彼女と彼女の出会いの少し後、彼と彼女の出会いの少し前の話だ。
ビジーの時間中、伊吹はただ腕時計を見つめていた。日付つきのアナログ腕時計だ。随分と時間が経ったような気がするが、まだあの墓参りの日から四日しか経っていない。
きっと彼と彼女は出発することになるだろう、と伊吹は思った。彼女と会ったときと同じ奇妙な確信だった。どこまでが希望的観測なのかは分からないし、全部都合のいい勘違いかもしれない。それに、もし彼らが出発しようとしなければ、きっと伊吹自身が尻を叩き、始まりを告げる銃を鳴らして彼らを走らせるだろう。
なんにしろ、そこまでは伊吹の管轄だ。しかし、もしも彼らが伊吹の思惑通り出発するとすれば(あるいは、出発させられるとすれば)そこから先は当の伊吹にも見当のつかないランニングの始まりだ。ともすればフルマラソンより長い距離を彼らはうまく走りきるかもしれないし、もっとずっと早く終わりになってしまうかもしれない。回りまわった挙句見当違いのところに到着するかもしれない。それこそ誰にも分からない。
伊吹にできるのは、時間を稼ぐことだけだ。例えどこかで彼らの旅路が終ったりしても、そして、結果たどり着いた場所が望んだところではないとしても――今度こそは彼ら自身で終わらせることができるように。
そこだけは外せない。
時計から顔を上げて数秒後、モニターに人影が写った。
伊吹は挨拶もなく「どれくらい、持ちそうですか」と画面の向こうに叩きつけた。冬の杉林のように冷たく乾いた声は、壊れた蛇口みたいに感情を垂れ流すような印象を与える普段の彼女のそれとは似ても似つかない。
伊吹の見るモニターの向こうには、腕組みをしたスーツの男の姿があった。それなりのスーツを着て、それなりのネクタイを締め、それなりの顔をしている、特徴のない男だ。
彼は鼻の頭を指で軽くこすりながら、「八ヶ月で限界だ」と答えた。
伊吹は顔色を変えず「十二ヶ月、持たせてください」と返した。
腕組みの男は顎に手を当てた。
「約束は出来ない。何しろ……」彼の言葉はそこで遮られた。
「何とかしてください。情報操作は得意でしょう? あなた方。何のために私があなた方を飼っていると思っているんですか」
伊吹がそう言い放つと、処理がフリーズしたように男の動きが止まった。そして彼女よりまるまる一回りは年上の彼は、いかにも苦々しそうな声で答えた。
「それを言われるとぐうの音も出んな。……善処しよう」
「期待しています」
その伊吹の言葉を最後に、通信は切れた。伊吹は黒くなった通信画面を閉じてモニターの電源を切った。
ほんの数分の会談のせいですっかり皺が寄った眉間を指でほぐしながら、伊吹は呟いた。
「嫌な女」
何にも分からず、答えも、答えへの道筋すら分からぬまま、それでも時間は経ち朝は来る。
東の空は星の瞬く真っ黒から濃い青のグラデーションへと変わってきていた。そんな空の色の変化を眺めつつ、碇はもう一度、頭に引っ掛かっている言葉を思い出した。酔いが醒め冷静になってからずっと、眠気を欲して考えることを拒否する脳を蹴り起こし、まどろみつつ何とか考えている言葉だ。
『ばーかシンジ』
何のことはない言葉だ。誰が言ったっておかしくはない。だが、その言葉は碇の耳の奥になかなか取れない耳垢のようにこびりつき、そのうち耳を塞ぎ、最後には何も聞こえなくした。寝息を立てている女の隣にいる碇に聞こえるのは、頭の中でリフレインするその言葉だけだった。
アスカ。アスカ……なのか? 彼女は。
あの言葉から短絡的に点灯した答え。
馬鹿げた話だった。根拠がたった一言の言葉というのでは、冗談にもならない。
しかし、誠に残念なことにそれは真実だった。唯一の救いは、現時点では、その疑念はまだ確信には至っていないということだ。
よくよく考えればおかしな話だった。第3新東京市にいたことがあると言い、サード・インパクトの話に肩を震わせ目に見えて蒼白になった彼女は、しかしその数時間前には、ドイツで惣流・アスカ・ラングレーを見送った話をしていた。なら、少なくともあの時には、彼女はドイツにいた。その後に日本へ? 馬鹿な。どこの世界に怪獣が攻めてくることが分かっている土地に向う者がいるのだ。それに、ネルフの関係者が集められていたはずのあの中学校には、アスカ以外にクォーターの生徒はいなかったはずだ。
もっと以前、そうも考えられなくはない。だが、もっと昔に第3新東京市にいたのだとしたら、それはいつだ? 大学なんて片手間に卒業できるものではないし、そもそも第3新東京市の機能が完成に至ったのは、使徒襲来以降のことだ。生活をするための機能の方も、その成立はそれほど前ではない。それに。サード・インパクトの時にいなかったのだとしたら、あの動揺の仕方は何だ?
