- The rest stories of "Project Eva" #01.5(c) -

"彼女の箱庭"

10

雨が降っている。昨日から降り止まない雨はますますひどくなりつつあった。

「行ってきます」

家の中にいる者を起こさないように小さな声で言うと、伊吹はゆっくりと傘を開き、土砂降りの雨の中へと足を踏み出した。そして、洗ったばかりで雨に打たれている可哀想な車のキーを回しながら、ふと考えた。もしかしたら、学校は休みかも知れない。

そんなことを言い訳にして、半ば雨音を聞かないためにラジオをつける。雑音交じりのAMラジオは、それでも伊吹が欲しい振りをした情報を吐き出した。第2新東京周辺特別行政区、大雨洪水暴風警報。それを聞いて思わず伊吹は笑った。何よこれ、警報のオンパレードじゃないの。速攻で消す。

また、雨の音が聞こえだす。


雨の音は聞く者を思考の沼に引きずり込んでしまうことがある。伊吹もその例に漏れなかった。そうして、濁った水をたたえた道を走る車の中、伊吹は昨日のことを否応なく思い出していた。2日酔いに苦しむ頭を総動員する。

あれから……2人はどうなったのだろうか。

元々、無茶だったのは分かっている。そう伊吹は思った。伊吹はこの前は無視した疑問につかまってしまっていた。私にさえ分かったのだ、彼らにだって。そして、もしお互いのことが分かってしまったのなら……今日は修羅場が待っているかも知れない。いや、修羅場ならまだよい。もし、もしも……

そこまで考えて、伊吹は考えるのを止めた。止めろ、彼を信じるんだ。

「イケる、イケる、イケるわよ……あの子なら」

そう、願うように唱える口調が余りにも子供じみていて、自分で自分が嫌になった。


雨の道を車は走る。

「私は箱庭を持ってる」

右カーブ。

「10年掛けて作り上げた箱庭」

さらに右カーブ。

「何のためにある?」

急な左カーブ。一瞬対向車線に出るが、すぐに元の車道に戻る。大したことではない。こんな日にこんな山道を走るものなどいない。いたとしても、ただ、死ぬだけだ。もっと大したことではない。

山道を走りながら、伊吹はまるでうなされたように独り言を口走り続ける。そうでなければ、思わず本当に対向車線を走り出しそうだった。

「……私、正しいよね?」

呟くさなかに自分がそう口に出したのに気付いて、伊吹は思わず急ブレーキを踏んだ。フットブレーキとエンジンブレーキを限界まで効かせつつ、それでも車体は雨の道を滑る。スリップ音を聞く者もない山道で、やや小さい伊吹の車は左右に揺れながら数十メートルを滑りきり、止まった。ここが直線に近い道だったことが幸運だった。

「畜生!」

伊吹はハンドルを叩きながらそう言って自分を罵った。クラクションが一瞬響き、その後はまたガラス越しに雨音が耳の中へと滑り込んだ。

私は何をやっているんだ? そう自問する。こんなところまで来て、こんな風に自分を罵って、何がしたい? 私は罪深いことをしている? 私は正しいことをしている? もっと昔からそうだった? あんな箱庭に人類の知識を閉じ込めて。私のせいで死ななくてよい人が死んでいる。私のせいで死ななければならなかった人が生を得ている。そして今あの子たちは。私のせいでどうなろうとしている?


私は正しいか?


伊吹は我慢できずにドアを開けて車の外に出た。途端に服がぐっしょりと重くなる。頭がひやりと冷たくなり、頬を砂っぽい雨が伝い、下着が濡れだし手のひらから水が滴る。

「『分かるもんか!』」

黒い空を仰いで伊吹は叫んだ。山びこは聞こえない。雨の音の向こうに声が届いたのかも分からなかった。

「分かる……もんか……出所……しよ」

伊吹は力なく呟くと、車の中へ戻った。もう9時を回っている。大幅な遅刻をした自分をみんなは心配しているかも知れない。あるいはとんずらをこいた上司を罵っているかも知れない。あるいは……止めよう。考えるのは。考えても仕方がないことは何も考えるな、やるべきことをしろ。

