- The rest stories of "Project Eva" #01.5(b) -

"気まずい二人"

5

初めて会ったはずの人が死に別れた知り合いにあまりに似ていたら、どうするだろうか? もしくはもっと身近に、例えば小学校を卒業したきり会ってない友人と思しき人に、不意にどこかの駅で、電車の中で出会ったとしたら?

自分は相手に気付いていて、相手は未だ自分には気付いていない。さて、そんなときは人間はどうするだろう? ともすれば、斜に構える形で人陰から(ちょっと危ない人のように見えてしまうにも拘わらず)そっとその人の様子を窺うしか無いのではないだろうか。声もかけられず、かといって視線も逸らせずに、ただ見続けてしまうのではないか。そして、ならなくてもいい人と疎遠になってしまったり、気まずくなったりしてしまう。

碇シンジは現在、まさにそんな状況に放りこまれていた。ただし、彼が実際にいるのは電車の中ではなく、彼が現在勤めている「進化研究所」である。

三日ぶりに帰ってきてみればこんなことが待っているとは、思いもよらなかった。碇はため息と共に、今後、どうやってこの新しい同僚と付き合っていこうかと思案する羽目になった。

ここで、少し補足しておこう。

彼が知らない事実が、二つある。第一に碇の予感は当たっている。第二に、相手もまた碇と同じ疑問と気まずさを抱えている。

そのことを彼が知るのはもう少し先の話になる。

そして、二人が出発するまでには、さらにもう少し時間がかかることになる。

6

アスカはここ数日、副所長室の周辺には近寄っていない。それもこれも、伊吹の助手をしているあの男のせいだ。

「……違うか。被害妄想だよね……。薬、飲むかな……やだな……」

孤独な人間の特徴という奴なのか、独り言はもうアスカの立派な癖のひとつになっている。ぶつぶつと独り言を呟きながらも、その手は、そんなのはいつものことだ、とでも主張するように淡々とキーボードを叩く。画面に走るように文章が打ち出され、重要論文のレジュメが出来上がっていく。

モニタの右下に表示されている時計を見た。午後二時。


碇はここ二、三日、逃げ回るように仕事をしていた。それもこれも、新しく入所したあの女のせいだった。

「……いや、おれのせいか」

昼休みの屋上で、大学のとき前の彼女に嫌がられて以来断っていた煙草に久しぶりに火をつけて、そう呟いた。

「……煙たい」

どんより曇る空に混じらせるように煙を吐き出しながら、なんでおれはこんなものを吸っているのだろう、と薄ぼんやりと考えた。

ことの起こりは、有給を含めて四日間の休暇(といっても伊吹家で家事をやりつつカリカリ仕事をこなしていたのだが)を終えた後だった。

伊吹家の人たちから見送られ(もう数回に渡ってこういうことをやっているので、伊吹の母親とも子供たちとも碇はとても親密だ)て職場に帰ってきてみれば、見知っている人に似た、見知らぬ顔がそこにあった。眼鏡をかけた細身の女性。碇とあまり変わらぬ齢に見えるのに、その年齢には似合わないくらい、やけに深いところまで見透かすような蒼い眼をしていた。

なので、彼女と目を合わせてしまった碇は少し混乱しつつ目を逸らし、彼女が白衣の胸につけている名札を見た。

眼鏡の女性は「鈴谷・アリス・ラハナー」そういう名前だった。

一言で言ってしまえば、美人だった。この研究所には外国籍の人間も多いが、その中に混ざっても目立つだろう。金髪と青い目、東洋系にも近いすっきりした顔立ち。名札のスペルと読みから、ドイツ系かと見当をつける。

碇はとりあえず適当に会釈をして、彼女の隣にいた伊吹に視線を送った。それを見ると伊吹は、隣の女性の肩に手を置いて鼻息荒く語り始めた。

「ふっふっふ、私がスカウトしたんです。日独英対応型よっ、まさにこの所に必要な人材でしょ?」

「失礼な……でもまあ……そうですね。日本に来て六年経っても日本語覚えない人、いますし」

碇は人間を機械に例える失礼極まりない発言を正しつつも、納得した。ここはそういう人間が大量に巣食う場所だ。この日本のど真ん中で彼らがどうやって生活しているのかは碇にも分からない。

だが、そうするとこの鈴谷という女性は通訳として雇われたのだろうか?