考えれば考えるほど、どんどん怪しくなっていく。
何故伊吹は彼女をこの研究所に引き入れた?
彼女と伊吹には何のつながりがある?
彼女の知っている「シンジ」は、誰だ?
碇は隣で小さく肩を上下させている女の顔を見た。窓から明るみ出した空の見える部屋で、闇に沈んでいた女の姿が薄く浮かび上がる。
明るい茶色の髪、小さめの筋が通った鼻、細い顎の線……見れば見るほど彼の記憶にあるアスカに似ていた。成長すればこうなる、と言われれば十分に納得できる範囲の変化だった。
何から何までややこしい状況だった。アスカの身代わりに彼女を抱いたはずが、当のアスカ本人だったかもしれないとは、笑えない話だ。
碇はもう一度天井を見上げた。さっきは暗がりの中に見えたような気がしただけのしみは、今度は外の光に照らされてくっきりと見えていた。それを見ると、少しだけ落ち着いた気持ちになった。そうだ、何も無かった処に振って沸いた災難ではない。今まで暗闇に隠れてきたものが、光に照らされて見えるようになっただけのことだ。
何を焦ることがある、と碇は彼女が起きないように小声で呟いた。彼女がアスカではないにしろ――碇が変なことに引っ掛かっているだけで、その可能性の方がずっと大きい――あるいは、何かのウルトラCで、彼女がアスカであったとしても。
彼にできることは変わらない。何しろ、彼は彼女としてしまったのだし、今さら引き下がれやしない、というのは、つい六時間ほど前に自分で確認したことだ。
そう、彼は確認して、覚悟したはずだ。
たとえその先にあるものが、ハッピーエンドではないとしても、と。
碇は無言で頷くと、隣で眠る恋人を起こさないようにゆっくりとベッドから這い出た。
いいにおいがした。
アスカが目を覚ませば、彼女はシーツの中にひとりで、そこは知らない部屋だった。少し染みのある天井がまず目に入り、身体を起こしてみると、見慣れない間取りの部屋と、見慣れない窓が視界に入った。
理解不能だった。
「あれ……?」
視線を下に移し、シーツをめくってみれば、真っ裸だった。しかも血がついている。
「あ!? ……痛……」
アスカは自分の声で呼び起こされた二日酔いの痛みと共に、事の顛末を思い出していた。昨日のことだ。彼女は同僚の六分儀と飲み、彼の部屋に上がって、その結果が……
「こ、れ?」
痛い。痛すぎる。知り合ったばかりの男の部屋に酔っぱらって上がりこんで、おまけに、関係を持ってしまうなんていうのは、そうとう痛い。いつから自分の尻はこんなに軽くなってしまったのか。
アスカは頭を抱えた。がくん、と頭を垂れると、首の上、後頭部の奥の方でずっしりと重いものが動く感触がした。
状況が状況だから、ますます始末が悪かった。例えば酔いつぶれたところを持ち帰られた、と言うのならまだ文句の言いようはある。最低、と彼を罵ってもいいかもしれない。しかしこの状況では、自分から誘ったと取られても文句は言えない。というかそれ以外に言いようがない。彼がそんな気持ちでいるのを分かっていて、それでもここにいつづけるというのは彼女が決めたことだったからだ。
そして実際のところ、怒る気になるか、と言われれば、ならないのだ。
まるっきりなりゆきのことにも関わらず、彼はとても優しかったように思う。それこそ拍子抜けするくらいに優しかった。酔った勢いで「犯ってしまう」という感じではなく、自分の知らないものをゆっくりと調べて確かめるように彼女に触った。
ありていに言えば、良かった、という話だった。この歳になって頬を染めて語る気にはなれないが、とりあえず、彼は今まで彼女が付き合った少なくない(もちろん、彼女はそういうことについては割と堅い方だったし、こんな状況になるのは本当に始めてのことだったが)人数の中では一番注意深く、一番優しかった。それに……
