- The rest stories of "Project Eva" #01.5(i) - 

"I need you 2"

39

私は思い出した。あのひとは私のノートパソコンに「I need you」と打ったのだ。でも、私は彼女には必要ではなかった。だから、本当は私が彼女を必要だと思っていたからこそ彼女は私のノートパソコンに、あの怖ろしく速いキータッチで、あの白くてとてもほっそりとしていた爪の短く切ってある指でそう打ったのだと思う。

なぜこんなことを今になって思い出したのだろう?


モニターの向こうで潰されていく壁だったものが見える。5つ隔壁を越えれば、彼らは私のいるここ、メインコンピュータルームへとたどり着くだろう。私に残された時間は、後30分もない。そして、主力部隊をその時間だけここに引き付けることができれば、彼らは逃げ切ることができるだろう。あの場所に辿りつきさえすれば大丈夫だ。『彼女』は生きている。言い残しが残念だが、まあ、何とかなるだろう。彼らは逃げ出しもしたけれど、なんだかんだでちゃんとここまで来た。多少――いや、正直かなり無理やりではあったけど。

それより問題なのは、こちらで懸命に壁を破壊している彼らのほうに私が用意できるのが「残念でした、外れです」の言葉だけだということだ。もはや私の傍らのコンピュータには彼らが欲しいものは何ひとつ残ってはいない。つい今しがた、きれいさっぱり消し去った。そして彼らの剣幕を見るに、どうやらそれを許してもらえそうにはない。許してもらえなければ、その先には死がある。

仕方のないことだ。彼女を連れてきた時からもう覚悟は決めていた。それに、この状況を呼び込んだのは他ならぬ私だ。誰に文句を言う必要もない。文句を言われる必要は大いにあるのかもしれないが、それは、状況が状況だけにチャラにしてもらおう。

――あれ? 何か間違っている気がする。

私は死に逃げる。そうなると、私の負債がチャラになる。私は誰に文句を言われることも無いだろう。みんなは生き残り、誰も損は……違う、そうじゃない。言えなかった文句はどうなる?

私は自分の手を見た。

あの子達とつなぐための手、あの人とつなぐための手だ。

……あ、恰好つけて死ねないじゃない、私。


私は端末を見た。予備電源はまだ生きている。外への回線をつなぐことは難しいが、手持ちの時間はマイナスではない。あのひとが端末に文字を打ち込むようすを思い出した。あの速さの何分の一にでも、私は追いつくことができたのだろうか。

あのひとのことを必要だと思いこんでいて、でも手に入れられなかった私は、けれども真に必要なものを手に入れた。愛する夫と娘と息子と弟と妹だ。愛すべき人たち、私はそのためなら何でもできる。

ほんとうに、なんだってできる。

できるはずだ。

40

暗くなったのも束の間、すぐに照明は点いた。しかし、それは先ほどまでよりは薄暗い光を放っていた。

「来た?」

言葉が終わるか終わらないかの内に、窓際から数発の銃声が響いた。何発かが机の上の端末に直撃し、画面が火を噴く。

「うわっ」情けない声を上げ、シンジは思わずアスカの頭を抱えて床にしゃがみこんだ。伊吹はある程度予期していたのか、無言のまま伏せた。そして銃声が収まる一瞬を見計らい、ポケットから取り出した缶にライターの火を近づけ躊躇なく端末に火を放った。

「やばい! こっちへ来て、あっ!」

伊吹が言い終わる前に先ほどより大きな銃声が響いた。耳鳴りがする中で伊吹は相手の正体を苦々しく結論付けた。

『旧戦自』それが彼女の結論だった。

コンピュータルームは地下のメインコンピュータに連なる端末であり、その警戒は他の部屋よりも重視されている。ネルフの装備を流用しているメインコンピュータの隔壁とまではいかないとはいえ、警察に配備されている装備程度では役に立たない。それを突破し得る装備を持っていて、なおかつアスカを狙うゼーレ・シンパたちと利益を同じくする攻性の組織。となれば日本では、戦略自衛隊の解体と共に地下に潜った特殊部隊メンバーを中心とした人々くらいしか考えられない。

それは考えうる最悪の可能性だ。なぜなら――

「当然強化されてる、よね」

伊吹は苦笑いで言った。彼らに施されているであろう肉体の質的強化技術は、この研究所が「手土産」として差し出した技術を元にして開発されたものだ。敵に塩を送ら続けている現状から脱却する、それが彼らの行動理由の一端なのだろう。狙われる対象にいつの間にか綾波レイのデータが加わっていた理由も、恐らくそこにある。

自業自得、因果応報、言い表すのは簡単だ。


「――伊吹さんッ!」

シンジは叫んだ。伊吹は机の向こう側にいて彼からは見えない。腕の中にいるアスカは、銃声が嫌なのか彼の腕の中にいるのが嫌なのか、何か喚きながらいやいやと身体を振ってもがく。アスカの爪がシンジの頬を引っかき、顔に数本の筋が走った。