「……えーと……研究者、ですよね?」

「当然よっ。見て、この履歴。凄くない?」

碇の言葉を受けて、伊吹は笑いながら彼の目の前にA4大の紙をちらつかせた。博士号が一……二……三……四。碇はようやく、目の前にいるのが自分など及ぶべくもない人材であることに気付いた。そして、自分の上司が他人の個人情報を惜しげもなく見せびらかしているのにも。視線を隣に移せば、鈴谷はばつが悪そうな顔をして居心地悪そうにしていた。

「へえ……凄いな。って、なにひとの履歴書勝手に見せてるんですか。…… Sorry, She is ……って、そっか、日本語話せるんでしたね。すいません、このひと、テンション高めなんで」

とりあえず一息でそれだけ言って、鈴谷を見て自分が少し焦っていることに碇は気付いた。その混乱は、本当は彼女が美人だからということに全てを負うものでもなかったが、まだ碇はそのことに気付かなかった。情けないなあ、と思いつつ、ふう、と軽く息をついて話を続けた。

「すいません、一方的に話しちゃって。僕は六分儀、六分儀、シンジです。よろしくお願いします」

六分儀、碇の父親の旧姓である。この研究所で仕事をするときに「碇シンジ」の名前のままで過ごすのは何かと問題があった。サード・インパクトに関わった者にとって、碇シンジの名は呪いの言葉以外のものではありえない。そんなわけで、碇はこの研究所に関する諸々の手続きに六分儀姓を使っていた。もっとも、研究所の皆にとっては公然の秘密にしか過ぎなかったが、それでも精神的な負担は大分減るというものだ。

碇が名前を言った瞬間、鈴谷はあからさまに怪訝な顔をした。眉に皺を寄せるその表情は碇に、ずっと昔、一緒に生活していたクオーターの女の子を思い出させた。そこまで思考が至ると、碇は自分の頭のできの悪さを呪った。クオーターだったらみんな似てるように見えるのか、おれは。審美眼ゼロか。そう心中で呟く。

そして、そう呟きながら、碇はそれでもあの女の子のことを考えずにはいられなかった。あの子もやはり、頭が良くて可愛い女の子だった。それを帳消しにするかのように性格がどぎつい女の子でもあったが、それは自分が助長していた部分もあったのだろうと今となっては思う。

そんなことをうだうだと考えながら、碇は自分を見つめる鈴谷を見た。相手が自分を見ているのに乗じて、つい、見つめてしまう。しかめっ面をしていても、やはり美人だ。

しばらくその険しい顔を見つめていると、彼女は小さく、あっ、と言って表情を崩した。目が泳ぐ。険しい顔をしていた間に何を考えていたのか、彼女は場を取り繕うようにやや早口で話し始めた。

「ごめんなさい。ちょっとぼうっとしちゃって。ダメですね、時差ぼけでふわふわしちゃう。鈴谷・アリス・ラハナーと言います。こちらこそ、よろしくお願いします。六分儀さん」

どう見ても「ぼうっとしていた」という表情ではなかったが、初対面の女性に突っ込みを入れるなど、いくらなんでもできない。

それに、碇の方はそれどころではなかった。彼女の声を聞き顔が歪んでいくのが分かる。まるで母語話者のように流暢なその早口は、ますます自分の知っている女の子を思い出させた。とりあえず早く会話を終わらせたかった。

「……そうですか、お大事に。これから、よろしくお願いします、鈴谷さん。それじゃあ、入ります」

前半を鈴谷――アスカに向けて、後半を伊吹に向けて碇は言った。一応笑いかけてはみたものの、必要以上によそよそしい口調になってしまったのを自覚する。

これは、引かれたか。まあ、仕方が無い。向こうもこちらにそんなにいい感情を持っていないようだし、あの子を思い出すような女性と必要以上に仲良くすることもない。そんなことをすれば、飲み会の席や何かでいつかボロが出てしまうかもしれない。そうならないためにも、適当な距離を置いて付き合うようにしよう。