「悪いのは、やっぱり私、だよね」
昨日、押し倒される、もとい、押し倒した時、彼女は彼を「シンジ」と呼んだ。それはやはり、昔の知り合いの身代わりに彼に抱かれたと、そういうことなのだろう。あの時、抱きしめて貰えなかった代わりに。
頭がこんがらがってきそうだった。昨日に戻ることができれば私は私を止めるだろうか、そう考えたが、答えは出なかった。
「起きた?」
声のする方を振り向いてみれば、そこにはシンジ――自分の昔の知り合いではないシンジがいた。Tシャツに、ソフトジーンズを穿いている。おまけに腰にエプロンを巻いていた。
「あ? ああ、お、はよう」
自然とどもってしまう。
してしまった次の朝だと言うのに、何だかその立ち居振る舞いはよそよそしいというか、控えめというか、彼女に対してほんの少し距離を取るような感じだった。完璧にはできていなかったが、それはまるで「昨日のことなど何でもない」というような雰囲気で、恐らく恋人にやられれば悲しくなってしまうだろうが、少し動転していたアスカにはかえって助かった。
少なくとも、変に馴れ馴れしくされるのよりはずっと良かった。
「おはよう。えーと……ご飯、できてるけど、食べる? それと、風呂も沸かしてあるけど、一応」
「ありがと。……うーん。まるで主夫ね」
そう言うと、アスカは碇を指差して小さく笑った。碇のつけているエプロンがあまりに様になっていたからだった。
「お褒めに預かり光栄」
「それ、自分で言ってて恥ずかしいでしょ」
「まあ、ね」
その言葉を聞くと、アスカはまた笑い、裸の肩をさすって言った。
「あの、起きるから、向こう向いてて」
「あ、う、うん」
今度は碇の方がどもりながらそう答えると、ドアの外を向いた。焦って振り向いたために途中にドアの枠で小指をぶつけた。
アスカはうずくまって悶絶する彼が自分の方を向いていないことを確認すると、苦笑しながらベッドの横に畳まれていたトレーニングウェアの上下を着た。
ベッドに腰掛けて、声を掛けた。
「はい、もういいよ。大丈夫?」
その言葉に、碇は背中を向けながら答えた。「大丈夫、だと思うよ」
「それは良かったわね」とアスカは努めて平然と言い返した。
「連れないなあ」
「釣ったじゃない、私を」
アスカが言い返すと、碇は「む」と唸って立ち上がり、アスカの方を向いた。目がやや真剣な光を帯びてきていた。
「あの……なんていうか、昨日のこと、怒ってる?」
「別に」アスカは即答した。
彼女の素っ気ない言葉に碇は頭をかき「やっぱり怒ってない?」と訊いた。
「……怒ろうと思った。けど、よく考えたら人のこと言えたギリじゃないことに気付いた」
「義理?」と碇は訊き返した。
「立場、かな。シ……六分儀くん、優しかったし。ここに上がりこんだの、私だし。私、六分儀くんのこと、嫌いじゃない気がするし」
「嫌いじゃない、はいいな。会って数日で、好き、ってのも怪しいし」
「そうそう。で、ね? 六分儀くん」
そう言うと、アスカは黙って、おいでおいでの仕草をして碇を呼び寄せた。碇は眉を寄せ、小さく首をかしげてそろそろとアスカに近寄った。スリッパの音がぱた、ぱた、と断続的に鳴る。
碇がベッドに辿りつくと、アスカは碇の耳元に口を当てた。
「あのさ」
「はい?」
「勘違いされると困るから言うけど。誰にでもこういうことやるわけじゃ、ないからね」
その言葉を聞くと、碇は呆れた顔をしてアスカに言った。
「分かってるよ、そんなの」
「何でわかるの?」
