- The rest stories of "Project Eva" #01.5(d)- 

"12時間/出発まで"

15

碇は酷く混乱していた。ちょっと待て。どういうことだ? 彼女がアスカでおれがシンジで? それで何でおれと彼女は。


すでに頭がパンク寸前の碇は、何とか言うことを聞かない肺をなだめてため息をつき、時計を見た。時計の針は3時を指している。3時だって? よりにもよって何でまた、こんな不毛な時刻に自分はこんなややこしい状況に陥ったのか。頭をかきむしって悪態を吐いた。

本当に何もかもが予め全て計算され準備されているように最悪だった。

おれはどうすればいいんだ? その言葉が空っぽの頭の奥のほうをくるくると回り続けている。

何故彼女はあんなことを言った? 何も考えられない彼の目の前にその言葉だけがぽっかり浮かび上がっている。

隣を見ると裸の女が寝ている。どうやらしてしまった後らしい。どうやら、どころではない。確実に、だ。布団をめくると生々しい血の跡があった。動かぬ証拠だ。

ちょっと待てよ。

もう一度碇は心の中で呼びかけた。

しかし相手がいなかった。「待て、お前にはそんなことをする資格はないぞ」呼びかけるべき相手は数時間前の自分だ。もうどこにもいない。彼はミスをした。どうしようもないミスだ。やってはならないミスを。なんて言うやっかいごとを。借金の額が一気に跳ね上がった気分だ。もう取り返しはつかない――

「『誰か、助けてよ……』」

小さく碇は呟いて、天井を見上げた。所々にしみのある天井はやはり彼を助けてくれそうにはなかった。

16

碇は目を開けた。目の前には物憂げな女性の姿が見える。ぼうっと雨を眺めているその顔はかなり美しかった。

碇はことの次第を思い出そうとした。病院を出て、ファミレスに入って、それから?

鈍痛を感じる頭を小さく振って集中すると、薄ぼんやりとしていた記憶がじょじょにはっきりとしてきた。

あの後、彼らは少しの会話を交わしながら食事を取り、適当に話し込んだ。お互いそのまま家に帰るには暇すぎたし、なにより外に降りしきる雨は2人の足を止めるには十分だった。「もう3時? ドリンクバーだけでこんなに粘るのなんか久しぶり」と彼女は言った。そこまで思い出して、それからの記憶が飛んでいることに碇は思い当たった。

「……おれ、寝てた?」と碇は訊いた。

「うん。結構」とアスカは答えた。眼鏡が照明を反射して、その奥にある目は見えなかった。

「……ごめん」

「いいわよ別に。疲れてるんでしょう?」

窓の方を見続けながらそう言った彼女は、ふう、と息を吐いた。怒っているという感じではなかったが、別段楽しいという感じでもなかった。彼女はただ、長袖のシャツの裾をいじりながら、気だるげに外を見ていた。

「雨、止まないね」

次の言葉を切り出せず沈黙を守っていた碇は、何度目かのシャツのボタン掛けを終えた彼女の言葉を聞いて窓の外を見た。

彼女の言う通り相変わらず雨は降り続けていた。だらだらと流れ落ちる雨水のせいで、景色が歪んで見えた。日が差しておらずそもそもが暗いせいで理解するのが遅れたが、どうやらかなり時間が経っているらしかった。外は雨を抜きにしても薄暗くなってきていた。

碇は横目でさっと周りを見渡して掛け時計を探した。掛け時計は厨房の入り口に控えめに掛かっていた。その短針は真下に近い方向を指している。

碇は自分の間抜けさ加減にうんざりしながら答えた。

「だねぇ。どうしようか、これから。車、無いよね?」

「うん。六分儀くんの車乗ってきたんだもん」

「そうだよなぁ……何か随分待たせちゃったみたいで、ごめん」

「まあ、家に帰っても何もすること無かったし。六分儀くんはいいの? 予定とか」

碇は頭を掻きながら机の上にある烏龍茶を飲んだ。氷が溶けきって薄くなってしまった烏龍茶は酷く不味く、彼は顔をしかめて口に入ってしまった分だけを飲み下し、グラスを端に寄せた。