それでも耐えて抑え続けていると、伊吹が机の横からもぞもぞと顔を出した。

「怪我はない? シンジ君」と伊吹は訊いた。その間にも銃声は響き、机の上のペン立てが撥ね飛び宙を舞った。

「くっ! はい、大丈夫です!」

シンジは答えた。アスカにつけられた引っかき傷は怪我の数に入れない。

「もう出入り口は押さえられてるわ。向こうから地下に! もう少しでガラス吹っ飛ぶわよ!」

「はい!」とは言ってはみるものの、シンジは動けなかった。アスカがうずくまってしまったからだ。アスカは体育座りでうずくまり、何かを呟いていた。

「アスカ? ……アスカ!」

シンジを押しのけて伊吹が肩を揺さぶるが、反応は薄い。相変わらずアスカは虚ろな調子で何かを繰り返していた。その姿は哀れだったが、伊吹はその姿を見て苛立ちのほうをより強く感じた。しかし、そのまま放っていくわけにはいかない。伊吹はアスカの口元に耳を近づけた。

「何で? 何で? 何でよ……!」

アスカは繰り返し呟いていた。歯の根があっておらず、口からがちがちと歯の当たる音がしていた。


その言葉を聞いて、やっと伊吹は自分が彼女に感じていた不快感の正体を知った。それと同時に、1年前アスカに再会したとき、どうしても彼女を放っておけなかった理由も。

伊吹は理解した。この子は、私と同じだ。伊吹はアスカに、かつての自分を見ていた。あの時、机の下でクッションを抱いて小さくなり、自分の身に降りかかったいわれのない不幸を呪った伊吹がそこにはいた。

だから伊吹はアスカの頬を張り――もう一度、1年前と同じように彼女を抱いた。

「アスカ」伊吹は耳元で囁いた。

「落ち着いて」

アスカは息を呑んで伊吹を見た。伊吹は柔らかい、銃声が響く周りの状況とは全くそぐわない笑みを浮かべていた。

「逃げなきゃ、死ぬわ。逃げるのよ」


転がり落ちるように3人は地下へと潜った。と、同時に、逃れた部屋から大きな爆音がした。

「……よし、ここまでくれば、あと4、5分は大丈夫」

天井に手が届くほどの小さな部屋に逃げ込むと、隔壁を確認した伊吹はそう言った。だが、そう言う間にも衝撃音は続いている。この小さな部屋も長くはもちそうになかった。足元に視線を移すと、肩で息をしているシンジと相変わらずうな垂れたアスカがいた。

「シンジ君、これ、お願い」

伊吹は端的に言って、コンピュータルームを抜け出す時から小脇に抱えていた小さな鞄を投げた。黒い小さなアタッシュケースだ。薄暗い照明の中でも硬そうに黒光りするそのケースはよく目立った。

シンジは疑問の表情で小さいながらも結構な重さの鞄を開いた。

中には数枚のディスクと、長期保存用の上質な書類、そして、データカセットといくつかのサンプルや赤い破片のようなものが入っていた。

「これは……」

「人類の持つ、過ぎた知恵のすべて」

伊吹は壁に引っついている電子錠を弄りながら、コンピュータルームで言った言葉を繰り返した。シンジは伊吹を見つめ、伊吹も視線を逸らさずシンジを見つめ返した。伊吹の瞳にシンジが映る。かつては人類全体の問題を勝手に背負わされたシンジは、今ふたたび人類全体の問題を自らの手の内に収めていた。

伊吹が鞄を放るさまを呆然と眺めていたアスカは、シンジが何も言えず鞄を手に入れたところでやっと事態を飲み込み、慌てて伊吹の肩にすがった。がくがくとその肩を揺さぶる。

「ねえ、どうしてよ。捨てちゃいなさいよそんなもの」

「捨てられるわけないわ」

伊吹はアスカに肩を揺さぶらせ、しかし手は止めないままでそう言った。何を今さら、とでもいうようなその声はあまりにもはっきりとした調子だったので、シンジまでが目を見開いて伊吹を見た。アスカに至っては怯えたような表情さえ浮かべていた。

伊吹は語り始めた。

「――あの時。私には、全てを闇に葬ってしまうことができた。私は赤木先輩を除けば、全ての技術を知っている唯一の人間だったからよ。もし私がその気になれば今の事態は避けられた。本部にアーカイブされていたデータと、私と、シンジ君、あなたを消せば」

あなたを消せば、という言葉に、シンジとアスカは背筋を振るわせた。その口調にも目にも、その他のどこにも嘘やまやかしはなかった。彼女は本気で一度は、彼を消そうと考えたのだ。自分さえ。

「そう、そうすれば何も起こりはしなかった。あなたたちは出会わなかった。私はここにはいなかった。この技術で死ぬ人もいなかった。この技術で助かる人もいなかった。……そのほうが良かったのかもしれない」

独り言のように伊吹は言葉を吐き続けた。シンジもアスカも、何も言えずにただ伊吹の言葉を聞いていた。遠くで聞こえていた爆発音が少しずつ大きくなっていく。来たか、とシンジは思った。しかし、今の彼には伊吹の言葉を止めさせる気は起こらなかった。彼女の言う通りだとすれば、消えるべきものはこの部屋に全て集まっている。

「でも、私は選んでしまった。こっちを。あなたたちを生かすこと、いや、違うな、そんな崇高な理由じゃない。この知恵を持ち続けること、自分が生きることを私は選んだ。やっぱり、私も科学者だったから。先輩や、あなたたちのお母さんと同じね。……狂ってるわ」