「誰とでもする人は」そう言うと、碇はベッドに乗り上げ、アスカを見た。「した次の朝に叫びながら頭は抱えないんじゃないかと思う」
アスカの顔がさっと赤くなった。しかし、その手が動く前に碇は彼女の腕ごと身体を抱き、背中に手を回した。
彼女は胸の前で腕を畳んだまま彼に抱かれる恰好になった。
碇は間近で彼女の顔を見た。思えば、眼鏡を掛けていない彼女を間近で見るのは初めてだった。眼鏡を外したその顔を明るい部屋で見てみれば、やはり、アスカの顔だと思えた。"彼女は死んだ" その先入観を外せば、もう間違いようは無かった。
碇は腕の力を強めた。
「大丈夫。おれも変わらないしね。……えっと、その、抱いたままで恐縮なんだけど、お付き合いしませんか? ぼくと」
アスカはぶっ、と吹き出すと、肩を震わせてしばらく笑った。振動が腕を通って碇にも伝わり、碇も笑った。
そして、笑い終わって深呼吸をすると、アスカは柔らかい口調で答えた。
「うん、いいよ」
言い終わると、アスカは碇の肩に頭を乗せた。額が肩に触れ、自分のものとは違う臭いが鼻に入り込んでくる。
彼は彼女の頭を抱いて、同じように自分のものとは違う香りを感じながら「ありがとう」と言った。
そのときの彼の目は、アスカには見えなかった。
進化研究所という施設は怖ろしく微妙なバランスの上に位置している。位置づけとしてはゲヒルンからネルフ技術部への流れの上にある施設であり、運営資金の30%強を日本政府の支出、50%を国連の予算、20%弱を民間の企業からの投資がまかなっている。このことだけでも、この施設がそれ相応にややこしい位置にあることは分かろうというものだ。
そのようなややこしさに加え、この施設の研究成果が世界各地の研究施設、軍事関連企業、医療メーカー、などなどの注目の的であることがややこしさに拍車を掛けている。というより、そういう技術を持つからこそ、微妙なバランスの上に立たざるを得ないというのが実際のところである。何しろ、本来のこの施設の研究は世界の研究の流れを二十年は追い越しているのだ。この十年でかなりの成果を段階的に放出したとは言え、それでも使徒の研究によって培われた生体技術、S2理論の応用技術、有機コンピュータ技術、などなどの技術に関して今だその大部分を秘匿し続けている。
技術面で彼らに比類する組織は世界にただのひとつたりとも存在しない。そんな組織の存在はそれ自体が脅威だ。仮にこの研究所が一組織の下につくことになれば、それは即ち世界のパワーバランスが大きく傾いてしまうことを意味する。
上手く立ち回っているうちはそれでいい。しかし、ほんの少しでもバランスが狂ってしまえば、スポンサーであったはずの組織が敵に回りかねない。ほんとうの意味では、彼らの味方はどこにもいない。
そんな荒海を行く帆船のように微妙なバランスの大部分をコントロールしているのは、他ならぬ伊吹である。今のところ表立っては動かないが、この組織を巡るほとんどの政治的な動きに彼女は関わっていた。人間は生きるためには必死に立ち回るものだ。たとえそれが自分の専門外のことであっても。
そして残念なことに、彼女は有能だった。
伊吹は頭を横倒し、枕元にある腕時計を見た。サード・インパクトから九年と十二日。帆船の舵を取るべき女は、今は病院のベッドの上にいた。
「八日、か……」
「ん?」と隣で椅子に掛けたまま寝ていた夫が声を発した。
「え? ああ、いいの、何でもない。おはよう」
伊吹はそう答えると、彼の方を向いて笑みを浮かべた。多少疲れの残る、しかし昨日よりはかなりましになった顔が差し込む朝日にやわらかく照らされていた。彼はその笑みを見て息を吐くと、挨拶を返した。