そう決め込むと、碇は後ろを振り返らずに副所長執務室に入った。


それから碇はひたすらに鈴谷を避け続けている。もちろん挨拶やちょっとした世間話くらいはするが、それ以外は極力近づかないように努めている。これでは日常の業務に支障が出るのではないか、と心のどこかで思いつつも。そして、だからこそ、彼はこうして屋上で煙草をくゆらせている。室内全禁煙のこの研究所では、申し出れば煙草を吸うために外に出ることが許されるからだ。

屋上のドアにもたれかかって座り込む。柵の向こうを見れば、もったりした黒い雲がゆっくりとその質量を移動させて迫りつつあった。

雨か。雲は雨にまつわる記憶を呼び起こさせた。自分とあの子が決定的にダメになってしまったきっかけの日も、やはり大雨だった。しかし、空を割る槍はもうここにはない。今日の夜にはきっちり雨が降り、水滴をすっかり落とし終わるまでいつづけるだろう。あんな日はもう二度とない。彼が彼女を慰めることも、もう永久にできはしない。

「……何だ、しっかり覚えてる。自分のしたことも、して貰ったことも。なぁ、『バカシンジ』? ……アホか、おれは」

そう呟くと、それっきり碇は自分の手の甲に目をつけて動かなくなった。しばらくすると、その肩が震えだす。彼は笑っていた。自分の他に誰もいない危うい曇り空の下で、碇はくすくすと自分を嘲笑い続けた。

7

モニタの時計の表示が4:59から5:00に変わるのを見届けて、碇は息を吐いた。

やっと五時を回った。長かった。ここ数日、始業から終業までがやたらと長く感じる。まるで十年前のあの日々が戻ってきたように思えた。

碇は伊吹が伸びをするのを待った。ごりごり、と、細めの身体からいつものように盛大な音が鳴る。

「よし、今日はここまで。お疲れさまでした」

そう言って、伊吹はぺこりと頭を下げる。碇も同じように頭を下げ、立ち上がる。

ここまでは、いつもどおりだった。問題はその後だ。伊吹の口から出た言葉は、いつもとは少し違っていた。

席を立つと、伊吹はさも今思いついたように碇に言った。

「あ、そうそう、今日これからアリスちゃんの歓迎飲みあるけど、行く?」

ついに来たか。ただでさえ碇はそれほど酒に強くない。その上に彼女だ。酒が入ってしまえば、彼女に対して冷静でいられる自信はなかった。

「あ、えーと……」

そう呟きながら、何とかうまい言い訳を探す。が、こういう分野は彼が一番苦手とするところだった。しばらく視線を宙に浮かせ、何も思いつかないことがはっきりすると、碇は諦めて言った。

「暇と言えば、暇……ですかね」

だが、すんでのところで、彼はとりあえずの口実を作り出した。これ見よがしにメインのコンピュータにタスクを入力する。

「でも、ちょっとだけ今日中にやりたい奴があるんで、途中で抜けてもいいです?」

その言葉を聞き、伊吹は少しだけ悲しげな目で碇を見た後、いつものように高いテンションで言った。ばれたかも知れない、と思ったが、言い出した後で嘘でしたとも言えない。

「もう! バカ真面目なんだから。ちょっとくらいいいじゃない。たまには」

その言葉を聞いて、碇は胸をなでおろした。しかし、そこで伊吹はまた表情を硬くして、ゆっくりと碇に言葉をかけた。

「……苦手? 彼女」

十年の付き合いだもんな、バレバレか。そう悟った碇は腕をひらひらさせて答えた。

「みたいですね。……彼女の方も、おれのこと、苦手みたいですけど」

「そう?」

「ええ。気付いてました? 鈴谷さん、おれが部屋にいるとき、絶対こっち近づかないですもん。アレだなあ、第一印象がよくなかったんでしょうねえ。惜しいなあ、美人なのに」

