- The rest stories of "Project Eva" #01.5(h) - 

"暗闇捕捉"

34

薄っぺらい。薄っぺらい。1ミクロンも、毛先ほどもない。それが私が私という存在と思っていたものの厚みだ。結局、何にも分かっちゃいなかったし、何にも変わっちゃいなかったのだ、私は。

くだらない。

私は守られていた。ずっと、ずっと、お膳立てをされた舞台で馬鹿みたいにただ笑いながら彼に守られていたのだ。自分は変わったなどと戯言を吐き、昔の私を見つけたなどと勘違いして。どうして気付かなかった? ここに来るときに考えただろう? 「あそこは籠だ」と。ならば、どうして自分が変わったなどと思った? 籠の鳥が新しくて広い籠に喜んだだけだと、どうして気付かなかった? いや、気付いていたのだろう? ほんとうは、ちゃんと分かっていて、無視したんだろう?

そうともそうとも。

気付いていたはずだ。だって私はあの時驚きもしなかった。何のことはなく彼が碇シンジだと認めたではないか。きっと薄々は気付きかけていて、意識の上に出すのが厭で奥の方に仕舞い込んでいただけだ。そうして彼を追い詰め、追い込んだ。

それでいて、私は意識の上にそれを持ち出された途端耐えられず彼から逃げた(彼は泣きながら、その怖ろしさに耐えながら、私に全てを明け渡そうとしていたのに)。

最低。

35

三日経った。惣流・アスカ・ラングレーが真夜中に伊吹家のチャイムを鳴らしたのが火曜から水曜に曜日が変わる頃で、今日が金曜。今日でちょうど丸三日だ。

あの日、アスカは雨の中にいた。無言でチャイムを押し続ける謎の人物に伊吹ヤマトが眠い目をこすりながらドアを開けたとき、石畳とアスファルトの間、排水溝のカバーの上に金髪の女が立っていた。彼が背中に水をぶっ掛けられたように一瞬で目を覚まし目を凝らすと、その女がぶつぶつとうわ言のような言葉を口走っているのが分かった。

彼はその女が誰なのかさっぱり分からなかったが、彼の後をついて玄関ドアから顔を覗かせた彼の妻は裸足で外へと飛び出していった。彼の足元には彼女の脱げた突っ掛けが残り、彼女は寝巻きのまま雨に身を晒した。

何事かと彼は驚き――そして、やっと思い出した。彼の視線の先、降りしきる雨を気にも留めず妻の隣にいる女は、彼が依然見た時の印象とは似ても似つかぬほど変わってしまってはいたが、確かに彼の知る「アリスちゃん」、惣流・アスカ・ラングレーだった。


碇シンジはずっと無断欠勤を続けていた。アスカが伊吹の家に怪我をした野良猫のように転がり込んだ日から四日、一向に電話は通じず、家にも帰らず、何をしているのかは誰にも分からなかった。

その時に初めて、自分たちがシンジのことを知っているようでいて、その実ほとんど何も知らなかったことに所員たちは気付いた。彼が好きなもの、嫌いなもの、どちらでもないもの、行きそうな場所、行きそうにない場所……何も分からなかった。

きっと自己憐憫に浸って黄昏ているだろうあの男のことを思いながら、伊吹は本日何度目かのため息をついてアスカを見た。これまた情けない姿でしょげているアスカは、それでも、それまでの無駄に人当たりがよく無意味に自信に満ちていた彼女よりずっとましに見えた。

――不幸が寄れば親近感が湧くのか。

伊吹は自分の思考の浅ましさを確認すると忌々しげに顔を歪めた。

あの日から丸々二日間彼女は倒れていた。無理もない。ただでさえ気疲れのする式典に出席し、存分に過去の古傷を抉られた上で、恐らくは碇シンジと別れ、雨の中をさまよったのだ。身体の疲労の上に精神の落ち込みと大降りの雨に遭えばどうあっても倒れる。アスカのような女性ならなおさらのことである。彼女の中には、その腕に残り続ける傷と同じように、思春期に身体と精神に受けたダメージとストレスが今も消えずに残っているのだ。

