- The rest stories of "Project Eva" #01.5(f) -

"死者は死者の道を"

24

自分の人生の中で、この一年は間違いなく最も幸せな期間だっただろうとアスカは思う。これから今までの人生よりずっと長い時間を生きたとしても、これほど幸せな一年は過ごせないかもしれない。それくらい、この一年は予想外の喜びそのものだった。

今までちゃんとしたステップを踏んで付き合った人とだってことごとくうまく行かなくなったのに(おおかたの人は、彼女の闇と抱えている傷が深すぎることに着いて行けなかった)ちゃんと話せるようになってからたった一日、勢いで最後まで行ってしまった相手とこんなにも長く付き合うことになるなんて、本当に、世の中と言うのは変なものだ。

本当に、不思議でたまらない。

そんな疑問に捉われるとき、もしかして、とアスカは考える。これは、あの日墓場で見つけた昔のあたしのお陰かもしれない。あそこで自分の人生は決定的に変わったのかもしれない、と。思えば、彼の前では以前よりずっと自然に話せている気がする。それは彼の人柄がとても優しいことももちろんあるけれど、自分の側の変化だってきっと影響しているはずだ、と思う。

だから、アスカはいつもよりちょっと乱暴な調子で彼を呼んだ。


シンジは玄関に響くよく通る声を聞いた。

「シンジ! 置いてくよ!」

少し高めの声が、狭いが明るいリビングに響く。心持ち強めの声。

「はいはい! ごめんもうちょい待って!」

シンジは慌てて答えると、手に持っていた眉切り用の鋏を洗面台の見開きに戻した。

見開きを閉じると、洗面台の鏡に映った自分の姿が見えた。そこには一年前とあまり代わり映えしない顔が映っていた。

たったひとつ、短めの不精髭が顎の周りを覆っていることを除いては。

彼女と付き合いだしてからシンジは顎髭を伸ばしていた。最後に髭を完全に剃ったのはちょうど一年ほど前、サード・インパクトの日だ。柔らかみのあるな印象を与えるその顔も、これだけ髭を蓄えていればかなり男っぽく見える。人差し指と親指で顎を撫でてみれば、ごわごわとした髭が指に当たった。

最終確認のために顔を上げると、三面鏡の中にはかつての父親に良く似た男がいた。

「『問題ない』……わけ、ないか」

声を低めに抑えて真似をしてみれば、思わず鏡をぶん殴りたくなるくらいに父親に似ていた。これでサングラスでも掛ければ、本気で生き写しのようになってしまうかもしれない。気分は最悪だが、あの男の血のお陰で顔の印象を(髭を伸ばせば昔の彼の顔が容易にはわからないくらいには)変えることができたことには、感謝していた。

シンジ――碇という名を使っていた昔の自分を今度こそきれいさっぱり捨て去ろうと決心した男は、かつての彼の父親は決して見せることはなかった笑みを浮かべて洗面所を後にした。

こんなとき、ふと、実は自分はあの頃に逆戻りしてしまったのかもしれないと思う。立ち直り、開き直れた、と思ったのに、彼女に出会った途端に昔の内罰的なガキに逆戻りしてしまった。

だが、そんなことは今さら問題にもなりはしない。重要なのは、自分が前に進むことではなく、彼女を前に進ませてやることだ。生者は生者の道を、死者は死者の道を行くべきだ、とシンジは思う。十分に苦しみを受けた彼女が歩くべきなのは生者の道、彼女を苦しめた自分が歩くべきなのは死者の道だろう。

玄関に着いてみると、腕組みをしたアスカが待ち構えていた。つま先は落ち着きない感じでコツコツと床を叩いている。薄黄色の生地の薄い長袖シャツをまくり上げ、それに合わせた長めのスカートをはき、少し短めになった髪をあの頃のように後ろ頭でふたつにまとめている。一年前と変わらない飾り気のない服装。

だが、目元だけが一面前と違った。今のアスカは眼鏡を掛けていない。少し前から伊吹に倣い、コンタクトレンズをつけ始めていた。そのせいで、今でははっきりと、顔に残った少女の面影を見て取ることができた。