狂ってるわ、という言葉を吐き捨てるように口にして、伊吹はアスカ、そしてシンジを見た。そしてキッと彼らの目を見つめ、言い切った。

「誰も、やってしまったことそれ自体は変えられない」

伊吹は言い切って、でも、と続けた。

「だからこそ、これからのことはあなたたちに選んで欲しい。あなたたちにはその権利がある。それはいつでも潰すことができる。――そのボタンを押せばいい」

伊吹は手早く機械の操作を終えると、鞄を指差した。良く見ると、取っ手の近くにカバーつきの小さなボタンが取り付けられていた。

そうしてまで。シンジは薄笑いで話を終えた伊吹を見た。おれたちに選ばせようというのか。

「伊吹さん、……あなたは、狂ってる」

シンジははっきりと言い切った。伊吹は満面の笑みで応じた。救われた人間の浮かべる、憑き物の落ちたような笑みだった。彼女はやっと、人の手には余る知恵を、しかるべき人間に明け渡すことができたのだ。数奇な運命のせいでずっと番人をさせられてしまっていたが、その知恵はそもそもシンジの母親や、アスカの母親が見つけたものだ。そう考えると、彼女こそが一番の被害者だとも思えた。

「おれは」シンジは続けた。「そんなのを選ぶ資格がある人間じゃない。……彼女だって。分かるでしょう? なのにこんなもの渡されて、どうすればいいんですか、マヤさん……!」

「……どうして、私がこの場所に研究施設を建てたか分かる?」

シンジの渾身の叫びをあっさり無視して唐突に伊吹は訊いた。シンジは自分の言葉を無視されたこと以上にその突然の質問にあっけにとられて、衝撃音が着々と大きくなっているさなか、しばしまともに考えてしまった。

「それはね」

伊吹は天井の取っ手に片手で掴まりながら言うと、空いた手で電子錠の開錠ボタンを押した。

途端、ガコン、と音がして床が消えた。隔壁であった床が開いたのだ。

しまった、と思ったときにはすでに遅く、天井にぶら下がる形になった伊吹以外――シンジとアスカと鞄は、隔壁の下へと落下した。

どさっ、という音、そしてそれに続く駆動音に被せるように、伊吹は言った。

「ここにある直通リニアラインが、外からジオ・フロントに入る、残された最後の道だからよ。大丈夫、あなたたちは――」

隔壁が閉まる直前にシンジが見たのは、ひびがひどくなったさっきの部屋の天井と、見覚えある表情の伊吹の顔だった。ああ、とシンジは思い出した。昔と同じだ。自分は何もできない人間なのに、こうして――

その思考が結論に至る前に、頭を打った彼の意識は闇に沈んだ。

41

リニアラインが止まると、シンジはとりあえず前へ足を進めた。アスカは亡霊のように何も言わず後ろに続く。その足取りは重かったが、シンジにはその手を引くことはとてもできなかった。アスカにも、彼の手を取ってついて行くことはできなかった。

それでも彼らは進む。それはほとんど惰性だった。シンジにもアスカにも、前に進むはっきりした動機などない。銃を取りこの場所へと向った彼の決心はやつれた彼女を見て揺らぎ、伊吹の車の前に立ちはだかってまでこの場所へと向った彼女の決心もまた、暗い目をした彼を見て揺らいでいた。

『自分は、いないほうがいいのではないか?』

伊吹から渡された鞄はその疑問を肯定しているように思えた。

ふと、シンジは後ろから足音が聞こえなくなっているのに気付いた。そして振り返ると、少し後ろでアスカは足を止め、ぽつんと立っていた。

操り人形の糸が切れたみたいに腕が力なくだらんと垂れ下がり、今にも前のめりに倒れそうだった。

「ねえ。どうして歩いているの?」

うなだれたままのアスカが言った。

それはもっともな問いだ、とシンジは思った。おれには当てはまる。しかし、彼女はそうではない。

だからシンジは誤魔化すように「そりゃあ、追いかけられて――」と答えようとして、途中で言葉が続かなくなった。

アスカが狙撃手のような鋭い目をしてシンジを睨みつけていたからだ。

「どうしてそんな風に適当に誤魔化そうとするの? 『逃げないでよ』」

アスカは狙撃手の目をしたままで言った。シンジには、アスカがわざと『逃げる』という彼の癇に障る言葉を使っていることが判った。

「……逃げてなんか」

「ないって言うの?」

シンジには言い返すことはできなかった。

「私には逃げる必要なんてないわ、その鞄だってそう。ここで潰して、その腰にある銃で私を撃てばいい。そうすれば、あなただけなら、簡単に逃げられる。なのに……なのにどうして、私を連れて逃げるの?」

「それは――」

「君を愛しているから、なんて歯が浮く科白、言わないでね」

シンジには、アスカの突然の変わりようがわからなかった。なぜ彼女がそんなに怒っているのかわからない。

自分は、彼女のために――

「今、『なんでおれはこいつのためにこうしているのにこんなに責められなきゃならないんだ』とか思っているでしょう?」

彼女が怒っているのはまさにそこだった。

彼女はもうすべてを知っている。その上で、ここに来た。ほんとうは、死ぬほど怖い。銃声や爆発音はあの頃の記憶を呼び覚ます。パニックで頭がおかしくなりそうだ。それでもここに来た。