「おはよう。どう? 気分は」
「うん、だいぶ良くなった。……昨日、あのまま寝ちゃったんだ」
伊吹は身体を起こしつつ言った。すぐに背中に手が回り、支えられる。ゆっくりと身体を起こしきると、彼女は言葉を続けた。
「もう朝か。ってことは、休ませちゃったのね、仕事。ごめんね」
その言葉に、彼は首を振った。
「いいのいいの、たまにはこういうのも、いいと思う。子供抜きで一緒にいられるし。まあ、病気じゃなかったらもっと良かったんだけど」
「ずっといてくれてたの?」
「いや、着替えだけ、しに帰った。で、それ以降はいたよ。結構、動揺してたもんでさ、病院の人の同情票を集めちゃって」と冗談めかしに言って、彼は脚を開き、脚の間、自分の座っている椅子に両手をついて身体を揺らした。まるで子供の仕草だったが、伊吹には彼がわざとそういうことをしているのが分かった。そういう配慮がすとんと出るのが彼だった。「で、こうやって椅子まで用意して貰ったってわけ」
「そう。んー、意外ともてるもんな、ウチの旦那さまは」伊吹はわざとらしく口を尖らせた。
彼は「くさるなよ」と伊吹を鼻で笑うと、顔から笑みを消して「見たよ、シンジ君と、横にいる彼女」と言った。
「悩んでる原因、だろ? あの子は、確か」彼がその先を言おうとすると、伊吹は慌てて彼の口に手を当てた。
「……ここには目も耳も無いわよね?」
「あったらこんな話するかよ。腐っても元情報技術系兵員だよ、俺。……あの子は『赤』のパイロットの、セカンドだった」
『赤』。聞きなれぬ呼び名に伊吹は少々眉に皺を寄せて嘆息した。『赤』『紫』『青』。それはかつて、戦略自衛隊の人間、特にエヴァの正式呼称も知らされていない階級の人々が、エヴァを識別する時に使っていた俗称だった。
「赤いのは、弐号機よ」
「そっか。そうだったな。うん」
そう言うと、ヤマトは手を椅子からどけて、頭の後ろに組んだ。口をぼけっと開けて、うーん、と唸った後で、感慨深そうに彼は呟いた。
「あんな子が乗ってたんだな、アレに」
「アスカは――」伊吹が言葉を言い終わる前に、彼が話し始めた。「分かってる。あれはあの子のせいじゃない。俺たちのせいだよ、あれは。先に撃ったのも、こっち側だったしな。それに――」
そこで言葉を切った彼は、組んだ手を上に伸ばして伸びをすると椅子から立ち上がり、窓際に歩き寄った。ブラインドを少し上げると、外の景色が見えた。
あの日と同じ、よく晴れた夏の空だった。彼は目を細め、大きくなりそうな雲を眺めた。
「俺たちみたいな、日重やらそこらの関係企業から出向してきた職員に撤退命令が出たのは『紫』が外に出るよりもずっと前だった」
彼は窓に背を向け、伊吹の方を振り返った。彼が昔のことを自分から語るのを聞くのは本当に久しぶりだった。彼はいつも、この類の話はなるべく避けるようにしているのだ。
「そんでもって、俺たちはあの月の末には、元の企業に戻ることが決まってた――俺たちだけが引いて、列をなして来たウチのじゃないあの黒い爆撃機とすれ違ったときに、分かったよ。全部、端っから計算済みだったんだと思う。ネルフを潰して、手に負えなくなってきた戦自を解体する口実を作るための。あれの前に、戦自の予算が段階的に縮小されてたの、知ってる? 関連企業から出向職員を募集したのは、そうしなきゃならないくらいに人が減ってたからさ。おいしい汁を吸ったのは、あの件のおかげで国連での発言力をさらに拡大したこの国の政府だけだよ、多分ね」
長い長い独白が終わると、伊吹は囁くような声で、ぽつりと訊いた
「……それが分かったから、あの時、私を助けに来てくれたの?」