高熱と咳に見舞われた彼女は、今日やっと話を訊けるくらいにまで回復した。

やっと、ここまで訊けずじまいになっていたことを訊く日が来た。ほんとうはもう少し間を置きたいが、伊吹にはそれほどの余裕はもうない。

彼と彼女の間に何があったのか。

伊吹はアスカの眠る、普段は彼女が寝ているベッドの横に椅子を置いて座った。身体を起こし壁に背もたれている彼女は、三日前よりはだいぶ回復していた。もう息をしてもひゅうひゅうと喉が鳴ることもない。

「ヒカリに会ったのよ」とアスカは口火を切った。声はまだ少しかすれている。

ヒカリ、その名を聞いて伊吹は多少考えた。そして思い出す。洞木ヒカリ。フォース・チルドレン候補クラスにいた女の子で、アスカの親友だった女の子だ。彼女は疎開して、それから?

そんな伊吹の思考を読むようにアスカは答えた。

「ちょうど十年目のあの日、私の墓の前に来た。私は、そこにいるのがヒカリだって分からなくて、逃げようとした。なんとも思っていない誰かの墓の前にしゃがみこんで手を合わせた。でも、言われちゃった。『本当に?』って。自分が凄い汚くて悪いことをしてるのが分かって――」

淡々と流れるようにアスカはことの次第を語りだした。切れ目なく言葉をつなげる。このまま一生でも話を続けるのではないかと思えるほどだった。

放っておいたら取り返しのつかないところまで淡々と述べてしまいそうなアスカの口ぶりに、伊吹は彼女をただした。

「アスカ?」

伊吹の言葉が耳に届くとアスカの独白は止まり、それから彼女は金魚のように口をぱくぱくさせたまま、しばらく何も話すことはなかった。

双方が黙ると昼の寝室には物音ひとつしない。

伊吹はアスカが落ち着くのをじっと待った。アスカは口を開け閉めするのを止めると、ぽかんと伊吹を――正確には、伊吹と彼女の間にある何もない空間を――見た。そして、数回目をしばたたき、乾いた唇を震わせてようやく呟いた。

「ごめんなさい。どう、かいつまんでいいのかよく分からなくて。何が重要で何が重要でないのかも、よく分からないんだ。馬鹿みたい。あの、ええと、私何を言えばいい?」

伊吹はその目を見て息を呑んだ。アスカはぽっかりと空いた黒い穴のような目をしていた。

――これは、話したいだけ話させるというわけには行きそうもない。

「私の質問に答えて。それだけでいい」

「うん」アスカは頷いた。

「アスカは洞木さんに会ったのね?」

「うん」もう一度、小さく頷く。

「アスカは洞木さんを、洞木さんだって気付かなくて無視しようとした」

「うん」ほんの少し顎を揺らす。

伊吹は少し間を置いた。

「……でも、向こうはこちらに気付いた」

「そう」

伊吹は先ほどよりもさらに間を置き、頭に浮かんだ質問を言うかどうか悩んだ。しかし、どう足掻いてもこれを訊く以外に選択肢はなさそうだった。彼女が突然彼と別れ、伊吹の家の戸を叩いたのだから。

「……それで、シンジ君のことを聞いた」

伊吹の言葉を聞くと、一瞬安心したようにアスカは虚ろな目をし、その後何かに耐えるようにかたく目を閉じた。何度か鼻から強く息を吸い込んで吐き出した後、かり、と少し伸びた親指の爪を噛む。爪に、くっきりと歯で噛み千切った跡がついた。

アスカは噛み切った爪の破片を手で拭い、大きく息を吐くと、伊吹の方へ顔を向けた。一般的な日本人よりはよっぽど起伏に富むはずの顔が、伊吹には真っ平らな板のように見えた。やけにつるりとしていて、奥行きというものがそこには無かった。

「知ってたんだね」

「ええ」

伊吹はあえて一切謝らなかった。謝ったとて何が変わるわけでもない。アスカはシンジのことを知り、彼らは耐え切れず別れた。それを望んでいたわけではないにしろ、仕向けた伊吹には当然予想できたことだ。それを予想しながら彼らを引き合わせた伊吹には、今さら謝る資格などはない。

「私はあの人に酷いことをしてしまった」

アスカはぽつりと、つまらないレポートを棒読みするような口調で言った。一瞬伊吹は、彼女の頭の中では既にこの状況の分析結果がレポートとしてまとまっているのかもしれない、と思った。アスカという女は悲しいくらいに頭がいい。