なのに彼は、まだ彼女を何も知らない人間のように扱う。

それは、侮辱だ。

「なめるな」

一言、きっぱりと言い切った。

「……私はあなたの恋人になれたと思ってた。でも、違ったんだね」

「何を」

「私はあなたに飼われてた。……ありがとう、守ってくれて。でも、もうそんなのは嫌。私は気づいてしまったんだから。自分がどんなにずるい人間かってことも、あなたをどれだけ独りで苦しませたかってことも」

「ねえ、ア――」

そこで彼の言葉は止まった。アスカは、はっと笑った。嘲るようなその声は昔の彼女の調子にそっくりだった。

「なんて呼ぶつもりなの? ……私は、もうあなたを六分儀なんて名前じゃ呼ばないわ。ねえ、『碇シンジ』」

彼がそう呼ばれたのはほんとうに久しぶりで、そう呼ばれてしまえば、もうそれ以上、壊れかけたタフな人間「六分儀シンジ」の仮面をつけ続けることはできなかった。

「……嘘つきだって言いたいの? 確かに戸籍上の名前じゃないけど、親父の苗字だよ、偽名ってわけじゃないさ。君みたいにね。自分は名前まで騙ってたくせによく言うよな、『惣流・アスカ・ラングレー』」

予想外の反撃に、少しアスカが怯んだ。

「半端に昔を持ったまま生きていられたあなたとは違う、私は」

「僕に持っていて嬉しいような『過去』があるとでも?」

「……だから捨てたの?」

「そうだよ。でも、そんなことをしたって逃げ切れやしないんだ。最初から解ってたんだ。その通りになった。結局、君が現れて、何もかも終わってしまったんだから。ああ、別に君のせいってわけじゃない。いずれそうなるようになってたんだ。元からそういう人間だった。それだけのことだよ。誰も彼も殺してしまった。ミサトさんも僕のために死んだ。君だって二度も傷つけた、洞木だって、きっと――」

「何でも自分ひとりで背負ってるみたいな顔しないで」

シンジはハッとした。それは、自分がベルトに差している銃をくれた彼が自分に言った言葉と同じだった。しかし、アスカはそれだけでは終わらなかった。

「あんたがあんただからって、何で全部が自分のせいになるのよ。それに。全部捨てちゃってたのなら――この一年あたしの横にいた誰でもないあの男は、いったい誰なの?」

「さあね。でも、君だって同じだ。いいさ、君は全部捨てて新しい人間になったんだろう。じゃあ、おれと一緒にいたあの女はいったい誰? どこに行ったんだよ」

アスカは怯みながらも、あの日見つけた答えを言おうとした。

「違う! 名前は変わってても、私はちゃんと、あた――」

「ほんとうに?」

皆まで言わぬうちに先回りしてそう訊かれると、勢いを失って言葉を返せなかった。言い切りたい。しかし、言い切れない。のうのうと一年を過ごしてきた私の中にも、ちゃんとあの日のあたしはいる?

アスカはどうにかして言い返そうとした。

もう、後先など考えてはいられない。忘れたと思っていた気持ちは死んでなどいなかった。このやりとりの半分は、子供だった彼と彼女の、やり残された子供のけんかだった。

「……そんなのわからないわよ!」

「ほうら、ボロが出た」

「うるさい! ……ちゃんと覚えてるわ。あの時は抱きしめてくれなかった。今もまたそうやってあたしを」

「抱きしめてたじゃないか、ちゃんと」

「誰を? ああ、確かに抱かれてたのかもね。でも、あたしはあなたに抱かれていたと思ってても、あなたはそうじゃないって思っているんでしょう? あの私は――アスカじゃ、ないって。ねえ、じゃああなたはあの時、誰を抱いてたの!? アスカの代わりに」

もはや話の糸は破滅的にこんがらがっていた。

「それは――」

その言葉を最後まで言い終わることはできなかった。

アスカの後ろで、彼らがここまで乗ってきた車両が吹っ飛んだからだ。

「うわぁっ!?」

アスカがその爆風で前に吹っ飛び、少し離れていたシンジも後ろに吹き飛ばされた。アスカは横倒しに床を転がって意識を失い、シンジは鞄を抱いたまま後ろ頭を強かに打った。

シンジががばっと身体を起こすと、燃え上がる車両の後ろから黒い装甲服を来た者たちが姿を現そうとしていた。

彼らはシンジの手に鞄があるのを見ると、銃口をアスカに向けた。


そのとき。


彼は自分が何を喚いていたのか自覚していなかった。

しかし、確かに彼はこう言った。自分が拘っていたもの、昔の自分、今の自分、昔の彼女、今の彼女――そんなもの全てを通り越して――

「アスカ!」


どうしてだろう、とシンジは思った。おれはこの女と口汚く言い争っていたはずなのに。

どうして――ああ、そうか。

シンジは一年前の雨の日を、その数日後の朝を思い出した。

そうだ。最初から、答えなんて出ていた。

もうあの日の僕も、今のおれも、自分の全ては彼女に、好きだ、と告げてしまっていたんだ――

そこで、彼の意識は途切れた。


アスカが自らに圧し掛かる重みに意識を呼び覚まされると、そこに見えたのは自分の上で肩から血を流すシンジと、シンジの持つ鞄のせいか銃を打つ手を止め、ゆっくりと近づきつつある装甲兵の姿だった。

彼女は朦朧としていた。しかし、それでも彼女は、あの失われた子供時代に身体に染み付けた技術で、彼女のことを身を挺して助けた恋人のお陰で与えられたチャンスを見事にものにした。