「予定があるような奴はここで寝ない」

「確かにね。……でも、とりあえず私は送ってもらえなきゃ困るんだけど」

「うん。それじゃあ、行く?」

「ええ」

そんな風に外の景色とは反対の乾いた会話を交わして、彼らは席を立った。


鍵を失くすとかなり切ない気持ちになる。それが雨の日で、30分も鞄を探した末の結論だとすればならなおさらのことだ。というわけで、アスカはいたたまれない気持ちになり思わず無言のままドアを蹴った。

後ろを振り向いて見れば、彼女の同僚の男は引きつった笑いを顔に貼り付けて立っていた。

「……見てた?」

「見てません」

目の前で首を振って敬語で話しかけてくるのを聞けば、彼が嘘を吐いていることなどすぐ分かる。もちろん、からかわれているだけだということも。

「言ったでしょう? ガサツだ、って」

「……冗談だと思ってた。今の今まで」

「分かったでしょう。ガサツで」

後を碇が続けた。

「キツい?」

「そういうこと」と答えながらアスカは笑った。笑うしかない状況だった。上司が倒れて、鍵を職場に置きっぱなしにして、しかも同僚に引かれるとは。いったいこの状況は何の冗談なんだろう、とアスカは思いながら、ドアに寄りかかった。後ろ頭が安っぽい鉄のドアにぶつかり、ガン、という鈍い音がした。

音は薄暗い廊下に響いて、その後はまた沈黙が降りた。しばらく2人とも話さなかった。

そのままたっぷり鍵を無くした切なさに浸った後、アスカは、はあっ、と短く息を吐いた。

「これからどうします?」と碇が言った。

「とりあえず飲まない?」とアスカが言った。

「財布持ってるの?」

「あったらこんなこと言わない」

「……しゃあない、行きますか?」

「行きましょう」

それが彼と彼女の間違いの始まりだった。知ってて引っ掛かったんだ、というのは言い訳に過ぎない。結局、自分はもう彼女に惹かれていたのだ、と、しぶしぶだが碇は認めざるを得なかった。

17

病室で伊吹は目覚めた。顔を横に向けて見れば、夫が自分を見つめているのが分かった。

「……ヤマトさん」

伊吹がその名を呼ぶと、彼は肩を落として下を向いた。膝に肘を乗せたその姿は、ちょうど9ラウンド目くらいを終えたボクサーのようにひどくぐったりしていた。

「ごめんね、心配かけた。……怒ってる?」

伊吹がそう言っても、彼は何も答えなかった。病室特有の気まずい沈黙が流れる。

空気が粘り気を帯びるような沈黙の中、伊吹は辛抱強く彼が話し出すのを待った。

ヤマトはそのままじっと俯き続けた。そして、かなり長いこと黙った後、何か重いものを押し出すようにゆっくりと言葉を発した。その声に怒りは混じっていなかった。ただ気が抜けたような響きの声で、彼は言った。

「怒ってない。でも心配した」

「……ごめんなさい」

その声を聞いて、伊吹は本当に申し訳ないと思った。だが、これ以上同じ言葉を繰り返しても、決して彼の気が晴れないことは分かっていた。

だから伊吹は、それ以上は何も言わずに彼に抱きついた。思わず彼は椅子から落ちそうになったが、その前にベッドに腰掛けて彼女の身体を支えた。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃ、ない」

