だからおれはとてもゆっくりと少しずつ君の中から僕だったものを消していった代わりに僕ではなくておれじゃない偽物をゆっくりとその隙間にわからないように埋めていってだから最後には君の中に僕はいなくなってしまってわからなくなるからもう最初からおれもいなくってそうしたらもうおれの中からもおれはどこかへ消え去ってしまってもう誰もいないんだでもねえ怖い何だかよくわからなくて怖いよ僕でもなくておれでもないこの偽物はいったい誰なんだろうと思うし君の中に僕でもなくおれでもない誰がいるんだろうかと思うし僕だおれだと思っていたのは誰だったんだろうと思うし僕とおれがいなくなっても最後まで残っているこの偽物は誰だろうと思っているこのひとは僕でもなくておれでもないひとであって僕とかおれとかと入れ替わってしまう偽物だけどじゃあおれでも僕でもないひとを想っている君の中には君しかいないのか君の中にも君や君でない君や君が消えてしまうことを怖れる君や君が君の中から消えてしまっても残る君でない偽物の君をわからなくて怖い君がいるのかもしれないのがわからないということを考えているこのひとは、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ?
最近、変な薬などに手を出したことなどないのにそんなことをぐるぐると考えている時がある。どうやらおれはあの頃のことを全て過去にして捨て去ってしまったようだ。
そして今、おれ自身も過去になって捨て去られようとしている。でも、やっぱり僕やおれの過去は僕やおれの過去でしかないので、どうしても捨て去ってしまったはずのものたちの責任を取れとどこまでも追いかけてくる。
どこにも逃げることなどできない。
畜生。
自分の掛けた言葉に無言のまま歩み寄ってくる目の前の男を見て、相田は自分の言葉の正しさを確認した。
「久しぶりだな」と相田は話しかけた。思えば会わないうちに随分と遠くまで来てしまったが、それでも知り合いは知り合いだ。少なくとも相田にとっては、偽物であれその墓には参るくらいの。
自分を射すくめたままの相田の視線に「そうだね」とシンジは最近は使っていない言葉使いで答えた。
ボトルのふたを閉めた相田はポケットに両手を突っ込んで「本当に、死んでなかったんだな」と言った。特に驚いている風にも見えなかったので、逆にシンジの方が驚き混じりに訊ねることになった。
「驚かないんだね」
「ああ、そうだな。墓参りに来てたのに、って?」
「うん。それに『本当に』?」
相田はシンジの肯定を聞いてにやりと子供っぽく笑うと、シンジの肩に手を回した。シンジを見る少しだけぎらついた目は、笑みを浮かべながらもさっき彼を確認したときの目よりずっと鋭かった。
「これは、何だ、演出だよ。儀式みたいなもんさ。召喚獣とかそういう」
「ゲームじゃないんだから」とシンジはその目と合っていない彼の言い草に苦笑した。
「現にお前は来たじゃん、ここに。ま、半分は偶然だけど、これは」
「一から説明しない?」とシンジは言った。話がはぐらかされすぎて、何が本当で何が嘘なのかさっぱり分からなかった。何もかもに意味があるようにも思えるし、何もかもが無意味であるようにも思える。
「いいだろう」
相田はシンジの肩から手をどけ、少しだけ距離を取ると話を始めた。
「俺が今日ここに来たのは、半分は偶然だ。俺が今日ここ来ることに決めた時には、お前のことは知らなかった。でも、お前が死んでないことを、今年は知ってた。だから、半分だ」
「『今年は』?」とシンジは訊き返した。
「去年までは知らなかったんだよ。……俺な、今、内務省にいるんだ」
そういうことか、とシンジは納得した。内務省なら、碇シンジの情報を持っていたっておかしくはない。