彼女が天井へ向けて撃った銃弾のうち一発は、彼女の肩を外すと同時に見事に天井を走る水道管に直撃し――

ほんの小さな亀裂から流れ出した水の奔流は彼女たちと装甲兵たちを反対の方向に押し流した。


アスカは歩いていた。衝撃とぶり返し始めた熱で朦朧とする意識を何とか叩き起こしながら、外れて激しく痛む右肩をぶら下げ、そしてもう片方の肩で自分よりずっと重く、しかも鞄まで手に持っている男を支えながら、それでも前に向って歩いていた。

ぜい、ぜい。

息が切れる。肩が痛む。重い。膝からも肘からも血が出ている。満身創痍だ。

しかし、彼女は足を止めない。

なぜ自分が歩いているのか、彼女は自分でもよくわかっていない。どうしてだろう、と思う。見捨てていけばいいのに、自分が彼にそう言ったのに。自分だって、そうしたって良かったのに。

しかし、どうしても、このまま彼を捨ててはいけなかった。彼が憎い。でも、どうしてもあの頃のように、嫌ったりできない。

ならば、その気持ちを確かめるまで、止まれない。

「何が……『大丈夫』よ。『痛みには強いんだ』よ。あんた、てんで駄目じゃない。見てなさい。最後に恰好つけたまま終わらせられるほど、安い女じゃないわよ、私は――」

背後から排気音が聞こえる。頭が空洞になったように、その中に音が響いて、意識がまた遠のく。

それでも足は止めない。

目の前に、赤い壁のようなものが見える。眼球内出血? これは、もう、ダメかもしれない。

「ごめんね、シンジ――」

アスカは最後の気力を振り絞って懐かしい色をした壁に手をかけ、そのまま壁の向こうへ倒れこんだ。


目標が入り込んだ後、ジオ・フロントと呼称されるその巨大な球体は、まるで卵子が受胎時にその外側を膜で覆うのと同じように防壁を展開し、その赤い壁は何人の侵入も許さなかった。どんな攻撃を加えてもその壁には傷ひとつ付かず、むしろ封鎖された空洞の中での爆発で自分たちがダメージを受けるほどで、なす術がなかった。

そうして立ち往生するうち、無線から「作戦失敗、退却せよ」の報が入った。報を受けた者が問いただすと、無線機を持つはずの隊員に代わって、若い女の声が聞こえた。

「すでに戦闘は終了しました。そちら側にも何人か犠牲者が出ています。退却しなさい。今ならこれ以上の死人は出なくて済む」

「貴様は……」

「どうせ、そっちにはもう誰も入れないんでしょう?」

状況を言い当てられて、彼は慌てて問い返した。

「どうしてそれを?」

しかし、無線の向こうにいる女は彼の疑問の言葉など意に介さないようすで、独り言のようにぶつぶつと意味の分からないことを呟いていた。

「結局、そうなったか……人の身に過ぎた知恵は女神様の元へ還る、ね……やっぱり、私ごときにアレの管理は無理でした。でも、最後は、これでよかったですよね? センパイ……」

43

目を開けると、そこには静謐な世界が広がっていた。見渡す限り砂浜と赤い海がどこまでも続いていて、まるで世界の全てが砂になって崩れて平らげられてしまったようになだらかだった。

そのなだらかな世界は、目が霞むくらい遠くでおぼろげに空と区切られていた。雲にけぶって判然としない水平線と地平線の上に、遙か高い空があった。

遠く、非常に遠くに、波の打ち寄せる音が聞こえる。

シンジはそんな世界にひとり取り残されていた。

ここは? シンジは口には出さずに考えた。さっきの赤い海の続きにしてはずいぶんと様変わりしている。誰かにここがどこかを訊こうにも、周りには人間どころか岩のひとつもない。アスカももういない。

仕方がなくシンジは砂地に寝転んだ。抜けるような空を見上げると、青が目に染みて涙が出そうだった。

――これで、ほんとうに独りになってしまった。

理不尽なものだ。いつも、大切なことに気付いたとたん、もう2度と取り返しがつかなくなる。

いつだって。

簡単なことだった。価値があろうとなかろうと、資格があろうとなかろうと、自分はここにいたい。ここにいるのだ。

ずっと、自分が許されてないような感覚を覚え続けてきた。それは気のせいなんかではなかったのだ。許してもらうべき相手は、自分自身だった。彼は自分に許されていなかった。一週間前の凍えた墓地のことを思い出していた。あの時だってほんとうは、そこには自分を責める者などいなかった。責めていたのは、凍えさせていたのは、自分自身の心だ。

――最後に自分の気持ちを許してやることができるのは、許してやらなければならないのは、自分しかいないのに。

ならば、とシンジはまばたきをして息を吸った。

「おれは、おれを許してやる。おれはここにいていい、ここにいたい」

シンジは誰もいない平原で宣言した。

彼の声は遮るものなく響いたが、それを聞くものは彼以外になかった。


……彼は勢いに任せて、ひとつ、嘘をついた。


目を開けると、そこには知らない天井があった。とはいえ、今さらその言葉を吐くほどシンジは子供ではなかった。

首を動かすと、頭が枕に擦れて、がさ、という音がした。特に痛みは感じない。手足の指先を動かしても、痛みはない。肩が少し痛むので、撃たれた傷は残っているのが判った。どうやら倒れてしまってからそれほどの時間は経っていないらしい。