「耐えようと思った。でも無理で、なのに笑って『知ってた』って」

伊吹にはアスカが何を言っているのかは解かりにくかったが、ただ1つ、彼がアスカに対して「始めから全部知っていた」という意味のことを言ったということだけは理解できた。

馬鹿。伊吹はアスカに気取られないように心中で悪態を吐いた。どうしてそう優しい振りして傷に塩をすりこむようなことを言うのだ、あの馬鹿は。

「これは、わざとだ」

伊吹は彼女に聞こえないように口の中で唱えた。彼は、わざと彼女を傷つけた。

その間にも、アスカの独白は止まらなかった。声が少しずつ震え、先細りになっていく。

「私、全然駄目だった。ずっと我慢してくれてたのに、私は全然、何も」

これ以上聞きたくない、と伊吹は思った。これ以上聞いてしまえば、優しい振りをしてどこまでも残酷な別れ方をした彼も、安穏と守られていた癖にその後ろ盾がなくなったとたん元の弱々しい女に戻ってしまった彼女も、ただ彼らに任せることにした自分も、嫌になる。

「あなたはどうしたいの?」

冷たい死刑宣告のように伊吹の言葉は響いた。伊吹は自分でも自分が言った言葉に驚いていたが、一度口に出した言葉が消えるわけもなかった。そして、一度発した言葉は呼び水のように次の言葉を導く。

「昔のことなんて知らないわ。問題なのは今よ。どうしたいわけ? あなたは」

「え?」

アスカは伊吹の言葉に、期待が外れた戸惑いの表情を浮かべた。伊吹はそんなことには露ほども構わずに続けた。

「あなたはあの男を取り戻したい? それとも、あなたもあの男を『ぶっ殺して』やりたい? 他の人と同じに」

あなた、あの男、伊吹は二人をそう呼んだ。

アスカは答えることができなかった。代わりに瞳が恐怖の色に染まる。

その目が叫んでいた。

ああ、私はこの人にも、捨てられる。

二人の間の空間に張り詰めた緊張が空間に位相差を作りそうなくらい高まっていた。

その時、ドアをノックする音が、崖っぷちにいた二人の思考を断った。

「おーい、起きてるかー? まさか二人して寝てんじゃないよね? おーい」

夫の声だった。伊吹ははっとして背中を向けたドアを見た。そしてノックで揺れるドアを確認すると、いくぶんほっとしたような顔をして息を吐くと同時に、顔を俯けて乱暴に頭を掻いた。

「入るよ」

そう言うと、彼は返事も聞かずに部屋に入ってきた。普段の彼ののほほんとした様子からは遠い、やけに俊敏な動作だった。目つきも、普段よりはやや鋭いように見える。

既に椅子から腰を上げていた伊吹はドアの前で彼と見合う恰好になった。そのため、アスカには二人がすれ違うときの伊吹の顔は見えなかった。しかし。

なんて顔してるんだ、お前。

ごめん。後、お願いします。

アスカには、すれ違いざま、二人がそんなやり取りをしたような気がした。

36

そしてシンジは再び墓地へ来ていた。彼の墓はそこにちゃんとあった。鈴原トウジ。結局はエヴァンゲリオン3号機搭乗によって受けた傷が本となって死んだ彼の墓は、第参共同墓地にあった。シンジは気付かないうちに、自分が殺した友人の墓の近くを何度も素通りしていたことに今さら気付いた。それほどまでに第参共同墓地に埋葬されている人の数は多い。

「灯台下暗し……馬鹿みたいだ、おれ」

耐え切れず悪態を吐くが、自虐的な悪態を吐く癖を諌めてくれる人ももういない。彼は、最も残酷な方法で彼女に振られた。

そもそも全てが裏返しだった。彼女の弱いところを知っていて付き合っていたはずなのに、ただいい彼氏の振りをして彼女を甘やかし、彼女を弱くするだけ弱くして、いざとなったら掌を返した。そして、結局は彼女を酷く傷つける形で振られた。まるで計算ずくでしたように、完膚なきまでに傷つけることに成功した。彼女は大事にしなければならない相手のはずなのに、なぜ自分はまるで逆のことをしたのか。