「そう、なんだ」
「ああ、そうだ」と相田は言い、再びシンジのすぐ近くに身体を寄せると、言葉を続けた。「まあ実際、お前が今日来ることも、俺は知ってたんだ。お前、モニターされてるんだよ。今日来たのは、別の理由の方が大きいけどな」
シンジは別の理由、という言葉の意味を問いたい気もしたが、とりあえずはもっと重要な言葉にだけ集中することにした。
「モニターされてる?」
「ああ。まあ、それくらいは知ってるんだろ? お前も」
「まあね」とシンジは答えた。進化研究所の上級研究員とその関係者に様々なところからの監視の目が光っているのは、もうわかりきっていることだ。
「でも、問題はそこじゃないんだ。それだけだったら、俺、時間ずらして来るよ。お前も気まずいだろ、今さら俺と会っても」
相田は昔と同じように直接的な言葉を吐く。以前は自分の思いを全く繕わないその態度に傷つけられたこともあったが、今は嫌な感じはしなかった。
「まあ、ね。で、何? 問題って」
「惣流だよ」と相田は早口で即座に答えた。聞き取られるのも訊き返されるのも拒否するような口調だった。「今あいつ、お前の研究所にいるんだろ?」シンジが言葉を返す前に早口でまくし立てる。「あいつを狙って各方面の阿呆が動いてる。気が狂ったのとか、拝金主義者とか、企業戦士とか、そういうのがうじゃらか。恐らくは数日中に、動くはずさ」
シンジはその言葉にあっけにとられた。これは、この二人の間で話されていいような内容ではない。このやりとりがばれれば、彼はただではすまないはずだ。
「いいの? そんなこと教えて」
シンジが眉をひそめて訊くと、相田はにやけた表情を浮かべて周りを見渡した。
「いーんだよ。ここは隕鉄? まあどうせそりゃお前らお得意の嘘なんだろうけど、とにかく電波干渉やらなんやらで監視もロクにできない地帯だし、もしばれても大丈夫だ。死にゃしないよ、お前と違って生き意地が汚いからね。それより、お前だ」
そこで言葉を切ると、相田はきっぱりとシンジを指差した。
「どうせお前のことだから、また何かしら無理しようと思ってるんだろう? でだ。十年で一向に進歩してないらしいお前があんまり可哀想だから、昔のよしみとして助けてやろうってことさ」
「そりゃどうも」とシンジは自分を指す指を見つめ憎まれ口を叩いた。
昔の彼からは想像できない憎まれ口に相田は笑みを浮かべて、シンジの方を見ずに踵を返した。
「ん、そんじゃ。俺は行くわ。お前まだ墓参りしてないんだろ? 葛城さんの墓くらい、参っていけよ。そんじゃな」
相田はそう言って、ゆっくりと歩き出し――はた、と止まって、言った。先とは打って変わった重い口調だった。
「なあ」
「ん?」
「ダムが決壊する時ってな、外側からの力じゃなくて、内側の水圧に負けて崩れるんだ。当たり前だけど」
突然の語り。その意味するところは何となく理解できた。
「もう、色んなとこにひびが入ってると思う。頑張れよ」
「ちょっと、訊いていいかな?」
「なんだ?」
「何故、今日、ここに?」
相田はその言葉に、少し頭を掻いた。
「あー、なんだ。俺、もう何年も、ここに来なかったんだよ。お前、来てた?」
「数回、かな。去年久しぶりに来たよ」
「へえ、奇遇だね。俺も去年、久しぶりにここ、来たんだよ。一日遅れで。だから、今年は一日早く来たってわけ。……くだらんな。すまん、忘れてくれ。それじゃ」
そう言って相田はひらひらと手を振った。
因果な偶然だった。もし去年、相田がもう一日早くこの場所に来ていれば。もしくは、もしシンジがもう一日遅くこの場所に来ていれば、彼らは去年、間に様々の事柄を挟まないで、ただの昔の友人として出会えたかもしれないのだ。