訊かれもしないことまで碇はべらべらと喋った。伊吹はため息をついて、何か言いかけ、止めた。代わりに、碇の目の前で彼の真似をして手をひらひらさせる。

「そんなことだからシンジ君は彼女できないんだよ。まったく、その手の人かと疑っちゃうよ、私」

「それ、セクハラですよ、多分」

伊吹は碇の苦言を鼻で笑った。

「とりあえず! 行こう。六時からだから。いつもの店ね」

「分かりました。これ、入力したら向いますんで、先どうぞ」

「OK。それじゃ、お先に失礼します」

そう言って、伊吹はいつものようにもう一度深めに一礼し、部屋を出た。


しばらく廊下を歩いて、振り返ってみる。そこには、部屋の隅に貼ってあるカレンダーをぼうっと見るシンジの姿があった。

分かりやすいなあ、と思って、思わず声を出して笑いそうになり、伊吹は慌てて自分の口元を押さえた。

ねえ、シンジ君。それは彼女ばっかりの責任じゃないでしょう? 彼に言おうとした言葉を反芻する。

お互いがお互いを避けて、それをお互いに気付いてまた避ける。悪循環だ。お互いが、自分が避けられている時に自分も同じことをしているということを忘却の彼方へ追いやり、どんどん「自分は相手から嫌われている」と思い込んで被害者意識に凝り固まっていく。そして、自分が相手を避けることを正当化する。馬鹿みたいな連鎖……どちらも同じことなのだ。

8

いつもの飲み屋。それは高級料理屋などではなく無国籍なレストランだ。

この研究所のメンバーには、呆れるほど多くの国籍と民族の者がいる。人種の万国博覧会だ。一応はネルフの組織慣例に従って、英語と日本語とドイツ語のどれかは使える者がほとんどだが、こと料理となると、全員の好みに合うものを見つけるのは至難の業だった。

その点この料理屋なら、無国籍という看板どおり、中華、和食から、イタリア、フランス、ドイツ、インド、チリに至るまで、とりあえず何を頼んでもそこそこの料理を出す。

「大切なのは素材じゃなくて、味付けと雰囲気さ」

それが、この店の店主の言い草だった。

そんな店だったので、日本の空港で珍しがられてしまったアスカでもこの店には容易に馴染むことができた。今、彼女の目の前には、ちょっと怪しげな創作寿司が並んでいる。

「それでは! 新たな所員の歓迎の気持ちを込めましてぇっ、乾杯っ!」

どう見てもすでに一杯引っ掛けているような調子で伊吹は音頭をとった。皆がそれに続き、歓迎会は始まった。

皆、思い思いの物を思い思いのやり方で食べる。マナーは極めて悪いが、確かに楽しそうではあった。

「マ……副所長、ここ、いいとこですね」

「ん? でしょう、でしょう。みんな壊れてるけど基本的にはいい人なのよ」

アスカの感慨深げな言葉に伊吹は酒が回った口調で言い返した。そうだろうな、と思う。今まで、彼女の周りからは、こういう種類の人間は厳重に排除されてきたはずだからだ。

「お? ショチョーと随分仲いいねえ、スズヤ? 流石は直にスカウトされただけあるね」

会ってからそれほど経っていないはずなのにやけに親密そうに話す二人を、他の所員がからかう。悪い大人の見本である。しかしその分、自分より十歳以上若い女性が上の地位にいてもなんとも思わない人間でもある。メリットとデメリットは紙一重ということだ。

『「フクショチョー」でしょ? アルベルト? まあ、この人は可愛いものには目がないからね。シンジにしろ、アリスにしろ』隣から女性の声が掛かる、こちらは英語だった。

「もう、いいじゃん、んなことはー。確かにア……リスちゃんは可愛いから、私はもうラブですけどっ。アイラブ、ラブユーっ」

『あ、まーたフクショチョーの「ラブデス」が始まった。酔ってるね』

笑い声が起こる。だが、アスカはその会話に控えめに笑みをこぼすだけだった。それを見て、最初に話しかけた男が言った。

「控えめだなあ、スズヤは。クオーターって聞いたけど、日本の血が入ればお堅いドイツ人でもヤマトナデシコになるのかな」

アスカにとっては、あまり触れてほしくないところだ。しかしそれでもアスカは「えー、そんなことないですよ。と言いながら、愛想笑いを返した。この十年で上手くなったのは、こんなことばかりだ。どうにも、こんな雰囲気や軽口に慣れることができない。彼女がまとったそんな空気を察知して、また隣から声が掛かった。