シンジが腕に感じる点滴の感触を確かめようと布団を捲ろうとしたとき、顔が影に隠れた。

見上げると、伊吹が彼の顔を覗きこんでいた。しばし言葉が出ず、見つめ合う。言葉が出ないままのシンジに、伊吹は泣き笑いの表情で笑いかけた。

そしてその口から、こんな言葉が滑り出した。

「……遅いよ、馬鹿……」

遅い、という言葉の意味がシンジには理解できなかった。

シンジが目を覚ましたのは、彼とアスカが封地区域周辺で見つかり病院に担ぎ込まれてから丸2日が経った後だった。アスカは担ぎ込まれた次の朝に目を覚まし、その日に退院した。当然伏せられている情報ではあったが、強力なAT-フィールドで自らを覆ったジオ・フロントにはその場にいた者は誰ひとり踏み込めず、その後発表された研究所の爆破「テロ」の影響もあって正式な調査計画は封地解除計画ごと立ち消えとなった。

独国政府から正式な彼女の身柄引渡し要請が来たのは、その日の昼だった。

「……アスカは?」

「あと少しで、空港に着くころね。引き止めたけど、無理だった」

シンジは目を閉じて深く息を吐いた。さっき夢で見た光景が広がる。例えまわりにどれだけのモノが溢れていても、ここはあの場所と同じだった。

彼女がいないだけで、ここはこんなにもからっぽだ。

「シンジ君。これ」

目を閉じたままじっとしているシンジに、伊吹は何かを差し出した。シンジは差し出された物を手に取った。白っぽい金属でできたひどく肉厚の、縦横の長さが等しい正十字――シンジはそれを見たことがあった。

「アスカから、これはシンジに渡して欲しい、って。これは、あなたたちがいた場所に――」

間違いない。それは、あの世界で無くしたはずの、ミサトの正十字だった。

ミサトの顔が脳裏に浮かんだ。あの時押し付けられた十字架。諭す振りをした彼女の願望と一緒に押し付けられ、半ば脅迫のように手に握らされた「前に進め、ケリをつけろ」という約束。

説教強盗みたいに無茶苦茶なやり方だった。

しかし、シンジはあの約束を断れなかった。けれど、まだ約束は果たせていない。そしてシンジにしてからが、もうあのころの彼女のほうに針が振れている。

今なら分かる。自分でしか自分を許せないのと同じように、自分のことは自分でしか決められない。そして彼は図らずも決めてしまった。どんな言い訳も効かない。

もう、あの約束は断れない。

「マヤさん」

シンジは彼女が正十字の出自を言い終わらないうちに口を開いた。

その表情や口調は、ずっと彼女が知っていた心のどこかで全てを諦めたようなそれと似てはいたが、ほんの少し違っていた。それはもっと別の諦め方だった。そう、「やれやれ、仕方ないよなぁ、まったく」とでも言うような――

そうして、ついに笑いを抑えきれず、くっくっく、と困ったように笑い始めたシンジは、目の前に立ちはだかる者は「しょうがないので」使徒でも斃すような表情をして、伊吹に訊ねた。

「車、貸してくれませんか」


伊吹はブラインドの隙間を指で広げ、シンジが彼女の車に乗って、道路交通法をまるっきり無視した猛スピードで走り出すようすを見ていた。

「やっぱり、勝てないなぁ、葛城さんには」

少しうらやましそうな声で伊吹は呟いて、部屋の入り口が閉まっていることを確認した後、ボケットから携帯電話を取り出した。なれた手つきで、電話帳には登録していない番号をダイヤルする。回線が切り替わる音がした後、ほんの数回の呼び出しで返事が返ってきた。

「……もしもし、生物進化研究所の伊吹です。いつもお世話になって……はい、お願いできますか。……もしもし? 日向さん? 伊吹です。一昨日は大変お世話に……あはは、そうですよ、もう旦那に怒られちゃって怒られちゃって。……ちょーっと、ごちそうさまって、それ、青葉さんの声じゃないですかぁ? ちょっと替わって下さい。……はい、青葉さん? ……大丈夫ですよ。そうです。今日はその言いつけを守って電話させていただいたんですから。……ねえ、青葉さん、日向さん、私、また悪いことするんですけどぉ、どうです? 一枚、噛みませんか?」

伊吹は腕時計で時刻を確認し、心底楽しそうに電話口の向こうにいる昔の同僚に話しかけながら、後ろ髪をまとめていたゴムを外した。


――間に合うわけがない。そんなことは分かっていても、アクセルを踏むのを止められない。その内に、いいや、行ってしまえ、という投げやりにも近い気持ちが身体を動かすようになる。

高速道に乗ってふと気付くと、シンジは地べた寸前までアクセルを踏み込み狂ったようなスピードで車を走らせていた。150キロはとうに越え、そのイメージに似合わないスポーツタイプの伊吹の車はまだまだ速度を上げていく。他人の車で、免許も携帯していない。サイドミラーを展開するのもインターチェンジを突っ切るまで忘れていた。当然警告音が鳴る。当然のように無視する。普段は上手くもないくせにこんな時になると職業ドライバーのようにギア・チェンジが上手く行く。がんがん速度が上がっていく。少しでも運転をミスしたら終わり、警察に捕まったらそれでも終わりだ。しかしそんな可能性をも、服についた小さな埃のように無視してシンジは車を走らせた。