「かも、しれない。年甲斐もなくムカついたんだ、色んなことに。サラリーマンサラリーマンしながら安穏と戦争やってた自分とか、多分全部分かってて何も言わなかった司令部の奴らとか、これで旧東京と同じ二十年封鎖コースだーとか平然と言ってた隣の奴とか、普通に虐殺やってた現地部隊とか、熱で吹っ飛ぶときに冷静に死んでった奴らとか、そういうのが、全部。まあ、そう思って次に気がついたのは、全部終わった後だったけどね。で、うろうろしてたら、マヤを見つけた。多分一回死んだよなー、あれ。あー……そういうことは、マヤのが詳しいんだろ?」
淡々と言ってのける顔には、悔しさではなく、残念そうな表情だけが浮かんでいた。伊吹は頷きながら、自分が消える寸前、幻になって現れた赤木に抱きしめられたことを思い出していた。けれども、あのとき現れた彼女が自分の端末に何を打ち込んだのかは、どうしても思い出すことができなかった。
再びの独白を終えて、彼はふうう、と大きく息を吐いた。
「これで昔話は、おしまい。あー、朝から生臭いったらないなあ。……なあ」
「ん?」と伊吹が聞き返すと、彼は頬を書いてぼそぼそと、途切れ途切れに言葉をつなげた。
「うまく言えんけど、あの日、さ。あの日、何でだか、あの場所から帰ってきた人にはさ、何かしら、役目? そういうのがある気が、するんだ。俺も、君も。それって、もしかしたら、あの子たちなんじゃないかな」
少しの沈黙。伊吹は下唇を軽く噛み、泣き笑いの顔で目の前にいる自分の一番の理解者を見た。
「私も、そう思う」
「だからな」
そう言うなり彼は伊吹の肩をがっちりと掴み、彼女の目を見つめた。精悍ではないが誠実そうな顔が彼女の瞳に映った。
「お前が独りで背負う必要なんか何にもないんだよ、マヤ。お前ひとりが悪いわけない。誰も正しくなんかない。ただ……正しいことをしようって思って何かするしか、できないよ、俺たちみたいな凡人には。なぁ、だから、だからさあ、頼む、もっと俺を頼ってよ。俺は子供二人作って、場合によっちゃ三人目だって歓迎なくらいお前のこと愛してるんだから。………………うわ、くさっ」
真面目な言葉と、余計な一言を言い終わると、彼は顔をくしゃっと歪ませ、鼻と眉に大きく皺を寄せてから自分の額を叩いた。
ぺち、と情けない音が鳴る。
真面目なことを言うのに耐えられずに最後に茶化してしまうのは、彼の悪い癖だ。
伊吹は黙ってうなだれたまま、片手で彼のほっぺたをつまみ、思い切り横に引っ張った。あまり並びの良くない歯が姿を現した。
「痛たたたたた、いた。おい、お前自分の歳考えろバカ、痛い、痛いって」
そう言いつつも、彼はその手を振りほどこうとはしなかった。伊吹は無言でさらに力を込める。
「ごめんね」
聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声に答えた。
「うん」
「ごめんなさい」
「うん」
「ごめ……な……さ……ぃ」
後は言葉になっていなかった。頬をつまんでいた手が力なく布団の上に落ちると、伊吹は決壊した川のように泣きじゃくりだした。彼女はまさしくわんわん泣いた。彼は、彼女の後ろ頭に手を当てた。長い髪が手に絡まり、さらさらと流れる。彼女が落ち着き、ごめんなさいの代わりに、ありがとう、と言えるようになるまで、彼は彼女の隣に座り、子供をあやすように背中をさすってやった。
夫の出勤に合わせて、午後から伊吹は出所した。もっとも、彼はせめて一日は休むべきだと強弁したのだから、出勤に合わせて、という表現は不適かもしれない。
伊吹を出迎えたのは、碇だった。その隣にはアスカがいた。
「もう、大丈夫なんですか?」
「休んでいなくていいんですか?」