しかし、それはあくまでも理想の話だ。現実には二人はこうして出会い、相田はシンジの方を向かぬまま彼の問いに答え、また立ち去ろうとしていた。
ゆっくりと、だが着実に離れていく後姿の相田に、シンジはさらに質問を投げた。
「あ、あともうひとつ」
相田が大げさにずっこけてみせる。それは、訊かれることが予め解かっているかのようにことさら明るい仕草だった。実際、ほとんど次にシンジの発する言葉の内容は自明だった。二人を繋ぐ線の間にいた男の話が、全く出てこなかったからだ。
「なんだよ、せっかく人が恰好良く立ち去ろうとしてんのに」
「トウジは?」とシンジは訊いた。その声が強張っているのが、相田には判った。
しかし相田はあっさりと「死んだ」と答えた。それが彼だ。
シンジは予想のままの答えに言葉を失い、相田の背中を見つめた。相田は背中に視線を感じながら、それでもあくまで振り返らず、静かに告げた。
「あいつに感謝しろよ、シンジ。あいつが『シンジに会うたらよろしゅう頼むで』とか言ってなかったら、俺は、今年ここに来なかったかもしれないからな」
その言葉を別れの挨拶に替えて。二人は再会を喜ぶこともなしに、それぞれの場所へと戻っていった。
今日も彼の姿はなかった。仕方ないよな、と思いながら、アスカは濃紺のスーツの袖に腕を通した。
今日はサード・インパクトからちょうど十年の記念日だ。十年の区切りということで、旧戦自職員、旧ネルフ職員も出席して、大規模な慰霊祭が行なわれることになっている。そこにはネルフの後身である進化研究所の職員は当然、総出で出席することになっていた。
だが、彼女の恋人たる六分儀シンジは、昨日研究所を早引きしてから後、連絡を絶っていた。夜、朝、そして今。三回連絡してみたものの、応答は全て同じ「お客様は電波の届かない所にいらっしゃるか、電源が入っておりません」だった。
味気ない応答にアスカはこの二日で何回目かのため息をついて、スカートに付いた埃を注意深く払った。
ピンポン、と何の変哲もない音で聞きなれない呼び鈴が鳴った。この一年ほとんどひとりで家にいて誰かを待ち受けるということがなかったせいで、この家に越して、というか半ば押しかけて以来ほとんど聞くことは無かった音だ。
アスカは「はーい」と答えて玄関に走った。
玄関のドアを開けると、そこにいたのは彼女が待ち受けた男ではなかった。
「おはよ、アスカ」
伊吹である。彼女もアスカと同じく、普段はめったにしないフォーマルな出で立ちだった。いつものそれがラフな分、彼女のスーツ姿はかなり強い印象をアスカに与えた。昔、ネルフの制服をきっちりと身にまとっていた頃の彼女をアスカは思い出していた。
「なーんだ、マヤか」
その親しみを込めたぞんざいな口調に、伊吹は多少ムッとして、しかしそれを隠すように大げさに答えた。
「む。なーんだ、とは何よぅ。せっかく迎えに来てあげたっていうのに」
アスカと伊吹はこの一年、伊吹とシンジの交流が失せていくのと反比例するように、どんどん交流を深めていた。かつてはシンジが努めたベビーシッター役も、今ではアスカが来るようになった。アスカはシンジより美しく、シンジよりいい匂いで、当然子供受けも良かった。彼女がシンジの何かを吸い取っていくように目に見えて明るくなっていくに従って、その傾向はますます顕著になっていった。チトセやアマギなどは、シンジのことを段々と忘れていっているようにさえ、伊吹には思えた。
正直なところ、伊吹はそんな何もかもが気に入らなかった。アスカが伊吹に対して信頼を深め、心を近づけてくるのとは逆に、伊吹の心はゆっくりとアスカからは離れていった。今では、アスカの様々な所作さえ鼻につく。もちろん、彼女はそんなことをおくびにも出さずアスカと付き合い、アスカは当然のように彼女の嘘に気付かなかった。いや、正確に言うなら、気付いている素振りを見せなかった。