普通にやっていても間に合わないのだ。ならば、普通を通り過ぎるしかないではないか。

車をぶっ飛ばしながら、シンジはあの時言われた言葉を思い出していた。

そうだ。葛城ミサトの言う通り、ちっぽけな自分はずっと間違い続けるしかないのだろう。逃げては戻り戻ってはまた逃げ、逃げ切れず、それでも逃げ、同じ間違いを繰り返して後悔して、同じことに何度も気付く。ちっとも成長なんかしないのかもしれない。でも、もう自分は進むしかないのだ。たとえそれがほんとうは前に進んでいるのではなく、ねずみ花火のようにただ同じところをぐるぐる回っているだけなのだとしても――だからこそ、スピードは緩めない。

いつかその軌道を振り切れるかもしれないという希望を、もう捨てることはできない。

傷ついてもいい、もう一度逢いたいと思った。

その気持ちは本当だ。

でも、それだけでは足りない。

「もう一度」逢うだけでは足りないのだ。

あの静謐な世界でシンジはひとつ嘘を吐いた。見せ掛け、思い込み、祈りみたいな、ずっと続くはずがない、裏切られる、見捨てられる――知ったこっちゃない。傷つき続けても構わない。

どうあっても、自分は「彼女のいるここに」いたい。

彼女と、アスカといたい。

ハッピーエンドを諦める? どの口でそう言ったんだろう。こんなに今、彼女と一緒にいたいと思っているのに。

だからシンジは、もう一度アクセルを踏み倒す。あの赤い海で解かり合えたのかもしれないという希望に縋ってスピードを上げる。今回は彼が追いかける番だ。いつか彼女からまた逃げてしまう彼を彼女が追いかけることができるようにするために、ここで終わるわけにはいかない。どうしても今、間に合わなければならない。今度こそ彼女を抱きしめて、慰めてみせる。

「待ってて、アスカ。今、行くから」


昨日あの赤い海から戻ってきて、今日にはもう空港にいる。まるで全てが巻き戻されてしまったように、また私は独りだ。アスカは唇を噛んだ。

自分がここにいることは許されない。そうなればずっと自分は迷惑を掛け続けることになる。

そう決めてここまで来たのに。

アスカはフライトの時刻表を見た。第3新東京国際空港発、ハンブルク空港行きの飛行機は幸運にも2時間の延着だった。

幸運。アスカは自分の思考をもう一度確認した。

そうか、私はこの国を出たくないんだ。

ロビーから滑走路を眺めると、様々な国へ行く飛行機が次々に飛び立っていた。その中に乗っている人の何人が、またこの地に戻ってくるのだろう。

彼女は今日ここを発ってしまえば、二度とここへ帰ってくることはできないのだ。

涙が溢れた。空港でひとり泣いている自分がとんでもなく陳腐なドラマの主人公のように思え、必死で止めようとしても、その動きがさらにひどい慟哭を呼んだ。そうして泣いていても、彼女の横には誰も来るはずがなかった。横にいてくれるはずの人を放って、彼女は出てきてしまったからだ。

アスカは涙を止めるのを諦めて、流れるに任せた。そしてあの赤い海を思い出しながら思った。

ああ、私は、もう彼のことを嫌うことなどできない。きっと、もうずっとあの人のことが好きでいつづけるに違いない、と。

「……ああ、ここにいたい。ここにいたいな。ねえ、シンジ――」

迎えに来て。叶うはずもないのにアスカはそう願った。今度は一瞬たりとも、彼がそのままいなくなることなど願わなかった。

- The rest stories of "Project Eva" #01.5 -

The Recapitulation of "ONE MORE FINAL"

Epilogue (42)

目を覚ましたアスカは、自分が外にいることにすぐに気付いた。夕暮れの終わりごろの空の色が視界に広がっていたからだ。

視界の片端には、薄明の終わりに見える紫から濃紺へと至るグラデーションが、そして、視界のもう片端は真っ黒に沈み、街の光のない暗闇の中で見たことがないくらいいくつも星が瞬いていた。天の川がはっきりと見える。その近くにはぽっかりと月が浮かび、その白くて丸い形を縦に割るように、血のような赤い筋が空に奔っていた。

耳をすますと、何かが弾けるような小さく連続した音が聞こえた。

アスカは寝転がったままで、視線を右側に向けた。

そこには瓦礫の山と赤い海があった。それでやっとアスカは自分の耳に届いていた小さな音の連なりが、波音だったのだと気付いた。

と、同時に、その赤い海の縁に、制服姿の見覚えのある小さな女の子が立っていたように見えたが、まばたきをする間もなくその姿は消えた。するともうアスカには、その女の子がさっきはいたのか分からなくなった。

全てはおぼろげだった。

アスカはもったりと身体を起こすと、自分の隣に、誰かが並んで寝転んでいるのを見つけた。

シンジだった。まばたきをしてもその姿は消えなかった。顔を覆う短い髭は消え、自分と同じに、肩に包帯がきつく巻かれていた。

ああ、私は、ここへ戻ってきてしまったんだ、とアスカは思った。彼と一緒に、この終わってしまった世界へ帰ってきてしまったのだ。

死者の世界へと。

どうして?