「どうして欲しい?」

「とりあえず喋らないでじっとしててくれる?」

「分かった」

それからたっぷり数十分、伊吹は彼に抱きついてまた眠ったように動かなくなった。小さくすすり泣く声は湿ったシャツに吸い込まれて消えた。

「ねえ、どうすればいいの? 何も正しいことができない」

「……マヤは良くやってる。誰も文句なんか言えないよ」

「怖い……怖いのよ」

それだけ言って、また伊吹は黙った。彼は寝息が聞こえるまで何も言わずに身体を支え続けた。

18

遠くから水滴の落ちる音が聞こえた。断続的に続く音は、暗い廊下と絶妙のコンビネーションを見せた。そのコンビネーションが見せたのは、潤いや恵みといった言葉とは随分とかけ離れたイメージだった。

そんな音の中、覚束ない足音が地面を揺らし、しばらく遠い雨音を打ち消して、止まった。

ガチャ。鍵が開く音がした。カードキーではなく昔ながらの鍵だ。電磁錠ですらない。近頃は珍しい古い方式だった。

ドアを開けた碇は、さも今思いついたように「でさ、何でおれの家になるわけ?」と訊ねた。

すると後ろの暗闇から「仕方ないじゃない、財布ないもん」といういかにも開き直ったことが分かる言葉が返って来た。それを聞いて碇は一瞬、もしや自分は飲み屋で間違って逆隣の女を連れて帰ってきてしまったのかと思った。しかし、目を凝らして見ればそれは間違いなく彼が連れて行った女性、鈴谷だった。

「何よぅ」彼の沈黙を呆れと取ったのか、彼女は据わった目で彼を睨んだ。

「だからって男の家に上がり込むことないだろ?」という彼の言葉は、あっさりとした彼女の言葉に腰を折られた。

「大丈夫、私、強いから。元ネルフ職員だから戦闘訓練もばっちり」その声には暗に、彼など怖くない、という自信が含まれていた。

「そういう話じゃないから……」

答えるように、にへらと笑った彼女の顔は火照っていた。彼女はきっぱり酔っ払っていた。酒なんか飲ませるんじゃなかった。そう思い、心底後悔する。そしてさらに思う。この女性はこんなに可愛いのになぜここまで警戒心が薄いのだろう? いくらなんでも、この歳の女性にしては(その初めての印象から考えても)警戒心に欠けている気がした。


部屋に入っての彼女の第一声は「気持ち悪い……」だった。

その言葉と口調は碇に大昔のことを思い出させた。しかし、あの時と状況はまるで違っている。あの時は、波音だけが耳に滑り込む赤い海のほとりで、自分が首を絞めた惣流・アスカ・ラングレーに言われた。そして今は、もう慣れっこの雨音が聞こえる自分の家の玄関で、酔っ払った鈴谷・アリス・ラハナーにその言葉を言われている。

そんなことを考えているうちに本気で彼女が口を押さえだしたので、碇はその思考を打ち切って彼女を抱きかかえ、バスルームへと連れて行った。

「落ち着いた? 水、飲む?」

今日はこんなことばかり言っている気がするな、と思いつつ碇はまだ少し吐いている彼女の耳に障らないよう穏やかに声を掛けた。アスカは何とかバスルームの壁の手すりを持って立ち上がり、壁にもたれた。開かなかった彼女の部屋のドアで鳴ったのと同じように、ごん、という音がした。

「ありがとう、いただくわ」

雨に濡れた女にありがとうと言われるのも本日2回目だった。しかも両方とも美人だときている。

碇は、それにしても、と改めて目の前の同僚を眺めて思った。この状況で何にも期待しない奴がこの世にいるのだろうか? もしいるとしたら、そんな奴はさっさと寺でも教会でも行けばいい。それくらい、目のやり場に困る状態だった。

目の前にいる彼女はかなり濡れて、シャツやスカートが肌にぴったりと張り付いていた。薄いパステルカラーの下着の線が透けて、肩紐と背中のホックが、くっきりと姿を見せていた。