アスカは常に実に慎重に距離を測っていた。それが伊吹がしばらくしてから気付いたことだ。もちろん、普通の人間なら、誰でも他人との距離を測りながら生きている。ここまでは踏み込み、ここからは踏み込まない、そういう距離を測る。
しかし、アスカのそれはとても極端なように、伊吹には思えた。当然のようにアスカは誰にでも好かれたが、それはただの媚と何も変わらないと伊吹は思った。伊吹が助けてあげたいと思った、完璧すぎて今にも壊れそうな女の影は今はなく、そこにいるのは昔伊吹が少し遠巻きに見たのと同じ、外面がいいだけの、華美で空っぽの女の子だった。
そして、そうさせたのは彼だ。彼女がここに来ることになった原因、予想された失踪を果たした男だ。
「どうして?」
アスカは尋ねた。普段なら、アスカはシンジの車で出所する。今日に限って彼女がシンジの家に来る必然性はまるでない。車の調子が悪いという話も聞いていない。
「シンジ君は帰っている?」
アスカの質問には答えず、伊吹は他の質問を返した。アスカは数回まばたきをして、伊吹の質問に答えた。
「帰って、ないけど」
「と、思ってね」と伊吹は言い、薄い笑みを浮かべた。それはやれやれ、というキャプションをつけるべき笑顔に見えたが、アスカにはそれ以上に、自分を攻撃する笑顔に思えた。
「来ないと思うわ、シンジ君。そう言ってたもん」
その言葉を言い終わり、目の前で小さく歪むアスカの美しい顔を見て、伊吹は嫌な気分になった。彼女だけでなく、自分にも嫌気が差した。今のはなんだ、と伊吹は自問した。
何故私はあんな言い方をした?
「そう。そっか、そうなんだ。それじゃもう行く? 準備はできてるの」
しかし伊吹が本格的な罪悪感を覚える前にアスカが言葉を発した。その声に焦りが混じっていることを、伊吹は聞き逃さなかった。安堵しつつも、また媚か、と心の中で舌打ちした。
だが、今度は伊吹は冷蔵庫の扉のように、思わず顔を出しそうになる冷気を精一杯抑えて、答えた。
「そうね。そろそろ、いい時間だし」
それは奇妙な式だった。第壱、弐、四墓地がそれを囲むようにある巨大な慰霊碑の前で慰霊祭は執り行われたが、中に際立って大きく二つに別れた集団があり、それら二つは交わることもなければ、その中の者同士が言葉を交わすこともなかった。それ以外の人々は、肩身が狭そうに大人数の二集団を見ていた。
そこにはこの十年でも埋まりきらない溝がはっきりと浮かび上がっていた。
アスカは「いつも、こうなの?」と小声で隣の伊吹に訊いた。
「少なくとも、五年前はそうだった」と伊吹は答えた。
「アスカ」と伊吹は言った。式典が終わった慰霊碑の前には人影もまばらだ。
「何?」と、少々疲れた顔でアスカは答えた。確かに厳かではあったが、やたらと気疲れする式典だったからだ。
「私、ちょっとこれから偉い人たちとお話しなきゃなんないのよ」
「そう。……ということは?」と、アスカは伊吹の言葉を促した。伊吹は肩をすくめて、顔の前で手を合わせた。
「悪いんだけど、私の車、預かっておいてくれない? 明日、乗ってきてくれればいいから」
「分かった。それじゃあ」
「うん、それじゃあ、よろしくね」
伊吹はアスカに軽く手を振り、少し離れたところに待っているスーツの男たちの所へと歩いていった。その足取りは妙に軽いようにアスカには見えたが、どうせ、いつもの被害妄想だ、とアスカは鼻をすすって黒い方向に向かう思考を打ち切った。
「さて、と」
アスカは独り言を呟くと、慰霊碑から西の方角へと伸びる道へと歩き出した。彼女の墓がある、第参共同墓地へ行くためだ。墓地を隔離するコンクリートの壁と鉄の門が徐々にはっきりと見えてくる。アスカは、一年前には見ぬままその横を通り過ぎた「軽度の放射能汚染の危険有り、長時間の滞在は厳禁」と赤い文字で書かれた立て看板を通り過ぎ、墓地へと向かった。