そして伊吹は濡れる手でもう一度エンジンをかけた。

怒られちゃうな。少し落ち着いてから車内の惨状を見て伊吹は苦笑した。シートも何もかも、砂交じりの雨に濡れてぐしょぐしょになっていた。伊吹は自分の夫の顔を思い浮かべた。その顔は、曇っていた。昨日も「大丈夫か?」と言われたばかりだったからだ。彼だけは、私を解かってくれている――そう考えると、彼の思惑とは逆に、もう少しだけ頑張れそうだった。

今日は……抱いてもらおう。あの人が疲れていたって、構うもんか。そんな風に、そんな言葉が似合う歳を大幅に過ぎてしまったようなことを考えながら、伊吹は車をUターンさせ、ゆっくりとアクセルを踏みこんだ。

11

今日もまだ2人は半端に親密で半端に気まずい空気の中にいた。

「お早う、鈴谷さん」

「おはよ、六分儀くん」

2人はいつものように挨拶を交わした。そして、碇は思わずいつものように踏み出しそうになった足を、どうにかその場に留めた。ダメだ、あんな顔、もうさせられない。そう思うと、彼女が口を開いた。

「昨日は……大丈夫だった?」

「え?」と言う碇の呆けた声に、彼女は苦笑して言葉を付け加えた。

「雨」

「ああ! ……うん、参っちゃったよ、めちゃめちゃ降ってんだもん。死ぬかと思った」

「それは大げさすぎね」

そう言うと、彼女はにやりと笑った。

ん? 碇は少し思案した。そう言えば、今日はお互いに敬語を使わずに喋っている。彼女の雰囲気のせいだった。その雰囲気と口調は、彼に敬語を使わせることをためらわせた。

「……そっちが、素?」と碇が言うと、彼女は今度は歯まで見せて笑った。

「さあ? キャラかも」

「うわ、怖」

そう言うと、碇は笑った。秘密を共有した仲という奴か? そう思うと、ちょっと可笑しくなったのだ。どうやら今度は、彼女と彼はうまくやっていけそうだった。

「マヤさんは、もう来てる?」

マヤ? その言葉に少し驚いたアスカは、碇の顔を見た。彼と伊吹は、そんなに親密な仲なのか?

きょとんとしたその表情に、碇はその原因を勘違いして慌てて付け加えた。

「え、ああ、いや『マヤ』ってのは、副所長のファーストネーム」

「知ってるわ」

思わず少し棘のある硬い口調で言い返してしまう。その思いがけず硬質な言葉に、碇はやっとその本意を理解して、苦笑した。

「だよね。……何かさ、マヤさん――副所長が『副所長って呼ばれるとカユくなるから止めて』って言うもんで。別におれと副所長がどうこうってわけじゃないから、あしからず。気になるなら止めるよ? 使うの、今日が初めてだし」

その言葉で自分の態度の含意に気付いて、アスカは真っ赤になって言い返した。

「い、いや、別にあたしはそんな……」

「あたし?」

「え? あ、うん。私は、そんなことは……」

図星かよ。そう心中で笑うと、碇は「いいよいいよ、実際、勘違いした人もいたし」と努めて優しく言った。「でも、本当に違うんだよ。副所長は旦那さんと自称『超ラブラブ』だし、本当に、いい人なんだ。若いツバメ? って分かるかな? んなもんを飼う暇はなさそうだね」

「……意地悪ね、六分儀くん」

「ささやかな復讐だよ。勘違いの。……それにしても、遅いな、副所長。普段なら来てる時間なのに」

そう言うと、碇は時計を見上げた。時計の針は9時10分を指している。始業の時間はとっくに過ぎていた。

「ホントだ。どうしたんだろう? 時間にはきっちりしてる人よね?」

「そのはずだよ。スケジュール管理の鬼。で、意外と怖いから、ほら、もうみんな仕事始めてる」

そう言われてアスカが周りを見回してみれば、確かに彼ら以外は仕事を始めようとしていた。よく考えれば社会人としては当たり前のことなのだが、そういう常識が通用しそうにないここで、こんなにきっちりと始業時間が守られているのは不思議だった。