その理由が分からないわけではない。ただ、それを素直に認めたくはなかった。

目の前に墓がある。いや、違う、とシンジは周りを見渡した。

彼は墓に――自分の中にある変えがたい悪の結果に包囲されている。

冷え冷えとした石は静かに自分を断罪しているようにシンジには思えた。

必死に逃げ、しかし逃げられなかった。そして今、シンジは、結局のところ自分はこういうことができる人間なのだということを再び思い知っていた。

そもそも逃げ切ろうと考えたこと自体が間違いだったのかもしれない。どう足掻いても、自分に内在する悪からは逃げられないのだから。過去を仕方なかったと割り切っても、その記憶を断ち切って変わろうとしてみても、断ち切りがたく自分の中に存在している悪それ自体からは逃れられない。それが自分の中にある限り、いくらでもこういうことはできる。誰かを、出会う全ての人をここにある墓の主たちと同じような目に遭わせることができる。

自分という人間が生きている限りは、果てしなく。

「逃げ切れなかったよ」

ぽつりとシンジは呟き、墓石の隣に腰を下ろしてもたれかかった。硬い石の感触を背中に感じた。

「なーに黄昏モードで『逃げ切れなかったよ……』だよ」

背中から墓石越しに掛かる声。シンジが見上げると、視界の端に相田ケンスケの姿が見えた。

自分に歩き寄り覗き込む相田にシンジは「奇遇だね」と、この出会いが偶然などではないことを半ば分かっていながら言った。

相田は面白く無さそうにスーツのポケットに手を突っ込むと、煙草の箱を取り出した。そして、特徴のある茶色い箱から安っぽい100円ライターを取り出し、煙草に火を点けた。

「キャメル?」とシンジは訊いた。

「悪いか?」と相田は答えた。

「いや」

「なら、放っとけよ」

口の端に煙草を銜えながら言った相田は、落としそうになった煙草を手に持ち、煙を吐いた。それからシンジとは逆側にこちらは立ったままもたれて、また煙草を銜えた。そしてそのまま長い間、まるでシンジが墓の向こうに居ることなど忘れているかのように沈黙を守った。

烏が鳴く声だけが遠くに聞こえた。

「お前さ」

フィルター近くにまで火が及んで初めて相田は口を開いた。

「何?」

「何から逃げるんだ、今さら」

「……さあ?」とシンジはとぼけた。

相田はその答えを聞いて目を閉じ、もう既にフィルターに火が移っていた煙草を携帯灰皿に押し付けながらそっと言った。

「逃げられないよ、お前」

シンジは目を細めて後ろを振り返った。じゃり、と砂を擦った足元が鳴る。太陽を背負った相田の顔は黒く沈んでいた。

相田は太陽を背負ったまま、シンジの方に煙草の箱を投げて寄越した。シンジが辛うじてその箱を受け取って中を見ると、煙草の中に一本、何かを書き付けた紙巻きが混じっていた。

シンジがそれを開くのを見ながら、相田は続けた。

「どうしようもないもんだよ、人間ってさ。って、俺もそんなに人生経験豊富じゃないってか、むしろ人より少ないけど。オタクだし」

開いた紙には、汚い字でこう書かれていた。『悪いニュースだ。今日明日中に、動きがある。狙いは惣流と、もうひとつ、研究所にある俺たちの知り合いのデータだ。詳しくはお前の上司から聞けばいい。「ゼロ」からだと言えば分かる。俺もモニターされてる。この話題は出すな』

「誰も自分から逃げられやしない。お前だけじゃない、俺も、誰も」

シンジは立ち上がり、相田を見た。相田はポケットに手を突っ込んだまま、穴が開きそうなほどシンジの瞳の中を睨んでいた。あるいは、彼はその中に映る自分を睨んでいたのかもしれなかった。

「死人は死人。俺たちは不運にも生きてる。でも、放っといてもどうせ死ぬんだ、わざわざ死に急がなくてもいいさ。俺たち一人いてもいなくても、世の中はそれほど変わらない。なら、我を通してから、死ななきゃな」

そう言うと、相田は手に持った煙草を背を預けていた旧友の墓でもみ消した。ぽんぽん、と軽く墓石についた灰を払い、ゆっくりとシンジの方に歩き出す。

そしてすれ違いざまに、相田はシンジの手の内に何かを滑り込ませた。ずし、と思い感触が手に掛かる。

見なくとも分かる。それは拳銃だった。相田はしばらく歩き、足を止めてぼそりと言った。

「やるよ。足はつかない。……ちょっとした詫び。惣流のことの。それと、十年前のも込みで。いらないことを言っちまうのは昔からだよなぁ、俺って。お前とあんまり変わんないや」