怖かった。隣にいるシンジがほんとうにそこにいるのかも分からなかった。もしかしたら彼も、さっきの制服姿の――ファースト・チルドレンと同じように、幻なのかもしれない。意識を取り戻さないまますぐに消えてしまって、自分は今度こそたったひとりきり、この世界に残されるのかもしれない。

そして、その可能性を否定してくれる人は誰もいないのだ。


アスカはシンジに覆いかぶさり、自分の下になっている彼がほんとうにいるのかということを確かめていた。彼がちゃんと自分とは違う人間として、自分の手の届く場所にいることを確かめたかった。

ぱっくりと瞼を開いたまま動かないシンジの首に手が触れる。撫でると、ぴく、とシンジが動いた。

生きている。

途端、アスカは怖ろしくなった。彼は生きている。自分は独りではない。また、傷つけられる。

アスカはあの時自分の首を絞めた彼の気持ちが解かったような気がした。無論、ほんとうに彼が何を考えていたのかなど他人である彼女には解かるはずもない。そんなことは彼女だって知っている。しかし、それでもアスカは、自分の気持ちが間違っているとは思わなかった。

たとえそれがひどい誤解でも、アスカは確かに自分の首を絞めた彼の気持ちを理解できると思った。

首にかけた手に掛かる力は強まっていく。腕が伸び、肩が前に出て、体重が乗った膝が痛む。手がぶるぶる震えるが、背に力が入るのは止まらない。目を見開いたままのシンジは、ぐっ、と一言だけ声を上げ、その後は唇がら静かに空気を吐き出すだけだ。

怖い。どこにも行き場所がない。誰か止めて、助けて欲しい。そう思ったが、手を止めることなどできなかった。さらに力が入る。くうっ、という声が耳にまとわりついた。


シンジは自分の首に手が食い込み、絞まっていく感触を感じていた。息が苦しいが、シンジにはそれよりも、目に入る光景の方が苦しかった。

彼女は泣いていた。涙は出ていない。しかし、歯を食いしばって手に力を込める顔は、間違いなく泣き顔だと思った。まただ。また自分はこのひとを泣かせている。だから、もし彼女が自分を嫌いで、死ぬのを望んでいるなら、このまま死んでしまってもいいと思った。

しかし、彼女が苦しんでいるのはそれでは助けられないということが、彼女の顔を見ていて解かった。解かったような気がした。彼女はそんなこと望んでいない。彼女はあの時の自分と同じように、もっと別のものを望んでいるのだ。

それはもしかすると、勘違いもはなはだしいのかもしれない。他人のことなど、ほんとうは何にも解からないのかもしれない。ほんとうに、彼女は彼を殺したいのかもしれない。

しかし、その可能性を考えてなお、確かに、シンジは自分の首を絞めている彼女の気持ちを理解できると思った。

だって、彼女はこんなに泣きそうな顔をしているんだから。

シンジの頬にぽつ、ぽつ、と、温かいものが触れた。その頬の感触は、彼に、昔自分がしてもらったことを思い出させた。

ゆっくりと、腕を持ち上げた。それは途切れ途切れに息を吐き出すアスカの腕の下をすり抜け、こめかみに当たった。その手は頬を撫で、尖った顎の先へ伝った。

すると、さっきまで渾身の力が掛かっていた手の力が、すっと抜け、アスカの手のひらはシンジの首に触れるだけになった。まるで泣きながらひとりで頑張っていた子供が母親から、もういいよ、と言われたようにがくっと肩の力が抜け、彼女の両膝に掛かっていた体重は彼の腰へと移った。

しかしシンジは跳ね除けるでもなく、またゆっくりと手を下ろすだけだった。あの時、彼女が彼にしたことと同じに。

それを合図に、アスカは堰を切ったように泣き出した。シンジが彼女の涙を見たのはほんとうに久しぶりだった。彼女は嗚咽を漏らし、肩を震わせ、咳き込み、洟を啜り、赤ん坊が悲鳴を上げるように息を吸い込んだ。その泣き声には、全てがあった。あなたが生きていて苦しい、あなたが生きていて嬉しい、あなたが生きていて怖い、あなたが生きていて、よかった――

その涙を見て、これでは足りないのだ、とシンジは思った。

まだできることがある。アスカは彼が触れる前に泣けた。人間はそれほど変わらないのかもしれない。けれど、それでも。彼も、彼女も、10年前とは違う。積み上げてきた時間がある。ふたりはもう、お互いを拒絶するだけの他人ではない。

「気持ち……悪ぃ……」

びく、とアスカの肩が震えた。それはあの時、自分が彼を突き放した時の言葉だった。

しかし、シンジの言葉はそれで終わらなかった。

「……ほんとに、気持ち悪いや……ごめん……ありがとう」

咳き込みながら辛うじて笑い、消え入るような声で何とか言い切って、彼はもう一度腕を上げて彼女の背中に手を回した。ぐいっ、と力を込める。

彼に体重を預けていた彼女はバランスを崩し、その胸の上へと倒れこんだ。

彼女は彼を突き放して起き上がりはしなかった。彼も彼女をどかそうとはしなかった。

そして意識が遠のいていくまで、ふたりは互いの温かみを感じて目を閉じ、ゆっくりと耳を打つ心臓の鼓動に耳を澄ませていた。

- The rest stories of "Project Eva" #01.5 -"The Recapitulation of ONE MORE FINAL" end.
first update: 20050331
last update: 20061119
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