シンジの目に、その姿が十年前の――いや、正確にはもう十一年前になる――挑戦的な目をした女の子と重なった。

「ごめん、ごめん」

「ごめんは一回でいいの。……忘れ物とかない? 折角の日曜に忘れ物じゃ浮かばれないよ?」

「大丈夫、ない、な」そこまで言って、シンジは口をつぐんだ。目の前にいるアスカの目が軽く据わったのが分かったからだ。

いい傾向だ、とシンジは思った。彼女がこんな風に自然に怒れるようになったのも、つい最近のことだ。

「返事も一回」

「はい、分かりましたごめんなさい」

シンジが答えると、アスカはその表情を崩した。

「はい、よくできました。馬鹿やってないで、早く行こう」

「うん」

彼としてはその後に『あんた馬鹿?』の声が聞きたいところではあったが、贅沢は言えまい。彼女は――彼女だけは、あの頃に囚われず、ちゃんと生きる者の道に出発するべきなのだ。

もう少しで一年。――そろそろ、潮時だ。

そう思いながら、シンジは玄関の鍵を閉めた。

25

伊吹は書斎の椅子にかけて、壁に掛かったカレンダーを見ていた。近くのスーパーで貰った写真つきのカレンダーには、赤いペンで二つ、印がついていた。

彼女が来てもうすぐ一年になる。サード・インパクトから十年を刻む日も、近い。


チトセはぼうっと壁のほうを向いてカレンダーを見ているお母さんに声をかけることにした。お父さんに「お母さんを呼んできて」と頼まれていたし、カレンダーを見ている姿が、なんだか辛そうに見えたからだ。

「おかあさん?」

チトセが呼ぶと、お母さんはチトセの方を向いた。目が少し怖かった。

けれども、返事をする声は、いつものお母さんだった。

「チトセ? どうしたの?」

「? おとうさんが呼んできて、って。車出す準備できたよ。買い物行くんでしょ?」


「買い物」という言葉が伊吹の中に染み渡るにはしばらく時間がかかった。

チトセのお母さんであるところの伊吹は、その言葉を聞いてやっと、自分が書斎に来た理由を思い出した。彼女は買い物の出掛けになってパソコンの電源を切り忘れていたことに気付き、夫が車を出す準備をする間に電源を落としにきたのだ。

「あっ。ごめん、お母さんぼーっとしてたや。もうチトセもあーくんも準備できてる?」

あーくん。伊吹の息子でありチトセの弟であるアマギのことである。

「あーならもう車乗ってるよ。おとうさんも乗ってる」

「そっか、ならお母さん鍵閉めて出るから、先に行ってて」

「うん……ちゃんと来てね?」

少し不安げに言ったチトセに、伊吹は笑って答えた。

「何言ってんの! すぐ行くよ!」

チトセがぺたぺたと足音を立てて行ってしまってから、伊吹はのろのろと立ち上がってパソコンの電源ボタンを押した。たったこれだけのために何分使ったのだろう。

電源が落ちると、モニターに自分の顔が映った。さっきチトセは彼女の顔を見て不安そうな顔をしていた。母親の様子から何か不穏なものを感じ取っているのかもしれない。そう思うと、伊吹は力士がするように、両手で自分の頬を、両側からぱちぱちと軽く叩いた。

部屋を出る直前、一瞬だけカレンダーの方に視線を向けた。後二日で、十回目のサード・インパクト記念日、そして、その一週間後が、彼と彼女が出会った日だ。

「あと、ちょっとか」

伊吹は呟き終わると母親の顔に戻って書斎を後にし、夫と子供たちの待つ玄関へと向った。

26

車は海岸沿いを走る。窓を開けると強い風が吹き込んできた。

旧第3新東京市周辺都市群、即ち箱根の北西部から旧神奈川にかけては海の街だ。

セカンド・インパクトを契機とする一連の地殻変動で海抜の低い市街地が沈み、おまけに第3新東京市自体も沈んで芦ノ湖とひとつなってしまったせいで、海沿いの県である神奈川県は面積も人口もずっと少なくなった。人口の方は第3新東京市周辺都市群が発展したおかげで回復の兆しを見せてはいるが、土地のほうはどうにもならない。

箱根の東北側からしばらく下れば、ちょうど昔に荻窪と呼ばれていたあたりから向こうが海になっていて、その沖に第3新東京国際空港がある。空港の下には、ターミナル駅として市街地が栄えていた旧小田原駅と、それに連なる幾つかの路線が沈んでいる。相模湾を南に下らずもっと東に行けば、旧大磯や平塚の沈んだ街々も見ることができる。