守衛に声を掛けて(この守衛が勤務していてなんともないのだから、きっとあの看板もはったりなのだろう)中に入ると、そこには一年前に見たのと同じ墓標の列があった。だが、そこから受けた印象は、一年前とはだいぶ違っていた。
アスカは、自分がここにいることに違和感を感じた。足を進めても、どこか嘘みたいで現実感がなかった。来なくても良い、と言われているような気さえした。そして、たびたび彼女は足を止め、首をかしげた。
今が昼であるせいかもしれない、とアスカは思った。以前に来たときは夜で、吸い込まれてしまいそうな感じがしたものだったが、昼間の墓地というのは、何か不思議と爽やかだ。相変わらず荒涼とした景色にも関わらず、まるでピクニックに来ているような感じがする。または、まるで休日に家族総出で先祖の墓を参るような――そんな感じが、アスカにはそんな経験が一度も無いにもかかわらず、した。
アスカはそうして、去年は怖れを抱きながら訪れた自分の名前が掘り込まれた墓標に近づいた。
すると、そこには先客がいた。
暗い色のスーツを着たその女は、両手を自らの膝に当てながら、中腰になってアスカの墓標を見ていた。
だが、近づくにつれ、その理解が間違っていることにアスカは気付いた。彼女は睨んでいた。墓を、その傍に備えられている花を、それらと自分との間にある空間を。彼女が睨んでいるのは、目に映るもの全てだった。
アスカはつい数メートルのところまで彼女に近づきながら、声を掛けることができなかった。恐らく、旧戦自の遺族だろう、とアスカは思った。ともすれば、墓に蹴りのひとつや、銃弾の一発でも打ち込むかもしれない。それは仕方がないことだ。しかし、彼女に私を殺させて、私と同じ殺人者に落としてしまうのは悪い気がした。
結局、アスカは他の墓の前で彼女をやり過ごすことに決めた。アスカは手近の墓を見た。そこにあったのは技術部のオペレータの名前だったが、彼女はその人のことをひとつも覚えていなかった。そもそも知っていたかも怪しかった。
それでも、とりあえずアスカはその場にしゃがみ込み、墓に手を合わせた。手を組むか手を合わせるかで少し迷ったが、ここは日本だ、と結論付け、両の掌を顔の前で合わせた。
しばらくそうしていると、誰か、とはいえ、アスカの他には周りには彼女しかいなかったので、恐らくは彼女が、近づいてくる気配がした。アスカは目を閉じてやり過ごそうとした。
足音は、彼女の隣で止まった。
「それ、知り合いの墓?」と声の主は訊ねた。
アスカはため息をついて目を開け、嘘を吐きながら声の主を見た。綺麗な女だった。
「ええ」
「ほんとうに?」
女は念を押した。アスカは疑問に思い、彼女にただした。
「どうして、そんなことを訊くんですか?」
「私を覚えていない?」
アスカの問いには答えず彼女は言うと、いかにも残念げに肩を落とす仕草をした。
アスカはじっと彼女の顔を見て――あっ、と小さく叫んだ。女は笑って言った。
「気付いた? 私よ、洞木ヒカリ。生きてたって本当だったのね、惣流さん」
惣流さん。その微妙な言葉使いが、十年という月日のもたらしたものだった。アスカもまた、屈託無く目の前の彼女を、ヒカリ、と呼ぶ気持ちにはなれなかった。無二の親友も、最悪の別れ際から十年音信を絶てば、ただの知り合いか、もっと悪いことになる。しかし、とにかく、会ったのだから。話さなければ。そう思い、アスカは彼女の言葉の中で気になったことを訊いた。
「どうして、私が生きてるって知ってたの?」
洞木は腕組みをして、軽い声で答えた。