生唾を飲み込まないように注意して、碇は言った。

「ほら、風邪引くから、身体拭きなよ」そう言って水と一緒にバスタオルを渡し「あと、入りたければ風呂、入ってもいいよ。少し待てばお湯、溜まるから」と付け足した。

後ろめたい思考を隠すようにやや早口になった声を聞いて、アスカは一瞬目をぱちくりさせ、それから壁に体重を預けたまま剣呑な視線を目の前の男に向けた。

「……随分用意がいいのね?」

その言葉には突っかからざるを得なかった。それはかなり失礼な発言だったし、彼に後ろめたいものが全くない訳ではないというのも事実だったので、なおさら突っかかる必要があった。

「あのねえ、酔っててもこれははっきりさせとくけど、おれが鈴谷さんをここに連れ込んだわけじゃない。君が、おれん家に着たんだ。感謝はされても、そんなこと言われる筋合いはないよ」

状況をよく考えればかなり嘘くさい言葉だった。そして、それは酔っ払いに言う言葉としては少し強すぎた。彼女がそこまで酒に強くないのは昨日のことで分かっている。今、碇は昨日と同じ道をなぞりかけていた。

昨日。そう、よく考えれば、彼と彼女は昨日まではよそよそしく避けあっていた2人なのだ。

彼女はやや間をおいて、ぷつっとはじき出すように「そうね、ごめんなさい」と言った。その声は今日の彼女の様子からは考えられないくらい小さく、碇は日付が1日戻ったように思えた。

「あ、ごめん、言い過ぎた」

言ってもまるで無駄に思えたが、とりあえずそう口走った。口に出した言葉が虚しく消えるのを感じて、彼は自分がいつの間にか彼女に対して不用意に気を許していたことに今さらながら気付いた。

返ってきた言葉は相変わらず小さかった。しかし、昨日のように不安定な言葉ではなかった。

「いや、確かに失礼よね。ごめんなさい、本当に。悪酔いするとだめね」

それっきりバスルームの戸は閉められ、後はシャワーの流れる音だけが碇の耳に入った。

所在無くなった碇はバスルームの前に立って、流れる水の音を聞いていた。さっきの雨よりはずっと暖かなくぐもった音がして、鼻歌が聞こえた。どうやら、それほど気にしている様子も無さそうだ。そう思ってほっとし、はた、と碇は自分の今の状況を思い返した。同僚が入っているバスルームの前で聞き耳を立てる。客観的に見れば自分の恰好はいかにも変態くさかった。

そこまで考えが至ると、碇は肩をすくめて踵を返した。しかしそれでも、水を含んで身体に張り付く服のせいにしていつもよりゆっくりと歩き、リビングに向った。

リビングに入ると、碇は服を着替え、ひとまず水を飲みにキッチンへと向かった。

「何なんだこの状況」

碇はそう口に出しながら冷蔵庫からボトルの水を出した。もう少しすれば、ごそごそという衣擦れの音と共に彼女が姿を現すだろう。雑念を振り払おうとしてみても、やはりさっき見た姿を思い出してしまうはずだ。素肌にTシャツとトレーニングウェアだけの女が隣の部屋にいるなどという状況に陥ったことなど当然無い。どうしたって気になってしまう。

碇は左手に、まるで聖書でも持つようにボトルを持ちながら、ああ、こうやって間違いが積み重なってどうしようもなくなるんだろうなあ、こういう時は、と諦めるように思った。酔っているせいでそれほどの後悔はなかった。後からやってくるから後悔なのだ。

しかし。碇はボトルを持って覚束ない足取りで歩きながら考えた。これが間違いだとすれば、彼女だって共犯だ。彼を飲みに誘ったのも、車を運転しなければいけない人間に酒を飲ませて2人して濡れて帰る羽目にさせたのも、彼女だったのだから。

自分がそんな風に割り切ったタフな人間として生きるのに、少なくない代償を払っていることを碇は忘れていた。誰かと深く知り合うほどその代償が高くつくことも。

碇は明かりの漏れる廊下を一瞥して、ソファに身体を預けた。

19

何でこういう事態になったのだろうか、とアスカは考えてみた。少し考えてみたが、何がどうなってこんな状況になったのかアスカにはさっぱり分からなかった。確かに、流れとしては理解はできる、しかしその当事者としては、どこかで論理的な整合性が取れていないような妙な気分だった。

