の碇なら恐らく彼女の深い部分まで理解しようとするだろう。そして、きっと碇はその作業を諦めたりしない。そういう男だ。不器用だが、その分奢らず、時間を掛けて丹念に心の機微の本当のところを理解することができる。

伊吹は、その可能性にかけることにしたのだ。

その見込みが希望的すぎることに伊吹が気づいたのは少し後のことだったが、それも彼女が本質的には他人を信じていることを考えれば仕方のないことだった。

相手を理解する能力とと相手にそれを伝える能力とは別であるということ、相手のことが理解できるからこそ何もできず追い込まれる場合があることに伊吹は気づかなかった。そして、そんな風に追い込まれた人間の前では少しの成長の意味など風前の灯であることも。

伊吹は頭に響く考えが足らないことについての警告音を無視した。信号が青に変わるのを心待ちにしてクラッチペダルに足を掛ける。

交差道の信号が赤に変わる。

そして目の前の信号が青になったのを確認したと同時に、後に控える先行き不安を誤魔化すように伊吹は景気良くアクセルを踏み込んだ。

「……当分は、ベビーシッターでも頼めばいーや」

次期所長としては不穏当な無責任さでそう決め込んで、伊吹は今は誰もいないはずの研究所へと車を走らせた。

- The rest stories of "Project Eva" #01.5(a) - "9 years"end.
first update: 20041118
last update: 20060103
Go to next (The rest stories of "Project Eva" #01.5(b))
Get back to index (of the rest stories of "Project Eva")