「ん? それね。相田君に教えてもらったんだ。彼、今はそういうことに詳しい仕事をやってるらしいわ」
どうにも納得しがたかったが、ひとまずは納得するしかなさそうだった。意外と自分のことは周知の事実なのかもしれない、とアスカは思った。
「そう……なんだ」
「ええ」
微妙な間が開く。昔はこうではなかったのに、とアスカは昔を思い出していた。しかし思い出すごとに、自分が彼女に愛されうる存在ではなかったことに気付いた。あの頃のアスカは委員長である洞木に迷惑を掛けるだけ掛けた、ただの迷惑なクラスメートだった。
そこに考えが至ると、アスカはとりあえず当たり障りのない話題を振った。
「元気?」
「まあね。ペンペンも元気よ? もう懐いちゃったから、返せないけど」
そうか。アスカは思い出した。葛城家には奇妙なことに風呂に浸かるのが好きなペンギンがいた。それはそれで酔狂な趣味だったが、結局はアスカのつながりで、疎開する洞木家に預けられたのだった。これも、彼女に掛けた迷惑のひとつだ。そして、哀れな鳥はそのまま、家族であった誰の中からも忘れ去られた。
「そ、っか。そうね、いいのよ、もう、ミサトはいないし。ペンペンは元気?」
「うん。もうお爺ちゃんだけどね。特に病気もしないし、一番風呂に入れないのを不機嫌がる以外は、至って元気」
そう言うと、洞木は笑った。彼女はさっきアスカに話しかけて以来笑みを絶やさなかった。
「そう。ねえ……洞木、さん?」
「なに?」
「ごめんなさい。あの時、迷惑掛けて」
ひどく他人行儀な言い方だったが、今の二人の距離にはちょうど良いように思えた。
「いいのよ、あの頃のことはもう。だいたい忘れちゃったから」
洞木はそう言うと、さばさばとした笑みを浮かべた。アスカはその態度に息をついたが、どこか踏み込めないものを感じていた。その笑顔が、どうしても昔の彼女の笑顔と重ならなかったからだ。
不幸なことに、アスカの感覚は正確だった。
洞木は、つい今思いついたように、アスカに言った。
「そういえば、相田君に聞いたよ。良かったじゃない。昔に戻れて」
アスカは首を傾げて問い返した。やや蒸し暑い昼の墓地に、形の良い顎から滴った汗が落ちた。
「どういう意味?」
「そのままよ。今、いるんでしょ? 碇君のいる研究所に」
洞木がそう言って冷たく薄く笑った途端、アスカは真っ逆さまに地面に叩き落された気分になり、その後の言葉が耳に入らなくなった。そして彼女の言葉の内容を理解するとともに本当に気が遠くなってふらりと倒れた。軽く頭を打ち、自分の知らないオペレータの墓標で切った後ろ頭から血が出た。しかし、それでも彼女は、驚きの表情を一瞬浮かべたものの、アスカへ向けた笑みを消すことはなかった。
なぜか、重大なことを告げられたのにそれほどの驚きは感じなかった。恐らくは確信犯でその言葉を吐いた洞木への恨みも感じない。その代わりに強く感じたのは、捨てられた動物の気持ちだった。ああ、私は捨てられた、とアスカは思った。同時に、ペンペンも、こんな気持ちを感じたのかもしれないと思った。
それ意外はアスカは何も感じなかった。ただひとつのことを除いて。
ただひとつ、十年も会っていなかった癖に、洞木に向けてそんなことを考える自分に対してだけ、アスカは強い怒りを覚えた。どうしてもムシのよいことを思いつく自分を、アスカはどうにかして叩き殺してやりたかった。
幾度頭を振っても、一度知ってしまったことは取り返しがつかない。
会わなければよかった、と心底思う。もし、彼女に会うことがなければ、こんな風に苦しむこともなかったのに。
馬鹿なことを考えた自分の頭を、アスカはもう一度壁に打ち付けた。眉の上に赤い筋が浮き出た。
原罪。そんな言葉が脈絡なく頭に過ぎる。
罪?