『? アル? アリスに何言ったの? 困ってるじゃないのよ』

『いや、俺はただ……』

なんだか空気が危うくなってきたと思ったアスカは慌ててそれをとりなした。

『ああ、いや。アルベルトさんは誉めてくれたのよ』

『ふーん。ははあ、ヤマトナデシコってのはそういうわけか。確かに、アリスはおしとやかに見えるね。ヤマトナデシコって感じ』

そんな納得の声に、ほっと空気が和らぐ。しかしそこに、伊吹が剣呑な声で話しかけた。

「ねえ……日本語で話してよ……みんな……」

「……ああ! すまない、フクショチョー」

「ホントだ、すいません、副所長」

「よろしい」

言い終わると、伊吹はまた他の職員に管を巻きだした。そんな伊吹の調子に、アスカは舌を出し、英語でボソッと小さく呟いた。

『……ね? こういう人もいるから』

英語を解する二人は一瞬きょとんとした後、酒の力だろう、盛大に笑い出した。

『うっわ、酷いなあスズヤ!』

『まあ、言いえて妙だけど……はは、お腹痛い、あたし』

そうしてひと通り笑うと、また2人は他の所員に絡みだした。

二人や、他の職員が去って、端の方のテーブルには伊吹とアスカの二人きりになった。皆、酒宴の主役を放り出してそれぞれ勝手に楽しんでいる。右のほうからは酔っ払った声の議論が聞こえ、左のほうからはどこの国のものだか分からない歌が聞こえる。

「ありがとう、副所長」

さっきの絡み、あれはきっと、自分を助けてくれたのだろう。

「二人の時はマヤでいいわよ。……やっぱり、こういうところ、苦手?」

「慣れないから」

「そう。……何か、昔のレイちゃん見てるみたい。大人しくなっちゃったね、アスカ」

「そうかな……」

その声に、自分の軽口でアスカを傷つけたと思った伊吹は、慌てて言葉を足した。こんな時は、謝るよりも別の話題を振ったほうがよい。油断した、私は酔っているのか、と伊吹は自覚した。彼女を追いやったのは私なのに、こんな軽口を叩いてはいけないのだ。

「でも、女の子は成長するもんだから。うん。大人になった証拠よ。ここには、段々慣れていけばいいって」

「……ありがとう。……そういえば、あの、マヤの助手の……」

「シンジ君?」

シンジ君、というその響きに、やはり一瞬アスカは戸惑ったが、少し息を吸うと、ええ、と答えた。しかし、伊吹のように何のためらいもなくシンジという名前で呼ぶことはできなかった。

「そう、えーと、六分儀さん。今日は来てないの?」

「なーにー? 気になるのぉ?」

その声には、明らかに「男として」というような響きがあった。アスカは一瞬、彼の顔を思い浮かべた。確かに、顔は悪くない。顔立ちは基本的にすっきりしているし、多少はやしている男っぽい無精ひげも、嫌いではない。でも、そういうことではなくて、とアスカは言い返した。

「いや……私、嫌われてるのかなあと思って」

「何で?」

「うーん、何ていうか、何となく、避けられてるような……私が副所長室に入るときは、いつもいないし……やっぱり、第一印象で失敗しちゃったのが悪かったのかなあ。ほら、六分儀さんも、名前、シンジでしょう? それでちょっと、混乱、しちゃって」

アスカは酒の力を借りて、ぽつりぽつりと言葉を並べた。やっぱりね。と思いながらも、避けているのはアスカも同じでしょう、とはあえて言わなかった。その代わりに、伊吹は言った。

「……さあね。最初はいたよ? でも、今日は、ちょっとやることがあるって言って所に戻ってるのよ」

「そっか……」

「……ねえ、アスカ? じゃなかった。アリスちゃん。気になるなら、行ってみたら? ほら、カギ」

そう言って、伊吹はアスカにカードキーを投げてよこした。わっ、と言いながらそれを辛うじて受け取ったアスカは、キーと伊吹の間で視線を往復させ、呆けた顔をして「へ?」と言った。

「何よその声。だからあ、第一印象が悪かったんでしょ? なら、もう一回やり直せばいいのよ」

「そんな無茶な」

「無茶じゃないわよ、ほら。今ならみんな気がつかないわ。大丈夫、結構いい男なんだから、彼」

「もう! そんなんじゃないよ」

「あはは、ごめん、ごめん。でもさ、それだけじゃなくってね。ちょっと、様子を見てきてほしいのよ。彼、一端熱中すると朝まで気付かずに作業続けてるとき、あるから。だから、お願い。ほら、私はここの面倒見なきゃなんないし、ちょっと酔っちゃってるから……ね?」