あらかたのものが朽ちて、そうできるものは既に全て流れ去った静かな海。

今日みたいに天気のいい日なら、その水面下にうっすらと沈んだ街の面影が見える。

「沈んだ街、か」

シンジが小さく呟いた言葉は、隣でアスカが出した大声にかき消された。

「わあ! よく晴れたねぇ。昨日はあんな曇ってたのに」

言いながら、アスカは窓から手を出した。強い風が手を叩く。海側ではないシンジの座る側の窓からでも、十分潮の香りは入ってきた。

「そうだね。雨になったらどうしようかと思ったけど」と答えながらシンジは片手でハンドルを握り、アスカに火を点けてもらった煙草を咥えた。

煙草を持つ手を外に出すと、湿っぽい海沿いの風が当たった。


アスカは窓の外に出していた手を引っ込めてシンジの顔をちらりと盗み見た。

車を運転しているシンジの表情は好きだ。普段は「温厚」の方に針が振り切れてしまっているような彼だが、車を運転するときは表情がくるくると変わる。優しい表情になったり、慌てたり、たまに怒ったりする。そういう表情を見るのが、アスカは好きだった。

「でも、意外だよね。ここに来て一年なるのにまだ温泉行ったことないなんて」

「あんまりにも近いとね、かえって行かないもんだよ。東京人が東京タワーに行かないとか、大阪人が通天閣に行かないとか」

シンジの言葉に、アスカが苦笑いをしつつもすげなく突っ込んだ。

「どっちも沈んでるじゃない。でも、確かにね、ここまで近いと逆に……で、今日はその先例を打破するために、この辺を一回りドライブしてゆっくり温泉に浸かろうってわけ?」

「ご名答。いや、ご名湯?」と言ってシンジはわざとらしく片眉を上げた。表情が崩れる。

「うわ、解っかり難いボケね。私が漢字ダメだったら意味不明だったところよ」

シンジは今思い出したような調子で大げさに答えた。

「あ、そっか、忘れてた。日本語ネイティブじゃないのか。君、馴染みすぎ」

「それって誉め言葉?」

「当然。おれの言うことにいちいち突っ込むとこなんか、既に大阪人の域に達している」

「大阪人って言われてもなぁ。私大阪人なんか、ひとりしか知らないし」

アスカがぽろりとこぼした言葉に、シンジの頬がぴくりと動いた。彼女はくす、と笑うと彼の次の言葉を待った。

「……どんな人?」とやや元気のない声でシンジは言った。

「え? あー、昔の知り合いよ。何よ、こわばっちゃって。別に何でもないよ」

アスカは少ししまったと思いながら、顔の前でひらひらと手を振り口の端を歪めて笑った。シンジは表情を崩して答える。

「だよね、いやー、美人を彼女に持つと気になっちゃって……そっか、昔か」

「そうだよ、昔だよ」

刺激したくない。そう思って、アスカは口を閉じ、窓の外を見る振りをした。


ちょっとばつが悪そうに視線を逸らしたアスカを見て、しまったと思ったが後の祭りだった。

何でもなくはなかった。彼女の言う男は、恐らくはシンジの親友だった男だった。親友であり、自分が握りつぶした男だ。彼は、自分を握りつぶしたおれのことを今でも恨んでいるだろうか? などと、数年間思い出しもしなかったくせに考えてみる。

シンジは煙草を消すついでにオーディオをつけた。それと同時に、ふと車内に沈黙が降りた。


静かになった車内で、アスカはシンジの方を見ていた。その焦点はどちらかと言えば、窓の外の景色より彼のほうに合っている。

アスカにはこの一年で幾つか分かったことがあった。

まず、この男は怖ろしく優しい。優しすぎる。本来は気がきつい方だと自覚しているアスカが、かなりのところまで素の感情をさらけ出しても、引いたりしない。それは彼が1年前までの彼女を知らないから、かもしれない。もちろんそれもあるだろう。一年前までの彼女を知るドイツの友人たちならば、彼女の変わりように度肝を抜かれるはずだ。だが、それにしたって彼は優しい。文字通り何を言っても受け止めてくれる男だった。

だから、アスカは彼にはかなり(弱みを握られたくないのであまり言わないが)感謝していた。

朝、玄関で考えたことをアスカは思い出していた。彼女の変化。あの日見つけたあの頃のアスカと、見つけるまでのアスカ、それから、今のアスカ。それらは少しずつ違う。そして、その変化は、彼がいたからこそうまく行ったのだ、と思えた。まるで新しい種類の生物を育てる無菌室のように彼が接してくれたからこそ、彼女はちゃんとあの日見つけた少女を取り戻すことができた。そうでなければ、羽化の途中に羽をいじくられた蛾みたいに、またいびつに歪んだまま生きるところだったかもしれない。