「じゃないと、いつまでも続ける人とか、いつまでも始めない人とかいて、わけが分かんなくなるからね。実験以外は、時間厳守だよ」

アスカの疑問に気付いたのか、碇は言った。本当に、よく気がつく人だ、と思う。

「そうなんだ……」

「うん、そう。それにしても、ほんとに遅いね……」

いい加減話が同道巡りを始めていた。2人は顔を見合わせて、映し鏡のような苦笑いを浮かべた。お互いに話すことが少なくて、話が進まないのだ。お互いの考えていることが筒抜けだった。

そして、どちらからでもなく自分のデスクへと戻ろうとしたその時、バタン、とドアが開く音が響いた。その音に2人が振り返ると、そこには長い髪から雨を滴らせた伊吹がいた。

「! マヤさん!」

「マヤッ!?」

碇とアスカは思わず呼び名を変えるのも忘れて伊吹の名を呼んだ。その声に、他の職員も集まって来る。

「あ……みんな……遅れてごめんね」

そんな場合じゃないだろ、と碇は取り落としたコップに目もくれず走り出した。

12

数分後、伊吹は代えの服に着替えて執務室にいた。実験で所員が泊まり込む時もあるこの研究所では、ほとんどの所員が、各自ロッカーに衣類の代えを用意している。

「落ち着きましたか?」

「うん。ありがと、シンジ君」

「いえ。……それにしても、どうしちゃったんですか? いや、言いたくなければ、いいんですけど」

碇は紅茶を淹れながら消え入るような声でそう言って、また口をつぐんだ。それを見て、伊吹ははあ、とわざとらしく息を吐きながら答えた。

「……シンジ君のせーよ、煮え切らないから」

「はあ?」

その言葉はある意味で嘘ではなかった。伊吹が来た時の2人の雰囲気は昨日までよりはマシだったが、親密なようで、疎遠のようで、伊吹にその間柄の進展状況を全く掴ませなかった。ますます頭が痛くなりそうだ。

「どーよシンジ君? アリスちゃんは」

そのことか、そう思うと碇は先ほどの気弱な表情をひるがえし、いつもの彼に戻った。

どちらが本当の自分か、などと悩むのはとうに止めていた。考えても答えなど出なかったし、いつだってそのことを考えると何もうまく行かないようになるからだ。何かの話に出てきた、ダンスの踊り方を訊かれて自然に踊っていた踊りができなくなってしまったムカデのように、足を一歩踏み出すのも、声を一言発するのも、それがどちらの自分の挙動であるか考えないとできなくなってしまう。そして、考えても答えは出ないのだから、彼は考え出すたびに、何も言えずにその場に立ち尽くしてしまうことになってしまうのだ。

碇はそのうちに、自分もあのムカデと同じように、自然と踊っているだけなのだ、と考えるようにした。何もおかしくはない。ダンサーだってタンゴを踊る時もあればワルツを踊る時もある、自分は踊りはできないけれど、何にだって似たような面はある。それだけのことだ。

「話してみれば、意外と大丈夫でした」

「……そう。苦手じゃなかったの?」

「アスカに似てるように思えたから、ですかね。……でも、話してみたら、当たり前だけど全然違う人でした。鈴谷さんも似たようなことを考えてたらしいです。知り合いに似てたんだ、って言ってました」

「そう。奇遇ね。まるで感動の再会みたい」と伊吹は屈託たっぷりでその言葉に答えた。が、碇は気にも留めずに話を続ける。

「あはは。だったらいいんですけど、やっぱりあなたとは違うって言われちゃいました。惜しいですね、名前まで一致してたのに。ほんと、自分のこと言われてるみたいでしたよ」

みたいじゃなくてお前のことだよ、と喉元まで出掛かって必死で止める。朗々と楽しげに喋る碇をよそに、伊吹はますます頭を抱えていた。何て鈍いんだ、彼らは。……いや、気付きたく、ないのか? 自分が見捨てたはずの人間が、生きているという可能性に。

「で、どうしたの?」

伊吹は訊ね、碇はその問に答えた。

「へ? どうもしませんよ? そりゃまあ、同年代の人が入ったのは初めてですから、嬉しくないって言ったら嘘になりますけど。やっぱり、同僚ですし」

頭がぼうっとしてくる。何なんだこいつらは、とほとんど絶望的な気持ちになりながら伊吹は言葉を発した。

思えば、この時点で既に、いや、そのずっとずっと前から、彼女は表面上は静かな日々の中で、まったりと狂っていたのかもしれない。そして、その狂いは、この雨と2日酔いと熱に誘われて臨界点を突破した。メルトダウンだ。大人の女の仮面が溶け出し、その中から昔の彼女とも今の彼女とも似つかぬよくわからないものが、どろどろと吹き出しかけていた。