シンジは怪訝な表情で相田を見つめた。立ち位置が逆になって、相田の顔はくっきりと太陽に照らされていた。

「惣流のこと、さ。あれは半分くらいはお前のせいじゃないよ。なんだかよく分かんないだろうけど、これもあの伊吹って人に訊きゃいい。それか、惣流に直接。あ、惣流に会ったら『あいつのことはこっちで何とかするから心配するな』って言っといてくれよな。そう言えば分かる。まあ、向こうが成功してれば、その必要もないかもしれないけど」相田はシンジには意味がわからないことを口走った。

シンジは問い返しも頷きもせず、ただじっと墓を見ていた。足音は聞こえなかった。

「そーやって、僕が全ての悪の元凶です、みたいな顔するなよ。乗れなった志願者の俺としてはすっごいムカつくから。お前が乗ってなくても、誰かが乗ったさ。俺とか俺とか俺とかがね。たまたまだよ、たまたま。お前はアレに乗れたからアレでやってしまっただけで、みんなどこかで何かしら悪いことをしてる」

背中ごしに声が掛かる。言葉を言い終わった後、相田がためらうように大きく息を吸う音がシンジには聞こえた。

「悪かったよ、あの時、あんなこと言って」

大きな荷物を下ろすような口調でそう言い残すと、今度こそ相田の足音が聞こえ出し、それはシンジから遠ざかっていった。

シンジは無言のまま、手の中に残った鉄の塊を見つめた。そして、黒い塊をベルトに差し、手元にある携帯電話の電源を入れた。

37

伊吹の去った部屋の中で、アスカは伊吹の夫、ヤマトと見詰め合っていた。さっき伊吹が座っていた位置に、ちょうど今彼が座っている。

「ごめんね、アスカちゃん」と彼は言った。もう、彼はアスカのことを「アリスちゃん」とは呼ばなかった。

自分だけがのけ者になっていた状況に気付いたアスカは少し不満げに、ええ、と答えた。

不思議だった。さっきまでは息も出来ないかと思えるくらいに沈んでいたのに、今は彼の言葉にちゃんと答えている。

それは恐らくは彼の口調のせいだった。彼はアスカに対してごく普通に話しかけたからだ。腫れ物のように扱うでもなく、意図して無視するでもなく、彼はアスカのことを全て認めつつ、それでも自然に話をした。

「んー。なんて言うか、ごめんね。のけ者にしちゃってたみたいで」

「……いえ」

アスカは少し間を置いて答えた。確かに不満ではあったが、その理由は理解できた。文句を言える筋合いではない。

しかし、彼はその答えに対して不満げにため息をついた。大きく肩を動かし、がっくりと俯く。

「んー。アレだね、物分りが良すぎるな、アスカちゃんは」

「そう……ですか?」とアスカは訊き返した。アスカちゃんという呼び名に馴染めなかったのか、君という呼び方で後が続く。

「うん。もっと感情をあらわにして普通だと思うんだ。特に君くらいの歳なら、まだもーちょい若くてもそんなにおかしくない。下手すりゃ学生やってるような歳なんだ。でも、君は凄く物分りがいい。周りのことを考えて、自分の状況を考えて、きっちり他人に迷惑を掛けないように行動してる。シンジ君と同じだ。よく出来てる。社会人として」

シンジ君。こともなげに彼はその名を口にする。アスカはずきずきとこめかみが痛むような感じを覚えた。

そんなアスカを、彼はじっと見た。

「でもね、中身はやっぱガキだ」

容赦ない言葉がざっくりと刺さった。

「君もシンジ君も。そこらへんにいるのと同じ、二十四、五の青二才。どんな頭良くて気取ってみても、やっぱりガキだよ、君らは」

アスカは何か言い返そうとしたが、何も言い返せなかった。確かに、自分たちは子供なのだ。それどころか、十四歳からの問題を今も引きずっている、とびっきりの子供なのだ。

「……でさ、こんな風に言ったら、まーた自分を責めるんでしょう、君らは」

大正解だった。

「マヤさんも言い過ぎたと思うけどね。やっぱり君は、もっとちゃんと考えなきゃいけないと思う。自分が本当はどうしたいのか、とか、シンジ君をどうやってとっちめてやるのか、とか」

聞いていたのか。アスカはさっきの伊吹との会話を思い出していた。しかし、とっちめる、とは?