分かったことはまだある。

彼は、色々なものを抱えている。そのことを彼は漠然としか見せない。本人は隠し通せているつもりかもしれない。だが、人間の黒い感情に聡い彼女には、彼が何か重苦しいものを抱えていて、そのためにどこまでも優しくなってしまっているのだということが分かった。きっと、一度出だすと止まらなくなってしまうからではないだろうか、とアスカは予想していた。彼は、胸の中に自分の持つものに匹敵するかもしれぬほどの黒いものを抱えているという気がした。

そして、もうひとつ分かったことがある。

その隠し事は、サード・インパクトに関係しているらしい、ということだ。

最近、彼はよく暗い表情をするようになった。

三ヶ月、六ヶ月、一年、という具合に恋人には危機が訪れるという。三ヶ月は気付いたら過ぎていた。六ヶ月は全然気にならなかった。しかし、今。ちょうど一年に近づこうというところで、二人の間にたまに重い雰囲気がたちこめる瞬間がある。ちょうど、こんな時間だ。

お互いに、理由は分かってはいるのだろう。できるなら、これまでと同じように、笑って避けて済ませたかった。

だが、きっとそんなことはできないのだろう、とアスカは感づいていた。

ここを乗り越えなければ、恐らくやってはいけないだろう。もしもこれからも二人で一緒にいようと思うなら。

いつかは、話してくれる時が来るはずだ。

その時を、アスカは待っている。

そして、同時に。

いつかは、自分が隠していることを話さなければならない時が来る。

その時を、アスカは怖れている。


……問題は、彼が抱えていることと彼女が隠していることが、ほとんど同じ事実だと言うことだ。しかも、彼女が隠していることを彼は知っていて、だからこそ彼はそのことを話せない。一年前にゆっくりとこんがらがり始めた状況は、一年を経てすっかり入り組んでしまっていた。

27

伊吹は朝一番で届いた書類を見ていた。A4大の書類には、味も素っ気もない字体で題名が書かれていた。「旧第3新東京市跡地(Tokyo-3)及び当該跡地直下に確認された大深度地下空間跡(GEO-FRONT 02)の封地解除計画に伴う実地予備調査について」

発行元は内務省だった。

伊吹はため息を吐きながら頭をかきむしった。最高に最悪なタイミングである。

「どーしてこう次っから次に面倒が……ああ、もうっ!」

伊吹は怒声を上げながらゴミ箱を蹴った。ゴミ箱の中の紙くずやナイロン袋が中を舞う。

封地が解かれる。それは、あの湖の底に眠っているであろういくつもの秘密が白日の下に晒されるということだ。それはこの組織の暗部や、この組織が秘匿してきた技術が暴かれるということを意味する。それは即ち、伊吹がやってきたことがいともたやすく無化され――

「私は晴れてメデタク海の底とか……?」

伊吹は力なく呟きながらも目つきを鋭くして考え始めた。どこが動いている? サード・インパクトから十年、そして「例の報告」、偶然にしてはタイミングが良すぎた。

旧第3新東京市跡地の封地期間は最低でも二十年間とすることがサード・インパクト直後の臨時国会で確認された。そして、それは更なる延長を前提としていた。最終的には隕石に含まれる放射性物質による核汚染などを理由として旧東京と同様に放棄が選択されるシナリオが用意されているはずだった。日本の人口は全体としては順調に減り続けている。そんな中、深い湖となっている上に汚染の可能性が高い、即ち実質的に利用価値がほぼゼロであるはずの旧第3新東京市跡地を、今さら大きな予算を割いてまで再開発することは全く無意味だった。少なくとも、ジオ・フロントに関する特別な知識がない場合、そう判断するのが妥当だ。

それにも関わらず、内務省がこの件について動いている。

ゼーレ・シンパ。伊吹はそう見当をつけた。

理由は幾つかあった。まず、動いているのが、内閣府や外務省や国交省ではなく、内務省である、ということだ。内務省と言えば、ネルフにスパイを送り(結果として、その役目を負っていた加持リョウジはトリプルであり、しかもその全てを裏切っていたが)サード・インパクト時にもゼーレ側に立って、ネルフに関しての超法規的権限破棄の通告を真っ先に進言した省である。当然、その内部にはゼーレのシンパが多数残っている。その内の何人かは当時の政府高官の何人かと同じく、サード・インパクトに関連してひっそりと引責辞任し歴史の闇に隠れた。しかし、責任追及を免れて根強く活動する者はまだ残っている。