「それなら始めからそう言えばいいのに。……分かりました。それじゃ、ちょっと様子見てきますね」

ため息をついてそう言うと、アスカはそっと席を立ち、鞄を持ってそそくさと店を後にした。嫌々行くにしては行動が早いが、これで形の上では伊吹の命に従ったことになる。上下関係を使うなんて、ちょっとズルイか。そう思いつつも、伊吹はとりあえずアスカを碇の元へ向わせることに成功した。

全く、二人揃って馬鹿なんだから、もう。そう思い、少し笑ってビールをあおると伊吹は言った。

「よっし! じゃあ、二次会行くよ〜! にっじかっい行っく人、手ぇ上げて!」

9

アスカが降り始めの小雨を抜けて研究所にたどり着き、部屋に入れば、そこには机に突っ伏して眠る男の姿があった。アスカは、何だ、マヤの思い過ごしじゃん、と悪態を吐きながら、とんとんとその肩を叩いた。男が目を覚ます。低い男の唸り声が聞こえた。

だれ? とその声の主は言った。

「こんなところで寝てたら、風邪引きますよ。六分儀さん」

六分儀さん。その呼び名で、自分を呼んでいるのが新入所員の鈴谷であることに碇は思い当たった。急いで身体を起こすと、目をこすりながら答えた。その顔には明らかに「まずい」という表情がありありと浮かんでいた。

アスカはその顔で、彼が自分を避けていたことを確信して、言った。

「そんな、妖怪見たような顔、しないでくださいよ」

碇はその言葉に、口の端を吊り上げ、やってしまったという苦笑いをする。アスカはその表情にやけに傷つき、唇を少し噛んで、言った。

「どうして避けるんですか、私のこと。失礼したことなら、謝りますから……」

酔って感情が高ぶりやすくなっていたのか、少し泣きそうな声になっていた。それを自覚すると、ますます泣きそうになってくる。彼女はこんな風に避けられることについての耐性があまりない。これも、ずっと箱庭で育ってきた結果だった。

目の前の女性の目に涙が溜まり始めているのを見ると、碇は激しく混乱した。彼女が泣いたこともあるが、それ以上に、何故自分に避けられたくらいでこの美人が泣き出す必要があるのか分からなかったからだ。彼女なら、他に言い寄る男もいるだろうに。碇は、自分に関することについてはこの程度しか頭が回らない男だった。

とにかく、彼女をなだめすかそうと、伊吹がやったように肩に手を置いて碇は言った。

「え、あっ。違うんです。本当に。違うんだ」

「……何が、違うんですか?」

そういう彼女の顔は、鼻まで赤くなっていた。決壊寸前、という感じだった。鈴谷の顔を見て、仕方ないか、と腹を括った碇はついに核心を告げることにした。

「鈴谷さんのせいじゃ、ないんだ」

「どういう……」

「昔、死んでしまった知り合いがいるんだ」

誰に話しても後味が悪い話だった。この話をしたのは、大学生の時に付き合っていた前の彼女以来――その子には、この話をしてからすぐに振られてしまった。

「事故でね。その子が――女の子だったんだけど――鈴谷さんに、ちょっと似てるんだ。だから、本当に、鈴谷さんのせいじゃないんだよ。おれが、悪いんだ。……ごめん」

顔を上げれば、もう彼女の顔に涙はなかった。降りが激しくなってきた雨が窓を叩く音だけが響く。ショック療法だな、と碇は思って苦々しい気持ちになった。目の前の女性の表情は、理不尽に怒る表情から碇を哀れむ表情に変わっていく。止めてくれ、そんな風に哀れむな。

「そう……だったんですか」

「もう何年も前の話なのに、未だに引きずってるんだ。馬鹿みたいじゃない?」

「恋人、だったんですか?」

マズいところをつくな。そう思って、首を回しながら時間を稼いだ。息を吐き、思わず乱暴になっていた口調を敬語に戻す。

「……いや、実は、おれ、その子にめっちゃくちゃ嫌われてたんですよ、それが。完膚なきまでに。力の限り。結構気が強い子で、昔のおれ、今と同じでふにゃふにゃしてたから。結局、おれが悪いんですけどね。うん、だから、馬鹿なんです。やっぱり」