あのレストランで昼食を食べ終わってからそろそろ8時間経つ。よくよく考えたら、飲んだり食べたりばかりだったような気がした。昼食、家への車、飲み。この3つの単語で表現できる。寝られたからという事情はもちろんあるが、そうでなくともおそろしく簡単に言い表せる8時間だった。

では、密度が薄かったのか、と考えてみると、それほどでもないというところだった。彼と彼女はそこまで盛り上がってはいないが、絶対零度の寒さというわけでもない。何でもない会話を交わし、互いのこれまでのことを(お互いに100%の真実とはいかないが、それなりのことを)話し、2人の唯一の共通項である伊吹の話をした。

時折沈黙を挟みながらも、その会話はおおかた笑顔交じりに続いた。腹の底から笑い出すような面白みは無いかわりに、ゆっくりとしたにぎやかな空気のある、言い換えるなら、和気あいあい、そんな感じだった。

当たり障りのない話を選んだわけではなかった。会話にたまに挟まる沈黙は、2人のどちらかがお互いの中に埋まる少なくない会話の地雷に足を掛けた時に起こった。その程度にはお互いに(初めて飲みに行く相手にするにしては割と深く)踏み込んだ。しかし、だからといってそこで会話が重苦しく途切れることもなく、お互い、地雷に足を掛けた時には、その時ごとに体重をゆっくりと外し、また別の道を歩いた。

お互いのことをよく知っている人間がする会話のようだ、とふと思った。

そして、ついに彼女はここまでやって来てしまった。ちらちらと外を見ると、ついさっきまでドアの前に立っていた同僚の彼は姿を消していた。彼はよく見れば嘘がそれほどは上手くない男だった。確かに、彼はどうしても話せない部分には徹底したベールをかける男ではあった。その部分にそつはない。しかし、隠していること自体を見えなくする技術は持ち合わせていないようだ。それがアスカの理解だった。

それはともかくとしても、とりあえずアスカには、なんとなく碇がそわそわしているのが分かったし、自分に(主に身体の方に)興味を持っていないわけではないのが分かった。言葉には出していないが、雰囲気のようなものを感じることができる。

「誘ってるって思われるのかな?」

そうかもしれない、と湯船につかりながらアスカは思った。確かに自分は彼の家に来てしまったし、今こうして彼の家のシャワーを使っている。たとえそう取られても、一方的に相手を責めることはできないだろう。

そして、肝心の彼女自身としては――あいかわらず、よく分からなかった。彼を好きなのかどうかも分からなかった。彼のことを嫌いではないのは分かっていたが、かと言って熱烈に盛り上がったわけでもない。その中途半端な空気が、ここまで来てしまった一番の原因かもしれない。

変な男だ、とアスカは思った。そして、さっきから理解するのを先延ばしにしていたことだったが、自分がかなり混乱していることを理解した。

何しろ全てが急だった。昨日初めてちゃんと話して、今日がここだ。途中で踏むべき必要なステップをいくつもすっ飛ばしている。搭乗手続きもしていないのに飛行機に乗り込んでしまった気分だった。もし彼女が何も言わなければ、ともすれば、もし言ったとしても――それは勝手に彼女をどこか知らない場所へ運び込んでしまう。

「チケット購入、搭乗手続き、離陸、着陸」とアスカは呟いた。着陸? どこに着陸するのだ?