「あ、そう。……んじゃ、私が命令するわ、あの子を離しちゃダメよ、シンジ君」

突拍子もない伊吹の言葉に、碇は自分の耳を疑った。

「何言ってるんですかマヤさん? 今日、ちょっとおかしいですよ。大丈夫……」

「うるさいわね」

そんな彼女らしくない言葉を皮切りに、碇の言葉を遮って伊吹は怒涛のごとく喋りだした。立ち上がって部屋を歩き回るその顔は上気し、何だか息も荒い。これはまずいぞ、と思った碇だったが、ひとまずはその言葉が終わるのを待たねばならなかった。この状況では目を離せそうにもなかったからだ。

「大丈夫よ。大体ねえ、大体よ? 大体さ、そんだけのフラグが立ってて食いつかない方がどうかしてるわよあんな可愛い娘に。あれよ、恋愛ゲームなら間違いなくハッピーエンドのシナリオが待ってんのよ? 何でそこで喰いつかないかなあ、それでも……おと……こぉ?」

男。その言葉を言い終わると伊吹は、フラグって、と碇が突っ込む間もなくパタンとソファに倒れ伏した。

碇が走りより額に手を当てると、予想通りその額は酷く熱かった。さすがに湯は沸かないだろうが、バターはすぐに溶けるくらいの温度だ。意識もない。ひどい風邪だった。

碇は目を見開き、しかる後に、すう、と一瞬大きく深呼吸すると、やらなければならないことを考え、時系列順に並べた。そして、考えをまとめ終わってきっかり10秒後に、それを実行に移した。


空白の10秒間、伊吹を除けば独りきりの部屋で、碇はこんなことを呟いていた。

「残念だけど……マヤさん。ハッピーエンドなんて、とっくに諦めちゃってるんですよ、『僕』は。フラグは、惜しいですけど、ね」

13

アスカは肩を叩かれて、後ろを振り返った。そこには、ほんの数分前まで、悪戯っぽい笑みを浮かべて自分と言葉を交わしていた男がいた。しかし、その顔には既に笑みはなく、代わりに冷たいようにも見えるつるりとした表情が浮かび上がっている。

「六分儀くん? どうしたの?」

「ちょっと、お願いがあるんだ」

「? どうしたの?」

「実は、副所長が倒れちゃったんだ」

「え!?」

碇の言葉にアスカは面食らって立ち上がった。碇は彼女を見ると、素早く「救急車、頼むね」と言った。


青白い廊下に、観葉植物とけち臭いテレビ・カードの自販機が存在感を失ったまま突っ立っている。それを見れば、誰だってそこが病院の廊下だと気付くはずだ。その病院の廊下は、そこにいる2人に、それぞれの頭の中にある病室を思い出させた。まさか隣にいる者が自分と同じ病院を思い浮かべているとはお互い夢にも思わない。

お互いに、あまり気持ちよくはない思い出を思い出してしまって嫌な気持ちになっていた。ソファに座ってからしばらく経つが、一向に会話がないのは、この状況のせいもあるのかもしれない、とアスカは思った。もちろん、上司が倒れて眠っている部屋の前でにこやかに会話をしていれば、それはそれで不謹慎には違いないが、2人の間にはそれにしても会話がなかった。

「どうしよっか、これから」と碇は言った。持たない間をなんとか持たせるようなその口調は、少しアスカを苛つかせた。

「どうするってどういうこと?」とアスカは訊き返した。

「今日はもう直帰で良いってさ、おれたち」とその少し棘のある口調を気にも留めない様子で碇は答えた。まるで、棘などなかったと言わんばかりだった。

「戻らなくていいの? 何で?」

「後少ししたら、副所長の旦那さんが来る。そしたらバトンタッチして、おれたちの仕事はおしまい。で、戻りますか、って訊いたんだけど、所長に、でも、今日は君たちはもういいから、お疲れさま、って言われた」