「とっちめる、って、私そんな」

「ほれ、またそんなこと言うでしょう。よく考えてみなよ。普通にヒドイって、それ。あ、ごめんね、今、たまたま廊下で話聞いちゃったんだけど。普通言わんでしょう、そういうのって思ってても。やはりガキだね、彼も。ドラマの主人公にでもなったつもりで演出してしまったんだろう」

そう言って彼は苦笑した。そしてふーぬ、と息を吐きながら腕を組み、アスカを見て首を軽く傾けた。

「シンジ君にしたってそうだよ。物分りが良すぎるんだ。別に、馬鹿正直に背負おうとかしなくてもいいわけさ。君が辛くなったのはシンジ君のせいじゃない。でしょう? まあ、そういうの全然分かってなかった俺が言っても詮無いけども。マヤさんから事の次第を聞いてびっくりしたよ。どこの少女マンガだよ、それは、って」

アスカは無言のまま目を伏せ、こくり、と頷いた。

「だから、君には怒る権利がある」

「権利?」

「そう。高々二十四、五で、自分食わすだけで一杯一杯の男が、人一人の全てを荷物扱いにして背負おうなんて思い上がりもいい所だ。何考えてたんだか知らないけど、どうせ、君を上手いこと自分の思い通りにあしらって最後には潔く身を引こうとかそんなことでも考えていたんだろう。今だって、上手くやれなかった、とか見当違いのことで残念がってるのかもしれない。でもね、そういうのは傲慢って言うんだ。だから君には怒る権利がある。『私はそんなに安い女じゃない』ってね」

「安いですよ。あれだけ守られてて何も気付かなかったんですから」

「安いなら俺が買い叩くよ、君みたいないい子。小さな親切大きな迷惑、って言う。親切で始めたことでも、迷惑になることだってある。それに、結局ここまで君に全部黙っておいて最後に言う、なんてのは迷惑もいいところだよ。要するに君は被害者なんだ、あの、馬鹿野朗の」

「そんなこと……!」

馬鹿野朗、という言葉が出てアスカの顔が気色ばんだ。いくらなんでも言いすぎだ、とアスカは思った。シンジにはシンジの事情があり、思いがあった。言い知れない恐怖もあっただろう。それに精一杯折り合いをつけながら、彼はアスカを何とか守ろうとしたのだ。彼の持つ全てを明け渡してまで。たとえそれが独りよがりだったとしても、現に今アスカは伊吹の部屋にいて、彼女の夫と話をしている。彼の残した恩恵に与っているのだ。

そう思うと、自分が彼に決定的な打撃を与えた張本人であることも忘れて、アスカは目の前の男を力いっぱい睨んだ。噛み締めた奥歯から、ぎり、と音がした。

しかし、そんなアスカの顔を見て彼が零したのは、さっきまでの強い口調とは打って変わった柔らかい言葉だった。

「君はシンジ君のことが好きなんだねぇ。本気で。いいよなぁ、シンジ君も君も、みんなに愛されてて」

その言葉に険が削がれ、アスカは呆けた顔で彼を見た。

「俺は、君らに何もできない。どっちにもそれなりの事情があるのは知ってる。君らの事情は、君らだけのせいじゃない。でも、俺も他の人も君らに何もできない。俺も今色々言ったけど、何も責任なんか取れない。誰も、他人の人生の責任なんか取れない。君らのことをなんとかできるのも、君らの間に起きたことを背負えるのも、君らしかいない。君だけでも、シンジ君だけでもない。君ら二人だよ」

そう言って、彼はアスカを見た。普段よりずっと真面目な目だった。

アスカが見返すと、彼は少し目を逸らして、うろうろと視線をさまよわせた。しばらくそうしていたが、最後に彼は少しためらいがちに言った。

「参考になるかは知らないけど、一応言っとこう。実は俺、元戦自の出向技術兵員なんだ。でも今、俺はマヤさんと一緒になってる。まあ、そういうこともある。お互いがお互いをちゃんと想ってるなら、大体のことは、何とかなるよ。意外に」