口々に言う。伊吹は目をしばたたいて二人を見た。昨日見た時は親密なのか疎遠なのかはっきりしなかった二人の関係は、今日ははっきりと親密の方に振れているように思われた。
「大丈夫、もう、大丈夫よ。……で? 何で二人もお出迎えに来てくれてるの?」
「いや、何ていうか、その」
碇は口ごもった。そんな彼の後ろから「仕事にならないのよね? シンジ君?」という声が掛かった。伊吹が肩越しに覗き込めば、出入り口の後ろに、書類を持った女性職員がいた。伊吹より少し年上の古株である。
「どういうこと?」
「同伴出勤。朝からこの話題で持ちきりなんですよ。この子たち、誤魔化しゃいいのに、変に赤くなったりするからもうバレバレなんです」
女性職員は書類を抱えたまま、けたけたと笑った。クリップで留められた書類がかさかさと音をたてた。
「あのー、この歳になって、この子、っての、止めませんか……?」
「あんたみたいな恋愛ド素人、子で十分よ。鈴谷ちゃん、いいの? 何でまたこの子に引っ掛かっちゃったのよ。確かに見た目はしゅっとしてるけどさ」
話を振られたアスカは、人差し指を顎に当てるわざとらしい「考える振り」のポーズを作って、首まで傾げつつ答えた。
「はあ……なんというか、なりゆき……?」
その言葉に「ちょっとちょっと、それは言わないでって」と碇が慌てて声を掛けた。
「あ、ごめん、ごめん」
二人の仕草はそのまま、平和そうなカップルのそれだった。
「えーと」伊吹は言葉を切った。「とりあえず、続きは部屋で聞きましょうか。やり手のシンジ君?」
執務室。その言葉にが出た時、碇は少しだけ身を硬くし、目を閉じた。それは一瞬の変化で、彼の隣で伊吹を見ていたアスカや、その後ろにいた女性職員は気付かない程度の動きだった。
「ええ。そうしましょう、副所長」
さっきまでののほほんとした口調を堅いものに変えてそう言うと、碇は伊吹の持っていた鞄を預かり、つかつかと歩き出した。伊吹は少々面食らいながら彼を追い、その場にはアスカと女性職員の二人だけが残された。
「何? あれ」と女性職員がぽかんと呟いた。
「さあ? 怒らせた、かな?」
二人が執務室に入ると、碇は鍵を閉め、ブラインドを下ろした。これで執務室での会話は外に漏れることはない。
廊下を歩くうち碇の尋常ではない様子とその理由を察した伊吹は、しかし特に焦ることもなく、黙したまま自分の椅子にかけた。
「さあ、話を聞かせて貰いましょうか、シンジ君?」
明かりもついていない部屋の中、多少芝居がかった伊吹の調子に、碇は一瞬歯軋りしてから答えた。
「彼女は――」そう言ったっきり二の句を告げられなくなった碇に、伊吹はぽん、と言葉を投げた。「そ、アスカよ。惣流・アスカ・ラングレー。やっと気付いたのね」
伊吹の端的な言葉に、碇は目を剥いた。一方伊吹は、言葉を投げたきり目を閉じ、顔に笑みを浮かべた。
ドン。机に手をついた碇は軽く怒鳴った。高そうなペン立てが床に落ち、カツンという音と共にペンを撒き散らして転がる。
「なんで!」
「さあ? ドイツ当局が隠してたのよ、彼女のことを。十年……まあ、ほとぼりを冷ますには十分だったのかもしれない。使徒戦のことは私たちの尽力でうまいことうやむやになったし、ね」
言い終わると彼女は瞼を開き、挑戦的な瞳で碇を睨みつけた。そうしなければ、何も話せなくなりそうだったからだ。伊吹は今まで一度もしたことがないほど尊大な態度に出ながら、その心中では、大丈夫、大丈夫、と念仏のように唱え続けていた。
大丈夫、大丈夫、うまくやれる。何とか、出発させてみせる。
「ねえ、シンジ君。彼女を、どう思う?」