アスカはそんなことを考えた自分のどうしようもない頭を哂った。そんなものはもう十分すぎるほど持っている。原罪なんてものを問われるまでもなく。罰も様々に受けてきたと思う。それはもう仕方がないことだ。
だが、しかし。これがそんなたくさんの罪に対する罰の仕上げなのだとしたら、神様というお方はとんでもなく残酷だ。
「Mein Gott! Bitte hel...」呟く途中で自分の発している言葉の馬鹿らしさに気付き、アスカは言葉を打ち切った。そうだ、声を上げたところで、助けてくれるわけはない。私は主の御使いを殺して回った女なんだから。
ああ、今なら、彼の声、彼の顔、彼の手、みんなはっきりと自分の知っている男の子のものだと確信できる。なぜ、気付かなかったのだろう。一年も一緒にいて、一緒に家事をし、仕事をし、同じ布団で裸で過ごして、どうして?
私は彼の過去だって知っていたのに。
頭がくらくらして立っていられなくなったアスカは、強く自分の唇を噛んで部屋の隅にうずくまった。口の中に血の味を感じたまま彼女は念じた。
ねえ、早く帰ってきて。
アスカは願った。そして同時にその言葉と矛盾した、こんなことも願った。
ねえ、このままどこか遠くへ行って、二度と帰ってこないで。
彼は家に帰ることにした。理由はどうあれ、連絡もなしで三日も四日も家を空けて彼女を心配させるわけにもいかない。
そのことを原動力にし、やっとの思いで帰ってきてみても、やはりドアの前で足がすくんだ。ドアの向こうは間違いなく自分の家のはずなのに、まるで他人の家の前にいるようだった。この部屋の主として自分が相応しくない、そんな気さえした。
そして、恐らくそれは本当なのだろう、とシンジは思った。ゆっくりとこの家はアスカの家になり、いずれは自分はこの家を出て行くことになるのだ。単純なことだ。あっちの球がこっちの球にあたり、動いていた球が止まっていた球の位置へ。動き出した球はポケットに吸い込まれて永遠に消える。
そんなものなのだろう。
「ただいま」
玄関をゆっくりと開けて少し考え、シンジは結局は何事もなかったようなふるまいで家に入った。
玄関には、使われなかった紳士物の靴が一足、きっちりと並べられ、その近くに、ショーケースに飾られているような紳士靴とは逆に乱雑に脱ぎ散らかされた婦人物の靴が一足転がっていた。
シンジは少し黙ってその靴を眺め、一応並べてからリビングに入ろうとして、足を止めた。
音がする。とん、とん、という規則的な音が廊下に小さく響いていた。
足を止めてしばし考える。泥棒か? または、『動いている』という奴らか。どちらにしろ、彼女が家の中にいるとすれば、慎重に動かなければ危険かもしれない。シンジは足音を出さぬようゆっくりと廊下を歩き、リビングへの入り口の袖、ほんの数十センチの薄いスペースに身を潜めて部屋の様子をうかがった。
リビングにはアスカがいた。
フォーマルなスーツを着たアスカは、ゆっくりと、非常にゆっくりとした速さで、だが確実に自分の頭を壁に打ち付けていた。
シンジは目を見開いて息を飲み――事態が自分の中に染みこむほんの少しの間、瞼を閉じて耐え難い光景に耐えた。そして、生唾を飲み下すと、アリス、と口の中で唱えてから、リビングへと飛び込んだ。
「アリス!」
シンジが駆け寄ると、アスカはハッとした顔で振り向き、遠くの風景でも眺めるような目で、しばらくシンジをぼうっと眺めていた。泣きはらしたような目だ。しばらくそうしてから、ほんの少しだけ小さく口を開けると異様な速さで立ち上がった。
「おかえりなさい」
吐く息の音とほとんど差がないくらいの声音でアスカは言った。シンジは精一杯心配そうな声で、しかし彼女を刺激しないように注意して訊ねた。
「ただいま。って、そうじゃなくて……どうしたの、アリス?」