戦自、という言葉を聞いて、再びアスカの顔がこわばった。しかし、彼の目は、それを見逃さなかった。

「君のせいじゃない。シンジ君のせいでもない。言ったろう? 自分の人生のケツは、自分で持つんだ」

彼は早口でそれだけ言って、立ち上がった。

「……さて、クサイ言葉も吐いたことだし、気難しい奥様のご機嫌取りに行きますか」

38

「ここ、伊吹さんのお宅ですか?」と玄関前に立った女は訊いた。

「はい、いぶきさんのお宅です」と、ドアから顔を出した男の子は答えた。そのすぐ後に、その男の子よりは少し年上の女の子――恐らくは姉なのだろう、少しませてしっかりした感じの子が顔を出し「はい、伊吹です。どちら様ですか?」と言った。

しかし、女はその質問には答えずに「伊吹マヤさん……お母さんはいらっしゃいますか?」とさらに訊いた。

姉と思しき女の子は、多少警戒したような表情を見せたが、弟の方は元気に「うん、います、呼ぶ?」と答えた。

「お願いできますか? ありがとう」と女は少し笑んだ。

弟はその笑みを見てから奥へと走り去り、玄関には姉と思しき女の子と女が残った。

「どちら様ですか?」と、女の子はもう一度訊ねた。

女は唾を飲み込んでから、「『ゼロ』から、と言ってもらえますか?」と小さな声で言った。

「ぜろ? ……0?」と女の子は訊き返した。

「そう、そういうあだ名なの。名前より、そっちの方が分かってもらえるわ」

女の子が不思議そうな顔をすると、女はまたさっきと同じに微笑んだ。女の子には、その顔はとても悲しそうに見えた。なぜだか、そう見えたのだ。

リビングから駆けて来た母親の背中に隠れて女の顔が見えなくなった後も、女の子はその女の悲しげな笑い顔について考えていた。


伊吹はブレーキをゆっくりと踏み込んだ。かなりのスピードで走っていた車は、彼の目前でぴたりと止まった。

さっきの女、そして、シンジからの電話――サイドブレーキをかけ、車のキーを抜きながら、伊吹は怒涛のように過ぎ去ったここ数時間のことを考えていた。

「『よう。出たね、馬鹿野朗君。酷い顔だ』」アスカより一足先に車から出ると、間髪入れずに伊吹は言った。彼女の後に、無言のアスカが続く。

「……ほんとにひどいですね、そのセリフ」

壁際に座り込んで伊吹たちの乗る車を出迎えたシンジは顔を上げながら答えた。伊吹の後ろに着いて降りたアスカに多少戸惑い顔を見せたものの、伊吹が予想していたほどにはその表情や受け答えは酷くなかった。

あくまでも軽い口調で伊吹は苦情を受け流した。

「今のは旦那からの伝言」

あくまでもアスカは口を開こうとしない。横目でそれをちらりと確認した伊吹は息を吐いて黙った。

「……で、シンジ君。聞かせて貰える?」会話の終わりを確認して伊吹は言った。

「ええ……でも、ここではなんですから、中でしましょう。困ってたんですよ、おれのセキュリティじゃ、入れなくなってて」


研究所の最奥、コンピュータルームで、ゆっくりとシンジは事の次第を話し、同時に、伊吹に伝えられた事の次第を聞いた。

「動いている奴がいます。恐らく、今日明日中に、動く」シンジは伊吹に、彼が受け取った紙巻を渡した。「狙われているのは、彼女と……綾波のデータです」

それは伊吹が先ほど、家を訪ねてきた女、洞木ヒカリから得た情報と同じだった。彼女は伊吹に「惣流さんと綾波さんのデータが狙われています、研究所へ向ってください」とだけ伝えて、走るように逃げ去った。