「感じが変わってました。色々と。……寝るまで気付かなかった」
寝る、という言葉を使った碇は、自嘲的に笑った。
「いつもの通りの鈍い御意見、ありがとう」
自分のことを言いつくろわない軽口に碇は意気を削がれ、苦笑しながら言い返した。
「彼女には、鋭い、って言われたんですけどね」
「そりゃあ、あの子は君が自分が知ってる『シンジ』だって知らないもん。言って、ないんでしょう?」
「言ってたら」碇は少し間を置いて、言葉を続けた。「あんな風に一緒には、いれないですよ」
「だろうね。……ねえ、シンジ君」
「何ですか?」
「……いいの?」
何故、今さらそんなことを訊くのだ、と碇は思った。彼女をここに引き込んだのは、他ならぬ伊吹なのに。
「初めからそのつもりで彼女を連れてきたんでしょう?」
「ええ。そうね」
碇は目を細め、笑い顔を無理やり搾り出した。その口調を努めて冷たくしていたが、彼女が自分のしていることに苦しんでいることが解かった。責めることは、できなかった。
ずるい、と碇は小さく口走り、それを打ち消すために皮肉を言った。
「その言い方、まるでリツコさんみたいだ。先輩が先輩なら、後輩も後輩ですね」
「お褒めに預かり光栄ね」
伊吹の答えを聞いて、碇ははっとした。そうか、おれは彼女の後輩だった。先輩が先輩なら、後輩も後輩だ。
「ねえ、私を恨む?」
「……正直、分かんないです。でも、おれは、彼女といなきゃいけない。そうしないと、いけない、ですよね」
伊吹は何も言えなかった。何かが歪んでいる。さっきのほのぼのとした彼と、この、義務感に満ちた彼。歪んで、二つに引き裂かれている。そして、引き裂いたのは伊吹だった。あるいは、と伊吹は考えた。二人が全く関係のない他人として出会えたなら、もっと彼らは自然に付き合うことが出来たのだろうか。
しかし、それはあくまでも、もしも、だった。現実に彼らはここで、再会という形で出会った。それは変えることはできない事実だ。
「柄じゃないですけど、うまくやってみせますよ、最高の彼氏。それくらいされないと、割に合わないですから、アスカは。もう十分、苦しんだでしょう。……もう、十分だ」
それは、あなたもよ、シンジ君。喉元まで言葉が出かかった。だが、彼をこの状況に放り込んだ伊吹にその言葉をいう資格はなかった。
碇はその言葉を最後に部屋を出た。静かに扉が閉まり、薄暗い部屋に伊吹ひとりが残された。この機会がタイムリミット付きであろうことは、ついにこの時には言い出せなかった。そして――目的を達成したものの、伊吹は自分が何か重要なステップを踏み外したような気がしてならなかった。
「……六分儀くん!」
ぼうっとしているところに肩を叩かれ、碇はびくりと肩を震わせた。
「うわ、え、あ、何?」
「何、声掛けてたのに全然聞いてなかったの? あの、もしかして怒ってる? さっきの」
その声色からはさっきの勢いがなりを潜め、替わりにおどおどとした不安げな口調が顔を出していた。碇は目を丸くすると、ああ! と大声で納得し、首を振って笑った。
「全然。そう見えた? ごめん。なんでもないから」
「そう? なら、いいけど」
そんな風に力技で納得すると、アスカは少しだけ無理をして笑った。碇は微かなため息を吐いて、彼女の中にいまだ残っているらしい怖れの所在を確認した。
「うん。……あ、そうだ、アリス」
「何?」とアスカは言った。縋るような声に聞こえたのは、彼の欺瞞か。
「おれのことも、シンジって呼んでよ。苗字で呼ばれるの、あまり好きじゃないんだ」
こうして、それぞれがそれぞれに嘘を吐いたままで、彼らは長い長い道のりを歩き始めた。その先に何があるのかは誰にも分からなかった。