碇の淡々とした言葉が冷たい印象を与える廊下に静かに響き、ますます寒々しい感じをアスカに与えた。

「そうなんだ……」

「うん、副所長が倒れたのがショックだったみたいだね。で、病院に来てるのが補佐役のおれと、新しい環境に慣れてない鈴谷さんでしょ? ミイラ取りがミイラになったら困るってことだろうね」

碇のその言葉に、鈴谷はやっと少し納得することができた。恐らく、所長が休ませたいのは彼だろう。倒れてしまった伊吹が心配になって彼女をよこすような人物だ、きっと、相当に根を詰めて仕事をするに違いない。

「ごめん。仕事あったのに」

アスカが考えているさまを見て彼女が不機嫌だとでも思ったのか、碇はそう言って詫びた。アスカはその、彼と伊吹のつながりを強調するような言葉と、ひどく簡潔な口調に多少引っ掛かったが、引っ掛かった後で、よく考えてみれば彼から見れば自分はまだ入ってきていくらも立たない新人に過ぎないのだと気付いた。彼がそう言うのも無理はないのだろう。

「いや、いいの」とにかくアスカはそう答え、そして「で、どうするの? これから」と彼の言った言葉をそのまま問い返した。

「とりあえず、旦那さんを待つ」

「ええ。それで」

「それから……良かったら、ご飯でも食べようか? どこかで」

できるだけ自然に言ったつもりだったが、変な間ができて気まずくなった。他意はなかった。その時間はちょうど昼を少し過ぎたくらいの時間だったし、そうでなくても、何か一息入れなければならないと思ったのだ。

もちろん、伊吹の言葉が彼にほんの1%も影響を与えていないと言えば、それは嘘になる。

しかし、正直なところ、2人でこの空間にいるのが辛い、という気持ちの方がずっと大きかった。本当は別に2人で行動しなければならないわけでもないが、とりあえず、ここから一端離れてから、物事を決めたいと思った。ここで無造作に別れるよりは、そっちのほうが好ましい。

「どうして?」とアスカは端的に訊いた。なぜいきなり、よりにもよってこんな時に女を食事に誘おうというのかさっぱり解からなかったからだ。

「特に深い意味はないんだ。お詫び? かな」

「それ、お詫びになってるの?」

「奢るよ。後、なんて言うか……病院、あんまり好きじゃないんだ、おれ」

あまり脈絡がない言葉だったが、その口調が先ほどまでのつるりとした表情の見えない硬さを失っていたので、幾分理解はできた。アスカの理解したところが正しいかどうかは判らないが、恐らく、彼も混乱しているのではないかと彼女は思った。混乱している時には、誰かに一緒にいて欲しいと思う時がある。

そしてそんなことを考えているアスカ自身も、もちろん混乱していた。そもそも状況がよく分からない。どうして伊吹が倒れるようなことになったのか。自分のせいか、とも思うが、自分が来る以前の彼女のことなどアスカには分からなかった。それを考えると、彼女を良く知っているらしい彼と話をするのは悪くないかも知れないと思えた。

そんな風に考えをまとめると、アスカは碇のほうを見た。碇は沈黙に少々いづらそうにしていた。この青白い空間の中にすっと溶け込んで行けるのに、それを頑張って拒んでいるような雰囲気があった。私と同じだ、と口の中だけでアスカは呟いた。

「いいわ。他意はなし、でしょう?」

「もちろん」

「いつもこんな風に女の子をご飯に誘ってるの?」

「いや、そんなことはないよ」と言って碇は肩をすくめた。「そもそも、周りに女の子がいない。みんなおれよりだいぶ上だもの。出会いは皆無」

「これがその『出会い』?」

「……自意識過剰じゃない?」

「それを言われると厳しいな。やっぱり意地悪ね。……いいですよ、食事。私も、病院は好きじゃないから。病院食はもっと好きじゃないし」

アスカにとって、病院は、母を奪い、自分を腐らせ、自分を汚し、だがそんな自分を維持するためにしがみ付かなければならないものだ。控えめに言って、大嫌いだった。そして病院食は、もっと嫌いだ。