「私が洞木さんから貰った情報と、同じね」

「洞木?」

「そうよ、覚えていない?」

「……委員長」シンジは少し考えて、その名に思い当たった「でも、どうして?」

「それは、彼女に訊くべきね」

伊吹は叩きつけるように言って、アスカを見た。

アスカは驚いたように伊吹を見ると、おずおずとシンジに逸らしていた視線を合わせ、語りだした。

「慰霊祭の日に、会ったのよ」それは、久々に聞く彼女の声だった。

少し掠れた声を聞き逃さないように、シンジはじっと動かずに耳をそばだてた。

「多分、私のためなんだと思う。思い上がりかも、しれないけど」

シンジは助けを請うように伊吹を見た。伊吹はため息をついて、その舌足らずな説明を補足した。

「この子にあなたのことを教えたのは、洞木さん。まあ、復讐か何かだったんでしょうね。でも、危険を顧みずに情報を運んだことで、チャラ、ってところかな」

その言葉でシンジは得心がいった。相田の言葉の不明な部分、嵌らなかったピースが、洞木ヒカリの存在でぴったり合わさった。

「『あいつのことはこっちで何とかするから心配するな』、とゼロ――相田が言ってました。彼女のことだったんだ」

相田。伊吹は聞き覚えのある名前に首を捻り……そして数秒の後にその人物を思い出していた。サード・チルドレンの周辺の人間の一人、相田ケンスケ。フォース・チルドレン候補、マルドゥック機関(であった技術部中枢、赤木と伊吹による)最終選考で脱落。

そうか、彼が。伊吹は今さらながら、世界の狭さと、あの使徒戦がそれに関わった者たちにもたらしたもののあまねき広さに驚愕した。

しかし、感嘆している場合ではない。相手が動いているなら、当然、自分たちの動きも察知されているはずだ。

「その話は後よ。……シンジ君。リリスのデータ『まで』狙われる理由、分かるわよね?」

「再生技術、義体技術、治療延命技術、エネルギー技術……挙げはじめたらキリが無いですよ」

シンジは呆れ顔で答えた。リリスのデータは、アダムのデータと並んでこの研究所の核心のひとつだ。

しかし伊吹は、その答えに人差し指を立てた。

「大事なことを忘れてるわ、シンジ君。それだけなら、使徒のデータと変わらない。リリスの、彼女の真の価値は」そこで言葉を切ると、伊吹は何重にもパスワードの掛かっているそのデータの、最後の錠を開いた。

「彼女が、人間と使徒のハイブリッドであることよ」

アスカの目の前に、彼女が初めて知る情報が広がっていた。アスカには始め、目の前にいる二人の「リリス」をめぐる会話の意味が理解できなかったが、表示されたデータを見て、その意味がはっきりと分かった。綾波レイ、使徒としての識別個体名称、「リリス」

そうだ、確かに彼女は普通ではなかった。

アルビノの特徴を示す、病的に白い肌。人ではあり得るはずのない、青みがかった髪。そして、自然にそうなっているのなら、極度の弱視に陥ってしかるべき、色素の抜けた赤い目。

だが、それでも。人形と罵っていても。まさか彼女が本当に人間ではないなんて、思ってはいなかった。

「……ねえ」とアスカは呟いた。

シンジと伊吹は、はっとした顔でアスカを見た。

もはや、限界だった。

「何よ、何、なのよ、これ、は!」

あまり意味をなさない質問だった。答えはわかりきっている。

「綾波レイの全て」

そう言うと伊吹はモニターに一覧を表示させ、指差した。画面上には綾波レイやS2理論、そして使徒に関するデータが含まれたフォルダが表示されていた。つうっ、と伊吹の指が画面上を動く。一覧表示されているフォルダを一番上から一番下までなぞり、伊吹は画面から指を放した。

「そしてこれが、人類の持つ、ヒトが持つには過ぎた知恵のすべて」

アスカは叫んだ。

「く、狂ってるわよ、こんなの!」

「そうよ」伊吹はこともなげに答えた。その反応は、自分が十年前、自分の上司であり先輩であった赤木のしてきたことの全てを知った時の反応とよく似ていたからだ。

「狂ってるわ。ねえ、アスカ」

伊吹はもはや、アスカのことを、あなた、などとは呼ばなかった。家を出る前、夫に叩かれた頬が、じんと痛んだ。

「ネルフは、狂っていたのよ。チルドレンを狂わせたのと同じに。私も、先輩も、葛城さんも、みいんな。……そして、その狂った研究を、また、使おうとしている奴がいる。放っておけないじゃない?」

伊吹は言って、無理矢理に笑みを作った。

その瞬間。

全てが真っ暗になった。

first update: 20050228
last update: 20050903
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