どうやら私はまだ酔っているみたいだ、とアスカは思った。恐らくそうだ。風呂に入っている時に、船ならまだしも飛行機のことを思い出すなんて。

「まあ、いっか」


アスカが見た彼は、ちょうどグラスに茶色い液体を注いでいるところだった。飄々としている風を装っているが、かなり酔っているように見えた。どうやら、既に一杯目を飲んでいるようだった。

「ありがとうね、お風呂上がったよ。……何してるの?」

「……飲み直そうと思って」

「まだ飲むの?」

「こんな状況、飲まなきゃやってらんないよ。はい、飲むでしょ?」

そう呟いた彼は、アスカに片方のグラスを渡した。確かに喉が渇いたが、だからと言って男の家で前後不覚に陥るのもどうかと思った。……しかし、どうも断りにくかった。

だから、とりあえず彼に訊いてみた。

「あのさ、本当に、やましい気持ちはないわけ?」

「あー、どうだろ、分かんないや、あはは。……嘘だよ。何もしないよ。甲斐性ないし、おれ」

「何か怪しいのよね、六分儀くんって。ほのぼのを装って全部計算してない?」

「ひっど。計算してるってねえ、飲み言い出したのもおれに酒飲ましたのも鈴谷さんじゃん」

「そりゃ、そうだけど」

そう言われてしまうと彼女も立つ瀬がなかった。風呂に入ってだいぶ抜けたが、この部屋に来るまでは相当酔っていた気がする。

「それに、強いんでしょ、鈴谷さんは、戦闘訓練もばっちり」

「そんなこと言ってた?」

「言った、言った」

「だいぶ酔ってたのね。……他には? 何か言った?」

少し間を置いてからアスカが問うと、碇は少々考え込み、言った。

「普通の話。男がいないとか、日本に来るのは久しぶり、とか?」

それを聞いて、アスカは安心した。良かった、素性については、言ってないのか。

だが、その後の言葉がいけなかった。

「ああ、後、第3新東京に住んでたことあるって言ってたね」

「えっ……」

その言葉に、彼女は今度こそ、急速冷凍されたイカか何かのようにのように文字通り凍りついた。そして、その後に続く彼の言葉で、真っ白に凍った意識は叩き割られた。

「ほんと、奇遇だよね。おれも第3新東京に住んでたんだ」

アスカは無言のまま、ソファの前にすとんと腰を下ろした。ちょうど碇の斜め前、ソファのクッションに背中を預ける形だ。

それを確認すると、碇は続けた。

「悪い街じゃなかったよね。たまにビルが上がったり下がったりするけど、変形ロボットみたいで楽しかったし。……バケモノが来ること以外は」

「いつまで、いたの?」

自分の声が少し震えていることに、アスカは気付いた。怖い。私はずるい人間だ、と心から思った。ついこの間は、あの街で自分が殺した人たちに忘れられることに怯えていて、誰かに覚えていて欲しいと願ったのに、今は、目の前にいるあの街にいた人に怯えている。

少し、間が開いた。アスカはその間に耐え切れず、手に持った酒をぐい、と胃に捻じ込んだ。

「サード・インパクトの時まで」

ついに来た、とアスカは思った。気が遠くなりそうだった。


「酷かったよね、本当に。今考えてみれば、戦う理由なんて、何もなかったのに……ごめん。変な話、聞かせた。ダメだなあ、マジで酔ってる。昔話とか、ジジイみたいだな、おれ」

碇は隣にいるアスカの顔が曇っていて、さらには肩が震え始めていたのに気付くと、そう言いながら顔の前で手を振った。しかし、彼女の表情は晴れなかった。

その姿は、彼にはとてもか弱く見えた。頭の中で、膝を抱える目の前の彼女の姿と、昔抱きしめてあげられなかった女の子の姿が重なる。

碇は、震え続ける肩に手を置いて、ぐいと自分のほうに引き寄せた。そしてぐっと身体を乗り出し、伏せ気味になっている彼女の顔を覗きこんだ。酒臭い口や、潤んだ目が目の前に近づく。