「青白いし?」

「陰気だし」

「幽霊が出そう」

「出ないでしょ」

「さあ、どうだろう」

無意味な会話で時間を稼いでから、碇は言った。

「ありがとう。どこでも、鈴谷さんの好きなところでいいから」

「そんなそんな。奢って貰うんだし、六分儀くんの好きなところでいいよ。でも、とりあえずは、副所長の旦那さんを待たないと」

「そうだね」

会話が止まった。碇はアスカから視線を外し、廊下の向こう、アスカの後ろを見ていた。

「……あの」

「え?」

「副所長の……伊吹さんの旦那さんって、どんな人?」

その言葉を聞いた碇は、奇遇だな、と言ってから、おもむろに語りだした。

「優しくて、背が高い。割と体格がいい。怒ったところはあまり見たことがない。安定してるって感じ。……でも、今は副所長――伊吹さんをめちゃめちゃ心配してるみたいだ。チャコールグレーのスーツが雨に濡れてぐちゃぐちゃで……」

「何それ?」

「で、今、こっちに向って手を振ってる。……はい! こっちです」

そう言うと、碇は立ち上がってアスカの後ろに向って手を振った。彼女がはっとして振り返ってみれば、碇の言う通りの男が、こちらに走り寄って来ていた。肩で息をする男は、心底心配そうな顔で「ありがとう、シンジ君」と言ってその横を通り過ぎ、病室へと駆け込んでいった。

それを見届けると、碇はアスカにその朝から久しぶりに笑いかけ「とりあえず、一安心だね」と言った。

アスカには、途端に彼の身体が一回り小さくなったように見えた。

14

しばらく雨の街道を走った2人はやっと見えたレストランに入った。何の変哲もない昼過ぎのファミリーレストランには、何組かの客以外にはほとんど人はいなかった。閑散とした店内は酷く寂しい印象を与える。この土砂降りの雨の中では無理もなかった。

「ごめん、いい店がなくて」

「いいわよ別に。それよりお腹が空いて死にそう」

「同感。何頼む?」

「和風チキン。六分儀くんは?」

「ハンバーグのガーリックソース」

そう言うと、碇は呼び出しボタンを押した。気だるげな店員がだらだらした歩みで注文を聞きに来てから、まただらだらと奥へと下がっていった。店員が歩くたびに、床に足を擦る音が聞こえた。

窓には相変わらず降り止まない雨が降りつけていた。雨足は周期的に強くなったり弱くなったりを繰り返し、時折、雨が窓を叩くぱたぱたという音が耳に入った。

「雨は好き?」

沈黙を破り、アスカが碇に言った。碇は視線を窓から彼女へと戻し、答えた。

「どうかな。あまりいい思い出がないから、雨には」

「そう。んー、私もそんなに好きじゃないかな、雨は」

「何で?」

アスカは指で机を叩いた。とんとんとんとん。正確なリズムで4回叩く。その作業を終えてから、彼女はゆっくりと答えた。

「最近、雨ばっかりだから」

「……何か、おれに訊きたいことがあるんじゃない?」

思っていたことを言い当てられてしまったアスカは、ぽかんとした顔で碇を見つめた。まさにあっけにとられている、という表情だ。その表情を見た碇は、組んだ腕の上に顎を乗せてにやにや笑いを浮かべた。

「結構思ってることが顔に出やすいの、気付いてる?」

「考えてることが分からない、って言われることの方が多いわ。六分儀くんこそ、鋭いって言われるんじゃない?」

その答えを聞くと、今度は碇は声を出して笑い出した。くっくっくっく、と口を押さえきれたのもつかの間、そのまま組んだ腕に顔を埋めて笑う。アスカはそれを見て「何が面白いのよー」と言った。

多少ぶーたれたようで面白く無さそうな口調は、それまでの碇が感じていた彼女の印象と違ったので、碇はますます笑いを押さえきれず、辛うじて「頼む、もう笑わさないでくれ……」と呟いて笑い続けた。