アスカは視線を逸らし、口元だけで小さく笑って答えた。
「大丈夫、少し嫌なことがあっただけ。薬も飲んだから。ごめんね、心配させて」
少し、という言葉を強調した。彼女は相変わらずシンジの顔をまともに見なかった。
シンジは目を細め、彼女が顔を逸らしたためにまともに彼の方を向いているアスカの額に注意を向けた。額にはくっきりと赤い筋が入り、生え際のあたりが少し擦り剥けていた。
シンジがゆっくりとアスカに近づきはじめると、同じ速さで彼女はじりじりとキッチンへ歩き出した。ちょうどソファを挟んでぐるり回る形で二人の位置が入れ替わる。シンジは彼女と自分との間の微妙な距離に首を傾げた。
しかし彼女は、そんなことはなんでもないことだ、と念を押すように、軽妙な口調で言った。
「もう、連絡もなしでどこ行ってたのよ。慰霊祭も出ないでさぁ」
アスカは冷蔵庫のドアを開けコーヒーを取り出した。そして、洗って伏せてある自分のコップを取り、水気を取るように軽く振った。しかし、彼女がパックのふたを開ける前に、シンジはゆっくりとした歩みでキッチンへたどり着いていた。
「大丈夫、じゃないだろ? ちょっと、こっち向いて、アリス」
努めて柔らかく語りかけた後、シンジは彼女の後姿に小さく、だが何かが刺すように嫌な予感を感じた。そしてそれを打ち消すべく、後ろから彼女の肩に手を触れた。
しかし、起こったのは彼の希望通りの展開ではなく、彼の予感通りの展開だった。
その瞬間、ぞわっと彼女の産毛が逆立つのが見えたような気がした。
「ひっ」
シンジが首元に手を触れると、アスカはびくりと背を震わせ身を固めた。彼女は身体を少しかがめて、自分の首のありかを確かめるようにその首元へと手を這わせた。そして、ほっとして肩を落とした後、驚愕の顔で彼の方を見た。荒い息で彼を見る彼女は、いろいろな怖れでいっぱいになった目をしていた。
それだけで、シンジは何もかも判った。
しまった。情けないことに、頭に浮かんだことはそれだけだった。
彼に触れられた時、アスカは必死で耐えようとした。しかし、無理だった。一度思い出せば、もう止められない。彼に触れられたら、どうしても、あの時のあの男の子を思い出してしまう。縋られる。犯される。捨てられる。殺される。そしてどこかへ打ち捨てられて腐りきった身体には虫が湧く。肉を食い破って、内側から外側へ這い出す。そんなおぞましい虫どもは見る間に羽化し、またそしらぬ顔で朽ちた身体を苗床にするのだ。
怖ろしい。
そう思うと、彼女は自然に身をかがめて、彼の手と距離を取っていた。どう見ても避けているとしか思えない最悪のタイミングで。いや、実際に避けていたのだろう。身体が避けたのだとしても、その身体を動かしているのは、彼女の頭蓋骨に詰まった脳なのだから、結局は同じことだ。
どうやったら許して貰えるのだろう、と思った。彼はきっととても混乱している。だから、そうだ、どうにかして許して貰わなければ。このままでは、きっと私は
アスカは視線を悲しいくらいに泳がせながらあたふたと喋った。
「あの、私はね、私は――」
どうやって取り繕おうかを考えながら、アスカは乱れた髪の毛の隙間から彼の顔色をうかがった。コンタクトを外してぼうっとした目では、彼の表情をつかめない。
しかし、そんな彼女の目に、何故か彼の姿はくっきりと映った。
彼は微笑んでいた。
「知ってた」
「えっ」
それっきりだった。それっきり、彼はアスカの方を振り返らずに家を出た。雨の中へ、傘も持たず。
アスカは閉まるドアの音を聴いて、全てが最悪の形で終わってしまったということを悟った。そして、ひとしきり泣いた後、やはり彼と同じように着の身着のままで家を飛び出した。十年前、あの湖のほとりでそうしたのと同じに。
こうして、部屋の中には誰もいなくなり――雨の日に始まった二人は、一年前と同じ雨の日におしまいになった。