「大丈夫?」

「え? ええ。うん。気にしないで……ってえぁ!?」

「ほんとに、ごめん」

搾り出すように言うと、我慢できずに、碇は後ろから彼女を抱きすくめた。

あの時の代わりに? 頭の中で声がする。

「ねぇ、六分儀くん? 酔ってるの?」

彼女を身代わりにするの? そうかもしれない、と思う。

「……ねぇ。ダメ、六分儀くん」

ダメ、という聞き慣れた言葉にハッとして、彼は腕をどけた。目の焦点が彼女の顔に合えば、彼女がとても困惑しているのが分かった。確かに、いきなりこんなことをされれば、怖がるのも当然ではある。

「ごめん。って、説得力無いね、なんか」

「あの、そうじゃなくて――」

何が気に障ったのか、一瞬顔が歪み、その後すぐに申し訳なさそうな顔になった。

「私じゃ、ダメだよ」

「え?」

予想外の言葉だった。悪いのは自分、タフな人間として開き直りつつも根底の部分ではやはりずっとそうやって生きてきた碇にとっては、意味の通らない言葉だった。

そんな碇を置き去りにして、アスカは言った。

「だから、私じゃ、ダメだって」

それっきり、彼女は黙った。彼女が何を言っているのか碇には分からなかった。彼女の目はどんどん潤んできている。酒と、第3新東京の話、それが彼女にもたらしたものだ。その流れを思い出せば、じっと押し黙る彼女が思い出していることが何となくは想像できた。あの頃、あの一帯は酷いありさまだった。特に、この国とのつながりに欠ける外国人にとっては――

黙ったまま、今度は彼女が碇の目をじっと見つめた。目が据わって息が荒い。碇が横目でちらりと机の上を見ると、ボトルの酒は既に半分以上無くなっていた。

「私は、汚れてるもん。傷ものだしね」

彼女はトレーニングウェアの腕を捲り上げた。そこには、手首の付け根から肩まで、薄く残る傷があった。事情を知らない彼には慰めの言葉をかけることも出来ない。だからといって、そう、などと軽く流す気にもなれなかった。どうしていいか分からず、碇はもう一度性懲りも無く彼女を抱きしめた。

「ダメだって」と言う彼女の声には、さっきほどの勢いは無かった。

「……あのさ、鈴谷」

「なに?」

「……そんなこと言われて、引き下がれるわけないじゃん」

「あはは、ごめんね」

碇の発した子供のような言葉に、彼女は笑った。自分で考えても、そうとう変な発言だったように思える。

けれども。

今、彼の目の前にいる女性は、あの時あの場所にいた女の子で、

自分が、彼女を恐らく絶望へ叩き込んだ張本人で、

あの時自分が助けられなかった少女に似ていて、

しかも、彼女は現に自分の前にいる。

『そんだけのフラグが立ってて食いつかない方がどうかしてるわよあんな可愛い娘に』

伊吹の言葉が今さら重みを増して碇の肩に掛かった。そうだ、これだけフラグが立ちまくっている状況で、引き下がれやしないのだ。

たとえその先にあるものが、ハッピーエンドではないとしても。

だから、碇は訊いた。

「おれのこと、嫌じゃないよね」

口に出してみると怖ろしく陳腐な言葉だった。思わず死にたくなる。ただ相手に同意を求めているだけの言葉に聞こえる。おそらくそうなのだろう、と碇は自分の頭を蹴り飛ばしたい気分になった。しかし、彼女は笑って答えた。

「そんな言い方されたら嫌って言えないじゃない」

「確かに。頭いい、鈴谷」

「アリスって呼んでよ。ばーかシンジ」

それっきりだった。

ばたん、という音と、グラスが倒れる音が部屋に響いた。そしてそれっきり、部屋から声が消えた。


碇が彼女に最後に言われた言葉の重みに気付き、渾身の力を込めて混乱するのはこの数時間後、彼女としてしまって少しまどろみ、酔いから醒めた後だった。

そして、やっと彼と彼女は、この物語のスタートラインに立つ。

first update: 20041218
last update: 20060103
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