それからしばらくして。

やっと顔を上げた碇はふっと笑んだ。それはさっきまでとは違う、相手を害すことのない笑みだった。

『僕は君に何もしないよ』そして、『君も僕に何もしないでしょう?』そんな確認を取るような。

何故だろう、とアスカは疑問に思った。間違いなく優しい顔なのに、さっきよりもずっと冷たく見える。一瞬、自分と彼の間に見えない壁ができたような気さえした。

「鋭いなんて言われたのは初めてだよ。いつも『鈍い』って言われてるよ。今もね。伊吹さんとか」

伊吹さん。そうだ。彼女のことを訊かなくては。

「副所長とは……長いの?」

「うん。もう……何年になるかな。大学の先輩なんだ」

いつも通りの嘘。誰に訊かれても碇はこう答えることにしている。もう吐き慣れすぎているためか、その表情からは彼の言葉が嘘だという事実の欠片も見出せなかった。

こう言ってしまえばたいていの人はこれで納得する。しつこい人間に突っ込まれたら、昔から近所に住んでる人なんだなどと逃げ、それでもさらに突っ込まれたら、第3新東京市の話でお茶を濁す。さすがにサード・インパクトの話を出されて平然と突っ込んでくる人間はいない。大体もしそうなれば、怒ったふりをして逃げればいいだけの話だ。

「大学の、先輩……そう」

「鈴谷さんは? さっき『マヤ』って言ってたけど、随分仲良いよね。昔からの知り合いとか?」

その質問に、アスカはかなり動揺した。決まりきった嘘をつきなれている碇に比べれば、彼女が即興で思いついたそれは随分たどたどしいものだ。確かに、彼女はドイツでは偽名を使い、隠れて暮らしていたけれども、その時には既に十分な「設定」が誰か知らない人間の手で用意されていたのだ。

「え、あ、いや、えーと、あれ、そう、私、大学卒業したの早くて。飛び級。で、ネルフのドイツ支部にいたの、それで」

「ふう、ん……? ……それじゃあ、惣流・アスカ……」

その言葉に、ビクッとアスカの肩が震え、刺すような視線が碇を捉えた。幸いにも彼は彼女の目から視線を外していたため、それに気付かずに言葉を続けた。

「セカンド・チルドレンの子とかと同じ? ……どうしたの? 何か、マズかった……かな」

「え? いや。そうね、確かにあの子もいた、わ。大学出で、エリート。で、気が強い。すぐに日本に発っちゃったけど。弐号機の輸送のとき」

彼女のことは良く覚えている。何しろ自分自身なのだから。すらすらと経歴が出てくる。嫌な子、と付け加えようとかと思ったが、止めた。他人という体で話をしているのだし、そういう風に否定する癖は直そうと決めたからだ。それは昔あの子に指摘したことでもあった。内罰的だ、と。

彼には、もうその癖が出るところを一度見られている。

「よく覚えてるね。友達?」

「え、いや、えーと……」

その困ったような調子に、碇はやっと納得した様子で「あ、そういうことか」と言った。そういうことか。さっきからの歯切れの悪い調子の理由が分かったような気がした。恐らく彼女とアスカは仲が悪かったのだろう、と碇は納得した。確かにあの子なら、自分と同じように若くして大学を卒業した女の子をライバル視しても無理はない。彼女はそういう女の子だった。

「え?」

「仲、悪かったんじゃない? ……ほら、おれたち、チルドレンのデータも、非公式ながら持っているんだよ。性格検定結果も、ね」

「あ、そうか。……うん、そんなところ、かな」

今さらながら自分の環境に愕然とする自分がいることにアスカは気付いた。自分の知らないところで、自分のデータが勝手に使われていた? ネルフにいた時には気にも留めなかったことなのに、今では胸がぞわぞわするような気持ち悪さを覚えた。

一方碇も、自分で言っていながらそれほど面白い気持ちではなかった。少なくとも彼は自分のデータはできるだけ自分で処理しているし(それ以外のチルドレンのデータは、伊吹が優先的に扱っている)実際には、チルドレンの個人情報に関わるデータを用いることはほとんどない。しかしそれでも、自分たちがその面で人間扱いされていないことを考えると陰鬱な気分になった。

失敗した、と碇は思った。


「お待たせいたしました」

注文から十数分、やっと注文した料理がやって来た。碇にはその気だるげな声が、神の声に聞こえた。

「あ、ああ、ありがとう。あ、それはこっち、それはそっちね」

「ごゆっくりどうぞー」

また先ほどと同じようにやる気なく帰っていく店員の背中を見届けると、彼らは無言のままでフォークとナイフを手に取った。

そしてお互いに、昔のことを突くのは止めよう、と固く心に決めて、口を揃えて言った。

「いただきます」

時間は既に午後1時を回っていた。雨はまだ止まない。

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