ご丁寧にジオ・フロントのことまで書かれているのも「私たちは知っているぞ」という言明であろう。頭の中でマーチが鳴っているような馬鹿が考えそうなことだ。

そして、もうひとつの決定的な理由は……そこまで思考を進めた時、執務室のドアが開いた。

「おはようございます」

伊吹は視線だけを動かして入ってきた人物を確認すると、注意深く表情を柔らかいものに変えた。

「おはよ、シンジ君」

もう1つの理由の登場だった。正確にはその恋人である「セカンド・チルドレン」惣流・アスカ・ラングレーが、だが。

彼女こそが、次から次に、の始めに起こった事態であり、恐らくは全ての出来事のトリガーだった。

旧ネルフ、ドイツ支部――ゼーレの息の掛かった支部であり、本部及び米国支部と別働しエヴァ・シリーズの技術供与を行なった支部である。当然その上部にはゼーレのシンパが多数いた。そんな者たちの中には、セカンド・チルドレンが生きていることが分かれば確保に動く勢力があることは容易に推測できた。エヴァ弐号機がエヴァ・シリーズに陵辱される場面をモニターしていた彼女からすれば正気を疑ってしまうことだが、特に旧ドイツ支部のゼーレ・シンパの中には、弐号機パイロットをクローニングし、それを柱にして組織を再建しようとする動きさえある。「ゼーレの亡霊」などと呼ばれるような類の勢力だ。

そのことを考え合わせれば、そもそも彼女の出国が許されたこと自体、彼らが絡んでいるのではないかと疑いたくなるほどだ。

だから、伊吹は彼女を迎え入れる際、急仕上げではあったがかなり厳重に情報操作を行い、産業スパイを含む諜報員を最大限に排除し、二十四時間のガードをつけ、かなりの利益を関係各所に握らせた。

しかし。どれだけ慎重に情報を操作しても、どれだけ諜報活動を妨害しても、この研究所の存在が公表されていて、その所在地が閉鎖都市ですらない以上、どこかで情報が流出することは避けられない。

そして、つい先日。セカンド・チルドレン生存説がにわかにささやかれ、その消息を調査する動きが起こった、という報告が入っていた。だからこそ、彼女は朝一番に怪しい企業のバイク便で届けられた書類を見て「次から次に」と言ったし、すぐにゼーレ・シンパの動きに思い当たったのである。

実際のところ、十二ヶ月間持っただけで奇跡だと言えた。

「……伊吹さん?」

挨拶を交わしたきり長いこと沈黙していた伊吹に、シンジは怪訝な顔で話しかけた。伊吹は考えに沈むうちにいつの間にか暗くなっていた顔に慌てて笑いを貼り付けた。

「あ? ごめん、ちょっと眠くてね、さすがにこの年になって徹夜すると目に来るね、目に。どう? デート楽しかった?」

シンジは伊吹のそんな軽口をあっさりと無視した。ぴくりとも心を動かされないようすで周りをゆっくりと見渡し、散乱する紙くずを認めてから、静かに言葉を返した。

「何か、あったんですか」

伊吹は彼の目を見て、喉まで出かかった軽口の続きを飲み込んだ。

彼は伊吹の呼び名を「伊吹さん」という、知り合ってから今までで一番他人行儀なものにしてから、こういう目をよくするようになった。自分の目的以外何事にも心を動かされず、自らの目的のある遥か遠くにしか焦点の合わないような目は、その髭面とあいまって、伊吹に昔の上司を強く思い起こさせた。直属の上司だったあのひとが愛人となり、しかしそれでも手に入れられなかった男、旧ネルフ総司令、碇ゲンドウ。