あはははは、という乾いた笑いが暗い部屋に小さく響いた。だが、目の前の女性は笑わなかった。彼女はただ立ち尽くし、ぽつりと言った。

「……昔の、私みたい」

その顔には、もう哀れみの表情はなく、その代わりに人形から魂が抜けたように虚ろな表情を浮かべていた。その目の焦点は碇を通り越している。彼女は彼の向こうに別の誰かを見ていた。

「そう? とてもきつい人には見えないけど」

「昔は、キツい性格ってよく言われてました」

「へえ……イメージ、できないなあ」

「女の子は変わるんですよ」

「ああ、確かに。……これだからおれ、彼女できないんだろうなあ」

碇の軽口に彼女は薄く笑い、また虚ろな表情を呼び戻して呟いた。碇に話しているのか、独り言か、それも判然としなかった。

「私にも……死んでしまった知り合い、いるんです」

正直、驚いた。しかし、自分にいるのだから、他人にいたっておかしくはない。碇はさっき彼女が訊いたように、訊き返した。

「恋人?」

「いえ……。嫌いだと思ってたんです。その子のこと。いつも一緒にいたんですけど、何やっても情けなく見えて『軟弱者』って言って、いっつも馬鹿にしてました」

思わず、碇は笑いだしていた。爆笑だ。どこにでも、ヘタレはいるもんなんだなあ、と思うと、自分がそれほどダメな人間でもないような気がしてくる。

「あはは、おれと同じだ、そいつ」

「……馬鹿、ですよね。私みたいに、ガサツな人間と違った、繊細な子だっているのに――って、今は思ってるんだけどね。……ホントに、何で、私みたいなのと一緒にいてくれたんだろう?」

いつの間にか、今度は彼女が碇に対して敬語を使うのを止めていた。2人はお互いに、共感と警戒の中間の、中途半端な距離をふわふわと漂っていた。

「……男の子でしょう。それ」

「うん」

「んじゃあ、そいつきっと、鈴谷さんのこと好きだったんですよ。で、ヘタレで告白できないから、ずっと来ない機会を待ってた」

「そう思います?」

「だと、思います。……鈴谷さん、美人だから」

彼女は少し笑って、けれども低めの声で「おだてても何も出ませんよ」と言った。その言葉に、碇はすまして答えてみせた。

「正直に感想を言っただけですから。……ねえ、今も、嫌い? そいつのこと」

「いいえ。悪いことしたなあ、ってずっと反省してるんです。もう、取り返し、つかないけど」

「……おれもです。……ついてないね、お互い」

「ええ」

そうして会話が静かに終わると、碇は電源が落ちていたモニタの電源を入れた。

「んじゃ、そろそろ、再開かな。ありがとう、起こしてくれて。……そりゃそうと」

「え?」と彼女は首を傾げる。

碇はその仕草を見て、笑った。アスカだったら、あんなことしないんだろうな、やっぱり。そう思いながら、言った。

「似てると思ったけど、やっぱ、そんなに似てないかも知れないな。おれ、その子とは、ほとんどちゃんと話もできなかったから」

「……私も、似てないと思う。その子、真顔で『美人だから』とか言える子じゃなかったし」

そんなふうに、少し笑みながら答えると、彼女――アスカはドアのほうへ歩き出した。そして出際に、振り返って口を開いた。自分ばかりが彼の秘密を聞いてしまうのはフェアでないと思ったからだ。

「あの、最初に会ったときのことなんですけど」

「え? ……ああ、うん。何?」

「……死んだ子の名前が――『シンジ』って言うんです。だから――だから、ちょっと、辛かったんです。今さらだけど、ごめんなさい。それじゃ、頑張ってくださいね。おやすみなさい」

そう言うと、碇が言葉を発する前に、アスカはドアを閉め――部屋には、碇だけが残された。

雨の音が徐々に大きくなる。ひどい大雨になりそうだった。

first update: 20041124
last update: 20060103
Get back to last (The rest stories of "Project Eva" #01.5(a))
Go to next (The rest stories of "Project Eva" #01.5(c))
Get back to index (of the rest stories of "Project Eva")