伊吹は思わず目を逸らすと、彼の質問に渋々答えた。

「ちょっと、ね……アスカの情報が漏れて、ゼーレのシンパが動き出してる。そろそろ、隠し通すのも難しいわ」

「それが、ちょっと、ですか?」

あくまでもシンジは冷たい口調で問いただした。伊吹は肩をすくめて乱暴に椅子にかけた。ゆるくなってきている肘掛のネジが軋み、ギギギ、という嫌な音がした。

「訂正する。かなりヤバイ。これでいい?」

しかし彼はそれには答えずに、静かに言った。

「それで――例のことなんですが、考えていだたけましたか?」

伊吹は小さく舌打ちをして下唇を噛んだ。蓮っ葉に見える仕草にシンジは眉を潜める。だが、それだけで済んだのは僥倖だと言えた。相手が彼でなければ彼女は思わず爆発してペンの一本や二本でも投げていたところかもしれない。

「例のこと」とは、彼がここ数ヶ月言い続け、彼女がここ数ヶ月話を先延ばしにし続けていることだった。

例のこと――六分儀シンジの退職である。

「ねえ、本当に辞める気なの?」

伊吹は言った。それはこの数ヶ月間、彼女が馬鹿の一つ覚えみたいに言い続けている言葉だった。

「ええ、本当に辞めるつもりですよ」とシンジは淀みなく答えた。

その顔に迷いの色はなかった。少なくとも伊吹にはそう見えた。

伊吹が黙る間に、シンジはさらに言葉を足した。

「少し前から言ってましたけど、やっぱり潮時だと思うんです、ここらで。それに……ちょうど、さっき伊吹さんが言った、『動いている人』にもいい目くらましになるんじゃないかな。ここから離れれば、おれをぶっ殺してやろうって人も多いでしょう、たぶん。少なくとも、目くらましくらいにはなる」

伊吹は言い返すことができなかった。彼は計算づくで言ったわけではないのだろう。彼がここを離れて実際に起こるのは、恐らく、死ぬよりも厳しい事態だ。しかし確かに、彼の行方を陽動にしてアスカの行方をくらませることはかなりよい作戦であるように思われた。

碇シンジが進化研究所から動いたとなれば、アスカ以上に大規模な動きが起こるのは目に見えている。彼女の前にいるのはサード・インパクトのただなかで怯えきっていた少年ではない。そこにいるのは、サード・インパクトの動きを直に知り、しかも、進化研究所の副所長という地位にありその技術の大部分を把握する伊吹の片腕として働いている有能な研究員だった。

それこそ、各国の諜報機関、軍事関連の企業を始めとした様々な勢力が合法・非合法の区別なく動くことは十分に予想できることである。現に、伊吹を始めとする上級研究員には日本国政府と国連の事務室の許可なしには海外渡航も許されなければ、防衛省を始めとする軍事関係の省庁とのやり取りも許されはしないのだ。いみじくも始めにこの研究所について記すときに「収容」という言葉を用いたが、それはあながち冗談とも言えない。確かにある意味では、この研究所は檻だった。

「それ、本気?」

「そうですけど?」

「死ぬよ?」

「かもしれないですね?」

疑問形の言葉で続くやり取りに、ついに伊吹が終止符を打つ質問をした。

「それで、あの子は喜ぶと思う?」

「……このまま楽しいことだけ数珠のようにつなげて生きてくことは、できないですから」

不意にシンジが発したもって回ったような言い方の言葉に、伊吹は多少思案してから尋ねた。

「それ、誰の言葉?」

「さあ、忘れました」

軽めの口調で言う彼の目を見て、伊吹は一瞬頭に浮かんだ「申し出を肯定する」という案を彼方へと放り投げた。何でそんなことをしなければならない。この男にこんな死んだ魚の目か、負の野望に燃える独裁者のような目をさせて、ここから追い出してこの状況をどうにかすることなど、自分には許されはしない。たとえば結果として自分を差し出すことになったというのなら、それは仕方がないことだ。これは彼女が始めたことなのだから。だが、彼をいけにえにして彼女を救うことは許されない。

彼は彼女に全てを明け渡そうとしている。それは、伊吹が自分の子供の身代わり羊になりたいと願うのと少し似ている。だから、彼が選ぼうとしている道を完全に否定してしまうことは、伊吹にはできない。

しかし、何かが違う。伊吹はここ一年、ずっとそんな違和感を感じ続けてきた。何か違う。彼女はこんなことのために彼と彼女を引き合わせたのではない。

だが、それではあなたは何を望んで彼と彼女を引き合わせたのか? と問われれば、明確な答えは返せそうになかった。

伊吹が黙る間にも、シンジはくるくると紙くずの散らかった部屋を片付け、自分のデスクについた。伊吹はその顔を見た。能面のような表情を浮かべた顔は、伊吹には必死で表情を隠す顔に見える。まるで泣き出す寸前のような。無感動を装っているが、その下に隠れているものがあることを伊吹は知っている。

伊吹は沈黙にいたたまれなくなって口を開いた。

「明日、どうするの?」

シンジははた、と動きを止め、伊吹のほうを見ると口を開いた。事務的な調子で「ああ、行きません」と言い、そしてさらに言葉を続ける。「だって、アレを起こした張本人が式典には出れないでしょう、さすがに」

「そう、か……じゃあ、もう今年は行かないの?」

伊吹の心底悲しげな声を聞いて、シンジは少し思案した。迷い顔。

それから、最近では段々と慣れっこになってしまいそうな長い沈黙を挟み「……今日にでも、行ってきます」といううめくような声がその口から出た。

伊吹はその言葉に久しぶりに心から微笑み……そして思った。ああ、この優しい子を、どうか助けてあげて、と。自分がその願いを、彼が殺した人々に願っているのか、自分を含め、彼をこの状況に叩き込んだ人々に願っているのか、伊吹にはもうよく分からなかった。誰でもいい。全ての力ある人、彼を助けて。

28

旧第3新東京市跡地の外れ、封地ラインのギリギリの場所に、第参共同墓地はある。この墓地を含めて四つある共同墓地のうち、この墓地が最も封地ラインに近い。

サード・インパクトに関連して核及び化学物質汚染を心配されたこの土地を訪れる者は少ない。そして、この墓地がここにあるのも、そのためだ。隔離。日本でその言葉が旧東京の次に似合う場所だ。

一年前と同じように殺風景な墓地の入り口、高いコンクリートの壁と、鉄の門を前にしたシンジは、思わず旧世紀の大事故で封印されたチェルノブイリの「石棺」を思い起こした。去年伊吹と来たときは感じなかったが、こうしてたったひとりで門の前に立つと、その重々しさに潰れそうになる。

守衛に軽く頭を下げ、門の中、立ち並ぶ墓標の間を進む。

一歩足を進めるごとに、どんどん気温が下がっていくような気がした。

何故だろう、とシンジは思った。おれはあの時よりずっと頑張っているはずなのに、どうしてこんな風に寒い? 確かに、ちょっと絡め手を使っているのかもしれない。正々堂々とはやっていないかもしれない。けれど。

こんなふうに凍えさせられなくてもよいはずだ。


そんなことを考えながら、シンジはやっとの思いで、墓地の中央、自分の墓の前にたどり着いた。

しかし、そこには先客がいた。明るめのスーツを着たその男は、片方のポケットに手を突っ込みながら、もう片方の手でシンジの墓にボトルの水をとくとくと掛けていた。

男が二本目のボトルのふたを開けて水を掛け始め、その水がすっかり掛かり終わるくらいのあいだ、シンジはその場所から数メートル離れた場所で立ち止まり、その男に話しかけるかを考えた。そして、男が3本目に手をかけたあたりでやっと決心して、今では自分の墓に手を付いて手に持ったボトルの水を掛けているその先客に、彼が驚かぬようそっと声を掛けた。

「あの……どなたですか?」

シンジが声を掛けると、先客は「いえ、昔の知り合いでね」と言いながら振り返った。

二人の目が合う。

こちらに向いた目の前の男の顔を見ながら、シンジは頭をフル回転させて知り合いの顔を思い浮かべようとした。が、結局は自分にはフル回転させるほどの数の知り合いなどいないと気付いただけだった。

自分の知り合いと言えば、自分が脚を握り潰してしまった彼、アスカの親友だった彼女、そして――

「ケンスケ?」

シンジはギリギリで憶えていたその名を呼んだ。随分顔立ちが変わり、にきびの多かった顔はすっかり男のそれになっていたが、その目は相変わらず輝いていた。自分とはえらい違いだ、とシンジは声に出さずに思った。

一方、目の前で自分の名前を告げられた男、相田ケンスケのほうはと言えば、眉に大きくしわを寄せ、腕組みまでしながら、上から下までシンジの姿を見た。そして、何か思いついたように、顔の前、ちょうど彼から見てシンジの鼻先から下が隠れるように手をかざして目を細めると、言った。

「シンジ……シンジか?」

ビンゴだ、とシンジは思った。だが、それが幸運なことかどうかは、よく分からなかった。シンジは荒くなり始めた動悸を感じながら、ゆっくりと彼に歩み寄った。

first update: 20050112
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